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{{Otheruses|戦前の日本の政治的地位|その他|#呼称について}}
'''元老'''(げんろう)は、[[第二次世界戦]]前の[[日本帝国]]において[[天皇]]の[[輔弼]]を行い、[[内閣総理大臣]]の奏薦など国家の重要事項に関与した重臣である。明治初期に置かれた[[元老院 (日本)|元老院]]と直接的な関係はない。
 
== 元老の権能 ==
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元老は[[公職]]ではなく、元老の権能、待遇、就任資格を明文化したものは存在しない。このような存在であるため、法的根拠がないという指摘が1900年ごろにも行われている{{sfn|伊藤|2016|p=79-80}}。このため大正期からは[[勅命]]または[[勅語]]によるものと認識されるようになった{{sfn|伊藤|2016|p=161}}。[[永井和]]は天皇が「至尊匡輔の勅語」 を授けることが元老になる要件であるとしている{{sfn|永井|1997|p=112}}。しかし主立った元老は勅語を受ける以前から元老としての活動を行っており、受けた[[詔勅]]も共通したものではない。
 
元老となったと見なされることがある詔勅のうち、[[伊藤博文]]、[[山縣有朋]]、[[黒田清隆]]、[[松方正義]]、そして[[桂太郎]]が受けた勅語は「特ニ大臣ノ礼ヲ以テシ茲ニ元勲優遇ノ意ヲ昭ニス」というものであり、[[西園寺公望]]が受けたものは総理大臣辞職の際の1912年([[大正]]元年)12月22日に、「将来匡輔ニ須ツモノ多シ宜シク朕カ意ヲ体シテ克ク其力ヲ致シ賛襄スル所アルヘシ」<ref>{{アジア歴史資料センター|A14110303000|西園寺侯爵ヘ賜フ勅語}}</ref>という勅語であるが、内容はまったく一致していない。同年8月13日に、山縣、[[井上馨]]、松方、[[大山巌]]、そして桂は「我が業を助くるべし」という勅語を受けており<ref>{{アジア歴史資料センター|C10050034100|大正元年8月13日 元勲の勅語}}</ref>これも元老と認めたものと解釈されることもある。

当時の読売新聞は「勅語中に「匡輔」「輔業」「賛襄」」というものがあるのが元老たる者を認めた勅語であるとしているが<ref>読売新聞 1917.2.27-1917.3.1(大正6)「[http{{新聞記事文庫|url|0100298229|title=元老論 (一〜三) ://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID (社説)|oldmeta=10087666&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1}} 元老論 (一〜三)]」神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫</ref>、いわゆる「元勲優遇」の勅語にはそのような文言はない。読売新聞はこの記事において[[大隈重信]]が1916年(大正5年)10月9日に「匡輔」するよう勅語を受けたと記述しているが、過去の業績に対して述べられたもので他の元老と大隈の扱いは違うと解釈している。[[若槻礼次郎]]は[[昭和天皇]]践祚の際に「朕カ志業ヲ輔翼弼成」するよう求められた勅語を受けたが<ref>{{アジア歴史資料センター|A14110331600|内閣総理大臣若槻礼次郎ニ賜ヒタル勅語}}</ref>、元老と見なされることはない{{sfn|永井|1997|p=112-113}}。一方で、西郷従道はこの種の勅語を受けていないが、元老として扱われている。また松方、井上、大山が元老としての活動を行ったのは勅語を受ける以前からである。このため[[伊藤之雄]]は、その人物を元老たらしめたのは、[[明治天皇]]や他の元老による承認によるものだとしている{{sfn|伊藤|2016|p=303}}。
 
