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'''竹一船団'''(たけいちせんだん)は<ref name="叢書七五422">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、422-423頁「竹一船団の遭難と西部ニューギニア防備対策」</ref>、[[太平洋戦争]]中に存在した[[日本軍]]の[[護送船団]]のひとつである。
'''竹一船団'''(たけいちせんだん)は、[[第二次世界大戦]]中の[[日本軍]]の[[護送船団]]のひとつである。'''竹船団'''と呼ばれた一連の[[護送船団|輸送船団]]の最初のもので、2個の[[師団]]を[[フィリピン]]と西部[[ニューギニア島|ニューギニア]]に輸送する任務を負い、[[1944年]]([[昭和]]19年)[[4月17日]]に[[上海市|上海]]を出港した。4月26日と5月6日に[[アメリカ海軍]][[潜水艦]]の魚雷攻撃を受け、4隻の輸送船が沈没し3,200名以上の[[日本兵]]が戦死した。残存船団は目的地を変更し、[[ハルマヘラ島]]に人員と物資を揚陸した。
== 出典概要 ==
'''竹一船団'''は<ref name="叢書七五354">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、354-356頁「西部カロリン及び豪北方面陸軍兵力展開状況」</ref>、'''竹輸送'''と呼ばれた一連の緊急輸送作戦<ref name="叢書一〇二403竹輸送">[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、403頁「竹輸送」</ref>([[護送船団|竹船団]])<ref name="叢書五四401a">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]、401頁「六、竹船団の遭難」</ref>の最初のもので、[[第35師団 (日本軍)|第三十五師団]]と[[第32師団 (日本軍)|第三十二師団]]を[[フィリピン]]と西部[[ニューギニア島|ニューギニア]]に輸送する任務を負い<ref name="叢書七五316">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、316-318頁「第三十二、第三十五師団等の輸送 ― 竹輸送」</ref>、[[1944年]]([[昭和]]19年)4月下旬に[[上海市|上海]]を出港した<ref name="叢書七五348">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、348-350頁「西部ニューギニア方面防備兵力の再検討」</ref><ref name="叢書一〇二S19.04.21">[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、227頁「昭和19年(1944年)4月21日」</ref>。多数の護衛艦艇が配備されていたにもかかわらず、4月26と5月6日に[[アメリカ海軍]][[潜水艦]]の攻撃を受け、4隻の輸送船(4月26日に1隻、5月6日に3隻)が沈没<ref name="叢書一〇二S19.04.21" />、3,200名以上の[[日本兵]]が戦死した<ref name="叢書七五354" />。残存船団は目的地を変更し、[[ハルマヘラ島]]に人員と物資を揚陸した<ref name="叢書一〇二S19.04.21" /><ref name="叢書七五354" />。
 
竹一船団の失敗は[[大本営]]に多大な衝撃を与え、[[戦略]]的に大きな影響を及ぼした<ref name="叢書七五422" />。2つの[[師団]]が目的地にたどり着けなかったため、日本の[[大本営]]は防衛線を950 km 以上も後退させる決断をすることになった<ref name="叢書七五423">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、423-429頁「西部ニューギニア確保要域再度の後退」</ref>。また、いずれの[[師団]]とも大きな打撃を受けており、後に侵攻してきた[[アメリカ陸軍]]部隊と戦ったものの、ほとんど戦局に寄与することができずに終わった。
 
== 背景 ==
=== 絶対国防圏構想 ===
[[1943年]](昭和18年)9月、[[大日本帝国海軍|日本海軍]]と[[大日本帝国陸軍|日本陸軍]]は、[[絶対国防圏]]と称する防衛線の設定に合意した。絶対国防圏は[[マリアナ諸島]]から[[カロリン諸島]]を経由して、西部ニューギニアのヘルビング湾(現[[チェンデラワシ湾]])から[[バンダ海]]と[[フローレス海]]までを最前線と定めた<ref name="Willoughby_250">Willoughby (1966), p. 250</ref>。この時点では防衛線に陸軍部隊はほとんど配備されていなかったため、[[日中戦争|中国戦線]]と[[満州]]から部隊を輸送して、航空基地の防衛に充てる計画であった<ref name="叢書七五203">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、203-205頁「第三十五師団の輸送と亀地区への派遣先変更」</ref>。部隊輸送は[[1944年]](昭和19年)3月以降、本格化した<ref name="叢書七五273">[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、273-274頁「各方面の戦局」</ref>
中部太平洋方面(マリアナ諸島やカロリン諸島)への増援作戦は「[[松輸送]]」<ref name="叢書一〇二406松輸送">[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、406頁「松輸送」</ref>、豪北方面(西部ニューギニアなど[[オランダ領東インド]]東部)への増援作戦は「'''竹輸送'''」と命名された<ref name="叢書一〇二403竹輸送" />。これらの呼称は、日本で[[縁起]]の良いとされた3種の植物「[[松竹梅]]」に由来する。ドイツの封鎖突破船「[[柳船]]」が成功を収めたことにもあやかっている<ref>戦史叢書『海上護衛戦』、357頁。</ref>。
 
しかし、船舶不足から、増援部隊の輸送は遅れていた<ref>Willoughby (1966), pp. 251–252</ref>。中部太平洋方面の防備が最優先とされたため、特に豪北方面へ配備予定の部隊が後回しになり<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、201-203頁「第十四師団派遣先のマリアナへの変更」</ref>、1944年(昭和19年)4月になっても中国に残っていた<ref>Willoughby (1966), pp. 257–258 and p. 272</ref>。
 
