「イザベラ・オブ・フランス」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
m編集の要約なし
 
(24人の利用者による、間の33版が非表示)
1行目:
{{基礎情報 皇族・貴族君主の正配
| 人名 = イザベラ・オブ・フランス
| 各国語表記 = Isabella of France
| 家名・爵位正配称号 = イングランド王妃
| 画像 = Isabella of France by Froissart.jpgpng
| 画像サイズ = 120px180px
| 画像説明 =
| 在位 = [[1308年]][[1月25日]] - [[1327年]][[1月25日]]
| 続柄 =
| 戴冠日 = [[1308年]][[2月25日]]
| 称号 =
| 全名 =
| 身位別称 =
| 敬称 =
| 出生日 = [[1295年]]頃
| 生地 = {{FRA987}}[[File:Flag of France (XII-XIII).svg|border|25x20px]] [[フランス王国]]、[[パリ]]
| 死亡日 = [[1358年]][[8月22日]]
| 没地 = {{ENG927}}、ハートフォード城
| 埋葬日 =  
| 埋葬地 = {{ENG927}}、グレイ・フライアーズ僧院
| 結婚 = [[1308年]][[1月28日]]
| 配偶者1 = [[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]
| 配偶者2 =
| 子女 = [[#子女|一覧参照]]
| 家名 = [[カペー家]]
| 父親 = [[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]
| 母親 = [[ナバラ王国|ナバラ]]女王[[フアナ1世 (ナバラ女王)|ジャンヌ・ド・ナヴァール]]
| 役職宗教 =
| 宗教サイン =
| サイン =
}}
'''イザベラ・オブ・フランス'''({{lang-en|Isabella of France}}, [[1295年]]頃 - [[1358年]][[8月22日]])は、[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]の王女で[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の王妃。
[[ファイル:Retour d Isabelle de France en Angleterre.jpg|thumb|right|200px|息子[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]とイングランドへ戻るイザベラ(ジャン・フケ作)]]
 
'''イザベラ・オブ・フランス'''(Isabella of France, [[1295年]]頃 - [[1358年]][[8月22日]])は、[[イングランド王国|イングランド]]王[[エドワード2世 (イングランド王)|エドワード2世]]の王妃。その美しさから、広くヨーロッパの各宮廷に「佳人イザベラ」として知られたが、その行動から"She-Wolf of France"「フランスのメスオオカミ」とも呼ばれた。エドワード2世を廃位し、[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の摂政として愛人[[ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]と共に実権を握った<ref>『イギリス史1』、p.292。</ref>。
その美貌は「ヨーロッパ随一」と謳われ、広くヨーロッパの各宮廷で「[[美人|佳人]]イザベラ」と称されていた。
 
[[1308年]]、13歳程の頃にエドワード2世と結婚したが、[[1324年]]に{{仮リンク|サン=サルド戦争|en|War of Saint-Sardos}}で英仏が開戦したために所領を没収され、エドワード2世やその近臣[[ヒュー・ル・ディスペンサー (初代ウィンチェスター伯)|ディスペンサー]]父子と対立を深めた。[[1326年]]に愛人の貴族[[ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]と共にクーデタを起こしてエドワード2世やディスペンサー父子を排除した。15歳の息子[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]を即位させて[[摂政]]としてイングランドの国政の実権を握ったが、[[1330年]]に成長したエドワード3世が[[親政]]の開始を狙って起こしたクーデタにより失脚した{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=292-293}}。
 
その所業から"She-Wolf of France"「'''フランスの雌狼'''」と呼ばれ恐れられた。
 
== 生涯 ==
=== 生い立ち ===
[[フランス王国|フランス]]王[[フィリップ4世 (フランス王)|フィリップ4世]]と王妃で[[ナバラ王国|ナバラ]]女王の[[フアナ1世 (ナバラ女王)|ジャンヌ・ド・ナヴァール]]の間に第4子として生まれた<ref>『フランス史1』、p.83。</ref>。長兄はフランス王[[ルイ10世 (フランス王)|ルイ10世]]、次兄は[[フィリップ5世 (フランス王)|フィリップ5世]]、三兄は[[シャルル4世 (フランス王)|シャルル4世]]。叔母の[[マーガレット・オブ・フランス]]はイングランド王[[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]の2度目の王妃である。
 