待遇としては、[[皇室儀制令]]([[大正]]15年[[[1926年]]]皇室令第7号)第29条において、「元勲優遇ノ為大臣ノ礼遇ヲ賜ハリタル者」として[[宮中席次]]において第一階第四の席次を受けるというものがある{{efn|[[枢密院 (日本)|枢密院]]議長の次位、元帥および現職大臣、内大臣・宮内大臣の上位}}。ただし、この「元勲優遇」という勅語を受けた者は公布時点ですでに全員死亡している{{efn|この時点で総理大臣の前官礼遇を受けていた者には西園寺({{アジア歴史資料センター|A03023377800|特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 侯爵西園寺公望}})、[[山本権兵衛]]({{アジア歴史資料センター|A03023392400|特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 伯爵山本権兵衛}})、[[清浦奎吾]]({{アジア歴史資料センター|A03023434000|特ニ前官ノ礼遇ヲ賜フ 子爵清浦奎吾}})、[[高橋是清]]({{アジア歴史資料センター|A03023438300|特ニ内閣総理大臣タル前官ノ礼遇ヲ賜フ 高橋是清}})がいるが、これらの勅語は伊藤、山縣、松方、黒田、桂のように元勲優遇の文字はなく、第7位の「内閣総理大臣又は枢密院議長たる前官の礼遇を賜った者」に該当する。西園寺はこの時点で[[大勲位菊花大綬章]]を受けており、宮中席次は第1位となっている。}}。
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1889年(明治22年)11月21日、[[伊藤博文]]と[[黒田清隆]]に対し「大臣の礼によって元勲優遇の意を表す」という詔勅が下された{{sfn|伊藤|2016|p=50}}。これは通常「元勲優遇の詔勅」と呼ばれ、大正期からは元老の法的根拠とされていたが、{{harvnb|伊藤|2016}}はこの詔勅により二人が元老となったわけではないと指摘している{{sfn|伊藤|2016|p=50}}。伊藤、山縣はのちに同趣旨の詔勅を4回受け、松方は3回受けているが{{sfn|伊藤|2016|p=50}}、この詔勅を受けていない段階でも[[井上馨]]と[[松方正義]]は後継首相の諮問を受けている{{sfn|伊藤|2016|p=70}}。この詔勅により伊藤やより若い世代の松方などを「元勲」と呼ぶ動きが広まった{{sfn|伊藤|2016|p=51}}。
 
1891年(明治24年)当初の責任を果たした[[第1次山縣内閣|山縣内閣]]の山縣は辞任を決意、後継に伊藤を推薦したが伊藤は固辞。伊藤は松方正義と[[西郷従道]]を推薦した。
 
====第2次伊藤内閣の成立====
1891年(明治24年)5)5月 [[第1次松方内閣]]が成立。1892年 [[第1次松方内閣]]が行き詰まりをみせると、[[6月29日]]、元老会議が開かれ伊藤・黒田・山縣・松方が出席、井上馨は山口県に帰郷していたため参加できなかった{{sfn|伊藤|2016|p=57}}。この会議では[[第2次伊藤内閣]]の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった{{sfn|伊藤|2016|p=57-58}}。[[土方久元]]元[[宮内大臣]]が伊藤に対して「政府内にいなくても元勲の身で天皇の諮問を受け、奉答することはけっして不当ではない」という書簡を出しているように、こうした元勲たちが国政への助言や指導を行うべきであるという認識が強まった{{sfn|伊藤|2016|p=58}}。7月30日に松方が辞表を提出すると、[[明治天皇]]は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた{{sfn|伊藤|2016|p=59}}。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして[[山田顕義]]と[[大山巌]]を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された{{sfn|伊藤|2016|p=59}}。
 