中部太平洋方面への増援作戦(松輸送)は<ref name="叢書一〇二406松輸送" />、当初の予定通り順調に進んだ。
遅れていた豪北方面への増援作戦(竹輸送)が加速されたきっかけは、1944年(昭和19年)3月末の[[ジャヤプラ|ホーランジア]]空襲と[[パラオ大空襲]]での被害であった。西部ニューギニアやフィリピン南部への連合軍の急進撃をおそれた大本営は、4月4日、[[パラオ]]行きを予定していた[[第35師団 (日本軍)|第35師団]]の第二次輸送部隊(2個[[歩兵連隊]]基幹)を西部ニューギニアの[[マノクワリ]]へ、[[ハルマヘラ島]]行きを予定していた[[第32師団 (日本軍)|第32師団]]をフィリピン南部の[[ミンダナオ島]]へと送ることにした<ref>戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、326頁、340頁。</ref>。4月9日に大本営は作戦を発令し、この2個師団を運ぶ竹一船団が[[上海市|上海]]で編成された<ref name="gohoku371">戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、371頁。</ref><ref>Willoughby (1966), p. 272</ref>。この2個師団は1939年(昭和14年)に編成されたもので、これまで[[日中戦争]]で戦歴を積んでいた<ref>Madej (1981), p. 60 and pp. 62–63</ref>。「竹一船団」というのは、竹船団の1回目の意味である。なお、第35師団の3個歩兵連隊のうち[[歩兵第219連隊]]は、師団司令部とともに第一次輸送部隊とされ、松輸送の東松5号船団に乗って4月初旬に先発、同月下旬に無傷でパラオへと進出している<ref>Smith (1953), p. 459</ref>。
{{main|松輸送}}
 
遅れていた豪北方面への増援作戦(竹輸送)が加速されたきっかけは、1944年(昭和19年)3月末の[[ジャヤプラ|ホーランジア]]空襲<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、236-278頁「ホランジア空襲」</ref><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、223-224頁「昭和19年(1944年)3月30日」</ref>と[[パラオ大空襲]]<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、238-241頁「パラオ空襲」</ref>での被害であった<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]242-245頁「ホランジア及びパラオ空襲の影響と古賀聯合艦隊司令長官の戦死」</ref>。[[東条英機]]参謀総長は、情勢の変転に即応する「一令一動主義」によって兵団の派遣先変更を盛んにおこなった<ref name="叢書七五273" />。
西部ニューギニアやフィリピン南部への連合軍の急進撃をおそれた大本営は、4月4日<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、225頁「昭和19年(1944年)4月4日」</ref>、[[パラオ]]行きを予定していた[[第35師団 (日本軍)|第35師団]]の第二次輸送部隊(2個[[歩兵連隊]]基幹)を西部ニューギニアの[[マノクワリ]]へ(同日附で第三十一軍から第二軍に隷属変更)<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、312-316頁「三角地帯の戦備」</ref>、[[ハルマヘラ島]]行きを予定していた[[第32師団 (日本軍)|第32師団]]をフィリピン南部の[[ミンダナオ島]]へと送ることにした(同日附で第十二軍から第十四軍戦闘序列に編入)<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、303-304頁「飯村参謀総長着任ころまでの全般状況」</ref><ref>戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、326頁、340頁。</ref>。
遅れていた豪北方面への増援作戦(竹輸送)が加速されたきっかけは、1944年(昭和19年)34末の[[ジャヤプラ|ホーランジア]]空襲と[[パラオ大空襲]]での被害であった。西部ニューギニアやフィリピン南部への連合軍の急進撃をおそれた9日に大本営は、4月4日、[[パラオ]]行きを予定していた[[第35師竹船 (日本軍)|第35師団]]の第二次輸送部隊(2個[[歩兵連隊]]基幹)作戦西部ニューギニアの[[マノクワリ]]へ、[[ハルマヘラ島]]行きを予定発令ていた<ref>[[第32師団 (日本軍)#叢書102|第32師団]]をフィリピン南部の[[ミンダナオ島]]へと送ることにした<ref>戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』102巻]]326226、340頁。「昭和19年(1944年)4月9日」</ref>。4月9日に大本営は作戦を発令し、この2個師団を運ぶ竹一船団が[[上海市|上海]]で編成された<ref name="gohoku371">戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、371頁。</ref><ref>Willoughby (1966), p. 272</ref>。この2個師団は1939年(昭和14年)に編成されたもので、これまで[[日中戦争]]で戦歴を積んでいた<ref>Madej (1981), p. 60 and pp. 62–63</ref>。「竹一船団」というのは、竹船団の1回目の意味である。なお、第35師団の3個歩兵連隊のうち[[歩兵第219連隊]]は<ref>Smith (1953), p. 459</ref>、師団司令部とともに第一次輸送部隊とされ、松輸送の東松5号船団に乗って4月初旬に先発、同月下旬に無傷でパラオへと進出している<ref>Smith (1953),name="叢書七五354" p. 459</><ref name="叢書七五316" />。
 
