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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1968}}
|ドラフト順位 = ドラフト4位
|初出場 = [[1969年]][[4月13日]]
|最終出場 = [[1981年]][[9月23日]]
|経歴 =
* [[愛知中学校・高等学校|愛知高等学校]]
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|経歴補足 =
* ロッテオリオンズ (1987 - 1988)
* [[東京都立総合工科高等学校]]
}}
'''金田 留広'''(かねだ とめひろ、[[1946年]][[11月17日]] - [[2018年]][[10月2日]]<ref name="hochi181011">{{Cite news|title=【ロッテ】金田正一氏実弟・留広氏が死去|date=2018-10-11|url=https://www.hochi.co.jp/baseballnews/npbarticles/20181011-OHT1T50094.html|language=ja-JP|agency=スポーツ報知|accessdate=2018-10-11}}</ref>)は、[[愛知県]][[名古屋市]][[北区 (名古屋市)|北区]]出身の[[プロ野球選手]]([[投手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]
 
1974年に[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を獲得。
 
同じく元プロ野球選手の[[金田正一]]、[[金田高義]]、[[金田星雄]]は実兄。[[金石昭人]](姉の息子)、[[金田賢一]](長兄・正一の息子)は甥。
 
== 経歴 ==
=== プロ入りまで===
[[愛知中学校・高等学校|愛知高校]]を卒業後では[[1964年]][[全国高等学校野球選手権愛知大会|夏の甲子園県予選]]準々決勝に進むが[[愛知県立大府高等学校|大府高]]に敗退した。[[愛知学院大学硬式野球部|愛知学院大学]]に進学し、[[愛知大学野球連盟|愛知大学野球リーグ]]で投手として活躍し、1年生の時点で7勝4敗の成績を残すが中退した。その後は[[日本通運硬式野球部|日通浦和]]に入社する。[[1966年]]の[[日本産業対抗野球大会|産業対抗]]では準々決勝に進み、[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]の[[平松政次]]と投げ合う。5回まで無安打と好投するが6回には[[枝松道輝]]に同点本塁打を喫し、9回裏に後続が打たれサヨナラ負けを喫する<ref>「日本社会人野球協会会報1966」日本社会人野球協会 1967年</ref>。この時のチームメイトに[[竹之内雅史]]、[[東田正義]]([[三重交通硬式野球部|三重交通]]から補強)がいた。[[1968年]]の産業対抗では準決勝で先発、6回を好投し[[田中章 (野球)|田中章]]との継投で[[日本軽金属硬式野球部|日本軽金属]]に完封勝利。決勝でも先発し[[クラシエホールディングス|全鐘紡]]の[[藤原真]]と投げ合うが、早々に打込まれ敗退した<ref>「日本社会人野球協会会報1968」日本社会人野球協会 1969年</ref>。
 
=== 現役時代 ===
[[1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト]]4位で[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団し、兄・正一と同じ背番号34を着けた。
 
[[1969年]]から[[速球|直球]]と[[カーブ (球種)|カーブ]]を武器に一軍に定着。前半戦は主にリリーフとして起用され、リリーフ8勝、先発2勝で10勝を記録。[[1969年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]に選出されて3戦全てに登板し、[[7月19日]]の第1戦([[東京スタジアム (野球場)|東京]])では打席に立った兄・正一と対戦するという兄弟対決が実現し、正一を二飛に打ち取っている。後半戦では先発割合が増えたものの、終盤で打ち込まれる試合も多く、18勝13敗6Sの成績で終了、同年の[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]は[[有藤通世]]に惜敗する<ref>{{Cite web |title=1969年金田留広、全登板成績【兄に負けずやったるで】 |url=http://classicstats.doorblog.jp/archives/45397522.html |website=クラシックSTATS鑑賞 |access-date=2023-09-20 |language=ja |last=tabatomo}}</ref>。
 
[[1970年]]は[[4月11日]]の[[埼玉西武ライオンズ|西鉄]]との開幕戦([[平和台野球場|平和台]])に3番手リリーフで勝ち投手になり、それからは勝ち星が先行。チーム53試合目となる[[6月30日]]の[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]戦([[後楽園球場|後楽園]])での完投勝利で10勝目を早くも挙げる。[[黒い霧事件]]や怪我の影響などで投手が揃わない中、短い間隔で先発・リリーフに投げまくり、[[9月15日]]のロッテ戦(後楽園)でコールドゲームながらロッテ打線を[[完全試合|パーフェクト]]に抑えて初の20勝に到達<ref>「金田、うれしい20勝(プロ入り初)  雷雨大暴れ 5試合中止、各地で中断の珍現象」[[スポーツ報知|スポーツ報知新聞]]、1970年9月16日、1面。</ref>。[[最多勝利|最多勝]]争いでは1勝差でタイトルを逃した<ref>{{Cite web |title=1970年金田留広、全登板成績【苦しい投手陣の中で、24勝を上げる】 |url=http://classicstats.doorblog.jp/archives/56718599.html |website=クラシックSTATS鑑賞 |access-date=2023-09-20 |language=ja |last=tabatomo}}</ref>が、[[成田文男]]に次ぐ24勝、防御率2.71(リーグ5位)を記録する。
 
