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[[Image:Omike(Yamatohime-no-miya) 01.JPG|thumb|250px|[[皇大神宮|伊勢神宮 内宮]]・別宮[[倭姫宮]]の大御饌]]
[[image:Emperor Akihito Daijōsai(1990).jpg|thumb|250px|[[1990年]]([[平成]]2年)、平成の'''[[大嘗祭]]''']]
{{皇室祭祀}}
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'''新嘗祭'''(にいなめさい、にいなめのまつり、しんじょうさい)は、[[宮中祭祀]]のひとつ。[[大祭]]。また、[[祝祭日]]の一つ。
 
== 概要 ==
新嘗祭は、[[天皇]]がその年に収穫された新穀などを[[天神地祇]](てんじんちぎ)に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=40}}。毎年[[11月23日]]に[[宮中三殿]]の近くにある[[宮中三殿|神嘉殿]]にて執り行われる<ref name="gyoji">{{Cite book Sfnp|和書 |editor=西角井正慶|editor-link=西角井正慶|date=1958-05-23 |title= 年中行事事典 |publisher=東京堂出版 |pagep=584}}</ref>。同日には全国の[[神社]]でも行われる。
 
なお、天皇が即位の礼の後に初めて行う新嘗祭を、特に'''[[大嘗祭]]'''(だいじょうさい、おおにえまつり、おおなめまつり)という。
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新嘗に関する記録の中で最初のものは、『[[日本書紀]]』[[神武天皇]]即位前紀の次の記述である。
 
{{quotation|乃ち[[丹生川上神社|{{Ruby|丹生|にふ}}の川上]]の[[500|{{Ruby|五百箇|いほつ}}]]の[[サカキ|{{Ruby|真|ま}}{{Ruby|坂|さか}}{{Ruby|樹|き}}]]を{{Ruby|抜取|ねこじ}}にして、{{Ruby|諸神|もろかみたち}}を{{Ruby|祭|いは}}ひたまふ。此より始めて{{Ruby|厳|いつ}}[[甕|{{Ruby|瓮|へ}}]]の{{Ruby|置|おきもの}}あり。時に{{Ruby|[[道臣命]]|みちのおみのみこと}}に[[勅|{{Ruby|勅|みことのり}}]]すらく、「今[[タカミムスビ|{{Ruby|高|たか}}{{Ruby|皇|み}}{{Ruby|産|むす}}{{Ruby|霊|び}}{{Ruby|尊|のみこと}}]]を以て朕{{Ruby|親|みずか}}ら[[顕斎|{{Ruby|顕斎|うつしいはひ}}]]を{{Ruby|作|な}}さむ。{{Ruby|汝|なんじ}}を{{Ruby|用|もちひ}}て{{Ruby|斎主|いはひのうし}}として、授くるに{{Ruby|厳媛|いつひめ}}の{{Ruby|号|な}}を以てせむ。其の置ける{{Ruby|埴|はに}}{{Ruby|瓮|へ}}を{{Ruby|名|なづ}}けて{{Ruby|厳|いつ}}{{Ruby|瓮|へ}}とす。又、火の名をば{{Ruby|厳|いつの}}[[カグツチ|{{Ruby|香|か}}{{Ruby|来|く}}{{Ruby|雷|つち}}]]とす。水の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|[[ミヅハノメ|罔象女]]|みつはのめ}}とす。[[食品|{{Ruby|粮|おしもの}}]]の名をば{{Ruby|厳|いつの}}{{Ruby|[[ウカノミタマ|稲魂女]]|うかのめ}}とす<ref group="注釈">{{Efn|工藤隆は、日本列島の民俗儀礼において稲魂には女性性や生殖性の観念が付随していたとして、その具体的な事例として奥能登(石川県北部)のアエノコトという風習を例に挙げている{{Sfnp|工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』|2017|p.=112</ref>}}。}}。{{Ruby|薪|たきぎ}}の名をば{{Ruby|厳|いつの}}[[オオヤマツミ|{{Ruby|山雷|やまつち}}]]とす。草の名をば{{Ruby|厳|いつの}}[[カヤノヒメ|{{Ruby|野|の}}{{Ruby|椎|づち}}]]とす」とのたまふ。冬十月の[[癸巳]]の[[朔|{{Ruby|朔|ついたち}}]]、天皇、{{Ruby|其|そ}}の{{Ruby|厳|いつ}}{{Ruby|瓮|へ}}の{{Ruby|粮|おしもの}}を{{big|'''{{Ruby|嘗|にひなへ}}'''}}したまひて<ref group="注釈">「嘗」は「にひなへする」以外に「たてまつる」「なむ」と訓読することもできる。</ref>、兵を{{Ruby|勒|ととの}}へて出でたまふ。先づ[[八十梟帥|{{Ruby|八十|やそ}}{{Ruby|梟帥|たける}}]]を{{Ruby|国|くに}}{{Ruby|見|みの}}{{Ruby|丘|おか}}に撃ちて、{{Ruby|破|やぶ}}り{{Ruby|斬|き}}りつ。{{efn|[[肥後和男]]は、この物語は新嘗の歴史にとってきわめて重要な伝承で、清浄にして神聖な材料を供物に用いることや、旧暦の十月一日が新穀のできる時期であることから新嘗にふさわしい時期であることなど、古代における新嘗祭のやりかたを伝えている、と述べた<ref>{{Sfnp|肥後和男『新嘗の研究』第二輯 吉川弘文館、|1955年、p.12~13。</ref>|pp=12-13}}。また、真弓常忠はこの記述について「少なくとも大嘗祭の原像を伺う資とすることができる」と述べ、また、ここでは[[天照大神]]の御名は見えず、天皇は[[高皇産霊尊]]を祀っていることを指摘し、天照大神という人格神が形成される以前の段階を現わしているという説を述べている{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=144}}。}}——''『日本書紀』巻第三 [[神武天皇|神日本磐余彦天皇'']]}}
 
