「ヴィクトル・チェルノムイルジン」の版間の差分

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|人名 = ヴィクトル・チェルノムイルジン
|各国語表記 = {{lang|ru|Ви́ктор Степа́нович Черномы́рдин}}
|画像 = ViktorЧЕРНОМЫРДИН Chernomyrdin-1Виктор Степанович.jpg
|画像説明 = 2010年
|国略称 = {{RUSRUS2}}
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1938|4|9|死去}}
|出生地 = {{SSR1923}}<br />[[ファイル:Flag{{SFSR1937}} of the Russian SFSR 1937-1954.svg|25px|ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の旗]][[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]<br />[[オレンブルク州]]
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1938|4|9|2010|11|3}}
|死没地 = {{RUSRUS2}} [[モスクワ]]
|出身校 = [[クイビシェフ工科大学]]<br />[[全連邦通信制工業大学]]経済学部
|前職 = [[ガスプロム]]社長<br/>駐ウクライナロシア大使
|現職 = ロシア連邦・駐ウクライナ大使
|所属政党 = [[我が家ロシア]]
|称号・勲章 =
|親族(政治家) =
|配偶者 = ワレンチナ・チェルノムイルジナ
|子女= 2人
|サイン =
|サイン = Viktor Chernomyrdin’s signature.svg
|ウェブサイト =
|サイトタイトル =
|国旗 = RUS
|職名 = [[ロシア連邦]]<br/>第2代 [[ロシアの首相|ロシア連邦<br />閣僚会議議長(首相)]]
|内閣 = チェルノムイルジン内閣
|就任日 = [[1992年]][[12月14日]]
|退任日 = [[1993年]][[12月25日]]
|元首職 = [[ロシア連邦大統領|連邦大統領]]
|元首 = [[ボリス・エリツィン]]
|国旗2 = RUS
|職名2 = [[ロシア連邦]]<br/>初代 [[ロシアの首相|ロシア連邦首相政府議長]]
|内閣2 = チェルノムイルジン内閣
|就任日2 = [[1993年]][[12月25日]]
|退任日2 = [[1998年]][[3月23日]]
|元首職2 = 連邦大統領
|元首2 = [[ボリス・エリツィン]]
|国旗3 = RUS
|職名3 = [[ロシア連邦]]<br/> [[ロシアの首相|連邦政府議長代行]]
|内閣3 =
|就任日3 = [[1998年]][[8月23日]]
|退任日3 = [[1998年]][[9月11日]]
|元首職3 = 連邦大統領
|元首3 = [[ボリス・エリツィン]]
|国旗4 = SSR
|職名4 = [[ソビエト連邦]]<br/>ガス工業大臣
|内閣4 =
|内閣4 = [[ニコライ・ルイシコフ]]内閣
|就任日4 = [[1985年]][[2月12日]]
|退任日4 = [[1989年]][[6月27日]]
|元首職4= 閣僚会議議長
|内閣元首4 = [[ニコライ・チーホノフ]]<br>[[ニコライ・ルイシコフ]]内閣
}}
'''ヴィクトル・ステパノヴィチ・チェルノムイルジン'''({{Lang-翻字併記|ru|'''ВикторВи́ктор СтепановичСтепа́нович Черномырдин'''}}, '''VictorЧерномы́рдин|Viktor Stepanovich Chernomyrdin'''}}, [[1938年]][[4月9日]] - [[2010年]][[11月3日]])は、[[ソビエト連邦]]及び[[ロシア|ロシア連邦]]の[[政治家]]。[[ボリス・エリツィン]]政権にて初[[ロシアの首相|ロシア連邦首相]](在任[[1992年]] - [[1998年]])。に設立した[[ガスプロム]]の初代社長を務めた
 