さらに、大本営は4月10日頃になって再び計画を変更し、第32師団を当初の予定通りのハルマヘラ島に送ることにした<ref name="gohoku371" />。大本営は、前線への部隊の海上輸送が次第に困難になっていることに頭を痛め、これ以降に予定していた絶対国防圏への増援部隊は、連合軍の侵攻前に間に合わない可能性があると考え始めていた。そこで、第32師団を、ミンダナオ島よりも緊急性が高い豪北方面の[[第2軍 (日本軍)|第2軍]]への増援に充てることに決めたのである<ref name="Willoughby_273" />。正式な目的地変更は、船団出航後の4月25日に発令された<ref name="goei373">戦史叢書『海上護衛戦』、373頁。</ref>。
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1944年(昭和19年)2月の激しい輸送船被害を見て、日本海軍は護送船団の運用方針を変更することにした。2月の潜水艦及び航空機による輸送船被害は、日本の保有商船の1割を超える甚大なものになっていた<ref>Parillo (1993), p. 137</ref>。その中には[[マリアナ諸島]]や[[カロリン諸島]]行きの[[軍隊輸送船]]も相当数含まれていた<ref name=Wise_46>Wise et al (2003), p. 46</ref><ref name="Morison_20">Morison (2001), p. 20</ref>。海上護衛総司令部の採用したのは「大船団方式」で、従来の輸送船5隻程度の護送船団を、10隻から20隻を集めた日本船団としては大規模な編制へと切り替えることになった。大船団方式の利点は、より多くの護衛艦を船団につけることができ、また船団数(航行頻度)を減らすことで被発見率を下げられることにあった。翌3月には日本船の被害は減少し、日本海軍では新方式の効果があったと判断していた<ref name="ooi225">大井(2001年)、225頁。</ref>。しかし、[[戦後]]のアメリカ海軍関係者の説明によると、潜水艦の一部が[[通商破壊]]任務から外され、[[機動部隊|空母機動部隊]]の支援に回されていたためであった<ref>Parillo (1993), pp. 137–139</ref>。なお、日本側の[[海上護衛総司令部]]でも、通信解析の結果から、作戦中のアメリカ軍潜水艦の配置換えが生じたことも一因であろうとは推定していた<ref name="ooi225" />。
 
1944年(昭和19年)4月には、主に松輸送用として[[特設護衛船団司令部]](臨時護衛船団司令部とも)の編成も行われた<ref name="叢書五四401a" /><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、224頁「昭和19年(1944年)4月1日」</ref>。この特設護衛船団司令部は、船団[[指揮官]]を務める高級[[海軍士官]]を用意しておくための制度で、[[司令官]]だけの司令部を常設にしておき、船団編成時に適当な[[参謀]]と護衛艦艇を他部隊から集めて組み合わせようと言う構想であった。しかし、実際には船団運用や対潜戦術に精通した人材はまったくいなかった<ref>Parillo (1993), pp. 135–136</ref>。また、建制の実戦兵力や参謀を持たないために、普段から協同作戦に慣れておくことはできず、有機的な[[戦力]]発揮が難しい弱点も抱えていた<ref>大井(2001年)、233-234頁。</ref>。
 
竹一船団では、2個の重要師団を運ぶために大型の輸送船9隻が集められ<ref name="叢書五四401a" />、特に強力な護衛部隊も付けられた<ref>Willoughby (1966), pp. 272–273</ref>。船団指揮官に選ばれた[[梶岡定道]][[少将]]は<ref name="叢書五四401a" />、[[ウェーク島の戦い]]などに参加した経験豊かな提督であった<ref name="Blair_622" />。[[大海指]]第363号に基づいて用意された護衛部隊は、特設護衛船団司令部のひとつとして新編成の第6護衛船団司令部と、[[旗艦]]となる[[石炭]]燃料の旧式[[敷設艦#急設網艦|急設網艦]]「[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]]」のほか{{sfn|占守電探室|2012|p=196}}、[[駆逐艦]]3隻程度[[海防艦]]や[[駆潜艇]]などの各種小艦艇で構成された<ref name="叢書五四401a" />。[[支那方面艦隊]]も小艦艇([[宇治 (砲艦・2代)|宇治]]、[[安宅 (砲艦)|安宅]]、[[栗 (駆逐艦)|栗]]、第101掃海艇)を派遣した<ref>[[#叢書79|戦史叢書79巻]]、419-421頁〔 海上交通保護の実態 〕</ref>。護衛艦艇は経由地マニラの前後で大幅に入れ替えられることになっており、これは大海指第363号ではマニラ以北が海上護衛総司令部の担当区域、以南は[[連合艦隊]]の担当区域と分担されたためであった<ref name="goei372373">戦史叢書『海上護衛戦』、372-373頁。</ref>。
 
== 航海 ==
=== 上海からマニラへ ===
[[ファイル:USS Jack;0825901.jpg|thumb|アメリカ潜水艦[[ジャック (潜水艦)|ジャック]](1943年12月)]]
 
竹一船団は<ref name="叢書五四401b">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]、401頁「第一吉田丸の喪失」</ref>、上海から経由地[[マニラ]]へ向けて[[4月1721]]に出航した<ref name="叢書一〇二S19.04.21" /><ref name="叢書七五348" />(海外資料では4月18日発とする)<ref name="Parillo_139">Parillo (1993), p. 139</ref>。このときの編は輸送船15隻と、護衛の急設網艦「[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]]以下、駆逐艦3隻「白露」、「藤波」、「朝風」、海防艦3隻「倉橋」、「20号」、「22号」、その他6隻であった{{sfn|占守電探室|2012|p=196}}。輸送船は第32師団用に5隻、第35師団用に3隻が割り当てられ、ほかマニラまで同行する船が7隻あった<ref name="goei372373" />。2個師団以外に海軍の第107・第108[[海軍陸戦隊#防空隊|防空隊]]などが乗船している<ref name="nansei401">戦史叢書『南西方面海軍作戦―第二段作戦以降』、401頁。<五四401b" /ref>。連合軍の[[シギント]]機関大本営は、竹一船団の出航を知らせる[[暗号]][[無線通信|無電]]の解読に成功しておりは4月27日マニラ着通信解析により船団5月3日ハルマヘラ着、マノクワリ地区へ針路が南であるこ展開は5月7日-10日も察知予測した<ref name="Blair_622叢書七五348">Blair (2001), p. 622</ref><ref name="Drea_129">Drea (1992), p. 129</ref>。
 