"'''新嘗'''"の語を用いた記録の中で最も古いもの<ref group="注釈">神代(記紀神話)を除く。</ref> は『[[日本書紀]]』[[仁徳天皇]]40年条に
{{quotation|{{Ruby|是|こ}}{{Ruby|歳|とし}}、{{big|'''新嘗'''}}の月に{{Ruby|當|あた}}りて、{{Ruby|宴会|とよのあかり}}の日を以て、{{Ruby|酒|おほみき}}を{{Ruby|[[命婦|內外命婦]]|ひめとね}}{{Ruby|等|たち}}に{{Ruby|賜|たま}}ふ。——''『日本書紀』巻第十一 [[仁徳天皇|大鷦鷯天皇'']]}}
とある。これらの記述が史実をどの程度反映しているのかは明らかではないが、新嘗祭の儀式の中に[[弥生時代]]に起源を持つと考えられるものがあるため、その原型は弥生時代に遡るという説もある<ref name="工藤">{{Sfnp|工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』|2017|p.=47,p.104</ref>}}
 
「[[古事記]]」[[雄略天皇]]の段の「天語歌」も当時の新嘗祭の様子を表していると言われている。大きな樹の下で新嘗の祭宴が行われ、采女が杯を大王にささげ「高光る日の御子やすみししわが大王(おおきみ)」と讃える様子が描かれている{{Sfnp|松前健|2003|p=78}}。
その後、[[律令制|律令]]により国家祭祀としての体裁を整えていった<ref group="注釈">[[飛鳥浄御原令]]あるいは[[大宝律令]]において明文化されたと考えられている。</ref>。また、皇位継承儀礼に組み込まれ(''[[大嘗祭]]を参照'')、伊勢神宮の神事の形式を取り入れながら、宮中祭祀として続いてきた<ref>工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』p.17</ref>。
 