== 経歴 ==
1938年4月9日に[[ソビエト連邦]]の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[オレンブルク州]]に誕生する。[[1966年]]にクイビシェフ工科大学を卒業。[[1972年]]に[[全連邦通信制工業大学]]経済学部を卒業した。
1938年4月9日、[[ソビエト連邦]]時代の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[オレンブルク州]]に生まれる。[[1966年]]、クイビシェフ工科大学を卒業。[[1972年]]、[[全連邦通信制工業大学]][[経済学部]]を卒業した。[[1961年]]に[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に入党。一貫して[[天然ガス]]などのエネルギー関係を渡る。[[1973年]]にはオレンブルク・ガス精製工場支配人となる。[[1978年]]に共産党中央委員会重工業部に移り、[[1982年]]、ソ連石油ガス工業省[[次官]]に任命される。[[1983年]]から全連邦工業合同「グラヴチュメンガスプロム」(ガスプロムの前身)支配人を兼務する。[[1985年]]、首相の[[ニコライ・ルイシコフ]]のもと、ソ連ガス工業大臣に就任する。[[グリゴリー・ヤブリンスキー]]が中心になって立案した「[[500日計画]]」には反対した。[[1989年]]、ガス工業省内に国営コンツェルンガスプロムを創設する。ガスプロムは、天然ガス企業として世界最大規模を誇り、チェルノムイルジンは同年8月に社長に選出された。[[1990年]]3月、ロシア共和国人民代議員選挙に立候補するが、[[ドミトリー・ウォルコゴノフ]]将軍に敗れる。
 
1938年4月9日、[[ソビエト連邦]]時代の[[ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国]]の[[オレンブルク州]]に生まれる。[[1966年]]、クイビシェフ工科大学を卒業。[[1972年]]、[[全連邦通信制工業大学]][[経済学部]]を卒業した。[[1961年]]に[[ソビエト連邦共産党|ソ連共産党]]に入党。一貫して[[天然ガス]]などのエネルギー関係を渡る。[[1973年]]にはオレンブルク・ガス精製工場支配人となる。[[1978年]]共産党中央委員会重工業部に移り、る。[[1982年]]、ソビエト石油ガス工業省[[次官]]に任命される。[[1983年]]から全連邦工業合同「グラヴチュメンガスプロム」(ガスプロムの前身)支配人を兼務する。[[1985年]]、首相の[[ニコライ・ルイシコフ]]首相のもとビエトガス工業大臣に就任する。[[グリゴリー・ヤブリンスキー]]が中心になって立案した「[[500日計画]]」には反対した。[[1989年]]、ガス工業省内に国営コンツェルンガスプロムを創設する。ガスプロムは天然ガス企業として世界最大規模を誇り、チェルノムイルジンは同年8月に社長に選出された。[[1990年]]3月、ロシア共和国人民代議員選挙に立候補するが、[[ドミトリー・ウォルコゴノフ]]将軍に敗れる
[[1991年]]、[[ソ連8月クーデター]]が失敗に終わり、ソ連共産党の解党が決定的になると、チェルノムイルジンは共産党を離党する。[[1992年]]5月、ロシア連邦政府の燃料エネルギー担当の副首相に任命される。エリツィンは、[[エゴール・ガイダル]]と[[アナトリー・チュバイス]]を起用して急進的な市場経済導入を推進したが、そのためのショック療法により、ロシア経済はハイパーインフレーションに見舞われ、エリツィン政権に対する国民、とくに低所得者層や年金生活者など社会的弱者の支持は急降下していった。エリツィンは、新たなる支持基盤として民営化によって生まれた新興財閥に注目し、その代表とも言うべきガスプロムの代表であり、急進的な経済改革ではなく穏健な経済改革を主張していたチェルノムイルジンを登用することになる。こうしてチェルノムイルジンは、1992年12月、第7回[[人民代議員大会]]で首相となる。
 
