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{{脚注の不足|date=2020-02-25}}
[[Image:Die verkruppeltenFusse einer vornehmenChinesin.jpg|thumb|250px|纏足した足、左足は纏足用の靴を履いている]]
[[Image:Die verkruppeltenFusse einerChinesin.jpg|thumb|200px|正面から撮影した纏足した足]]
'''纏足'''(てんそく)は、[[幼児]]期より[[足]]に[[]]を巻かせ、足が大きくならないようにするという、[[唐]]の末期つて[[中国辛亥革命]]ごろまで[[女性中国]]で女性に対して行われていた風習をいう。より具体的<ref name="afp2608856">{{Cite web|和書|title=「てん足」魅了され、靴コレクション5000 台湾 |url=https://www.afpbb.com/articles/-/2608856 |website=www.afpbb.com |date=2009-06-05 |access-date=2023-06-29 |language=ja}}</ref>。現代親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布中国強く縛は「'''小脚'''」とも呼ばれことで足<ref name=":0">{{Cite web|和書|title=中国整形(変形)を行うことを指す。奇習「纏足の習慣」と[[唐]]の末期に始ま何だった。[[清|清国]]時代には不健康つ不衛生でもあることから[[皇帝]]? 106歳「最後の纏足女性」度々禁止令初めて“素足”たが、既に浸透した[[文化]]であったために効果は無かった。[[辛亥革命]]以降急速に行われなくなった証言 {{!}} 中国ニュース拾い読み |url=https://courrier.jp/columns/217403/ |website=クーリエ・ジャポン |date=2020-11-01 |access-date=2023-06-29 |language=ja}}</ref>
 
== 概要 ==
[[中国大陸]]からの移住者が多く住んでいた[[台湾]]でも纏足は行われていたが、[[日本統治時代 (台湾)|日本統治時代]]初期に[[台湾総督府]]が[[辮髪]]・[[アヘン]]とならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため廃れた。なお、[[客家人]]の女性は働くことが奨励されていたため纏足をせず、「大足女」と揶揄されていた。
当時の文化人は女性の小さい足を「金のハス」に例えるなど美の対象と考えており、人工的に小さくする施術が考案された。具体的には幼少期から足の親指以外の指を足の裏側へ折り曲げ、布で強く縛って足の整形(変形)を行うことで、年齢を重ねても足が小さいままとなる<ref name=":0" />。理想的な大きさは三寸(約9cm)でありこれを「'''三寸金蓮'''」と呼び、黒い髪、白い肌と共に美しい女性の代名詞となった<ref name=":0" />。
 
小さく美しく装飾を施された靴を纏足の流行の理由女性履かせ<ref name="afp2608856" />美しや歩き方など仕草を楽しんだようである<ref name=":0" />。また、バランスをとるために、内股の筋肉発達するため、女性の魅力、女性美、局部の筋肉も発達する考えがあっられていことは間違いない<ref name=":0" />。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱しさが求められたこと、それにより[[貴族]]階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした…など多くのことが考えられる。しかし、いずれも決定的にこれと言えるほどの理由ではなく、やはり習慣の一つとして続けられていたと言えよう<ref name=":0" />
==纏足の目的==
纏足文化ができた原因は、小さい足の女性の方が美しいと考えられたからである。当時の文化人は纏足を「金のハス」とも呼称し、セクシャリティーの象徴として高められていた。<ref name=afp2608856>[http://www.afpbb.com/articles/-/2608856 「てん足」に魅了され、靴コレクションは5000足 台湾] [[AFP]] 2009年06月05日</ref> 小さく美しく施された[[靴]]を纏足の女性に履かせ、その美しさや歩き方などの仕草を楽しんだようである。纏足の女性はうまく歩けないことから、女性支配の手段にもなっていたと考えられる。{{要出典|date=2014年6月}}また、バランスをとるために、内股の[[筋肉]]が発達するため、女性の局部の筋肉も発達すると考えられていた。
 