その後、[[律令制|律令]]により国家祭祀としての体裁を整えていった<ref group="注釈">[[飛鳥浄御原令]]あるいは[[大宝律令]]において明文化されたと考えられている。</ref>。また、皇位継承儀礼に組み込まれ(''[[大嘗祭]]を参照'')、伊勢神宮の神事の形式を取り入れながら、宮中祭祀として続いてきた{{Sfnp|工藤隆|2017|p=17}}。

[[後花園天皇]]の[[寛正]]4年([[1463年]])に行われて以降、[[応仁の乱]]や朝廷の窮乏により長らく中断していたが、[[東山天皇]]の[[元禄]]元年([[1688年]])に[[霊元天皇|霊元上皇]]の強い意向により「新嘗御祈」という形で略式に再興(この前年の[[貞享]]4年([[1687年]]) に大嘗祭も再興)している。ただし祭場となる神嘉殿がないため、[[紫宸殿]]を代わりの場として用いた。ついで[[桜町天皇]]の[[元文]]5年([[1740年]])に元の形に復興し、[[光格天皇]]の[[寛政]]3年([[1791年]])には内裏の造営に伴って神嘉殿が再建された。その年以来、現在に至るまで毎年、[[宮中祭祀]]として続けられている<ref name="入江">入江相政『宮中歳時記』</ref>。
 
明治5年([[1872年]])から、新嘗祭に合わせて神宮([[伊勢神宮]])に勅使が遣わされるようになった。
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明治41年([[1908年]])[[9月19日]]制定の「[[皇室祭祀令]]」では大祭に指定。同法令は昭和22年([[1947年]])[[5月2日]]に廃止されたが、以降もこれに則って新嘗祭が行われている。
 
[[平成]]25年([[2013年]])[[12月23日]]、[[宮内庁]]は当時の[[天皇誕生日]](上皇[[明仁]]80歳誕生日)に際して初めて新嘗祭の様子の一部を映像で公開した<ref>{{cite news |title=知っておきたい「新嘗祭」貴重映像で解説 |newspaper=[[日テレNEWS24]] |date=2017-11-22|url=httphttps://wwwnews.news24ntv.co.jp/articlescategory/2017society/11/22/07378590.html378590 |agency=日本テレビ放送網|accessdate=2019-12-09}}</ref>。
 
新嘗祭まで[[新米]]を口にしない風習が古代からあったが、[[第二次世界大戦]]後に衰退した<ref name="いろは">『神社のいろは』扶桑社</ref>。
 
== 祭日 ==
明治6年の改暦より以前は[[太陽太陰暦]]([[旧暦]])の[[11月 (旧暦)|11月]]の二の[[卯]]の日(卯の日が2回しかない場合は下卯、3回ある場合は中卯とも呼ばれる、旧暦11月13日~24日のいづれかが該当する)に行われていた<ref group="注釈">{{Efn|『[[養老律令|養老令]]』([[757年]])の「神祇令」仲冬条には「上卯(かみのう)に相嘗祭(あいんべのまつり)、寅日に鎮魂祭、下卯(しものう)に大嘗祭(おおんべのまつり)」とある。また、それ以前の記録では『日本書紀』に、新嘗祭を[[舒明天皇]]11年(639年)「乙'''卯'''」の日に、[[皇極天皇]]元年(642年)「丁'''卯'''」の日にそれぞれ行ったことが書かれている。これらの記事は新嘗祭を「卯」の日に行うという慣例が、[[律令制|律令]]以前にすでに出来上がっていたことを示すものであると考えられる{{Sfnp|工藤隆|2017|pp.=129-130</ref>}}。}}<ref group="注釈">真弓常忠は「陰暦十一月の二の卯の日は冬至の前後にあたり、持統天皇の大嘗祭が冬至であったことによって判るように、元来は冬至の日に行うのが本旨であろう」と推測している。</ref>。[[改暦]]の年である[[明治]]6年([[1873年]])に、旧暦で実施すると翌年1月になってしまうため、[[グレゴリオ暦]]([[新暦]])を採用することとなり、同年11月の二の卯の日にあたる11月23日に行われた。11月の二の卯の日は[[11月13日]]から[[11月24日]]の間で毎年変動するが、翌年以降も毎年11月23日に行われ、今日に至っている{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=40}}<ref group="注釈">新嘗祭は明治6年以降新暦を採用し続けているが、同時に一旦は新暦を採用した神嘗祭が、イネの生育の問題から明治12年([[1879年]])以降は[[月遅れ]]を採用して新暦[[10月17日]]に行われるようになったため、神嘗祭と新嘗祭の間隔は約1ヶ月縮まっている。</ref>。
 