=== エドワード2世と結婚 ===
イザベラは4歳で[[プリンス・オブ・ウェールズ|皇太子]]エドワード王太子(後のエドワード2世)と婚約し、[[1308年]]1月28日、[[ブローニュ=シュル=メール]]で成婚した。フランス王フィリップ4世(新婦の父)、ナバラ王ルイス1世(新婦の兄ルイ太子、後のルイ10世)、[[カスティーリャ王国|カスティーリャ]]王[[フェルナンド4世 (カスティーリャ王)|フェルナンド4世]]の3組の国王夫妻が列席し、祝典と行事は2週間にも及んだという。
 
新婚早々、イザベラは夫の寵臣で[[ガスコーニュ]]南部出身の[[コーンウォール]]伯[[ピアーズ・ギャヴィストン (初代コーンウォール伯)|ピアーズ・ギャヴィストン]]と対立した。王は寵臣と共に彼女に数々の嫌がらせを行うようになったため、王妃は反ギャヴストンの旗印になっていった。反ギャヴストン派の貴族達は宮廷からの追放や左遷を画策した。彼らの圧力によりギャヴストンは2度追放されたが、国王と諸侯の間で交わされた政治的な取引や国王の許しによって帰国し追放を取り消された。しかし、反ギャヴェストンの諸侯によって誘拐され殺害された<ref>『イギリス史』、{{sfn|青山吉信(編)|1991| p.=285-p.288。</ref>}}
 
この頃ギャヴィストンが死んだ後、エドワード2世は[[ウィンチェスター伯]][[ヒュー・ル・デスペンサー (初代ウィンチェスター伯)|ヒュー・ル・デスペンサー]]父子を重用したが、彼らは王を後ろ盾に勢力を拡大したため、王権からの自立と自力救済を慣習とするウェールズ辺境諸侯は、宮廷派、実務派を問わずの反感を強めていった<ref>『イギリス史1』、{{sfn|青山吉信(編)|1991| p.=289。</ref>。ロンドン塔の獄舎には、[[ウェールズ]]で宮廷派のウィンチェスター伯に抵抗して敗れた、ウェールズ辺境諸侯の1人ロジャー・モーティマーが収監されており、イザベラは彼と親しくなった。彼女は王に懇願して彼の断頭刑を終身刑に減刑させ、なおかつ脱獄させた}}
[[1314年]][[6月24日]]、イングランド軍は[[バノックバーンの戦い]]で[[スコットランド]]軍に大敗したが、この戦いに参加した貴族と不参加だった貴族たちの間での対立が激化した。宮廷派と諸侯派の争いも絡み、国内が不穏な空気に包まれた。王妃の元には依然としてイザベラ支持派の貴族が出入りしていたため、エドワード2世は彼女を当時は王宮として使われていた[[ロンドン塔]]へ軟禁した。
 
イザベラもエドワード2世のディスペンサー父子重用のために自分がないがしろにされていると感じるようになり、ディスペンサー追放を求める人々に対して好意を示すようになった{{sfn|キング|2006|p=231}}。
この頃、エドワード2世は[[ウィンチェスター伯]][[ヒュー・ル・デスペンサー (初代ウィンチェスター伯)|ヒュー・ル・デスペンサー]]父子を重用したが、彼らは王を後ろ盾に勢力を拡大したため、王権からの自立と自力救済を慣習とするウェールズ辺境諸侯は、宮廷派、実務派を問わずの反感を強めていった<ref>『イギリス史1』、p.289。</ref>。ロンドン塔の獄舎には、[[ウェールズ]]で宮廷派のウィンチェスター伯に抵抗して敗れた、ウェールズ辺境諸侯の1人ロジャー・モーティマーが収監されており、イザベラは彼と親しくなった。彼女は王に懇願して彼の断頭刑を終身刑に減刑させ、なおかつ脱獄させた。
 
イングランドにおいてイザベラは年間1万ポンド以上の収入を持ち、どの[[伯爵]]とも肩を並べられる存在であり、独自の豪勢な家政組織を有していた{{sfn|キング|2006|p=230-231}}。ところが[[ガスコーニュ]]で[[百年戦争]]の前振れの{{仮リンク|サン=サルド戦争|en|War of Saint-Sardos}}が発生したことで、[[1324年]]9月にはフランス人の王妃の所領がフランス軍の橋頭堡にされる恐れがあるとしてイザベラの所領が没収されるに至った{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}。これは彼女の家政組織の存続を危うくするものであり、これによってイザベラは真っ向からエドワード2世とディスペンサー父子と敵対する立場に身を置くことになった{{sfn|キング|2006|p=231}}。
[[1325年]]、兄のフランス王シャルル4世に臣従の礼をとるため、王太子エドワード(後の[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]])と渡仏した。イザベラはフランスに亡命したモーティマーと再会し、フランスに逃れていた諸侯達と王権の転覆策を練った。しかし、シャルル4世はこの陰謀に荷担せず、逆に彼女らに国外退去命令を出した。次いでイザベラらは[[エノー伯]][[ギヨーム1世 (エノー伯)|ギヨーム1世]]の元を訪れ、ギヨーム1世の娘[[フィリッパ・オブ・エノー|フィリッパ]]と王太子エドワードの結婚を条件にイングランド遠征の援助を獲得した。
 