[[1971年]]はシーズン被本塁打42本の記録を作ったが、これは2023年現在も第2位の記録である<ref>{{Cite web |title=歴代最高記録 被本塁打 【シーズン記録】 |url=http://npb.jp/bis/history/ssp_hr.html |website=npb.jp |access-date=2023-09-20 |language=ja |last=一般社団法人日本野球機構}}</ref>。
 
[[1972年]]は[[1972年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]前こそ8勝5敗とほぼ五分の星であったが、後半にスパートをかけて12勝5敗とする。首位の[[オリックス・バファローズ|阪急]]相手には9試合に登板2勝3敗2Sと、先発が3試合で[[10月10日]]の最終戦([[阪急西宮スタジアム|西宮]])に完封勝利を挙げたのみであったが、同年は20勝をマークし最多勝のタイトルを獲得した<ref>{{Cite web |title=1972年金田留広、全登板成績【2年ぶり駆け込み20勝で最多勝】 |url=http://classicstats.doorblog.jp/archives/41900438.html |website=クラシックSTATS鑑賞 |access-date=2023-09-20 |language=ja |last=tabatomo}}</ref>。[[9月22日]]の[[福岡ソフトバンクホークス|南海]]戦(後楽園)で[[野崎恒男]]から満塁本塁打を放つが、現在[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]投手の満塁本塁打はこれ以降出ていない。
 
[[1973年]]はシーズン通じて打線との噛み合わせが悪く負けが込んでしまい、前期は途中6連敗もあって5勝9敗に終わる。後期もピッチング内容の悪い試合が続き、5連敗もあって2勝7敗となり[[8月26日]]の太平洋戦(後楽園)でライナーを右[[手]][[人差し指]]に当てて[[骨折]]、この試合がシーズン最後でありフライヤーズの選手としても最後の試合となった<ref>{{Cite web |title=1973年金田留広、全登板成績 |url=http://classicstats.doorblog.jp/archives/41906196.html |website=クラシックSTATS鑑賞 |access-date=2023-09-20 |language=ja |last=tabatomo}}</ref>。
 
[[1974年]]、[[野村収]]との交換[[トレード]]で、兄・正一が監督を務めていたロッテオリオンズに移籍。4試合目の登板となった[[4月20日]]の太平洋戦(平和台)で移籍後初勝利を挙げると前期は6勝4敗の成績であったが、後期は[[7月13日]]の[[大阪近鉄バファローズ|近鉄]]戦([[宮城球場|宮城]])での完投勝利から9連勝と波に乗り、1試合リリーフでの勝ち星以外は全て完投勝利を記録。最終的には16勝を挙げ、2年ぶり2度目の最多勝とパ・リーグ[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を獲得<ref>{{Cite web |title=1974年金田留広、全登板成績【兄監督の下で、2度目の最多勝&MVPを獲得】 |url=http://classicstats.doorblog.jp/archives/54317307.html |website=クラシックSTATS鑑賞 |access-date=2023-09-20 |language=ja |last=tabatomo}}</ref>。チームの4年ぶりのリーグ優勝に貢献し、阪急との[[1974年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]では[[10月6日]]の第1戦(西宮)で1勝を挙げる。[[中日ドラゴンズ|中日]]との[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2試合に先発し、[[10月16日]]の第1戦([[ナゴヤ球場|中日]])は6回に2点差を追いつかれ降板。[[10月20日|同20日]]の第4戦(後楽園)では6回を3失点に抑え、[[村田兆治]]に繋いでシリーズ初勝利を記録、24年ぶりの日本一にも大きく貢献した。
 