[[1990年]]3月、ロシア共和国人民代議員選挙に立候補するが、ドミトリー・ウォルコゴノフ将軍に敗れる。[[1991年]]、[[ソ連8月クーデター]]が失敗に終わり、ソビエト共産党の解党が決定的になるとチェルノムイルジンは共産党を離党する。[[1992年]]5月、[[ロシア連邦政府]]の燃料エネルギー担当の副首相に任命される。ボリス・エリツィン大統領[[エゴール・ガイダル]]と[[アナトリー・チュバイス]]を起用して急進的な市場経済導入を推進したが、そのためのショック療法により、[[ロシア経済|ロシア経済]]はハイパーインフレーションに見舞われ、エリツィン政権に対する国民、とくで特に低所得者層年金生活者など社会的弱者の支持は急降下していった。エリツィンは新たなる支持基盤として民営化によって生まれた[[ロシアの新興財閥|新興財閥]]に注目し、その代表とも言うべきガスプロムの代表であり、急進的な経済改革ではく穏健な経済改革を主張していたチェルノムイルジンを登用することになる。こうしてチェルノムイルジンは、1992年12月、第7回[[人民代議員大会]]ロシア連邦首相となる。
首相となったチェルノムイルジンは、エリツィンに対して忠誠を誓い、副大統領の[[アレクサンドル・ルツコイ]]と[[最高会議]]議長の[[ルスラン・ハズブラートフ]]がエリツィンに対して離反した際には、[[1993年]]9月のロシア議会(人民代議員大会と最高会議)解散に関する大統領令を支持し、[[ベールイ・ドーム|最高会議ビル]]に立てこもったルツコイ、ハズブラートフらを武力で鎮圧した。[[1995年]]5月には、大統領[[与党]]として設立された選挙ブロック「[[我が家ロシア]]」評議会議長に就任。自身も同年12月下院国家会議選挙で、「我が家ロシア」で比例区から当選したが、「我が家ロシア」そのものは得票率において、[[ロシア自由民主党]]、[[ロシア連邦共産党]]に次ぐ第3党に留まった(議席数65)。しかし[[1996年]]の[[1996年ロシア大統領選挙|エリツィン大統領再選]]には多大な貢献をし、[[8月10日]]、首相に再任される。1996年[[4月1日]]、大統領令により「チェチェン紛争解決国家委員会」が設置され、さらにチェルノムイルジンは同委員会議長に任命され、[[第一次チェチェン紛争]]の収拾に尽力した。さらに1996年[[11月5日]]から[[11月6日]]にかけてエリツィンが心臓手術を受けている間、臨時大統領を務めた。
 
===首相時代===
こうして5年余にも及ぶ首相在任によって、チェルノムイルジンはエリツィンに次ぐ政治権力者となったかに見えたが、[[1998年]][[3月23日]]、突然の大統領令によって首相職を解任された。この大統領令は[[2000年]]の[[2000年ロシア大統領選挙|大統領選挙]]へチェルノムイルジンが立候補するためその準備のために首相職を解任すると説明されたが、実際は健康を悪化させていたエリツィンに代わってチェルノムイルジンが政権内で巨大な存在になったことを嫌ったエリツィンとその周辺による体の良い厄介払いであったと言われている。
初代ロシア連邦首相となったチェルノムイルジンはエリツィンに対して忠誠を誓い、副大統領の[[アレクサンドル・ルツコイ]]副大統領[[{{仮リンク|ロシア連邦最高会議]]|label= 最高会議|ru|Верховный совет России}}議長の[[ルスラン・ハズブラートフ]]がエリツィンに対して離反した際には、[[1993年]]9月のロシア議会(人民代議員大会と最高会議)解散に関する大統領令を支持し、[[ベールイ・ドーム|最高会議ビル]]に立てこもったルツコイハズブラートフらを武力で鎮圧した。[[1995年]]5月には、大統領[[与党]]として設立された選挙ブロック「[[我が家ロシア]]」評議会議長に就任。自身も同年12月下院国家会議選挙で、「我が家ロシア」で比例区から当選したが、「我が家ロシア」そのものは得票率において、[[ロシア自由民主党]][[ロシア連邦共産党]]に次ぐ第3党に留まった(議席数65)。しかし[[1996年]]の[[ロシア大統領選挙|1996年ロシア連邦大統領選挙|]]でのエリツィン大統領再選]]には多大な貢献を行い[[8月10日]]、首相に再任される。1996年[[4月1日]]、大統領令により「チェチェン紛争解決国家委員会」が設置され、さらにチェルノムイルジンは同委員会議長に任命され、[[第一次チェチェン紛争]]の収拾に尽力した。さらに1996年[[11月5日]]から[[11月6日]]にかけてエリツィンが心臓手術を受けている間臨時大統領を務めた。
 
