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1912年、明治天皇が崩御し、[[大正天皇]]が践祚した。山縣はこの機に桂の影響力を低下させようとし、内大臣として宮中入りさせた{{sfn|伊藤|2016|p=117}}。しかし桂は[[二個師団増設問題]]を契機に[[第2次西園寺内閣]]を倒した{{sfn|伊藤|2016|p=119}}。後継内閣の選定にあたっては山縣・松方・井上・大山にお召状が発せられ、12月6日の元老会議に桂が「元老の資格」として参加した{{sfn|伊藤|2016|p=120}}。後継首相には桂が選任されたが、これは「元老山縣の子分である桂が首相となった」ととられ、元老制度特に山縣への批判が集中することとなった{{sfn|伊藤|2016|p=123-124}}。結局[[第3次桂内閣]]は[[第一次護憲運動]]の盛り上がりによってあっけなく崩壊した。山縣はこの機に元老制度を立て直そうとし、西園寺を元老会議に加えるべきと主張した。西園寺は1912年([[大正]]元年)12月21日に「賛翼する所あるべし」という詔勅を受けており、山縣はこの詔勅を根拠として西園寺が元老となる有資格者であるとしたものである{{sfn|伊藤|2016|p=126-127}}。しかし「元勲優遇の詔勅」を受けた桂は、辞表奉呈後に山縣の質問に対して[[加藤高明]]が適当であり、「元老が推薦してはいかが」と答えたのみであった{{sfn|伊藤|2016|p=127-128}}。西園寺は組閣を求められたが辞退し、イギリス流に「議会多数党」が政権を取るようにしてはどうかと提案しているが、他の元老から国情に合わないとして反対されている{{sfn|伊藤|2016|p=129-130}}。結局政友会色の強い[[山本権兵衛]]を首班とする[[第1次山本内閣]]が成立している{{sfn|伊藤|2016|p=129}}。
 
=== 第2次大隈内閣と元老 ===
====シーメンス事件と2世界隈内閣の成立戦参戦====
1914年(大正3年)4月、[[シーメンス事件]]で山本内閣が倒れると、元老たちは再び会議を行った。西園寺も召集されたが、「違勅」を口実として出席しなかった。しかし奏薦した[[徳川家達]]に辞退され、清浦奎吾の組閣も失敗したことで、7回も会議を行うこととなった{{sfn|伊藤|2016|p=135-136}}。山縣は最終的に大隈重信を首相とするよう提案し、ようやく[[第2次大隈内閣]]が成立する運びとなった{{sfn|伊藤|2016|p=135-136}}。8月には大隈内閣が[[第一次世界大戦]]への参戦を決めた。山縣は重大案件の決定自体に元老が加えられなかったことに憤慨したものの、元老会議もこれに同意を与えた{{sfn|伊藤|2016|p=140-141}}。
 
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護憲三派が1925年(大正15年)7月に決裂し、加藤高明首相は辞表を提出した。西園寺は加藤首相を支持していたため、そのまま留任させるべきと考えていた。病気で引退した平田の後を継いだ牧野内大臣も同じ意見であったが、摂政宮裕仁親王は西園寺の上奏を受けた後に、牧野の意見を確認した{{sfn|伊藤|2016|p=214-215}}。この方式は加藤高明首相の病死後の選定時にも継続されることになった。1926年10月14日、西園寺は摂政宮に拝謁し、「政変があった場合には、元老だけではなく内大臣にも下問がある」「西園寺が死去した場合は、内大臣が主に下問を受け、意見を求めたい人がいる場合は勅許を得て参加させる」と奏上した{{sfn|伊藤|2016|p=217-218}}{{sfn|永井|1997|pp=132-133}}。これは牧野内大臣との事前打ち合わせなく行われたことであり、西園寺が元老の補充をあきらめた為と見られている{{sfn|伊藤|2016|p=218}}。永井和は平田内大臣時に行われていた元老下問前の内大臣への下問とあわせ、「元老・内大臣協議方式」による首相選定であるとしている{{sfn|永井|1997|pp=132-133}}。しかし{{harvnb|伊藤|2016}}は元老と内大臣は同格ではなく、両者が協議したような形容は内大臣を過大評価しすぎていると指摘している{{sfn|伊藤|2016|p=219}}。
 