[[1978年]]オフ、正一の辞任に伴い[[渡辺秀武]]と共に、[[望月卓也]]・[[平田英之]]・[[劔持節雄]]との交換トレードで[[広島東洋カープ]]へ移籍。[[続柄|甥]]の[[金石昭人]]も[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]から[[ドラフト外]]で広島に入団しているが、金石は後に彼の[[コネクション]]で入団したと語っている。最初は正一と[[長嶋茂雄]]監督との間で、[[読売ジャイアンツ|巨人]]に行くことが決まっていたが、[[江川事件]]が起こる。移籍話に進展がない中で広島の[[松田耕平]]オーナーから[[六本木]]の[[鉄板焼き]]店に電話で呼ばれた<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に">{{Cite web |title=【投手・金田留広さん】反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に {{!}} 広島東洋カープ |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/9387 |website=中国新聞デジタル |date=2015-12-07 |access-date=2023-09-20 |language=ja}}</ref>。松田の「どうしても日本一になりたい。若い投手の手本となってくれ。広島市民のためにやってくれ。」<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />が口説き文句となり、金田は心を揺さぶられた<ref name="自由奔放、金田節炸裂 金田留広">{{Cite web |title=【Veryカープ! 名選手列伝】<23>自由奔放、金田節炸裂 金田留広 {{!}} 広島東洋カープ |url=https://www.chugoku-np.co.jp/articles/-/28276 |website=中国新聞デジタル |date=2018-05-11 |access-date=2023-09-20 |language=ja}}</ref>。家族4人で引っ越して練習も必死にやったが、[[1979年]]の開幕後は敗戦処理ばかりであり、[[7月10日]]の巨人戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民]])で我慢は限界に達した。5点差となった直後の9回に「行け」と命じられると、「誰が出られるか」と拒んだ。その後は声も掛からなくなり、市民球場のブルペンで「何しに来たんじゃ、はよ帰れ」とやじられ、「古葉の野郎、俺を飼い殺しにしやがって」と言い返した。翌日には[[古葉竹識]]監督に呼ばれ、金田は一軍登録抹消を覚悟していたが、先発を命じられた。「最後のチャンス」と受け止めてマウンドに上がった<ref name="自由奔放、金田節炸裂 金田留広" />[[8月15日]]の中日戦(ナゴヤ)で、移籍後初の先発は41日ぶりの登板であった<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />。前日には首位中日との3連戦に先勝し、1ゲーム差の2位に浮上。9連戦の真ん中の一戦となり、[[北別府学]]・[[池谷公二郎]]ら先発5本柱が、中継ぎでも登板し始めていた。古葉は、中3日の[[山根和夫]]を使わず、金田を指名。ノーサインで[[水沼四郎]]からの返球を捕っては投げ、捕っては投げた<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />。ポンポンと、テンポよく<ref name="自由奔放、金田節炸裂 金田留広" />投げることで打者に考える隙を与えず、5回を3安打1点に抑えた。得意な打撃でも、先制点の足掛かりとなる二塁打と貴重な追加点となる本塁打を放つ、独り舞台であった。危機にあったチームを救い、「10勝の価値がある」と古葉に言わせた<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />。全盛期の力は既に衰え、敗戦処理や中継ぎでの登板が多かったが、持ち前の明るい性格でチームに溶け込み[[ムードメーカー]]として活躍。「最高じゃ!」が口癖であり、少し高めの大きな声で喋りだすと止まらず、「俺の一番の取りえは明るさ」と、大人しいカープベンチを盛り上げた<ref name="自由奔放、金田節炸裂 金田留広" />。次いで先発した[[8月23日]]の中日戦(広島市民)は、スタミナ切れを反省し7回1/3を投げて勝ち投手<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />、[[8月29日|同29日]]の[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])では4安打完封勝利を飾り<ref name="自由奔放、金田節炸裂 金田留広" />、同月から先発陣の一角として後半戦のひと月足らずの間での4連勝を挙げる<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />。
 
[[1980年]]も9試合に先発するなどローテーションの谷間を埋め、リーグ連覇に貢献。同年[[6月12日]]の巨人戦(後楽園)では[[王貞治]]に通算850号本塁打を打たれている。
[[1969年]]にドラフト4位で[[北海道日本ハムファイターズ|東映フライヤーズ]]に入団し、兄・正一と同じ背番号34を着けた。入団1年目から[[速球|直球]]と[[カーブ (球種)|カーブ]]を武器に18勝を挙げ、同年[[東京スタジアム (野球場)|東京球場]]で開催された[[1969年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]では[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]の投手としてマウンドに上った留広が[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]のメンバーとして打席に立った兄・正一と対戦するというオールスターならではの夢の対決が実現し、この勝負の結果は正一を[[二塁手|セカンド]][[飛球|フライ]]に打ち取っている。同年の[[最優秀新人 (日本プロ野球)|新人王]]候補であったが、[[有藤通世]]が選出された。
 