また、「[[年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム]]」および「[[休日ニ関スル件]]」により、明治6年(1873年)から[[昭和]]22年([[1947年]])まで同名の[[祭日]]([[休日]])であった。昭和23年([[1948年]])公布の[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年法律第178号)<ref group="注釈">昭和23年(1948年)7月20日公布。</ref>により、[[勤労感謝の日]]と改称されて[[祝日|国民の祝日]]となっている(''詳細は「'''[[勤労感謝の日]]'''」を参照''){{r|gyoji}}<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=323AC1000000178 国民の祝日に関する法律]</ref>。
 
また、「[[年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム]]」および「[[休日ニ関スル件]]」により、明治6年(1873年)から[[昭和]]22年([[1947年]])まで同名の[[祭日]]([[休日]])であった。昭和23年([[1948年]])公布の[[国民の祝日に関する法律]](祝日法、昭和23年法律第178号)<ref group="注釈">昭和23年(1948年)7月20日公布。</ref>により、[[勤労感謝の日]]と改称されて[[祝日|国民の祝日]]となっている(''詳細は「'''[[勤労感謝の日]]'''」を参照''){{rSfnp|gyoji西角井正慶|1958|p=584}}<ref>[https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detaildocument?lawIdlawid=323AC1000000178 国民の祝日に関する法律]</ref>。
{{main|勤労感謝の日}}
なお、固定日の休日の中で最も長く続いている休日である<ref group="注釈">ただし改暦以降も、大嘗祭は(新暦)11月の二回目の卯の日に行われたために、大正・昭和の大嘗祭が行われた大正4年(1915年)と昭和3年(1928年)は11月23日は休日とはならなかった。</ref>。
 
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新嘗祭の意義については、「天皇が新穀を神祇に供進し、収穫を感謝する」ことが本義であるという説、「天皇が大嘗を食す」ことが本義であるという説、「天皇が神前で新穀を食すことにより天照大神の霊威を身に受けて、それを更新すること」が本義であるという説などがある。
 
『[[職員令]]』内に「大嘗」<ref {{Refnest|group="注釈" |name=":0">|『神祇令』(701年)には「大嘗は、世毎に一年、国司事を行え。以外は年毎に所司事を行え」とあるので、『神祇令』の段階では即位の時の大嘗祭と年中行事としての新嘗祭を、どちらも大嘗祭と呼んでいたことがわかる{{Sfnp|工藤隆|2017|p.=43</ref> }}。}}の注釈として、
 
{{quotation|謂う、新穀を嘗して以て神祇を祭るなり。朝は諸神の[[相嘗祭]]、夕は新穀を至尊に供するなり。}}
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{{quotation|大嘗会者、神膳之供進第一之大事也。秘事也。}}
 
とある。そのため、一般には「天皇が新穀を神祇に供進する、収穫感謝の祭り」と解釈されることが多い{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|pp=52-53}}。
 