時代によっては見合いの席で足の大きさを尋ねることもあり、纏足を施していない女性は結婚が難しかったという<ref name="afp2608856" />。
纏足は男性の[[性欲]]を駆り立てるものであり、女性は夫や恋人以外の男性には纏足を決して見せることはなかった。<ref name=afp2608856/> 男性は纏足女性の足の指の間に[[アーモンド]]をはさんで食べたり、足の指の間にはさんだ器の[[酒]]を飲んだりした。<ref name=afp2608856/>
 
纏足は男性の[[性欲]]を駆り立てるものであり、女性は夫や恋人以外の男性には纏足を決して見せることはなかった<ref name="afp2608856" /> 男性は纏足女性の足の指の間に[[アーモンド]]をはさんで食べたり、足の指の間にはさんだ器の[[]]を飲んだりした<ref name="afp2608856" />。文人墨客の間では纏足の妓女の靴に酒を注いで飲む「行酒」という遊びが流行したこともある<ref name=":0" />。
このようなことから、蒙昧な時代には纏足を施していない女性には嫁の貰い手がなかったという。
 
纏足で歩行が困難となるため、貴族の女性は侍女がつきっきりとなるが、家事や農作業を自ら行う庶民では苦痛に見舞われた<ref name=":0" />。農村部では娘に機織りや刺繍など長時間座ったままの仕事をやらせる目的もあった<ref name=":0" />。
== 纏足の歴史と施工方法など ==
[[ファイル:ChineseLadieFoot.gif|left|thumb|200px|普通の足との比較]]
一説では[[南斉]]から纏足が行われたとも言われているが、一般には[[南唐]]の[[李イク|李煜]]が足の細い女性を好んだことから始まったとする説も有力である。その南唐を滅ぼし、一応の全国統一を果たした[[北宋]]以降、徐々に普及が始まった。元末明初に記された、『輟耕録』(てっこうろく)の巻12に、「如煕寧元豊以前人猶為者少近年即人人相効以下為者為恥也」(訳:「煕寧(きねい、北宋、神宗の年号で、[[1068年]]-[[1077年]])、元豊(げんぽう、同じく北宋、神宗の年号で、[[1078年]] - [[1085年]])以前は少なかったが、近年は人人相ならい、そうでないのを恥とする」)と書かれている。その他の資料や、[[アラブ人]]や[[西洋]]人の[[見聞録]]などから、[[北宋]]より流行しだし、[[元 (王朝)|元]]末[[明]]初に盛んになったようである。流行しだした頃は、[[漢民族]]にとっては異民族の侵入などで[[民族主義]]的な[[儒教]]が発達した時期でもあった。北宋の后が始めたとの説があるが、[[華南]]よりは[[華北]]によりその傾向があり、次第に農村部にまで拡大したようである。[[少数民族]]や女真族(満州族)にはその傾向がなかったものの、まれに見られた。
 
[[唐]]の末期に始まったが、[[清]]の時代には不健康かつ不衛生でもあることから[[皇帝 (中国)|皇帝]]がたびたび禁止令を発した<ref name=":0" />。しかし既に浸透した文化であったために効果はなく、行われなくなったのは[[辛亥革命]]ごろである<ref name="afp2608856" />。
[[ファイル:Bound feet (X-ray).jpg|right|thumb|200px|纏足した足のレントゲン写真]]
[[ファイル:Foot binding shoes 1.jpg|right|thumb|200px|纏足した女性用の靴]]
 
[[中国大陸]]からの移住者が多く住んでいた[[台湾]]でも纏足は行われていたが、[[日本統治時代 (台湾)|日本統治時代]]初期に[[台湾総督府]]が[[辮髪]]・[[アヘン]]とならぶ台湾の悪習であると位置づけ、追放運動を行ったため廃れた。なお、[[客家人]]の女性は働くことが奨励されていたため纏足をせず、「大足女」と揶揄されていた。
[[女真族]]([[満州族]])の建てた[[清]]朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、[[義和団の乱]]以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは[[第二次世界大戦]]後のこととなる。最終的に絶えた理由として[[文化大革命]]で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
 