連合軍の[[シギント]]機関は、竹一船団の出航を知らせる[[暗号]][[無線通信|無電]]の解読に成功しており、通信解析により船団の針路が南であることも察知した<ref name="Blair_622">Blair (2001), p. 622</ref><ref name="Drea_129">Drea (1992), p. 129</ref>。
シギント情報にもとづき、アメリカ海軍の潜水艦[[ジャック (潜水艦)|ジャック]]が竹一船団へと向かい<ref name="Drea_129" />、4月26日午前、[[ルソン島]]北西沖で目標を発見した<ref name="Drea_129叢書七五354" />。ジャックの[[艦長]]のトミー・ダイカー[[中佐]]は攻撃位置へ[[機動]]を試みたが、日本の潜水艦が現れて回避しなければならず失敗した。数分後、日本の航空機がジャックを発見して攻撃を加えたが、船団は特に進路を変えようとはしなかった。ジャック急設網艦[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]]([[石炭]]焚き)の煙突から出る排煙を目印にして、昼頃には再び船団に接触することができた。日没1時間前にジャック」は浮上して攻撃を仕掛けようとしたが、またも日本軍機に攻撃されてしまい潜航せざるをえなかった<ref name="Blair_622" />。
 
日没後にもう一度浮上攻撃を仕掛けたジャックは、月も沈んだ闇の中で今回は攻撃を成功させた。日本の護衛艦艇の警戒が厳重で船団内部への侵入は困難だったため、ジャックは長距離から3斉射、合計19発の魚雷を船が密集しているあたりへ打ち込んだ<ref name="Blair_622" />。その結果、[[貨物船]][[第一吉田丸]]([[山下汽船]]:5,245[[トン数#容積トン数|総トン]])が被雷して瞬時にした<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、228頁「昭和19年(1944年)4月26日」</ref>{{sfn|占守電探室|2012|p=197}}。同船には第32師団のうち[[歩兵第210連隊]]主力など約3,500名が乗船しており、[[連隊]]長の小池安正大佐以下2500名以上が戦死{{#tag:ref|戦史叢書『大本営陸軍部〈8〉』では歩兵第210連隊2573名戦死〈聯隊長含め〉・751名救助<ref name="叢書七五354" />とする。|group="注釈"}}{{#tag:ref|戦史叢書『南西方面海軍作戦』では2,586155戦死・生存者751名<ref name="叢書五四401b" />と記載する|group="注釈"}}。[[軍旗]]も海没した<ref name="nansei401叢書七五354" />。その他の船は4月27日<ref name="叢書五四401b" />(海外資料では29日にマニラへと入港した<ref name="Willoughby_273">Willoughby (1966), p. 273</ref>にマニラへと入港した<ref name="叢書七五354" />。
なお、アメリカ海軍の資料では別に1隻の輸送船を損傷させたとしている{{#tag:ref|アメリカ海軍公式年表([http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/USN-Chron/USN-Chron-1944.html The Offiicial Chronology of the US Navy in World War II])では、“Wales「Wales-Maru”Maru」を損傷させたとある。駒宮真七郎によれば、4月29日[[高雄市|高雄]]発マニラ行きのタマ17船団にうゑいるず丸が所属しているが、それ以前の行動は同書に記載がない<ref>駒宮(1987年)、168頁。</ref>。|group="注釈"|name="USNchron"}}。
 
=== マニラからハルマヘラまで ===
[[ファイル:USS Gurnard;0825404.jpg|thumb|left|upright|アメリカ潜水艦[[ガーナード (潜水艦)|ガーナード]](1944年3月)]]
 
5月1日、竹一船団はニューギニアへ向けてマニラを出発し<ref name="叢書七五422" /><ref name="叢書五四401c">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]、401-402頁「亞丁丸以下三隻を喪失」</ref>。沈没した第一吉田丸の代船として帝海丸が引き続き参加することになり、輸送船8隻<ref name="叢書五四401c" />(一部資料では9隻)<ref name="叢書一〇二S19.05.06">[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、230頁「昭和19年(1944年)5月6日」「竹1船団(第32・第35師団輸送の9隻)、メナド北方140粁で敵潜水艦により3隻撃沈される」</ref>を、急設網艦白鷹」(船団旗艦、梶岡少将)と駆逐艦3隻「[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]」、「[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]」、「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」、哨戒艇など5隻が護衛していた<ref name="nansei401叢書五四401c" /><ref name="PB104">『第一〇四号哨戒艇[[戦闘詳報]] 自昭和十九年五月六日 至同五月七日』 [[アジア歴史資料センター]](JACAR) Ref.C08030633200 (画像1-14)</ref><ref group="注釈" name="hensei" />。「白鷹」乗組員の回想では、敷設艦「[[蒼鷹 (急設網艦)|蒼鷹]]」も船団に加わっていたという{{sfn|占守電探室|2012|p=198}}。船団は、[[南遣艦隊#第三南遣艦隊|第3南遣艦隊]]が重要船団用に用意していた、これまで使ったことが無く、したがって待ち伏せのおそれも無いはずの安全と期待された航路をたどった<ref name="叢書五四401c" />
 