====第2次松方内閣の成立====
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====第3次伊藤内閣の成立====
1897年(明治30年)に[[第2次松方内閣|松方内閣]]が崩壊すると、明治天皇は黒田清隆一人に後継首相を下問した。黒田は伊藤か山縣が適当であると奉答し、天皇は伊藤に組閣を命じた。渋る伊藤を黒田と山縣が説得して出馬させた{{sfn|伊藤|2016|p=71-72}}。[[第3次伊藤内閣]]の成立前、伊藤は「元老」を召して内外の情勢に対応する会議開催を奏請した。この会議の出席予定者は伊藤・山縣・黒田・井上・松方に加え、[[大山巌]]・[[西郷従道]]も加わったものであった{{sfn|伊藤|2016|p=73-74}}。1月10日に行われた会議には辞職直後である松方は出席しなかったものの、内大臣[[徳大寺実則]]が「元老が参朝」という表現を使っている{{sfn|伊藤|2016|p=74-75}}。これ以降、天皇をはじめとする宮中も元老たちに下問することを事実上の制度として認識するようになった{{sfn|伊藤|2016|p=74-75}}。
 
伊藤は[[枢密院 (日本)|枢密院]]を強化し、構成員でもある元老がその中で首相の奏薦を行うことを考えており、1896年にもその旨を手記に記している。しかし枢密院内部の対立が激化していたため、当面は[[藩閥]]実力者の間で決めていくしかないと判断している{{sfn|伊藤|2016|p=81-83}}。
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1912年、明治天皇が崩御し、[[大正天皇]]が践祚した。山縣はこの機に桂の影響力を低下させようとし、内大臣として宮中入りさせた{{sfn|伊藤|2016|p=117}}。しかし桂は[[二個師団増設問題]]を契機に[[第2次西園寺内閣]]を倒した{{sfn|伊藤|2016|p=119}}。後継内閣の選定にあたっては山縣・松方・井上・大山にお召状が発せられ、12月6日の元老会議に桂が「元老の資格」として参加した{{sfn|伊藤|2016|p=120}}。後継首相には桂が選任されたが、これは「元老山縣の子分である桂が首相となった」ととられ、元老制度特に山縣への批判が集中することとなった{{sfn|伊藤|2016|p=123-124}}。結局[[第3次桂内閣]]は[[第一次護憲運動]]の盛り上がりによってあっけなく崩壊した。山縣はこの機に元老制度を立て直そうとし、西園寺を元老会議に加えるべきと主張した。西園寺は1912年([[大正]]元年)12月21日に「賛翼する所あるべし」という詔勅を受けており、山縣はこの詔勅を根拠として西園寺が元老となる有資格者であるとしたものである{{sfn|伊藤|2016|p=126-127}}。しかし「元勲優遇の詔勅」を受けた桂は、辞表奉呈後に山縣の質問に対して[[加藤高明]]が適当であり、「元老が推薦してはいかが」と答えたのみであった{{sfn|伊藤|2016|p=127-128}}。西園寺は組閣を求められたが辞退し、イギリス流に「議会多数党」が政権を取るようにしてはどうかと提案しているが、他の元老から国情に合わないとして反対されている{{sfn|伊藤|2016|p=129-130}}。結局政友会色の強い[[山本権兵衛]]を首班とする[[第1次山本内閣]]が成立している{{sfn|伊藤|2016|p=129}}。
 
=== 第2次大隈内閣と元老 ===
====シーメンス事件と2世界隈内閣の成立戦参戦====
1914年(大正3年)4月、[[シーメンス事件]]で山本内閣が倒れると、元老たちは再び会議を行った。西園寺も召集されたが、「違勅」を口実として出席しなかった。しかし奏薦した[[徳川家達]]に辞退され、清浦奎吾の組閣も失敗したことで、7回も会議を行うこととなった{{sfn|伊藤|2016|p=135-136}}。山縣は最終的に大隈重信を首相とするよう提案し、ようやく[[第2次大隈内閣]]が成立する運びとなった{{sfn|伊藤|2016|p=135-136}}。8月には大隈内閣が[[第一次世界大戦]]への参戦を決めた。山縣は重大案件の決定自体に元老が加えられなかったことに憤慨したものの、元老会議もこれに同意を与えた{{sfn|伊藤|2016|p=140-141}}。
 