== 施術方法 ==
女の子が3 - 4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛りなおすときを除き、ほとんど縛りっぱなしで決して親はそれを緩めようとはせず、足のサイズは10cm前後が金蓮と呼ばれた。第1段階では親指以外の4本の指を内側に曲げ、第2段階で、足の甲を前に伸ばさず縦に曲げていく。約2年かけるので、足のやわらかい幼少の頃に変形させるのである。その後も、縛り続け、3日に1度[[消毒]]することなどが生涯にわたって行われ、その形状は[[ハイヒール]]によく似た形となった。
女の子が3歳から4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる<ref name=":0" />。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった<ref name=":0" />。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛り直す時を除き縛ったままである<ref name="afp2608856" />。痛みを緩和するためアヘンを吸わせた<ref name=":0" />。
 
女の子が3 - 4歳になると木綿の布で足を縛り、発達を抑えるようになる。発熱するため、施術は秋に行われるのが多かった。親指を除く4本の指は内側に曲がり夜も寝られないほどの苦痛を伴いながらも、縛りなおすときを除き、ほとんど縛りっぱなしで決して親はそれを緩めようとはせず、足のサイズは10cm前後が金蓮と呼ばれた。第1段階では親指以外の4本の指を内側に曲げ、第2段階で足の甲を前に伸ばさず縦に曲げていく。約2年かけるので、足のやわらかい幼少の頃に変形させるのである<ref name=":0" />。その後も縛り続け、3日に1度[[消毒]]することなどが生涯にわたって行われ、その形状は[[ハイヒール]]によく似た形となった<ref name=":0" />
纏足の流行の理由には、足の小さいのが女性の魅力、女性美、との考えがあったことは間違いない。足が小さければ走ることは困難となり、そこに女性の弱弱しさが求められたこと、それにより[[貴族]]階級では女性を外に出られない状況を作り貞節を維持しやすくしたこと、足が小さいがために踏ん張らなければならず、そこに足の魅力を性的に感じさせやすくした…など多くのことが考えられる。しかし、いずれも決定的にこれと言えるほどの理由ではなく、やはり習慣の一つとして続けられていたと言えよう。
 
== 歴史 ==
纏足で走行不能となったことで、災害時には男性より死亡率が高かった。また早めに夫をなくし困難の中で子育てに励む母親の苦労は大変なものだったという。
{{see also|{{節リンク|中国の女性史|反「纏足」運動}}}}
{{Wikisource|支那婦人纏足ノ起源|支那婦人纏足ノ起源(那珂通世)}}
[[ファイル:ChineseLadieFoot.gif|left|thumb|200px|普通の足との比較]]
一説では[[南斉]]から纏足が行われたとも言われているが、一般には[[南唐]]の[[李イク|李煜]]が足の細い女性を好んだことから始まったとする説も有力である。その南唐を滅ぼし、一応の全国統一を果たした[[北宋]]以降、徐々に普及が始まった<ref name=":0" />[[ (王朝)|元]][[]]初に記された[[輟耕録]]』(てっこうろく)の巻1210に、「如寧元豊以前人猶為者少近年人人相効為者為恥也」(訳:「寧(きねい、北宋[[神宗 (宋)|神宗]]の年号、[[1068年]] - [[1077年]])、元豊(げんぽう、同じく北宋神宗の年号、[[1078年]] - [[1085年]])以前は少なかったが、近年は人人相なら々が互に(纏足の習慣を)真似しあうようになり、そうでないのを恥とする」)と書かれている。その他の資料や、[[アラブ人]][[西洋]]人の[[見聞録]]などから、[[北宋]]より流行しだし、[[ (王朝)|元]][[]]初に盛んになったようである。流行しだした頃は、[[漢民族]]にとっては異民族の侵入などで[[民族主義]]的な[[儒教]]が発達した時期でもあった。北宋の后が始めたとの説があるが、[[華南]]よりは[[華北]]によりその傾向があり、次第に農村部にまで拡大したようである。[[少数民族]][[女真]]族([[満州族]])にはその傾向がなかったものの憧れの対象でありまれに見ら「旗靴」と呼ばる不安定な靴を履いて歩き方を真似ることもあっ<ref name=":0" />
 