アメリカのシギント機関は、日本側の予想に反し、再び船団の動向をつかんでいた。5月2日には、分析担当官は船団の規模について、輸送船9隻と護衛艦7隻で、第32師団(12,784名)と第35師団(兵力不明)を輸送中であると推定していた。また、日本陸軍の船舶通信を暗号解読した結果、船団の航路や速度、目的地、正午ごとの位置までわかっていた。この「並みはずれたインテリジェンスの成果<!--extraordinary intelligence coup-->」は5月2日に担当司令部に届けられ、アメリカ海軍の潜水艦部隊が待ち伏せの配置につけられた<ref name="Drea_130">Drea (1992), p. 130</ref>。駆逐艦「[[五月雨 (駆逐艦)|五月雨]]」乗組員の回想によれば、「五月雨」は5月4日にホロ水道で合流した{{sfn|五月雨出撃す|2010|p=273}}
 
5月6日、竹一船団は強烈な潜水艦の襲撃に見舞われた<ref name="叢書一〇二S19.05.06" />{{sfn|占守電探室|2012|pp=199-200}}そこにはアメリカ潜水艦[[ガーナード (潜水艦)|ガーナード]]」は、[[セレベス海]]の[[スラウェシ島]](セレベス島)北東端付近の地点で日本船団を待ち伏せていた。ガーナードの艦長のハーブ・アンドリュース中佐は、航空機を警戒して潜航襲撃することにし、4時間かけて射点につくと2隻の船に対して6発ずつの魚雷を発射した<!--fired six torpedoes at two transports-->。第一斉射では1発だけが目標に命中し、第二斉射は狙った船にはあたらず、ただ1発は別の船に当たった。アンドリュース中佐は艦を回頭させると後部発射管からも魚雷を放ち、3隻目の輸送船を仕留めた。日本駆逐艦の1隻が反撃に向かってきたため、ガーナードは攻撃を終えた<ref name="Blair_623">Blair (2001), p. 623</ref>。その駆逐艦は100発以上の[[爆雷]]を投下したが、高速航行したままだったので[[ソナー]]を有効に使えておらず、ガーナードには損害は無かった<ref name="Blair_623" /><ref name="Parillo_141">Parillo (1993), p. 141</ref>。日本側は、陸軍[[第7飛行師団 (日本軍)|第7飛行師団]]の[[九九式双発軽爆撃機]]1機と[[九九式襲撃機|九九式軍偵察機]]3機を飛ばして対潜警戒中だったが、被害を受けるまでガーナードを探知することはできなかった<ref>戦史叢書『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』、341頁。</ref>。
 
2時間後にガーナードが[[潜望鏡]]で確認すると、日本側は兵員と物資の救助作業の真っ最中であった。その夜、ガーナードは損傷して航行不能になりながらも浮いていた輸送船の1隻を雷撃している。以上のガーナード撃で沈んだのは、被雷した順に<ref name="Blair_623" />貨物船天津山丸」<ref>俳優 池邉良が乗船していた。</ref>([[三井船舶]]:6,886総トン、第32師団司令部の一部、歩兵第212連隊本部、合計3400名乗船)、輸送船[[第一大福丸型貨物船|亜丁丸]](大洋興業:5,825総トン、第三十五師団各隊約2300名乗船)と[[T型貨物船|但馬丸]]([[日本郵船]]:6,995総トン、第三十五師団歩兵第220連隊〈第2大隊欠〉約2700名)であった<ref name="Blair_623叢書七五422" />。幸い、瞬時に沈没したのは亜丁丸だけであったこと、第一吉田丸の被害に懲りて[[小銃]]や[[歩兵砲]]まで事前に[[いかだ|筏]]にくくりつける徹底した対策をしていたことから、沈没3船合計8500名中、約85%が救助された<ref name="叢書七五422" />。生存者は護衛艦艇に救助され、「五月雨」に至っては駆逐艦1隻に約2700名の陸兵が乗り込んだという{{sfn|五月雨出撃す|2010|p=274|ps=「五月六日(航海中)」}}。人的損害は計700名弱で済んだものの<ref name="komamiya164">駒宮(1987年)、164頁。</ref>、やはり物資の多くは海没してしまった<ref name="komamiya164叢書七五422">駒宮(1987年)、164頁。< /ref>。<!--兵員1,290人が戦死し、物資の多くは海没した<ref name="Willoughby_273" /><ref name="Drea_130" />。-->
 
大損害を受けた竹一船団は輸送船5隻になり<ref name="叢書五四401c" />、[[スラウェシ島]]北端のバンカ泊地へ一旦退避したのち{{sfn|五月雨出撃す|2010|p=275}}。5月8日午前7時バンカ泊地を出発した{{sfn|五月雨出撃す|2010|p=275}}。5月9日(「五月雨」乗組員の回想では10日){{sfn|五月雨出撃す|2010|p=276}}、[[ハルマヘラ島]]の[[ワシレ]]へと入港した<ref name="叢書五四401c" /><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、231頁「昭和19年(1944年)5月9日」</ref>。大本営は作戦続行を断念し、兵員と物資はすべてワシレで揚陸された。駆逐艦「藤波」「白露」、「五月雨」は護衛任務をとかれ、バリクパパンへむかった{{sfn|五月雨出撃す|2010|p=276}}。船団は5月13日にワレシを出発、マニラへと引き返した<ref name="叢書五四402">[[#叢書54|戦史叢書54巻]]、402-403頁「被害の原因」</ref>。復路では損害は無く、5月20日にマニラに到着した<ref name="komamiya164" /><ref name="叢書五四402" />。5月21日<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、233頁「昭和19年(1944年)5月21日」</ref>、大海指第382号により護衛部隊は解散した<ref>戦史叢書『海上護衛戦』、374頁。</ref>。
 