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護憲三派が1925年(大正15年)7月に決裂し、加藤高明首相は辞表を提出した。西園寺は加藤首相を支持していたため、そのまま留任させるべきと考えていた。病気で引退した平田の後を継いだ牧野内大臣も同じ意見であったが、摂政宮裕仁親王は西園寺の上奏を受けた後に、牧野の意見を確認した{{sfn|伊藤|2016|p=214-215}}。この方式は加藤高明首相の病死後の選定時にも継続されることになった。1926年10月14日、西園寺は摂政宮に拝謁し、「政変があった場合には、元老だけではなく内大臣にも下問がある」「西園寺が死去した場合は、内大臣が主に下問を受け、意見を求めたい人がいる場合は勅許を得て参加させる」と奏上した{{sfn|伊藤|2016|p=217-218}}{{sfn|永井|1997|pp=132-133}}。これは牧野内大臣との事前打ち合わせなく行われたことであり、西園寺が元老の補充をあきらめた為と見られている{{sfn|伊藤|2016|p=218}}。永井和は平田内大臣時に行われていた元老下問前の内大臣への下問とあわせ、「元老・内大臣協議方式」による首相選定であるとしている{{sfn|永井|1997|pp=132-133}}。しかし{{harvnb|伊藤|2016}}は元老と内大臣は同格ではなく、両者が協議したような形容は内大臣を過大評価しすぎていると指摘している{{sfn|伊藤|2016|p=219}}。
 
1927年([[昭和]]2年)に[[第1次若槻内閣]]が倒れると、牧野内大臣は[[一木喜徳郎]]宮内大臣、[[珍田捨巳]][[侍従長]]、[[河井彌八]][[侍従次長]]と協議し、後継には第二党政友会の総裁である[[田中義一]]が適任であるとした。河井侍従次長は勅使として西園寺の元に向かい、協議した意見を伝えた。西園寺も同意見であると答え、[[田中義一内閣]]が成立した{{sfn|伊藤|2016|p=220}}。1928年(昭和3年)に発生した[[張作霖爆殺事件]]の後、真相の公表方針を翻した田中に天皇及び牧野ら宮中は厳しい対応をとろうとした。これに対して西園寺は首相の辞任につながると反対したが、宮中はこれを押し切って田中への問責を行い、[[田中義一内閣]]は崩壊することになった{{sfn|伊藤|2016|p=225-227}}。これは軍人・右翼・政友会等に牧野への反感と昭和天皇がそれに引きずられているという印象をもたらした{{sfn|伊藤|2016|p=228-229}}。1929年(昭和4年)7月2日、田中が辞表を提出し、下問を受けた西園寺と牧野が宮中で会談したのち、西園寺が第二党[[立憲民政党]]総裁の[[口雄幸]]を推薦し、牧野が同意するという形で[[口内閣]]が成立した{{sfn|伊藤|2016|p=227}}。[[ロンドン海軍軍縮条約]]締結に関しては、条約に反対する枢密院の[[倉富勇三郎]]議長と[[平沼騏一郎]]副議長が条約批准に反対しようとしていたが、西園寺は口首相を激励し、枢密院を折れさせた{{sfn|伊藤|2016|p=237}}。しかし浜口首相は銃撃事件で重傷を負い、1931年(昭和6年)に辞表を提出したため、同じ民政党の若槻が後継首相となり、[[第2次若槻内閣]]が成立した{{sfn|伊藤|2016|p=239}}。
 