しかし、『[[延喜式]]』にみえる大嘗祭<ref name=":0" group="注釈" /> の[[祝詞]]には
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{{quotation|{{Ruby|十一月|しもつき}}{{Ruby|中|なかの}}{{Ruby|卯|うの}}{{Ruby|日|ひ}}{{Ruby|尓|に}}{{Ruby|天|あま}}{{Ruby|都|つ}}{{Ruby|御食|みけ}}{{Ruby|乃|の}}{{Ruby|遠|とほ}}{{Ruby|御食|みけ}}{{Ruby|登|と}}{{Ruby|皇|すめ}}{{Ruby|御孫|みま}}{{Ruby|命|のみこと}}{{Ruby|乃|の}}{{Ruby|大嘗|おほにへ}}{{Ruby|聞食|きこしめさむ}}{{Ruby|爲|ための}}{{Ruby|故|ゆゑ}}{{Ruby|尓|に}}、{{Ruby|皇神等|すめがみたち}}{{Ruby|相|あひ}}{{Ruby|宇豆|うづ}}{{Ruby|乃比|のひ}}<ref group="注釈">珍なふ(うずなう)は(神が)承諾する、の意味。</ref>{{Ruby|奉|たてまつり}}{{Ruby|氐|て}}…}}
 
とあり、皇御孫命(天皇)が大嘗を聞こしめす(食する)ことが新嘗祭の目的であることを[[鈴木重胤]]や[[本居宣長]]が指摘している{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|pp=53-54}}。
 
また、[[大嘗祭]]に際して発せられる「[[中臣寿詞]]」の中では、
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{{quotation|高天の原に神留ります皇親神ろぎ神ろみ命もちて八百万神等を神集へたまひて、皇孫の尊は高天の原に事始めて、豊葦原の瑞穂の国を安国と平けく知ろしめして、天つ日嗣の天つ高御座に御坐しまして、天つ御膳の長御膳の遠御膳と、千秋の五百秋に、瑞穂を平けく安らけく、斎庭に知ろしめせと、事依さしまつりて、天降しましし後に…}}
 
とあり、{{Ruby|斎|ゆ}}{{Ruby|庭|にわ}}の稲穂<ref group="注釈">稲作の起源について、[[日本神話|記紀神話]]においては、[[ニニギノミコト]]が天上界から地上に降りる([[天孫降臨]])に際し、[[天照大神]]がこれに稲穂を授けたことを起源とする(斎庭(ゆにわ)の稲穂の神勅)。</ref> をもって瑞穂の国を実現することの重要性、その祈りを込めて、それをきこしめす(食する)ことの意義を述べている{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|pp=57-59}}<ref group="注釈">{{Efn|宮中祭祀に近侍した[[星野輝興]]掌典は「新嘗祭における神々への御礼は、奉幣を以て行われてあるのでありますから、新嘗祭即ち宮中神嘉殿に於ける'''新嘗祭は、御礼を主としたものでは無い'''ということができると存じます」「陛下の召上り給う時の御模様は、(中略)皇孫御降臨の節、皇祖よりお授けになった'''斎庭の稲穂をお受け遊ばすもの'''と解し奉る外ないように拝されます」と述べている{{Sfnp|星野輝興『日本の祭祀』国書刊行会、|1987年</ref>}}。}}
 
また一説には、太陽の光を受けて成長した稲穂には皇祖神、太陽神であるところの天照大神の霊威がこもっており、ニニギノミコトの子孫である天皇(皇孫の尊)が米を食すことにより、天照大神の霊威を身に移し(大嘗祭)、それを年々更新することが新嘗祭の意義である{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=60}}と考える説もある。この説の根拠としては、本来新嘗祭が挙行されていた旧暦11月の2回目の卯の日は太陽の力(天照大神の霊威)が最も弱まる(死と再生を意味する)冬至に近く、さらに卯の日は[[陰陽五行思想]]に従うと再生・更新を意味する日である。また、新嘗祭が行われる亥刻(午後10時)は、もっとも太陽の衰えた時刻であり、その陰極まった果てに忌み籠って夕御饌を食して日神の霊威を身に体し、子刻には一旦退出するが、暁の寅刻(午前4時)に再び神嘉殿に入り朝御饌を食し、復活した太陽=日神とともに、天皇としての霊性を更新し、若々しい日の御子、日継の御子として顕現すると解釈される{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=60}}。
 