[[1981年]][[8月16日]]の中日戦(ナゴヤ)では[[曽田康二]]と投げ合い、自ら8回に決勝本塁打を放ち、1-0で自身最後の完封勝利を記録。
翌[[1970年]]には1勝差で[[最多勝利|最多勝]]を逃したものの[[成田文男]]に次ぐ24勝、防御率2.71(リーグ5位)を記録する。[[1971年]]はシーズン被本塁打42本の記録を作った。これは[[2019年]]現在も第2位の記録である<ref>[http://npb.jp/bis/history/ssp_hr.html]</ref>。[[1972年]]9月22日南海戦で満塁本塁打を放つ。2011年現在パリーグ投手の満塁本塁打はこれ以降出ていない。同年は20勝をマークし最多勝のタイトルを獲得した。
 
[[1982年]]には登板機会が無くなり、同年限りで現役を引退。
[[1974年]]、[[野村収]]との交換[[トレード]]で、兄・正一が監督を務めていた[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に移籍。16勝を挙げ2度目の最多勝とパ・リーグ[[最優秀選手 (日本プロ野球)|MVP]]を獲得し、チームの4年ぶりのリーグ優勝に寄与する。[[中日ドラゴンズ]]との[[1974年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では2試合に先発、第1戦は6回に2点差を追いつかれ降板する。しかし第4戦では6回を3失点に抑え、[[村田兆治]]につないでシリーズ初勝利を記録、24年ぶりの日本一に大きく貢献した。
 
東映時代の[[1972年]]と「カネダ企画」所属時代の[[1986年]]の2度、[[テレビ朝日]]系「[[クイズタイムショック]]」に出演している。[[1987年]]・[[1988年]]には、ロッテ二軍の投手コーチを務めた。[[2001年]]には、[[プロ野球マスターズリーグ]]の東京ドリームスにも所属していた
その後は成績が伸び悩み、[[1979年]]、金田監督の辞任に伴い[[渡辺秀武]]と共に、[[望月卓也]]と[[平田英之]]と[[劔持節雄]]との交換トレードで[[広島東洋カープ]]に移籍。[[続柄|甥]]の[[金石昭人]]も[[PL学園中学校・高等学校|PL学園]]からドラフト外で広島に入団している(後に彼のコネで入団したと語っている)。全盛期の力は既に衰え、[[古葉竹識]]監督の下で敗戦処理や中継ぎでの登板が多かった。しかし持ち前の明るい性格でチームに溶け込み[[ムードメーカー]]として活躍、同年は8月から先発陣の一角として起用され4勝を挙げる。[[8月29日]]には[[阪神タイガース|阪神]]を相手に4安打完封勝利を飾り、地味ではあるがリーグ優勝に力を添えた。翌[[1980年]]もローテーションの谷間を埋め9試合に先発、リーグ連覇に貢献する。[[1981年]][[8月16日]]には[[中日ドラゴンズ|中日]]の[[曽田康二]]と投げ合い、自ら8回に決勝本塁打を放ち、1-0で自身最後の完封勝利を記録。しかし[[1982年]]には登板機会がなく、同年限りで現役を引退。
 
=== 引退後 ===
1980年[[6月12日]]には[[王貞治]]に通算850号本塁打を打たれている。また打撃にも定評があり、通算13本塁打をマークするなどしている。
引退後はロッテ[[千葉ロッテマリーンズ (ファーム)|二軍]]投手コーチ([[1987年]] - [[1988年]])を務めたほか、[[2001年]]には[[プロ野球マスターズリーグ]]の東京ドリームスにも所属。
 