西園寺はこの時期議会勢力に重点を置いた推薦を行い、[[衆議院]]第一党の党首を首相とし、第一党に問題がある場合は第二党の党首を首相とするという、いわゆる「[[憲政の常道]]」を実現させることとなった。西園寺自身は「憲政の常道」を認める発言を行ったことはなかったが<ref>{{Cite journal |和書|author =小山俊樹 |authorlink = 小山俊樹 |title = 「憲政常道」と「政界縦断」 : 大正期二大政党の政治戦略|date =2012|publisher =帝京大学文学部史学科|pages = 21-80|journal = 帝京史学|volume =27|naid =40019229549 |ref=harv}}</ref>、世論には受け入れられ、元老に対する批判もほとんど無くなっていった{{sfn|伊藤|2016|p=221}}。しかし[[政党内閣]]は[[昭和恐慌]]や[[昭和金融恐慌]]に十分な対応がとれず、また疑獄事件も頻発したことで信頼を失っていった{{sfn|伊藤|2016|p=229-230}}。
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=== 桂太郎について ===
[[桂太郎]]については[[広辞苑]]では「元老」としており、[[大辞林]]、[[日本大百科全書]]においても「元老」として明記されている。[[林茂]]、[[千葉功 (歴史学者)|千葉功]]など複数の研究者も元老であるとしているものの{{sfn|伊藤|2016|p=113}}、伊藤之雄は誤りであるとしている{{sfn|伊藤|2016|p=3-4}}。また[[大久保利謙]]は[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]において、桂を元老から外している{{sfn|伊藤|2016|p=113}}。桂は1912年(大正元年)の元老会議以降後継首相推薦会議に参加しているが、「元老の資格」で参加したという扱いであり、西園寺や桂自身も元老であるとは考えていなかった{{efn|西園寺は1912年12月18日に桂に対し「君(桂)だの、山本(権兵衛)だのという連中は他日元老となるだろう」という発言をしており、桂自身も特に反論を行っていない{{harv|伊藤之雄|2016|p=121}}。}}{{sfn|伊藤|2016|p=121-122}}。当時の読売新聞は元老と桂を区別して記述している{{sfn|伊藤|2016|p=121-122}}。
 
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=== 元老待遇者をめぐる諸説 ===
また[[佐々木隆 (歴史学者)|佐々木隆]]は[[第1次山縣内閣]]の総辞職(1891年)後に[[山田顕義]](長州)が元老に相当する元勲とともに後継総理大臣の奏薦を行っており、山田が早世(1892年に49歳で死去)のために正式な任命の手続を得られなかった事実上の元老であった可能性を指摘している。なお佐々木は、後になって任命された桂・西園寺を除いた7名と山田を加えた8名をもって帝国憲法下における「薩長元勲」と位置づけている<ref>佐々木隆『藩閥政府と立憲政治』吉川弘文館、1992年。</ref>。
 
[[荒船俊太郎]]は2度目の辞任の際と、裕仁親王が摂政に就任した際の御沙汰書により、大隈重信が元老待遇を受けたとしている{{sfn|伊藤|2016|p=196}}。しかし伊藤之雄は他の元老が認めておらず、また大隈自身も元老としての活動を行っていないことから適当でないとしている{{sfn|伊藤|2016|p=160-161}}。なお、[[昭和天皇]]即位の際に首相[[若槻禮次郎]]、[[閑院宮載仁親王]]が西園寺と同時に、類似した詔勅を受けている<ref>[[伊藤隆 (歴史学者)|伊藤隆]]監修・[[百瀬孝]]著「事典昭和戦前期の日本 制度と実態」[[吉川弘文館]]、1990年、12頁</ref>が、元老とみなされることはない{{sfn|永井|1977|p=112-113}}。
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|1925年||加藤高明{{sfn|伊藤|2016|p=214-215}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[第2次加藤高明内閣]]の成立
|-
|1926年||[[若槻次郎]]{{sfn|伊藤|2016|p=214-215}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[第1次若槻内閣]]の成立
|-
|1927年||[[田中義一]]{{sfn|伊藤|2016|p=219-220}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)<br/>[[一木喜徳郎]](宮内大臣)<br/>[[珍田捨巳]](侍従長)<br />[[河井彌八]](侍従次長)||[[田中義一内閣]]の成立
|-
|1929年||[[口雄幸]]{{sfn|伊藤|2016|p=227}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[口内閣]]の成立
|-
|1931年||若槻次郎{{sfn|伊藤|2016|p=239}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[第2次若槻内閣]]の成立
|-
|1931年||犬養毅{{sfn|伊藤|2016|p=245}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)<br/>一木喜徳郎(宮内大臣)<br/>[[鈴木貫太郎]](侍従長)||[[犬養内閣]]の成立
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「元老」という語は、[[君主制|君主国]]で政府の中枢において、君主の補佐、または任命・承認に携わる少人数の特権的地位に対する訳語として用いられることがある。君主制ではないが、1990年前後の[[中華人民共和国]]においても、第一線から退きながらも最高権力を握り続けた[[中国共産党]]の建国の元勲が「[[八大元老]]」とよばれたことがあった。また、特に[[二院制]]などで、世襲もしくは長期の任期を与えられ特権的立場で立法を行う[[上院]]の議員に対しても用いられることもある([[元老院]]議員)。しかしこの多少古めかしい響きであるこの語は、たびたび[[西洋史]]の記述に登場する[[ローマ元老院]]議員に対して用いられる以外では、あまり使われることがなくなった。
 
