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|place=ビルマ
|result=イギリスの勝利
|combatant1={{flagicon|United KingdomGBR5}}イギリス
|combatant2={{MMR1752}}
|combatant2=[[画像:Flag of the Alaungpaya Dynasty of Myanmar.svg|25px]][[コンバウン王朝]]
}}
{{ビルマの歴史}}
'''英緬戦争'''(えいめんせんそう、{{lang-my|အင်္ဂလိပ်-မြန်မာ စစ်ပွဲများ}})は、[[19世紀]]に起こった[[イギリス]]と[[ミャンマー|ビルマ]]の[[戦争]]。'''イギリス・ビルマ戦争''' (Anglo-Burmese Wars) の略。イギリス側からは単に'''ビルマ戦争''' (Burmese War) とも呼ぶ。
 
== 背景 ==
イギリスは[[1600年]]に[[イギリス東インド会社|東インド会社]]を設立して以降、継続的に[[インド]]、特に東部の[[ベンガル地方]]を[[植民地]]化してきが、東インド会社は[[19世紀]]初めまでにインドの大半を支配下に置き、インドの盟主[[ムガル帝国]]の衰退は著しかった。一方のビルマは、[[1752年]]にアラウンパヤーが建てた[[コンバウン王朝]]が興って以降、領土拡張を目指して隣国[[タイ王国|シャム]]や[[清]]の[[雲南省|雲南]]に侵攻を繰り返してきた。このため、西隣のインドをイギリスが駆逐する様子を見て、これに乗じて領土を西方への領土伸張させようと試みた。[[1818年]]にビルマ王はベンガル地方の東半分までの割譲を要求するもしかしイギリス応じなかったことから、[[1822年]]にビルマ軍が越境してベンガルに侵入した。しかし、これは[[産業革命]]によって領土を一層欲していたイギリスを刺激する非常に無謀な行為だった。
 
== 第一次英緬戦争 ==
{{See|:en:First Burmese War}}
[[1824年]]にイギリスがビルマ攻撃を開始、[[1826年]]に{{仮リンク|ヤンダボ条約|en|Treaty of Yandabo}}([[:en:Treaty_of_Yandaboo|Treaty of Yandabo]])を結んで、ビルマはベンガルを諦めた上、自国の最南部[[アラカン]]と[[テナセリム]]をイギリスに占領された('''{{仮リンク|第一次英緬戦争'''、[[w:First Burmese War|en|First Anglo-Burmese War]]}})。
 
イギリスの貿易政策・拡張政策はさらに進み、[[アヘン戦争]]([[1840年]] - [[1842年]])の勝利によって[[中国]]([[清]])を開国させ、[[シク戦争]]((1845年から1846年にかけての[[:en:First_Anglo-Sikh_War<!-- [[:ja:第一次シク戦争]] とリンク -->|First Anglo-Sikh War]], 1845、及び1848-1846から1849 及び にかけての[[:en:Second Anglo-Sikh War|Second_Anglo-Sikh_War第二次シク戦争]], 1848年-1849年)の勝利でインドのほぼ全域を掌握した。このためイギリスの目は再び隣国ビルマに及ぶことになる。([[雲南問題]])
[[1824年]]にイギリスがビルマ攻撃を開始、[[1826年]]に{{仮リンク|ヤンダボ条約|en|Treaty of Yandabo}}([[:en:Treaty_of_Yandaboo|Treaty of Yandabo]])を結んで、ビルマはベンガルを諦めた上、自国の最南部[[アラカン]]と[[テナセリム]]をイギリスに占領された('''第一次英緬戦争'''、[[w:First Burmese War|First Burmese War]])。
 
イギリスの貿易政策・拡張政策はさらに進み、[[アヘン戦争]]([[1840年]]~[[1842年]])の勝利によって[[中国]]([[清]])を開国させ、[[シク戦争]]([[:en:First_Anglo-Sikh_War<!-- [[:ja:第一次シク戦争]] とリンク -->|First Anglo-Sikh War]], 1845年-1846年 及び [[:en:Second Anglo-Sikh War|Second_Anglo-Sikh_War]], 1848年-1849年)の勝利でインドのほぼ全域を掌握した。このためイギリスの目は再び隣国ビルマに及ぶことになる。([[雲南問題]])
 