=== イザベラのクーデタ ===
[[1326年]][[9月24日]]、約700人から成る反乱軍は東部[[サフォーク]]へ上陸した。彼らは歓迎され、反乱軍は約1か月で国内を制圧した。国王と宮廷派の主要人物は逮捕され、エドワード2世はランカスター伯[[ヘンリー (第3代ランカスター伯)|ヘンリー]]へ身柄を預けられたが、他はデスペンサーの息子を除きその場で斬殺された<ref>『イギリス史1』、p.292。</ref>(デスペンサーの息子もその後処刑)。翌[[1327年]]1月、王の召還を経ず、出席もしない議会<ref>N.デイビス、p.492。</ref>でエドワード2世の廃位が議決され、王太子エドワードが後継者に選ばれた。王太子エドワードはまだ14歳であったが、母が自分を傀儡に政権を握ろうとしていることと、それに対する反感の盛り上がりを賢く察知し、「父から直接譲位がないかぎり即位しない」と指名を拒否し、父からの譲位書を受け取って初めて即位に同意した。
[[ファイル:Retour d Isabelle de France en Angleterre.jpg|thumb|right|200px|息子[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]とイングランドへ戻るイザベラ(ジャン・フケ作)]]
[[File:Minature-of-Queen-Isabella-and-her-army-from-royal-ms-15-e-iv-vol-2-f316v.jpg|thumb|イザベラとロジャー・モーティマーを描いた絵画]]
[[1325年]]、兄のフランス王シャルル4世にエドワード2世に代わって臣従の礼をとるため、太子エドワード(後の[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]])とともに渡仏した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}。イザベラはフランスに亡命してい第3代{{仮リンク|モーティマー男爵|en|Baron Mortimer}}[[ロジャー・モーティマー (初代マーチ伯)|ロジャー・モーティマー]]再会し愛人関係になりディスペンサー親子に追放されてフランスに逃れていた諸侯達と王権の転覆策を練った{{sfn|森護|1986|p=132}}しかし、シャルル4エドワード2はこの陰謀に荷担せず、逆に彼女ら外退去命令出した。次いでイザベ拒否する手紙を書くと、[[フらはンドル]]の[[エノー伯]][[ギヨーム1世 (エノー伯)|ギヨーム1世]]の元を訪れ、ギヨーム1世の娘[[フィリッパ・オブ・エノー|フィリッパ]]と王を皇太子エドワードの結婚を条件妃とすること認める代わりにイングランド遠征の援助を獲得した{{sfn|青山吉信(編)|1991| p=291}}
 
[[1326年]][[9月24日]]、約700人から成る反乱軍は東部[[サフォーク]]へ上陸した。彼らはイングランド各地で歓迎され、反乱軍は約1か月で国内を制圧した。国王と宮廷派の主要人物は逮捕され、エドワード2世はランカスター伯[[ヘンリー (第3代ランカスター伯)|ヘンリー]]へ身柄を預けられたが、他は[[ヒュー・ル・ィスペンサー (小ディスペンサー)|ディスペンサーの息子]]を除きその場で斬殺された<ref>『イギリス史1』、{{sfn|青山吉信(編)|1991| p.=292。</ref>}}(デスペンサーの息子も裁判末に処刑)。翌[[1327年]]1月、王の召還を経ず、出席もしない議会<ref>N.デイビス、p.492。</ref>でエドワード2世の廃位が議決され、王太子エドワードが後継者に選ばれた。王太子エドワードはまだ14歳であったが、母が自分を傀儡に政権を握ろうとしていることと、それに対する反感の盛り上がりを賢く察知し、「父から直接譲位がないかぎり即位しない」と指名を拒否し、父からの譲位書を受け取って初めて即位に同意した
政治はイザベラと、エドワード3世から[[1328年]]にウェールズ辺境伯<ref>『イギリス史1』、p.365。</ref>とマーチ伯の地位を与えられた愛人モーティマーが掌握した。彼らはフランスと講和し、[[エディンバラ・ノーサンプトン条約]]では[[スコットランド王国]]の独立を認め、スコットランド王太子デイヴィッド(後の[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]])とエドワード3世の妹[[ジョーン・オブ・ザ・タワー|ジョーン]]の結婚による同盟を締結するなど、数々の屈辱的外交を行い、国民も強い不満を抱くようになった。
 
