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{{別人|馮国璋}}
{{基礎情報 軍人
| 氏名 = 馮 玉祥
| 各国語表記 = {{en|Feng Yuxiang}}
| 画像 = 02fengyuxiang-1-.jpg
| 画像説明 =
| 国略称 = {{Flagicon|CHN1912}}{{Flagicon|CHN1928}} [[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]
| 没年月日 = [[1948年]]([[民国紀元|民国]]37年)[[9月1日]]
| 死没地 = {{SSR1923}}<br/>{{UASSR1937}} [[オデッサ]]付近
| 所属組織 = [[新軍]]<br/>[[直隷派]]<br/>[[国民軍 (中華民国)|北西軍]]<br/>[[File:Flag of the Republic of China Army.svg|25px]] [[国民革命軍]]<br/>[[File:Flag of the Republic of China Army.svg|25px]] [[中華民国陸軍]]
| 軍歴 = 1897 - 1948
| 最終階級 = [[File:Taiwan-army-OF-9b.svg|10px]] 陸軍[[一級上将]]
| 除隊後 =
| 廟 =
}}
{{中華圏の人物
| 名前=馮 玉祥
▲| 出生=[[1882年]][[11月6日]]<br/>([[清]][[光緒]]8年9月26日)<ref>[[1880年]]説もある</ref>
▲| 出身地={{QIN1890}}[[直隷省]][[天津市|天津府]][[青県]]興集鎮
| 職業=軍人
| 簡体字={{lang|zh-hans|冯 玉祥}}
| 繁体字={{lang|zh-hant|馮 玉祥}}
| ピン音={{lang|zh-hant|Féng Yùxiáng}}
| 通用=
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| 注音二式=
| 和名=ふう ぎょくしょう
ひょうぎょくしょう
| 発音=フォン
| ラテン字=Feng Yü-hsiang
}}
'''馮 玉祥'''(ふう ぎょくしょう、ひょう ぎょくしょう<ref>{{Cite web|和書|url=https://kotobank.jp/word/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5-121230 |title=馮玉祥 |access-date=2022-07-02 |publisher=ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典}}</ref>)は[[中華民国 (1912年-1949年)|中華民国]]の軍人。[[中華民国国軍]][[中華民国陸軍|陸軍]]一級上将。[[北京政府]]に属し、当初は[[直隷派]]であったが、後に[[国民軍 (中華民国)|国民軍]]を組織し、その指導者となった。[[北伐 (中国国民党)|北伐]]に際しては[[五原誓師]]を行い、全軍で[[中国国民党]]・[[国民政府]]に加入、[[国民革命軍]]
== 経歴 ==
=== 清末の活動 ===
[[李鴻章]]率いる[[淮軍]]の下級将校の子として生まれる。両親ともにアヘン中毒であったために家庭は苦しい状態にあった。15歳で軍に入り、[[1903年]]([[光緒]]29年)に早くも武衛右軍で哨長に昇進している。第3営標統[[陸建章]]は馮玉祥の才幹を評価し、妻方の姪である劉徳貞を娶わせた。その後も馮玉祥は順調に昇進し、[[1910年]]([[宣統]]2年)には第20鎮第80標第3営管帯になっている。
この頃までに馮玉祥は革命思想に傾倒しており、第20鎮駐屯地の[[
=== クリスチャン・ジェネラル ===
清朝[[宣統帝退位詔書|滅亡]]後は、左路備補軍を率いる陸建章の引き立てで、馮玉祥は第2営営長として復帰する。馮玉祥は[[直隷省 (中華民国)|直隷省]][[景県]]で募兵を行い、特に農村から壮健な青年を多く引き入れた。この時に配下となった人物としては、[[孫良誠]]・[[劉汝明]]・[[石友三]]・[[
翌年、左路備補軍は京衛軍に改組され、馮玉祥は左翼第1団団長に昇進し、今度は[[河南省 (中華民国)|河南省]]の