こうして5年余にも及ぶ首相在任によって、チェルノムイルジンはエリツィンに次ぐ政治権力者となったかに見えたが、[[1998年]][[3月23日]]、突然の大統領令によって首相職を解任された。この大統領令は[[2000年]]の[[2000年ロシア大統領選挙|2000年ロシア連邦大統領選挙]]へチェルノムイルジンが立候補するためその準備のために首相職を解任すると説明されたが、実際は健康を悪化させていたエリツィンに代わってチェルノムイルジンが政権内で巨大な存在になったことを嫌ったエリツィンとその周辺による体の良い厄介払いであったと言われている。エリツィン大統領は当初はチェルノムイルジンの後任の首相を任命せず、自らが首相代行を兼任して権力を掌握しようとしたが、憲法裁判所がこの措置を違法と裁定したことによってそれを断念し、若手政治家の[[セルゲイ・キリエンコ]]を首相代行から首相に任命して、チェルノムイルジンの後継内閣を組閣させた
首相解任後、[[1999年]]に[[ユーゴスラビア紛争]]調停のため、大統領特使としてユーゴに派遣される。同年12月の下院国家会議選挙では、「我が家ロシア」は5%条項を突破せず比例区で議席を獲得できなかったが、チェルノムイルジン自身は小選挙区から立候補して当選した(「我が家ロシア」はその後、政権与党「[[統一ロシア]]」に合流した)。その後[[2001年]]5月に駐[[ウクライナ]]大使に任命された。
 
===その後===
[[2009年]][[6月11日]]、ウクライナ大使を解任され、大統領顧問兼CIS諸国経済協力特別大統領代表に任命された。
しかし[[1998年]]8月17日にセルゲイ・キリエンコ内閣はルーブルの切り下げと90日間の対外債務の支払い停止([[デフォルト (金融)|デフォルト]])を発表し、これが[[ロシア財政危機]]のきっかけとなった。この危機にあってキリエンコは事態を収拾することができず、8月23日にボリス・エリツィン大統領は突如キリエンコ内閣の全閣僚を罷免した。
 
8月24日にエリツィンは再びチェルノムイルジンを起用し、彼を首相代行に任命した。エリツィンは若手改革派ではあるが政治的力量に欠けていたキリエンコを切り捨て、「重量級」であるチェルノムイルジンを再登板させようと目論んだわけである。しかし野党勢力はこうしたエリツィンの行動が支離滅裂であるとますます批判を強めた。8月31日に下院はチェルノムイルジンのロシア連邦首相承認を賛成94・反対251で否決した。エリツィンは再度下院にチェルノムイルジンの承認を求めたが、9月7日の第2回投票でも賛成137・反対273で否決された。チェルノムイルジン自身は第3回投票に持ち込むことを辞さない覚悟であったが、エリツィンは2度の否決でチェルノムイルジンの承認を諦めてチェルノムイルジンは首相再登板の目を絶たれてしまった。新首相には議会の受けも良かった[[エフゲニー・プリマコフ]]外相代行が就任した<ref>プリマコフは自由民主党を除く各会派から首相候補として推薦されていた。『ロシア同時代史』、[[木村明生]]著、[[朝日新聞社]]発行、225頁</ref>。
2010年11月3日、モスクワ市内の病院で死去<ref>{{Cite news
 
首相解任チェルノムイルジンはその、[[1999年]]に[[ユーゴスラビア紛争]]調停のため、大統領特使としてユーゴに派遣される。同年12月の下院国家会議選挙では「我が家ロシア」は5%パーセント条項を突破せず比例区で議席を獲得できなかったが、チェルノムイルジン自身は小選挙区から立候補して当選した(「我が家ロシア」はその後、[[政権]]与党「[[統一ロシア]]」に合流した)。その後[[2001年]]5月に駐[[ウクライナ]]大使に任命された。
 