翌[[1327年]]1月、王の召還を経ず、出席もしない議会<ref>N.デイビス、p.492。</ref>でエドワード2世の廃位が議決され、皇太子エドワードが後継者に選ばれた。一種の民衆集会による廃位の手続きが取られたことは王国の諸身分の代表を通じて表明される国民の総意は王位すら左右できることの前例となった点でイギリス立憲主義に大きな意義があった{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=292-293}}。
[[1330年]]10月、モーティマーによってエドワード3世の叔父ケント伯エドマンドが国王の許可なく処刑された事に反発していたエドワード3世は[[親政]]の開始を望み、イザベラとモーティマーに対するクーデターを開始。[[ノッティンガム]]でモーティマーは逮捕された。モーティマーは11月末の議会で「悪名高き罪」により絞首刑を宣告された<ref>『イギリス史1』、p.366。</ref>。彼は市中引き廻しの上、[[タイバーン#タイバーン刑場|タイバーン刑場]]で処刑され<ref>N.デイヴィス、p.524。</ref>、最後は遺体を切り刻まれた。王太后イザベラは、一切の権限を剥奪されライジング城へ幽閉された。
 
皇太子は当時15歳だったが、即位の経緯に危うさを感じ、父から正式な譲位がなければ王位継承はしないと返答し、そのため議会は1月20日にエドワード2世から譲位の文書を取り、それを確認した後にエドワード3世として即位した{{sfn|森護|1986|p=133}}。
イザベラは[[カペー家|カペー]]本家の出身であり、フランスの王位継承権を主張できる立場にあった。エドワード3世は傍系[[ヴァロワ家]]出身の[[フィリップ6世 (フランス王)|フィリップ6世]]の即位に異議を唱え、自らフランス王位継承を求めていたため、母を罪人として断罪することが出来なかった。
 
またエドワード2世を救出する企図が二度あったため、その生存を危険視したイザベラの示唆によりエドワード2世は獄中で秘密裏に殺害された{{sfn|青山吉信(編)|1991|p=293}}。
28年に及ぶ幽閉の間、イザベラはモーティマーの処刑を思い出して、時折精神異常に陥ったという。1358年に死去し、遺言でモーティマーの眠るグレイ・フライアーズ僧院へ埋葬された。
 
=== 国政主導 ===
議会はランカスター伯を国王警護役に指名したが、実権はイザベラとその愛人ロジャー・モーティマーが握った{{sfn|森護|1986|p=138}}。[[1328年]]1月に[[ヨーク・ミンスター]]で挙行されたエドワード3世とフィリッパの結婚式もイザベラが取り仕切った{{sfn|キング|2006|p=237}}。
 
[[スコットランド王]][[ロバート1世 (スコットランド王)|ロバート1世]]は少年王の即位を好機とみてイングランド北部への侵攻を開始した。軍資金の確保に苦しむイザベラとモーティマーは、戦争継続は不可能と判断してロバート1世に講和を懇願し、{{仮リンク|エディンバラ=ノーサンプトン条約|en|Treaty of Edinburgh–Northampton}}を締結した。これによりイングランドはスコットランドが独立国であることとロバート1世がスコットランド王であることを承認した。さらにエドワード3世の妹[[ジョーン・オブ・ザ・タワー|ジョーン]]とロバート1世の長男[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド]](のちのデイヴィッド2世)の結婚が取り決められた{{sfn|青山吉信(編)|1991|pp=358-359}}。しかしこの講和は国内的な合意を得ないまま進められた物であったため、「屈辱外交」として国内の強い反発を招いた{{sfn|森護|1986|p=138}}。
 