ロッテコーチ時代の1988年にはオリオンズの自主トレで遠目から[[伊良部秀輝]]をじっと見つめ<ref>[[田崎健太]]『球童 伊良部秀輝伝』[[講談社]]、[[2014年]][[5月10日]]、ISBN 4062188945、p73。</ref>、キャンプではブルペンで伊良部とキャッチボールをし、立ったまま、低めの球を捕るのは怖さを感じるほどで、堪らず捕手を呼んだ<ref name="伊良部秀輝伝p74">『球童 伊良部秀輝伝』、p74。</ref>。金田は兄の全盛期を知らなかったため、「もしかして兄はこんな球を投げていたのかもしれない」「こいつは性格がどうのこうの言われているけど、そんなものはどうでもいい。こいつを早く一軍で投げさせて、日本のエースにせないかん」と思った<ref name="伊良部秀輝伝p74" />。開幕後は二軍に降格し、非力な打者に軽々と球を飛ばされていた伊良部を見かねて「真っ直ぐだけじゃ駄目だ。このままじゃただ速いだけの投手で終わってしまう」と自身のカーブを伝授し、1週間ほどカーブを徹底的に投げ込ませた<ref name="伊良部秀輝伝p75">『球童 伊良部秀輝伝』、p75。</ref>。二軍戦の試合前には[[徳武定祐|徳武定之]][[二軍監督]]に「今日、伊良部には半分カーブを投げさせようと思ってます。あいつのカーブはまだストライクが入らない。何点獲られるか分かりません。それでも5回までお願いします」と頼み、徳武は「よし分かった」と快諾<ref name="伊良部秀輝伝p75" />。この試合で伊良部のカーブはストライクゾーンに決まり<ref name="伊良部秀輝伝p75" />、カーブの後のストレートが効果的で、緩急の差があるため、打者は対応できなかった<ref name="伊良部秀輝伝p76">『球童 伊良部秀輝伝』、p76。</ref>。徳武が我慢するまでもなく伊良部は5回を投げ切り、徳武が 「ほら、見ろ。金田ピッチングコーチのカープを覚えない限り、お前は普通のピッチャーだよ」と伊良部に言うと、金田は上機嫌になった<ref>『球童 伊良部秀輝伝』、p76。</ref>。 
東映時代の[[1972年]]と「カネダ企画」所属時代の[[1986年]]の2度、[[テレビ朝日]]系「[[クイズタイムショック]]」に出演している。[[1987年]]・[[1988年]]には、ロッテ二軍の投手コーチを務めた。[[2001年]]には、[[プロ野球マスターズリーグ]]の東京ドリームスにも所属していた。
 
その後は[[健康食品]]の会社を経営する傍ら、日本身体障害者野球連盟の支援をしており、チャリティーゴルフ会の開催にも関わった。正一が社長を務める菓子販売会社の専務も務めた<ref name="反骨心で後半4連勝 チームの危機、自らの好機に" />ほか、[[2013年]]に学生野球資格を回復し、同年から2018年まで[[東京都立総合工科高等学校]]外部投手コーチとして投手全般を指導<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた">{{Cite web |title=金田留広の晩年 都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた |url=http://www.hb-nippon.com/2018/11/20181126no72gene/ |website=高校野球ドットコム |access-date=2023-09-20 |language=ja |date=2018-11-27}}</ref>。都立総合工科の前身・[[東京都立世田谷工業高等学校|世田谷工業]]の監督であった長嶺功が[[修徳中学校・高等学校|修徳高校]]グラウンドで金田と初めて出会い、金田が「元気があって面白いやつ」と長嶺を気に入り、それから付き合いが始まった。この出会いがコーチ就任の最初のきっかけであり、それから金田は都立総合工科のグラウンドに訪れると、長嶺と野球論を交わす日々を続けた<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた" />。都立総合工科の校長が広島出身で、カープの連覇に貢献した金田は校長にとってヒーローであり、即就任となった<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた" />。在任中は技術、トレーニングの指導、精神面でのケアを行ったほか、投手のトレーニングをする時には「金田塾にいくぞ!」といって選手達を厳しく鍛え、グラウンドにあるメニュー表には「金田塾」と記載されていた<ref name="都立総合工科の投手陣にとって欠かせない名投手コーチとなっていた" />。
その後は[[健康食品]]の会社を経営する傍ら、日本身体障害者野球連盟の支援をしており、チャリティーゴルフ会の開催にも関わった。
 
[[2018年]][[10月2日]]、71歳で死去した[[10月11日|同11日]][[千葉ロッテマリーンズ]]から発表された。死因は非公表<ref name="hochi181011"/>。死去から1年後の[[2019年]][[10月6日]]には、兄の金田正一も86歳で鬼籍に入った死去している
 
== 詳細情報 ==
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; その他の記録
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:3回(1969年 - 1971年)
* 複数球団での最多勝 ※史上4人目
 
=== 背番号 ===
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}}
{{東映フライヤーズ1968年ドラフト指名選手}}
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かねた とめひろ}}
[[Category:日本の野球選手]]
[[Category:帰化日本人の野球選手]]
[[Category:韓国・朝鮮系日本人の野球選手]]
[[Category:愛知高等学校出身の野球選手]]
[[Category:愛知学院大学硬式野球部の選手]]
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[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:日本の野球指導者]]
[[Category:21世紀日本の実業家]]
[[Category:韓国・朝鮮系日本人]]
[[Category:名古屋市出身の人物]]
[[Category:1946年生]]