[[2009年]][[6月11日]]、ウクライナ大使を解任され、大統領顧問兼CIS諸国経済協力特別大統領代表に任命された。
 
2010年11月3日モスクワ市内の病院で死去<ref>{{Cite news
|url=http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101103-OYT1T00410.htm
|title=ロシア元首相のチェルノムイルジン氏死去
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|accessdate=2010-11-03
|language=日本語
}}</ref>。{{没年齢|1938|4|9|2010|11|3}}72歳であった
 
== ガスプロムとロシア経済 ==
在任中の政策により、新興財閥([[オリガルヒ]])を巨大化させた。また、自身の母体である[[ガスプロム]]などのガス石油企業に対する保護はロシアの国家財政における税収不足を引き起こす事態になり、短期[[国債]]の乱発とともに[[ロシア財政危機]]の一因となった。
 
== 出典 ==
{{Reflist}}
 
[[en:{{Commonscat|Viktor Chernomyrdin]]}}
 
{{start box}}
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{{Succession box
| title = {{flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦首相]]
| years = (代行)1998年8月23日 - 1998年9月11日
| before = [[セルゲイ・キリエンコ]]
| after = [[エフゲニー・プリマコフ]]
88 ⟶ 99行目:
{{Succession box
| title = {{flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦首相]]
| years = 初代:1993年12月25日 - 1998年3月23日
| before = 自分自身
| beforenote = (閣僚会議議長)
96 ⟶ 107行目:
{{Succession box
| title = {{flagicon|RUS}} [[ロシアの首相|ロシア連邦閣僚会議議長]]
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105 ⟶ 116行目:
 
{{ロシアの大統領}}
{{ロシア連邦の首相}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ちえるのむいるしん ういくとる}}
[[Category:ロシア連邦の首相]]
[[Category:ロシアの大統領|代ちえのむいるしん]]
[[Category:ロシア連邦使統領顧問]]
[[Category:在ウクライナロシア連邦大使]]
[[Category:ロシアの実業家]]
[[Category:ソビエト連邦共産党中央委員会の人物]]
[[Category:第11回ソビエト連邦最高会議の代議員]]
[[Category:ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国最高会議の代議員]]
[[Category:祖国功労勲章受章者]]
[[Category:友好勲章受章者 (ロシア連邦)]]
[[Category:十月革命勲章受章者]]
[[Category:労働赤旗勲章受章者]]
[[Category:ソビエト連邦の閣僚]]
[[Category:オレンブルク州出身の人物]]
[[Category:1938年生]]
[[Category:2010年没]]
 
[[az:Viktor Çernomırdin]]
[[be:Віктар Сцяпанавіч Чарнамырдзін]]
[[be-x-old:Віктар Чарнамырдзін]]
[[bg:Виктор Черномирдин]]
[[ca:Víktor Txernomirdin]]
[[cs:Viktor Černomyrdin]]
[[da:Viktor Tjernomyrdin]]
[[de:Wiktor Stepanowitsch Tschernomyrdin]]
[[en:Viktor Chernomyrdin]]
[[es:Víktor Chernomyrdin]]
[[et:Viktor Tšernomõrdin]]
[[eu:Viktor Txernomirdin]]
[[fi:Viktor Tšernomyrdin]]
[[fr:Viktor Tchernomyrdine]]
[[gl:Víktor Chernomyrdin]]
[[he:ויקטור צ'רנומירדין]]
[[hi:विक्तर चेर्नोमिर्दिन]]
[[hr:Viktor Černomirdin]]
[[hu:Viktor Sztyepanovics Csernomirgyin]]
[[id:Viktor Chernomyrdin]]
[[it:Viktor Stepanovič Černomyrdin]]
[[ko:빅토르 체르노미르딘]]
[[lb:Wiktor Stepanowitsch Tschernomyrdin]]
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[[lv:Viktors Černomirdins]]
[[nl:Viktor Tsjernomyrdin]]
[[no:Viktor Tsjernomyrdin]]
[[pl:Wiktor Czernomyrdin]]
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[[ru:Черномырдин, Виктор Степанович]]
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[[uk:Черномирдін Віктор Степанович]]
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[[zh:维克托·斯捷潘诺维奇·切尔诺梅尔金]]
[[zh-yue:切爾諾梅爾金]]