== 語源 ==
「新嘗」(にいなめ)の語源については、諸説ある。
古語では「ニフナミ」「ニヒナメ」「ニヒナヘ」「ニヒナヒ」「ニハナミ」「ニハナヒ」「ニヘナミ」など、さまざまな呼ばれ方をしていた<ref>{{Sfnp|工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』|2017|p.=8</ref>}}
 
; 「ニヒノアヘ」「ニヒアヘ」の約語という説
[[本居宣長]]は『[[古事記伝]]』において、「ニヒナヘ」は「ニヒノアヘ」(=「{{Ruby|新|にひ}}{{Ruby|之|の}}{{Ruby|饗|あへ}}」)の約語で、「ニヘ」は「ニヒアヘ」(=「{{Ruby|新饗|にひあへ}}」)の約言である、と唱え、この説が長らく主流であった{{SfnSfnp|真弓常忠|pp2019|p=45}}。
 
; 「ニヒ」(「贄(ニヘ)」の派生語)+「ナフ」(補助動詞)の名詞形という説
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* 早稲(わせ)を尓倍(にへ)す …『[[万葉集]]』3386
 
より、「ニヒナヘ」「ニヘ」は同じ意に用いられていることがわかる。これらは全て「贄」(にへ)に派生する単語であり、「ナフ」という派生語尾<ref group="注釈">現代語に残存するところでは「オコナフ」(行う)・「アキナフ」(商う)・「ウベナフ」(諾う)の「ナフ」であり、これを語尾につけて「贄」を動詞化したもの。</ref> がつくことによって「ニハナヒ」(四段活用動詞「ニハナフ」《「神や天皇に供薦する」の意》の連用形)、「ニヒナヘ」(下二段活用動詞「ニヒナフ」《「神や天皇がその供薦を受ける」の意》の連用形)の区別がついた、と論じた{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|pp=45-47}}。
 
さらに、古代中国では稲の祭りを「嘗祭」といったことから、これを当て字にして「嘗」(ニヒナヘ)となったとされる。やがて、「新穀=初もの」という連想から「新」の字が冠せられ、さらに「嘗」の訓読みである「ナメ」に引きずられて「ニヒナ'''メ'''」(新穀を嘗める<ref group="注釈">ここでの「嘗める」は、「試みる」の意。</ref>)に転じた{{SfnSfnp|真弓常忠|pp2019|p=47}}。
 
; 「ニヒ」(「贄(ニヘ)」の派生語)」+「ナミ」(「の忌み」の約語)という説
[[折口信夫]]は、「ニハナヒ」「ニフナミ」「ニヒナメ」「ニヘナミ」の四つの語の「ニヘ」「ニハ」「ニフ」は、「贄」と同語根としている。さらに、新嘗祭を「五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である」として、「の忌み」が短縮されて「ナミ」となったとしている<ref>{{Sfnp|折口信夫『大嘗祭の本義』</ref>|2019}}
 
; 「ニフ」(産屋を意味する)+「ナミ」(「の忌み」の約語)という説
[[工藤隆]]は、一[[漢字]]一ヤマト語表記で読みを伝えているのは『日本書紀』「[[雄略天皇]]紀」の「{{Ruby|爾比那閉|ニヒナヘ}}」と『[[万葉集]]』巻14「東歌」の「{{Ruby|爾布奈未|ニフナミ}}」だけであることを挙げ、中央の「ニヒナヘ」よりも東方の「ニフナミ」の方が古形を伝えている可能性がある、とした<ref>{{Sfnp|工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』|p.=206</ref>}}。その上で、「中部以東の日本の広い地域で『稲積』を『ニホ・ニュウ』に近い名称で呼んでいる」「ニフ・ニュウなどが産屋を意味する」<ref>柳田国男『稲の産屋』、1953年</ref> ことや、マレー半島の収穫儀礼において「稲魂の誕生」が人間の出産になぞらえられている<ref>{{Sfnp|三品彰英『古代祭政と穀霊信仰』、|1973年</ref> }}ことを踏まえて、「ニフ(産屋)の忌み」が「ニフナミ」に変化したという説を述べた<ref>{{Sfnp|工藤隆『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』|2017|p.=204</ref>}}
 