[[1914年]](民国3年)春、陸建章の[[白朗]]討伐に馮玉祥も従軍することになり、左翼第1旅旅長に昇進した。この旅はまもなく第14旅に改組され、同年秋には第16混成旅となり、引き続き馮玉祥が旅長をつとめている。またこの頃、張之江も馮玉祥の下に駆けつけ、合流した<ref>宗志文「張之江」148頁。</ref>。
=== 護国戦争・張勲復辟・護法戦争 ===
[[File:Feng Yuxiang2.jpg|thumb|left|北京政府時代の馮玉祥<br/>''Who's Who in China 3rd ed.'' (1925)|200px]]
[[1915年]](民国4年)12月、北洋軍元老の[[王士珍]]が、全国の旅長以上の指揮官に袁世凱の皇帝即位を擁護する電報へ名を列ねるよう求めてきたが、馮玉祥はこれを拒否した。まもなく[[護国戦争]]が勃発すると、馮玉祥率いる第16混成旅も[[四川省 (中華民国)|四川省]]へ護国軍迎撃に赴くことになる。このとき同時に第4混成旅も四川入りしたが、第4混成旅に属していた鹿鍾麟が馮玉祥と再会し、その配下に加わった<ref name=Lu>程舒偉・劉信君「鹿鍾麟」237頁。</ref>。
馮玉祥は護国軍との戦いを望まず、まず張之江を護国軍第1軍司令官
同年7月、馮玉祥率いる第16混成旅は直隷省[[廊坊市|廊坊]]に移駐する。しかし、当時の[[中華民国の首相|国務総理]][[段祺瑞]]は、[[直隷派]]幹部
[[1918年]](民国7年)2月、馮玉祥は[[護法戦争]]を起こした[[孫文]]
[[1920年]](民国9年)6月、護法軍政府側が湖南省へ進軍してくると、馮玉祥と呉佩孚は張敬尭を見捨て、敗走するがままにさせた<ref name=Fan/>。その後、馮玉祥率いる混成第16旅は常徳から[[漢口]]に移り、ここで孫文との交渉を持ち始める。11月、河南省[[信陽市|信陽]]に移駐した。まもなく[[安直戦争]]が勃発して直隷派が勝利、[[曹
=== 北京政変と国民軍結成 ===
[[1921年]](民国10年)5月、[[陝西省 (中華民国)|陝西]]督軍に任ぜられた[[閻相文]]に随従して、馮玉祥率いる混成第16旅も陝西入りし、安徽派の前陝西督軍[[陳樹藩]]を撃破した。この戦功により、混成第16旅は第11師に拡充され、馮玉祥は師長兼陝西西区剿匪司令に任ぜられた。8月、陝西省の統治に失敗した閻相文が自殺し、馮玉祥が後任の陝西督軍となる。
翌[[1922年]](民国11年)4月、第1次[[奉直戦争]]が勃発すると、馮玉祥は河南省へ進軍して、[[奉天派]]に味方する河南督軍[[趙
同年10月、曹
[[1924年]](民国13年)9月、第2次奉直戦争が勃発すると、呉佩孚が[[熱河省|熱河]]方面へ奉天派の迎撃に向かい、[[北京市|北京]]の防備が手薄となる。そして10月22日、馮玉祥はクーデターを決行して曹
=== 五原誓師 ===
[[1925年]](民国14年)1月、陸軍検閲使の地位は廃止され、馮玉祥は西北辺防督弁専任となる。以後、国民軍第1軍は[[察哈爾省|察哈爾]]
しかし、北京を追われた呉佩孚は反撃を謀り、関内に大軍を招き入れたことで馮玉祥と対立した[[張作霖]]や[[山東省 (中華民国)|山東省]]の[[張宗昌]]とも連合して、いわゆる「討赤聯軍」を組織し、馮玉祥に対する包囲網を形成した。馮玉祥もこれに対抗して、張作霖の方針に不満を抱いていた奉天派有力幹部の[[郭松齢]]と連携している。11月23日、郭松齢は反張作霖の蜂起を行い、30日には自軍を東北国民軍に改組した<ref>郭同上408頁。</ref>。しかし[[関東軍]]の支援を受けた張作霖の反撃に敗北し、郭松齢は処刑された<ref>詳細は、任松・武育文「郭松齢」(中国社会科学院近代史研究所 『民国人物伝 第12巻』 中華書局、2005年)などに拠った記事「[[郭松齢]]」を参照。なお郭松齢敗死後の残軍は、[[魏益三]]が統率して馮玉祥の下に合流し、国民軍第4軍となっている。郭同上。</ref>。
この不利な状況を受けて馮玉祥は翌[[1926年]](民国15年)1月に下野し、西北軍の指揮を張之江・鹿鍾麟らに委ねている。3月、馮玉祥は徐謙・[[劉驥]]など少数の随員と共に[[ソビエト連邦]]へ軍事視察に赴いた。ソ連へ赴く途中の[[ウランバートル]](庫倫)において、馮玉祥は[[顧孟余]]や[[于右任]]、さらにはソ連顧問の[[ミハイル・ボロディン]]と討議し、[[モスクワ]]到着2日目の5月10日に[[中国国民党]]加入を宣言している。その後、3