1927年([[昭和]]2年)に[[第1次若槻内閣]]が倒れると、牧野内大臣は[[一木喜徳郎]]宮内大臣、[[珍田捨巳]][[侍従長]]、[[河井彌八]][[侍従次長]]と協議し、後継には第二党政友会の総裁である[[田中義一]]が適任であるとした。河井侍従次長は勅使として西園寺の元に向かい、協議した意見を伝えた。西園寺も同意見であると答え、[[田中義一内閣]]が成立した{{sfn|伊藤|2016|p=220}}。1928年(昭和3年)に発生した[[張作霖爆殺事件]]の後、真相の公表方針を翻した田中に天皇及び牧野ら宮中は厳しい対応をとろうとした。これに対して西園寺は首相の辞任につながると反対したが、宮中はこれを押し切って田中への問責を行い、[[田中義一内閣]]は崩壊することになった{{sfn|伊藤|2016|p=225-227}}。これは軍人・右翼・政友会等に牧野への反感と昭和天皇がそれに引きずられているという印象をもたらした{{sfn|伊藤|2016|p=228-229}}。1929年(昭和4年)7月2日、田中が辞表を提出し、下問を受けた西園寺と牧野が宮中で会談したのち、西園寺が第二党[[立憲民政党]]総裁の[[口雄幸]]を推薦し、牧野が同意するという形で[[口内閣]]が成立した{{sfn|伊藤|2016|p=227}}。[[ロンドン海軍軍縮条約]]締結に関しては、条約に反対する枢密院の[[倉富勇三郎]]議長と[[平沼騏一郎]]副議長が条約批准に反対しようとしていたが、西園寺は口首相を激励し、枢密院を折れさせた{{sfn|伊藤|2016|p=237}}。しかし浜口首相は銃撃事件で重傷を負い、1931年(昭和6年)に辞表を提出したため、同じ民政党の若槻が後継首相となり、[[第2次若槻内閣]]が成立した{{sfn|伊藤|2016|p=239}}。
 
西園寺はこの時期議会勢力に重点を置いた推薦を行い、[[衆議院]]第一党の党首を首相とし、第一党に問題がある場合は第二党の党首を首相とするという、いわゆる「[[憲政の常道]]」を実現させることとなった。西園寺自身は「憲政の常道」を認める発言を行ったことはなかったが<ref>{{Cite journal |和書|author =小山俊樹 |authorlink = 小山俊樹 |title = 「憲政常道」と「政界縦断」 : 大正期二大政党の政治戦略|date =2012|publisher =帝京大学文学部史学科|pages = 21-80|journal = 帝京史学|volume =27|naid =40019229549 |ref=harv}}</ref>、世論には受け入れられ、元老に対する批判もほとんど無くなっていった{{sfn|伊藤|2016|p=221}}。しかし[[政党内閣]]は[[昭和恐慌]]や[[昭和金融恐慌]]に十分な対応がとれず、また疑獄事件も頻発したことで信頼を失っていった{{sfn|伊藤|2016|p=229-230}}。
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|1925年||加藤高明{{sfn|伊藤|2016|p=214-215}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[第2次加藤高明内閣]]の成立
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|1926年||[[若槻次郎]]{{sfn|伊藤|2016|p=214-215}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[第1次若槻内閣]]の成立
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|1927年||[[田中義一]]{{sfn|伊藤|2016|p=219-220}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)<br/>[[一木喜徳郎]](宮内大臣)<br/>[[珍田捨巳]](侍従長)<br />[[河井彌八]](侍従次長)||[[田中義一内閣]]の成立
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|1929年||[[口雄幸]]{{sfn|伊藤|2016|p=227}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[口内閣]]の成立
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|1931年||若槻次郎{{sfn|伊藤|2016|p=239}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)||[[第2次若槻内閣]]の成立
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|1931年||犬養毅{{sfn|伊藤|2016|p=245}}||西園寺||牧野伸顕(内大臣)<br/>一木喜徳郎(宮内大臣)<br/>[[鈴木貫太郎]](侍従長)||[[犬養内閣]]の成立
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「元老」という語は、[[君主制|君主国]]で政府の中枢において、君主の補佐、または任命・承認に携わる少人数の特権的地位に対する訳語として用いられることがある。君主制ではないが、1990年前後の[[中華人民共和国]]においても、第一線から退きながらも最高権力を握り続けた[[中国共産党]]の建国の元勲が「[[八大元老]]」とよばれたことがあった。また、特に[[二院制]]などで、世襲もしくは長期の任期を与えられ特権的立場で立法を行う[[上院]]の議員に対しても用いられることもある([[元老院]]議員)。しかしこの多少古めかしい響きであるこの語は、たびたび[[西洋史]]の記述に登場する[[ローマ元老院]]議員に対して用いられる以外では、あまり使われることがなくなった。
 
また、[[戦後|第二次世界大戦後]]の日本では、「明治維新を指導した政治家」以外にも、「長い間一つの部門の内で仕事をしてきた功労のある人」の意味でも用いられるようになっている<ref>『日本国語大辞典 第二版 5巻』小学館、2004年、「元老」の項。</ref>。
 
== 脚注 ==
===注釈===