== 祭具・祭服 ==
; 祭具
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* '''寝座'''…薄帖(薄い畳)を何枚も重ね敷き、南に坂枕を置き、羽二重袷(はぶたえあわせ)仕立ての御衾(おふすま)が掛けられる。この御衾は、[[天孫降臨]]時にニニギノミコトが真床追衾(まとこおふすま)にくるまれていた故事によるものである。その端には女儀用の櫛、檜扇(ひおうぎ)、沓(くつ)などが置かれる。古くは寝座を「第一の神座」と称した。
 
神座と御座は相対して[[伊勢神宮]]の方向(現在は南西。[[東京奠都]]以前は南西方向であった)を向いており、寝座は神座・御座の東、殿内のほぼ中央に南北に敷かれる{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|pp=49-50}}。
 
; 祭服
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:ここで用いられる「筥」は、葛を編んだものである。
:調理用の火は、{{Ruby|鑚火|きりび}}の[[忌火]]を用いる(「忌」とは、この上なく清浄という意味)。
:これらを盛る容器は、御酒や汁物には[[土器]]が用いられるが、他は窪手、{{Ruby|枚手|ひらて}}で、いずれも柏の葉に竹のひごを刺して作られたものである。窪手は筥型で盛り付け用、枚手は丸い皿型で取り分け用で、窪手の中の神饌を枚手に取り分けて神前に供える。これは{{Ruby|食薦|すごも}}の上に並べて供える{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=50}}。
:神饌はそれ自体が神として扱われており、奉持して運ぶことを「神饌行立(行立)」という<ref group="注釈">「行立」は生きつつ立ち、立ちつつ行くの意。</ref>。掌典が階下に控えて警蹕を唱える<ref group="注釈">神霊の動座に際し、「オーシー」と唱えること。</ref>{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|pp=50-51}}。
 
== 式次第  ==
; 鎮魂祭
まず、新嘗祭の前日に[[綾綺殿]]で[[鎮魂祭]]が行われる。鎮魂祭には新嘗祭に臨む天皇の霊を強化するという意義があるとされる。神楽の奉納が行われる。
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夜、「神嘉殿の儀」が行われる。まず、侍従が[[剣璽]]を、[[東宮侍従]]が[[壺切御剣]]を奉安する。次いで、皇太子が斎戒沐浴し、東宮便殿で祭服に着替え、天皇より先に神嘉殿に入り、御座につく。次いで、天皇も斎戒沐浴の後に綾綺殿で白の御祭服を着用し、松明の明かりが照らす中を神嘉殿に渡御する。この時、[[宮内庁式部職#楽部|楽師]]により[[神楽歌]]が奏でられる。
 