一方、馮玉祥離脱後の西北軍は、最高指導者不在にして、かつ、他の北方派閥すべてを敵に回す(1926年からは[[山西省 (中華民国)|山西]]の[[閻錫山]]も反馮玉祥に動いていた)圧倒的不利な状況に追い込まれていた。それでも張之江・鹿鍾麟らは、4月から8月まで要衝の南口に拠り、北方各派連合軍相手に善戦した([[北京政変#付記 南口大戦|南口大戦]])。最終的に張之江らは敗北して綏遠方面に撤退したものの、この戦いは[[北伐 (中国国民党)|北伐]]を開始した[[国民革命軍]]への側面支援となり、さらに西北軍そのものの維持にも貢献した。
その後、[[五原県|五原]]に駐留していた西北軍の下に馮玉祥は復帰し、9月17日、国民聯軍総司令就任と全軍の国民党加入を宣言した。これがいわゆる「五原誓師」である。以後、馮玉祥は国民聯軍の軍事訓練・政治訓練を再実施し、全軍をさらに精鋭化させた。11月以降、国民革命軍に呼応して北方各派への反撃に転じて、まず陝西省で直隷派の[[劉鎮華]]を撃破した。翌[[1927年]](民国16年)初頭に国民聯軍は国民革命軍第2集団軍に改組され、馮玉祥がそのまま総司令をつとめる。そして陝西から河南へ進撃し、5月には[[洛陽市|洛陽]]
=== 北伐完了と反
[[File:Fengchiangyan-1-.jpg|thumb|
同年4月に[[
北伐完了の頃には、馮玉祥の第2集団軍はすでに約30万人の大兵力を擁する存在となっていた。これに
[[1929年]](民国18年)5月、馮玉祥は[[新広西派]](新桂系)の[[李宗仁]]と連合して、
8月、
翌[[1930年]](民国19年)3月、ようやく自分が
この結果、馮玉祥の率いていた旧第2集団軍は完全に瓦解し、
=== 日中戦争前後の活動 ===
[[1933年]](民国22年)1月、長城事変(長城抗戦)が勃発したことに危機感を覚えた馮玉祥は、同年5月26日、吉鴻昌
同盟軍は日本軍に反撃して一定の戦果をあげたものの、国民政府中央の
しかし日中関係の悪化はその後も加速し、馮玉祥は引き続き抗日の建言を在野から継続した。[[1935年]](民国24年)12月には、軍事委員会副委員長として再起している。そして[[1937年]](民国26年)の[[日中戦争]](抗日戦争
それでも馮玉祥は軍事委員会委員・国民政府委員・国民党中央常務委員の地位に残されたことを活用し、中華全国文芸界抗敵協会成立に協力するなど、主に言論・宣伝の分野で抗日の鼓舞につとめている。また、[[中国共産党]]との関係改善、聯共路線の堅持を主張した。なお、馮玉祥は詩才にも優れ、特にこの時期に多くの詩を作っているが、自らの詩を素朴なものと謙譲して「丘八詩」と呼んでいる<ref>[http://agzy.youth.cn/mzh/jng/200907/t20090710_950949.htm 寧夢黛「馮玉祥的“丘八詩”」2008年8月6日](「民族魂」ホームページ)</ref>。
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=== 国共内戦最中の不慮の死 ===
[[File:Feng yuxiang tomb 2010 2010 06 04.jpg|thumb|left|馮玉祥の墓|180px]]
日本軍に勝利した後には、馮玉祥は
翌[[1948年]](民国37年)1月、[[李済深]]らが[[香港]]で[[中国国民党革命委員会]](民革)を結成すると、馮玉祥もこれに加入し、中央政治委員会主席兼駐米代表に任ぜられた。ここに至り、ついに
[[1948年]](民国37年)7月末に、馮玉祥は帰国を決断し、ソ連船に乗ってアメリカを離れた。ところが9月1日、黒海沿岸の[[オデッサ]]付近で船が火災に遭い、馮玉祥も巻き込まれて死亡した。満65歳没。[[1953年]]10月15日、馮玉祥の遺灰は泰山山麓に埋葬されている。
なお、妻の[[李徳全]]も政治家で、[[中国紅十字会]]会長などを務めた。
=== エピソード ===
1925年の秋、馮玉祥は[[中野正剛]]と会見し、ロシア革命や東アジアの歴史・政治情勢について互いに議論した。この会見は、当初[[察哈爾省]]の[[張家口市|張家口]]で会う予定としていたが、馮玉祥は[[漢口]]を拠点にしていた