== 結果 ==
竹一船団への攻撃は、第32師団と第35師団の戦力を大きく削いだ。第32師団の[[歩兵]]は9個[[大隊]]が5個大隊に、[[砲兵]]は4個大隊が1個大隊半に減った<ref name="Willoughby_273" /><ref>Madej (1981), p. 60</ref>。すなわち、3532師団ではハルマヘラに進出できた戦力は歩兵2個連隊(1個大隊欠)、第35師団は歩兵4個大隊のみで基幹(ただし3個大隊はパラオやセントアンドレウ諸島配備)になった<ref name="叢書七五422" />。第35師団の砲兵はほぼ壊滅状態であった<ref name="Willoughby_273" />。
 
竹一船団の壊滅は、日本の指導者たちに、もはや西部ニューギニアへの増援は不可能だということを知らしめた<ref name="叢書七五422" />。[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]司令官の[[阿南惟幾]][[大将]]は、船団の残存船で第35師団を予定通りニューギニアへ輸送するよう要望していたが、大本営はこれを受け入れず、既述のようにハルマヘラまでで輸送は中止された<ref name="叢書七五423" />。竹一船団の失敗は、絶対国防圏の修正にもつながった<ref name="叢書七五423" />
「第一吉田丸」遭難を知った大本営は、5月2日に絶対国防圏の前縁拠点だった[[サルミ (サルミ県)|サルミ]]、及び[[ビアク島]]を絶対確保の対象から除外し[[持久戦]]地区へと格下げした<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、229頁「昭和19年(1944年)5月2日」</ref><ref>戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、411頁。</ref>。その後も被害が続出したため、大本営海軍部は[[マノクワリ]]への護衛輸送は困難との見解を表明し、5月9日、マノクワリ及びヘルビング湾一帯も持久戦地区へ格下げが決まった<ref name="叢書五四401c" /><ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、230-231頁「昭和19年(1944年)5月9日」</ref>。ニューギニア方面での新たな絶対防衛戦は[[ソロン (インドネシア)|ソロン]]([[:en:Sorong (city)|en]])とハルマヘラ島を結ぶ線へと後退することになった<ref>戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、435頁。</ref><ref name="Willoughby_274">Willoughby (1966), p. 274</ref>。これは、3月の計画に比べて950 km 以上の戦略的[[撤退]]であった<ref name="Smith_233">Smith (1953), p. 233</ref>。阿南[[第2方面軍 (日本軍)|第2方面軍]]司令官はこの決定にも反発し、中央の意向に関わらずヘルビング湾を死守すべき旨の方面軍命令(輝参電第306号)を5月12日に発するなど<ref>[[#叢書102|戦史叢書102巻]]、231頁「昭和19年(1944年)5月12日」</ref>、大本営や南方軍との深刻な対立を生じた<ref>戦史叢書『豪北方面陸軍作戦』、442-443頁。</ref>。
 
6月、竹一船団の行動がなぜ探知されたのかを調査するため日本海軍の[[参謀]]たちがマニラへ派遣された。彼らは「暗号解読はされていない」と信じており、原因は他に求められた。代わりに「原因」として挙げられた事情としては、通信量増加により船団の行動が察知されたこと、マニラ所在の[[士官]]の一人が偶発的に[[情報漏洩]]してしまったこと、マニラ港湾労働者に潜入した[[スパイ]]が船団の編制や目的地などを通報していたことなどがある<ref name="叢書五四402" />。最終的に、スパイによる通報が原因であると結論付けられてしまい、日本の軍事暗号が変更されることは無かった<ref>Drea (1992), pp. 130–131</ref>。
 
竹一船団後も、増援部隊や軍需物資の輸送のため、ハルマヘラ島までの竹輸送は続けられた<ref>[[#叢書75|戦史叢書75巻]]、436-438頁「六 太平洋、豪北方面陸軍部隊展開促進」</ref>。竹二船団(別名:H25船団。輸送船8隻・護衛艦3隻)は5月15日にハルマヘラ島ワシレ着、竹四船団(別名:H27船団。輸送船9隻・護衛艦5隻)は6月5日にワシレ着、竹五船団(別名:H28船団。第10派遣隊乗船)は6月13日にハルマヘラ島ガレラを経由してワシレ着と、損害無く到着できた例が多い<ref>戦史叢書『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』、381頁、426頁、444頁。</ref>。しかし、5月19日にセブ島を発した竹三船団(別名:H26船団。輸送船9隻・護衛艦4隻)は5月22日と23日にアメリカの2隻の潜水艦[[レイ (潜水艦)|レイ]][[セロ (潜水艦)|セロ]]魚雷攻撃を受け、天平丸など輸送船2隻が沈没し1隻が損傷している<ref>戦史叢書『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』、388-389頁。</ref>。
 
竹一船団で運ばれた第32師団と第35師団は、その後にアメリカ陸軍と交戦することになった。第35師団は、5月にハルマヘラからソロンへと海軍艦艇で進出した<ref name="Smith_233" />。同師団のうちパラオを経由した別動の1個連隊も4月にニューギニアへと無事に到着できている<ref>Smith (1953), p. 460</ref>。第35師団は、[[ビアク島の戦い]]と[[サンサポールの戦い]]に隷下部隊が参加したが敗れ、主力はフォーヘルコップ半島(現[[ドベライ半島]], [[:en:Bird's Head Peninsula|en]])を守備して敵中に孤立したまま[[終戦]]を迎えた<ref>Smith (1953), p. 263, pp. 443–444 and p. 449</ref>。第32師団のほうは、そのままハルマヘラ島の駐留部隊となった<ref name="Smith_233" />。隣島の[[モロタイ島]]にアメリカ軍が上陸すると、1944年(昭和19年)9月から10月にかけて多くの部隊を逆上陸させて反撃を試みたが、大損害を被る結果に終わった([[モロタイ島の戦い]])<ref>Willoughby (1966), pp. 348–352</ref>。
 