また、[[戦後|第二次世界大戦後]]の日本では、「明治維新を指導した政治家」以外にも、「長い間一つの部門の内で仕事をしてきた功労のある人」の意味でも用いられるようになっている<ref>『日本国語大辞典 第二版 5巻』小学館、2004年、「元老」の項。</ref>。
 
== 脚注 ==
===注釈===
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== 参考文献 ==
*{{Cite journal |和書|author =[[伊藤之雄]] |title = 元老の形成と変遷に関する若干の考察--後継首相推薦機能を中心として |date =1977 |publisher =史学研究会 | pages =241-263 | journal =史林 | volume =60 | issue = 2 | url = httphttps://hdl.handle.net/2433/238341|doi = 10.14989/shirin_60_241 | ref={{sfnref|伊藤|1977}} }}
*{{Cite journal |和書|author =伊藤之雄 |title = 元老制度再考--伊藤博文・明治天皇・桂太郎 |date =1994 |publisher =史学研究会 | pages =1-31 | journal =史林 | volume =77 | issue = 1 | url = https://doi.org/10.14989/shirin_77_1|doi = 10.14989/shirin_77_1
| ref={{sfnref|伊藤|1994}} }}
*{{Cite journal |和書|author =伊藤之雄 |title = 山県系官僚閥と天皇・元老・宮中 : 近代君主制の日英比較 |date =1996 |publisher =京都大学法学会 | pages =58-178 | journal =法学論叢 | volume =140 | issue = 1・2 | naid = 110000335980 | ref={{sfnref|伊藤|1996}} }}
* {{Cite book |和書 |author=伊藤之雄 |year=2016 |title=元老―近代日本の真の指導者たち |publisher= 中央公論新社 |series=中公新書 |isbn=978-4121023797 |ref={{sfnref|伊藤|2016}} }}
*{{Cite journal |和書|author =永井和 |authorlink = 永井和 |title = 西園寺公望はいかにして最後の元老となったのか : 「一人元老制」と「元老・内大臣協議方式」|date =1997|publisher =京都大学|pages =111-152 | journal =京都大學文學部研究紀要 | volume =36 | naid =110000056959 | url = httphttps://hdl.handle.net/2433/73080|ref={{sfnref|永井|1997}}}}
*{{Cite journal |和書|author =福元健太郎 |authorlink = 福元健太郎|author2 =村井良太|authorlink2 =村井良太 |title =戦前日本の内閣は存続するために誰の支持を必要としたか:議会・軍部・閣僚・首相選定者|date =2011|publisher =京都大学|pages =75-99|journal =学習院大学法学会雑誌|volume =47 |issue = 1|url = httphttps://hdl.handle.net/10959/00005321| ref=harv}}
 
== 関連項目 ==