[[ファイル:Bound feet (X-ray).jpg|right|thumb|200px|纏足した足のレントゲン写真]]
[[ファイル:Foot binding shoes 1.jpg|right|thumb|200px|纏足した女性用の靴]]
[[ファイル:Lai-Afong,-A-Chinese-Lady-of-High-Rank.jpg|right|thumb|200px|纏足した女性の衣装]]
[[File:A_HIGH_CASTE_LADYS_DAINTY_LILY_FEET.jpg|right|thumb|200px|纏足した女性]]
[[女真族]]([[満州族]])の建てた[[清]]朝が纏足禁止令を出しても止めようがなく、結局、[[義和団の乱]]以後の近代国家への動きの中で反対運動が起こり、まずは都市部で罰則との関係で下火になった。しかし隠れて行われ、中国全土で見られなくなるのは[[第二次世界大戦]]後のこととなる。最終的に絶えた理由として[[文化大革命]]で反革命的行為と見なされたこともある。このため、現在でも70歳以上の老人に一部見受けられる。
 
== 西洋の足 ==
纏足ほど極端なものではないが、[[ヨーロッパ]]でも、大きな足は[[労働者]]階級のものという認識があり、[[貴族]]階級では小さな足が好まれた。特に[[17世紀]]、ヨーロッパで[[バレエ]]が流行・定着して以降は、きついバレエ[[トウシューズ]]によって小さくなった足は、貴族の証となっていく。人によっては、冷水に足を浸けて小さい靴に無理矢理足を入れていた。
 
==関連書籍 脚注 ==
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== 参考文献 ==
<!--今回の内容は、-残すところ数十年で地球上から姿を消す纏足の方々の悲劇と歴史を扱ったヒストリーチャンネルでの「纏足」(2002年秋の放送)関東国際高校の国語化掲示板(2003年12月25日)などを参考にしました。-->
*岡本隆三『纏足物語』東方書店<東方選書>、1986年6月。ISBN 4497861635
*桑原隲蔵『東洋文明史論』平凡社<東洋文庫>、1988年6月。ISBN 4582804853
*東田雅博『纏足の発見-ある英国女性と清末の中国』大修館書店<あじあブックス>、2004年11月。ISBN 4469232009
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*高洪興 著、鈴木博訳『図説 纏足の歴史』原書房、2009年4月。ISBN 4562042508
 
== 関連項目 ==
{{Commons&cat|Bound_feet|Foot_binding}}
*[[身体改造]]
*[[コルセット]]
*[[女性器切除]]
 
== 外部リンク ==
*[http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/2/hoshino.pdf 纏足をほどこした女たち]
{{Commons&cat|Bound_feet|Foot_binding}}
*[http://www.lang.nagoya-u.acchina7.jp/projbbs/sosho/2/hoshinoboard.pdfphp?bo_table=2_4&wr_id=34 三寸金蓮-纏足をほどこした女たち]
*{{CRD|1000195620|中国の纏足について書いてある資料はあるか?|近畿大学中央図書館}}
*[http://www.china7.jp/bbs/board.php?bo_table=2_4&wr_id=34 三寸金蓮-纏足]
{{Authority control}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:てんそく}}
[[Category:足]]
[[Category:身体改造]]
[[Category:中国の文化]]
[[Category:中国の女性史]]
[[Category:習俗]]
[[Category:女性の歴史脚フェティシズム]]