1944年の5月末から6月には再びのニューギニア方面への輸送作戦である[[渾作戦]]が行われたが、全て失敗した。
 
== 船団の編制 ==
=== 上海・マニラ間 ===
* 輸送船<ref name="goei372373" />
** [[第32師団 (日本軍)|第32師団]]用 - [[和浦丸]]、御月丸、[[第一大福丸型貨物船|伯剌西爾丸]]<!--船主は小野商事-->、天津山丸、[[第一吉田丸]]
** [[第35師団 (日本軍)|第35師団]]用 - [[T型貨物船|但馬丸]]、[[第一大福丸型貨物船|亜丁丸]]、陽山丸
** その他 - 満洲丸、福洋丸、帝海丸、河南丸、雲海丸、帝香丸ほか1隻<ref group="注釈" name="USNchron" />
* 護衛艦艇<ref name="goei372373" />
** 急設網艦[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]](旗艦) - 第6護衛船団司令官:[[梶岡定道]]少将、臨時参謀:今里義光大佐(本務は[[軍令部]]第12課)<ref name="叢書五四401a" />
** 駆逐艦 - [[朝風 (2代神風型駆逐艦)|朝風]]、[[白露 (白露型駆逐艦)|白露]]、[[藤波 (駆逐艦)|藤波]]、[[栗 (駆逐艦)|栗]](4月22日以降)
** 海防艦 - [[御蔵型海防艦|倉橋]]、[[丁型海防艦|第20号海防艦]]、[[丁型海防艦|第22号海防艦]]
** 砲艦 - [[安宅 (砲艦)|安宅]](4月22日まで)、[[宇治 (砲艦・2代)|宇治]](4月23日まで)
** その他 - [[第一九号型掃海艇|第22号掃海艇]]、[[第一〇一号型掃海艇|第101号掃海艇]](4月23日以降)、[[第二八号型駆潜艇|第37号駆潜艇]]、[[第二八号型駆潜艇|第38号駆潜艇]]、[[特設艦船|特設駆潜艇]]「第七玉丸」
 
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** 第32師団用 - 和浦丸、御月丸、伯剌西爾丸、天津山丸、帝海丸
** 第35師団用 - 但馬丸、亜丁丸、陽山丸
* 護衛艦艇<ref name="nansei401叢書五四401b" /><ref name="PB104" /><ref group="注釈" name="hensei" />
** 急設網艦[[白鷹 (急設網艦)|白鷹]](旗艦) - 第6護衛船団司令官:[[梶岡定道]]少将、臨時参謀:今里義光大佐(本務は軍令部第12課)
** 駆逐艦 - [[五月雨白露 (白露型駆逐艦)|五月雨白露]]、[[白露藤波 (白露型駆逐艦)|白露藤波]]、[[藤波五月雨 (駆逐艦)|藤波五月雨]](途中合流){{sfn|五月雨出撃す|2010|p=273}}
** その他 - [[スチュワート (DD-224)|第102号哨戒艇]]、[[第百四号哨戒艇|第104号哨戒艇]]、第38号駆潜艇、[[特設艦船|特設捕獲網艇]]興嶺丸
 