==第二次英緬戦争 ==
{{See|:en:Second Burmese War}}
[[1852年]]、イギリスは再びビルマに侵攻して[[ペグー]]を占領、海に面した[[下ビルマ]]を自国領に併合した('''第二次英緬戦争'''、[[w:Second Burmese War|Second Burmese War]])。
 
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==第三次英緬戦争==
{{See|:en:Third Burmese War}}
[[1885年]]11月、イギリスはビルマの完全支配を目指して三度目の侵攻を開始、翌[[1886年]]にはビルマ王[[ティーボー]]がイギリスに降伏し、[[上ビルマ]]もイギリス領に併合され、[[イギリス領インド]]に組み込まれた。一部の将兵がイギリスの占領に反攻して戦闘を続けたが、[[1890年]]に完全に鎮圧され、戦争が終結した('''第三次英緬戦争'''、[[:en:Third Burmese War|Third Burmese War]])。
この結果、ビルマ王朝は滅亡し、[[1886年]]に[[イギリス領インド]]に併合されてその1州となる。ビルマ国王ティーボー夫妻はイギリス領の[[インド]]の[[ボンベイ]]に流刑になり、その地で死亡。<!-- {{要出典範囲|また王子は処刑され、王女はイギリス軍士官の従卒に与えられた|date=2021年4月}}<ref>『優位戦思考に学ぶ大東亜戦争「失敗の本質」』P.29{{Full citation needed|date=2021年4月}}{{信頼性要検証|date=2021年4月}}</ref>。--><!--英語版にもミャンマー語版にもそんなこと書いてない、[[:en:Supayalat]]を見ると王女の行き先は全員書いてるがそんな人はいない--> そして首都[[マンダレー]]はイギリス兵により略奪され、王宮にあっ玉座などの宝物のほとんどが持ち去られた([[第二次世界大戦]]後に大部分は返却されたが、今なお一部はイギリスが所有している)
 
またそして1886年7月、イギリスは[[北京]]にて[[清朝]]と「[[ビルマとチベットに関する条約]]<ref>[http://www.chinaforeignrelations.net/node/148 Convention Relating to Burma and Thibet, 1886*, CHINA'S EXTERNAL RELATIONS - A HISTORY]</ref>」を締結した。本条約では、ビルマについては清朝はイギリスのビルマ併合を認めビルマへの[[宗主権]]を主張しないこと、清朝とビルマ間の[[朝貢]]貿易は引き続き行われることを取り決めた。同時に、清朝側のビルマに絡むこれらの譲歩の代わりに[[芝罘条約]]で取り決められた[[チベット]]への使節派遣特権及び通商権をイギリスが放棄することを取り決めた。
 
ビルマは[[1937年]]にイギリス領インドから分離して[[自治領]]となったが、完全な自主独立が回復したのは[[1948年]][[1月4日]]に[[イギリス連邦]]を離脱してからである。ビルマ王国の滅亡はビルマ人たちにとって屈辱的な事件であり、培われた[[反英感情]]はその後の[[ビルマ式社会主義]]、21世紀の現在まで続く[[国家行政評議会|軍事政権]]の反西欧的な姿勢などに受け継がれている、
 
== 脚注 ==
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* [[フランス領インドシナ]]
* [[オランダ領東インド]]
 
== 外部リンク ==
* {{Kotobank|ビルマ戦争}}
 
{{DEFAULTSORT:えいめんせんそう}}
[[Category:イギリスの戦争]]
[[Category:ミャンマーの戦争]]
[[Category:イギリス・ミャンマー関係]]
[[Category:19世紀の戦争]]
[[Category:植民地]]
[[Category:反英感情]]