馮玉祥は土方のような姿をして兵卒といっしょに畚(もっこ)を担いだりすることがあり、下からの人望が厚かったという<ref>『思想・人物・時代』 土田杏村 千倉書房(1932)5p </ref>。
== 脚注
{{
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* <span style="font-size:90%;">陳民「馮玉祥」{{Cite book|和書|
{{commonscat|Feng Yuxiang}}▼
▲* <span style="font-size:90%;">陳民「馮玉祥」{{Cite book|和書|author = [[中国社会科学院]]近代史研究所編|title = 民国人物伝 第8巻|year = 1996|publisher = [[中華書局]]|isbn = 7-101-01328-7}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 徐友春主編|title = 民国人物大辞典 増訂版|year = 2007|publisher = 河北人民出版社|isbn = 978-7-202-03014-1}}</span>
* <span style="font-size:90%;">{{Cite book|和書|author = 劉寿林ほか編|title = 民国職官年表|year = 1995|publisher = 中華書局|isbn = 7-101-01320-1}}</span>
117 ⟶ 133行目:
*[[中野正剛]]『魂を吐く』金星堂 1938年5月10日 支那政客の風貌 露西亞かぶれの馮玉祥
== 関連
▲{{commonscat|Feng Yuxiang}}
=== 組織・出来事等 ===
==== 北京政府時代 ====
[[護国戦争]] [[張勲復辟]] [[護法戦争]] [[北京政変]] [[国民軍 (中華民国)]]
==== 国民政府時代 ====
[[中国国民党]] [[国民革命軍]] [[北伐 (中国国民党)]] [[中原大戦]] [[察哈爾民衆抗日同盟軍]] [[日中戦争]] [[中国国民党革命委員会]]
=== 人物 ===
==== 北京政府関係 ====
[[陸建章]] [[曹
==== 国民政府関係 ====
[[
==== 国民軍五虎将 ====
[[張之江]] [[鹿鍾麟]] [[宋哲元]] [[鄭金声]] [[劉郁芬]]
==== 国民軍十三太保 ====
[[韓復
▲== 職歴 ==
{| class="wikitable" style="margin:0 auto"
|-
!
{{先代次代|[[陝西省 (中華民国)|陝西]]督軍|<small>[[1921年]]8月 - [[1922年]]5月</small>|[[閻相文]]|[[劉鎮華]]}}
{{先代次代|[[河南省 (中華民国)|河南]]督軍|<small>[[1922年]]5月 - 10月</small>|[[趙
{{先代次代|陸軍検閲使|<small>[[1922年]]10月 - [[1925年]]1月</small>|[[姜桂題]]|(廃止)}}
{{先代次代|[[甘粛省 (中華民国)|甘粛]]督弁|<small>[[1925年]]8月 - [[1926年]]1月<br>([[劉郁芬]]が代理)</small>|[[陸洪濤]]|[[李鳴鐘]]}}
|-
!
{{先代次代|[[河南省 (中華民国)|河南省]]政府主席|<small>[[1927年]]6月 - [[1928年]]12月</small>|(創設)|[[韓復
{{先代次代
{{先代次代|[[内政部 (中華民国
|}
{{プロテスタントの中国宣教}}
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{{DEFAULTSORT:ふう きよくしよう}}
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[[Category:国民革命軍の軍人]]
[[Category:日中戦争の人物]]
[[Category:
[[Category:
[[Category:海難死した人物]]
[[Category:火災で死亡した人物]]
[[Category:中国のプロテスタントの信者]]
[[Category:1882年生]]
[[Category:1948年没]]
|