イザベラの愛人であるモーティマーはイザベラの寵愛を盾にウェールズや辺境地域で巨大な勢力を築き、[[1328年]]10月の議会で{{仮リンク|マーチ伯|label=ウェールズ辺境伯(マーチ伯)|en|Earl of March}}の称号を受けた<ref>{{harvnb|キング|2006|p=236}}, {{harvnb|青山吉信(編)|1991|p=365}}</ref>。モーティマーの急速な昇進はランカスター伯、初代[[ノーフォーク伯]][[トマス・オブ・ブラザートン (初代ノーフォーク伯)|トマス・オブ・ブラザートン]]([[エドワード1世 (イングランド王)|エドワード1世]]と後妻[[マーガレット・オブ・フランス|マーガレット]]の間の長男)、初代[[ケント伯]]{{仮リンク|エドムンド・オブ・ウッドストック (初代ケント伯)|label=エドムンド・オブ・ウッドストック|en|Edmund of Woodstock, 1st Earl of Kent}}(同次男)ら王族に連なる諸侯の反発を招き、イザベラやモーティマーら宮廷派と、ランカスター伯らランカスター派の対立が顕在化した<ref>{{harvnb|森護|1986|p=138}}, {{harvnb|青山吉信(編)|1991|p=365}}</ref>。
 
やがてランカスター派は宮廷派に抑え込まれ、[[1330年]]春の議会ではケント伯が反逆罪で公開裁判にかけられた末に処刑された<ref>{{harvnb|キング|2006|p=236}}, {{harvnb|青山吉信(編)|1991|pp=365-366}}</ref>。しかしこの時18歳になっていたエドワード3世は、母とモーティマーの独断でのケント伯処刑に憤慨していた{{sfn|森護|1986|p=139}}。
 
=== エドワード3世のクーデタ ===
[[File:Fair son, have pity on the gentle Mortimer.jpg|thumb|マーチ伯ロジャー・モーティマーを逮捕するエドワード3世とそれを制止しようとするイザベラを描いた絵画]]
エドワード3世は成年に近づくにつれて母とモーティマーによる国政壟断に不満を抱くようになり、[[親政]]を開始する機会を探るようになった。そして[[1330年]]10月に[[ノッティンガム]]で諸侯の会議が行われている最中にモーティマーをクーデタ的に逮捕、モーティマーは11月末に召集した議会において絞首刑が宣告されて処刑された。イザベラは見逃されるも政治から引退することとなった{{sfn|青山吉信(編)|1991|p=366}}。
 
=== 失脚後の晩年 ===
[[File:Castle-rising-castle.JPG|thumb|1327年にイザベラが購入した{{仮リンク|ライジング城|en|Castle Rising (castle)}}]]
失脚直後の頃は{{仮リンク|バーカムステッド城|en|Berkhamsted Castle}}や[[ウィンザー城]]で幽閉されていたが{{sfn|Doherty|2003|p=173}}、[[1332年]]に解放されてイザベラ所有の[[ノーフォーク]]・{{仮リンク|ライジング城|en|Castle Rising (castle)}}を生活の本拠とするようになった。[[ヴィクトリア朝]]の歴史家{{仮リンク|アグネス・ストリックランド|en|Agnes Strickland}}によるとこの頃の彼女は時々狂気になったといい、恋人モーティマーの死で[[神経衰弱 (精神疾患)|神経衰弱]]していたのではと推測している{{sfn|Doherty|2003|p=173}}。
 
イザベラの所領の多くは没収されたものの、3000ポンドの年金を支給されたため、失脚後も裕福な生活を送った{{sfn|松村赳|富田虎男|2000|p=366}}{{sfn|Castor|2011|p=313}}。さらに[[1337年]]には年金が4000ポンドに増加された{{sfn|Doherty|2003|p=173}}。[[吟遊詩人]]や[[狩猟]]家、[[馬丁]]などを召し抱え、様々な高級品を収集していた{{sfn|Doherty|2003|p=176}}。エドワード3世やその息子たちもしばしば彼女のもとを訪れている<ref name="mortimer332">{{cite book | title=The Perfect King The Life of Edward III, Father of the English Nation | last=Mortimer | first=Ian | authorlink=Ian Mortimer (historian) | page=332 | year=2008 | publisher=Vintage }}</ref>。またイングランド各地を旅行した。[[1342年]]にはフランスとの和平交渉のために[[パリ]]を旅行する計画があったが、これは実現しなかった{{sfn|Doherty|2003|p=174}}。
 
彼女は[[アーサー王]]の伝説と宝石に関心を持ち続け、 1358年の[[聖ジョージの日]]のウィンザーでの祝賀会に300のルビーと1800のパールを使ったシルクのドレスと金のサークレットを付けて出席している{{sfn|Doherty|2003|p=173}}。また晩年には[[占星術]]や[[幾何学]]に関心を寄せていたようである<ref>Weir 2006, p.371.</ref>
 