次に、神饌行立が行われる。天皇は神嘉殿内の母屋で神座の前の御座に正座し、神饌が用意されると、御手水の後、古来のやり方に則りピンセット型の竹箸で柏の葉の皿に神饌を移し、神前に供える({{Ruby|御|ご}}{{Ruby|親|しん}}{{Ruby|供|く}})。親供が終わると、自ら[[天照大神]]および[[天神地祇]]の諸神に{{Ruby|御|お}}{{Ruby|告文|つげぶみ}}を奏上する。この時、皇太子は座を立ち、南庇の間の中央の座(母屋御扉口の拝座)につき、拝礼する。帳舎の参列者は起立する。続いて帳舎の参列者が正面階下で拝礼する。その後天皇が、神前に供えたものと同じもの(詳細は''神饌''の節を参照)を食す({{Ruby|御直会|おんなおらい}}){{efn|宮中祭祀に近侍した星野輝興掌典によると「陛下が新穀を聞食されるに当たって、(中略)いよいよ召上がるに当り、サバ(散飯)をサバの神へ奉られる」といい、「サバ」は、散飯、生飯、左波、三把、最把、最花などと表記するが、もとは梵語である。インドでは[[餓鬼]]に中国では[[鬼神]]に施すためとされた。わが国でもむかしから陛下も散飯(サバ)をとられることが『侍中要群』『江家次第』『禁秘御抄』『建武年中行事』等にも散見できる」<ref>{{Sfnp|星野輝興『日本の祭祀』国書刊行会、|1987年</ref> }}という。}}。それが終わると、陪膳采女の奉仕で神饌が下げられ、天皇は御手水の後、綾綺殿に還御する{{r|いろは}}。
 
この後、天皇は綾綺殿で再び斎戒沐浴、更衣、神嘉殿へ渡御し、全く同じ所作を再び行う。この2度の所作をそれぞれ「夕御饌の儀」「朝御饌の儀」と呼んでおり、旧例ではそれぞれ亥刻から子刻(22時から0時)および寅刻から卯刻(4時から6時)、現在は18時から20時および23時から1時に行われている{{SfnSfnp|真弓常忠|2019|p=52}}。
 
; 豊明節会
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{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"Notelist|30em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|18em20em}}
 
== 参考文献 ==
;図書
*{{Cite book|和書|author=真弓常忠|authorlink=真弓常忠|title=大嘗祭|publisher=[[ちくま学芸文庫]]|year=2019|isbn=978-4-480-09919-8|ref= {{SfnRef|真弓}}}}
*{{Cite book|和書|author=工藤隆折口信夫|authorlink=工藤隆折口信夫|others=森田勇造 現代語訳|title=大嘗祭——天皇制と日本文化源流本義:民俗学からみた大嘗祭|publisher=[[中公新三和]]|year=20172019|isbn=978-4-1286251-102462378-6|ref= {{SfnRef|工藤}}harv}}
*{{Cite book|和書|author=真弓常忠|authorlink=真弓常忠|title=大嘗祭|publisher=[[筑摩書房]]|series=[[ちくま学芸文庫]]|year=2019|origyear=1988|isbn=978-4-480-09919-8|ref= {{SfnRef|真弓}}harv}}
*{{Cite book|和書|author=工藤隆|authorlink=工藤隆|title=大嘗祭:天皇制と日本文化の源流|publisher=[[中央公論新社]]|series=[[中公新書]]|year=2017|isbn=978-4-12-102462-6|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=松前健|authorlink=松前健|title=古代王権の神話学|publisher=[[雄山閣]]|year=2003|isbn=
4-639-01786-3|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=星野輝興|authorlink=星野輝興|title=日本の祭祀|edition=新訂版|publisher=[[国書刊行会]]|year=1987|ref=harv}}
*{{Cite book|和書|author=三品彰英|authorlink=三品彰英|title=三品彰英論文集5:古代祭政と穀霊信仰|publisher=[[平凡社]]|year=1973|ref=harv}}
;論文集
*{{Cite book|和書|author=肥後和男|authorlink=肥後和男|chapter=古代傳承と新甞|editor=にひなめ研究会|title=新嘗の研究:第2輯|year=1955|publisher=吉川弘文館|pages=1-26|ref=harv}}
;辞書類
*{{Cite book|和書|editor=[[西角井正慶]]|title=年中行事辞典|publisher=東京堂出版|year=1958|isbn=4490100167|ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
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[[Category:旧暦11月]]
[[Category:収穫祭]]
[[Category:冬の季語|しんしようさい]]