== ==
{{脚注ヘルプ}}
<references group="注釈" />
=== 注釈 ===
 
{{Notelist}}
== 出典 ==
=== 出典 ===
{{Reflist|23}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|url=https://books.google.com.sg/books?id=8cptAAAACAAJ&dq=%25E6%25B5%25B7%25E4%25B8%258A%25E8%25AD%25B7%25E8%25A1%259B%25E6%2588%25A6&hl=zh-CN&source=gbs_book_other_versions |last=[[大井篤]] |date=2001-02 |publisher=学習研究社 |isbn=9784059010401|oclc=676213332|title=海上護衛戦|series=学研M文庫|ref=大井2001}}
* [[大井篤]] 『海上護衛戦』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。
* {{Cite book|和書|url=https://books.google.com.sg/books?id=tUg9AAAAIAAJ&q=%E6%88%A6%E6%99%82%E8%BC%B8%E9%80%81%E8%88%B9%E5%9B%A3%E5%8F%B2&dq=%E6%88%A6%E6%99%82%E8%BC%B8%E9%80%81%E8%88%B9%E5%9B%A3%E5%8F%B2&hl=zh-CN&sa=X&ved=0ahUKEwjD05OMltfiAhXSGLkGHVCaAJEQ6AEIKDAA |title=戦時輸送船団史 |last=駒宮真七郎 |date=1987年 |publisher=出版協同社 |isbn=4879700479||oclc=18989787|ref={{sfnref|駒宮|1987}}}}
* 駒宮真七郎 『戦時輸送船団史』 出版協同社、1987年。
* {{Cite book|和書|author=須藤幸助|coauthors=|date=2010-01|origyear=1956|title=駆逐艦「五月雨」出撃す {{small|ソロモン海の火柱}}|url=https://books.google.com.sg/books?id=9DDJQgAACAAJ&dq=%E9%A7%86%E9%80%90%E8%89%A6%E3%80%8C%E4%BA%94%E6%9C%88%E9%9B%A8%E3%80%8D%E5%87%BA%E6%92%83%E3%81%99&hl=zh-CN&sa=X&ved=0ahUKEwjft8yyg9riAhXBa94KHUCICNgQ6AEIKDAA|publisher=光人社 <光人社NF文庫>|isbn=978-4-7698-2630-9|oclc=491333421|ref={{SfnRef|五月雨出撃す|2010}}}}
* [[防衛研究所|防衛庁防衛研修所戦史室]] 『豪北方面陸軍作戦』 朝雲新聞社〈[[戦史叢書]]〉、1969年。
* {{cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=西部ニューギニア方面陸軍航空作戦|publisher=朝雲新聞社|series=[[戦史叢書]]|volume=第22巻|oclc=905878909|date=1969年1月|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=022|ref=西部ニューギニア方面陸軍航空作戦}}
* 同上 『西部ニューギニア方面陸軍航空作戦』 同上、1969年。
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=豪北方面陸軍作戦|date=1969|series=戦史叢書|volume=第23巻|publisher=朝雲新聞社 |oclc=1049465280|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=023 |ref=豪北方面陸軍作戦}}
* 同上 『海上護衛戦』 同上、1971年。
* {{cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=海上護衛戦|publisher=朝雲新聞社|series=戦史叢書|volume=第46巻|ref=海上護衛戦|id=BN00711897|oclc=16754381|isbn=|date=1971-05|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=046}}
* 同上 『南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』 同上、1972年。
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=南西方面海軍作戦 {{small|第二段作戦以降}}|series=戦史叢書|oclc=16749350|volume=第54巻|date=1972-03|publisher=朝雲新聞社|id=BN00934880|isbn=|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=054|ref=叢書54}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=大本營陸軍部<8> {{small|―昭和十九年七月まで―}}|series=戦史叢書|volume=第75巻|date=1974-08|publisher=朝雲新聞社|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=075|ref=叢書75}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=中國方面海軍作戦<2> {{small|―昭和十三年四月以降―}}|series=戦史叢書|volume=第79巻|date=1975-01|publisher=朝雲新聞社|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=079|ref=叢書79}}
* {{Cite book|和書|author=防衛庁防衛研修所戦史室|title=陸海軍年表 {{small|付 兵器・兵語の解説}}|series=戦史叢書|volume=第102巻|date=1980-01|publisher=朝雲新聞社|oclc=16713398|url=https://www.nids.mod.go.jp/military_history_search/SoshoView?kanno=102|ref=叢書102}}
* {{Cite book|和書|editor=「丸」編集部|date=2012-10|chapter=9 「大竹船団」挫折す|title={{small|小艦艇戦記}} 海防艦「占守」電探室異状なし|url=https://books.google.com.sg/books?id=P32wMQEACAAJ&dq=%25E6%25B5%25B7%25E9%2598%25B2%25E8%2589%25A6%25E3%2580%258C%25E5%258D%25A0%25E5%25AE%2588%25E3%2580%258D%25E9%259B%25BB%25E6%258E%25A2%25E5%25AE%25A4%25E7%2595%25B0%25E7%258A%25B6%25E3%2581%25AA%25E3%2581%2597&hl=zh-CN&sa=X&ved=0ahUKEwjT_cr7otfiAhVCfXAKHRigCMoQ6AEIKTAA |publisher=株式会社潮書房[[光人社]]|series=光人社NF文庫|volume=Ma-N-756|isbn=978-4-7698-2756-6|oclc=811357941|ref={{sfnref|占守電探室|2012}}}}
**(151-206頁)わが青春の軍艦「白鷹」に生きる {{small|黒煙はく石炭だきの敷設艦/泣き笑い航海記 ― 河本義夫}}<div>
* {{cite book|last=Blair|first=Clay|title=Silent Victory: The U.S. Submarine War Against Japan|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis|date=2001|isbn=155750217X|oclc=45207785}}
* {{cite book|last=Drea|first=Edward J.|title=MacArthur's ULTRA. Codebreaking and the war against Japan, 1942–1945|publisher=University of Kansas Press|location=Lawrence|date=1992|isbn=0700605045|oclc=23651196}}
122 ⟶ 142行目:
* {{cite book |title=The Approach to the Philippines |last=Smith |first=Robert Ross |authorlink= |coauthors= |series=United States Army in World War II: The War in the Pacific |year=1953 |url=http://www.ibiblio.org/hyperwar/USA/USA-P-Approach/index.html |publisher=[[:en:United States Army Center of Military History|United States Army Center of Military History]] |location=Washington D.C. |oclc=1260896 }}
* {{cite book |last=Willoughby |first=Charles A. (editor in chief) |title=Japanese Operations in the Southwest Pacific Area Volume II&nbsp;– Part I |url=http://www.army.mil/cmh/books/wwii/MacArthur%20Reports/MacArthur%20V2%20P1/macarthurv2.htm |series=Reports of General MacArthur |year=1966 |publisher=United States Government Printing Office |location=Washington D.C. |oclc=174861388}}
* {{cite book|last=Wise|first=James E|coauthors=Baron, Scott|title=Soldiers Lost at Sea: A Chronicle of Troopship Disasters|publisher=Naval Institute Press|location=Annapolis|date=2003|isbn=1591149665|oclc=52182511|url=httphttps://books.google.comco.jp/books?id=KmtozaIf5QAC&pg=PA46&lpg=PA46&dq=Take+Ichi+convoy&redir_esc=y&hl=ja}}
 
== 外部リンク ==
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[[Category:第二次世界大戦の輸送船団]]
[[Category:1944年の戦闘]]
[[Category:1944年の日本フィリピン]]
[[Category:1944年のインドネシア]]
[[Category:1944年4月]]
[[Category:1944年5月]]