[[1358年]][[8月22日]]に{{仮リンク|ハートフォード城|en|Hertford Castle}}で死去し、遺言でモーティマーの眠る{{仮リンク|グレイフライアーズ教会|en|Christ Church Greyfriars}}へ埋葬された。ライジング城を含む遺産はお気に入りの孫だった[[エドワード黒太子]]に遺贈している<ref>Weir 2006, p.373.</ref>
 
== 子女 ==
エドワード2世との間に4人の子女をもうけた。
*[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]](1312年 - 1377年) - イングランド王
*[[{{仮リンク|ジョン・オブ・エルタム (コーンウォール伯)|label=ジョン]]|en|John of Eltham, Earl of Cornwall}}(1316年 - 1336年) - {{仮リンク|コーンウォール伯|en|Earl of Cornwall}}
*[[エリナー・オブ・ウッドストック|エリナー]](1318年 - 1355年) - 1332年、[[ゲルデルン(ヘルレ)[[レ]]{{仮リンク|ライナルト2世 (ゲルデルン公)|label=ライナルト2世]]|de|Rainald II. (Geldern)}}と結婚
*[[ジョーン・オブ・ザ・タワー|ジョーン]](1321年 - 1362年) - 1328年、スコットランド王[[デイヴィッド2世 (スコットランド王)|デイヴィッド2世]]と結婚
 
63 ⟶ 96行目:
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|editor=青山吉信 編『|editor-link=青山吉信|date=1991年(平成3年)|title=イギリス史1〉先史~中世|series=世界歴史大系|publisher=[[山川出版社、1991年。]]|isbn=978-4634460102|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|last=キング|first=エドマンド|year=2006|title=中世のイギリス|publisher=[[慶應義塾大学出版会]]|id=ISBN 978-4766413236|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author1=松村赳|authorlink1=松村赳 |author2=富田虎男|authorlink2=富田虎男|date=2000年(平成12年)|title=英米史辞典|publisher=[[研究社]]|isbn=978-4767430478|ref=harv}}
*柴田三千雄他編『フランス史1』山川出版社、1995年。
*{{Cite book|和書|author=森護|authorlink=森護|date=1986年(昭和61年)|title=英国王室史話|publisher=[[大修館書店]]|isbn=978-4469240900|ref=harv}}
*ノーマン・デイヴィス 著『アイルズー西の島々の歴史』別宮貞徳訳、[[共同通信社]]、2006年。
* {{cite book |first=Helen |last=Castor |year=2011 |title=She-Wolves: The Women Who Ruled England Before Elizabeth |publisher=Faber and Faber |isbn=0571237061 |ref=harv}}
* {{cite book |first=P. C.|last=Doherty|year=2003 |title=Isabella and the Strange Death of Edward II |publisher=London: Robinson|isbn=1-84119-843-9 |ref=harv}}
* Weir, Alison. (2006) ''Queen Isabella: She-Wolf of France, Queen of England.'' London: Pimlico Books. {{ISBN2|978-0-7126-4194-4}}.
 
== イザベラが登場する作品 ==
*[[エドワードII]] (1991年・映画) - 演:[[ティルダ・スウィントン]]
*[[ブレイブハート]] (1995年・映画) - 演:[[ソフィー・マルソー]]
*[[ナイトフォール -悲運の騎士団]] (2017-2019年・TVシリーズ) - 演:[[サブリナ・バートレット]]
 
== 外部リンク ==
{{commonscat|Isabella of France, Queen of England}}
* Heidi Murphy [https://web.archive.org/web/20080209175140/http://www.britannia.com/history/biographies/isabella_france.html Isabella of France (1295–1358), Britannia biographical series]
 
{{Normdaten}}
73 ⟶ 120行目:
[[Category:イングランドの摂政]]
[[Category:女性摂政]]
[[Category:カペー家|いさへらイギリスの王太后]]
[[Category:エドワード2世]]
[[Category:エドワード3世]]
[[Category:フィーユ・ド・フランス]]
[[Category:ナバラ王女]]
[[Category:フィリップ4世の子女]]
[[Category:カペー家|いさへら]]
[[Category:カペー朝の人物]]
[[Category:14世紀イングランドの女性]]
[[Category:13世紀フランスの女性]]
[[Category:14世紀フランスの女性]]
[[Category:パリ出身の人物]]
[[Category:1290年代生]]
[[Category:1358年没]]