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|先代1 =大夏
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|注記 =
}}
'''クシャーナ朝'''(クシャーナちょう、{{lang-en-short|Kushan}}、{{lang-zh-short|貴霜}})は、[[中央アジア]]から[[北インド]]にかけて、[[1世紀]]から[[3世紀]]頃まで栄えた[[イラン系]]の[[王朝]]である。[[日本語]]表記は一定せず、クシャナ朝、クシャーン朝、クシャン朝、'''クシャン帝国'''とも呼ばれる。
 
== 歴史 ==
=== 大月氏 ===
[[紀元前2世紀]]、[[匈奴]]に圧迫されて移動を開始した[[遊牧民]]の[[月氏]]は、中央アジアの[[バクトリア]]に定着した。これを大月氏と呼ぶ。『[[漢書]]』西域伝によれば、大月氏は休密翕侯貴霜翕侯雙靡翕侯肸頓翕侯高附翕侯<ref group="注釈">『[[後漢書]]』西域伝では高附翕侯の代わりに都密翕侯が上げられている。</ref>の五翕侯<ref group="注釈">'''翕侯'''(きゅうこう)とはイラン系遊牧民における“諸侯”の意。烏孫などにも見受けられる。ベイリによればイラン語で“統率者”の意で、[[E.G.プーリーブランク]]によればトハラ語で“国家”の意であるという。また、のちのテュルク系国家に見られるヤブグ(葉護:官名、称号)に比定されることもある{{要出典|date=2016-07-09}}。</ref>を置いて分割統治したという。それから100余年後、五翕侯のうちの貴霜翕侯(クシャンきゅうこう)が強盛となり、他の四翕侯を滅ぼして貴霜王と称すようになった。
 
大月氏の諸侯はそれぞれコインを発行していたが、貴霜翕侯が発行したコインは他の諸侯の発行したコインに比べ数も多く、大型のコインは貴霜翕侯の物しか鋳造されなかった。
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=== クシャーナ朝の成立 ===
[[ファイル:Coin of Heraios.jpg|thumb|200px|ヘライオスのコイン。表には彼の横顔が描かれ、裏には[[ギリシャ文字]]で“ΤΥΡΑΝΝΟΥΟΤΟΣ ΗΛΟΥ - ΣΑΝΑΒ ΚΟϷϷΑΝΟΥ”「僭主ヘライオス、コシャンのサナブ」とある。]]
貴霜翕侯の存在を示す最も古い証拠は[[ヘライオス]](英語:Heraios):Heraios)と言う名の支配者が発行したコインである。これには「クシャーナ」の名と共に彼の名前が刻まれている。しかし年代の確定や解釈などについては諸説紛々たる状態であり、このクシャーナ「最初」の支配者についての具体像は全くわかっていない。[[1世紀]]初頭から半ばにかけて、貴霜翕侯は[[クジュラ・カドフィセス]](中:丘就卻)の下で他の四翕侯を全て征服して王を号したと『後漢書』西域伝には記されており、一般にこれをもってクシャーナ朝の成立と見なされる。また、クシャーナ朝は大月氏の一派であるとも<ref group="注釈">江上波夫は五翕侯を大月氏によって任命された月氏人戦士の封建諸侯であるとした{{要出典|date=2016-07-09}}。</ref>、土着のイラン系有力者であるともいわれる<ref group="注釈">榎一雄は大月氏における五翕侯を大月氏によって任命された土着有力者とした{{要出典|date=2016-07-09}}。</ref>。
 
クジュラ・カドフィセスは[[カーブル]](高附)を支配していた[[ギリシア人]]の王[[ヘルマエウス]](又はヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った。<ref group="注釈">クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ (Yavuga) という称号が刻まれている物があることから知られる{{要出典|date=2016-07-09}}。</ref>さらに濮達(ぼくたつ)と[[罽賓]](けいひん:[[ガンダーラ]]?)を征服し[[パルティア]]領([[インド・パルティア王国]])の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王[[ゴンドファルネス]]であったが、クジュラ・カドフィセスは彼と争ったか、もしくは彼の死([[50年]]頃?)による同王国の弱体化に乗じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ・カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド・パルティア王が発行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ・カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後継者[[アブダガセス1世]]などがほぼ同時代を生きていたのは確実である。
 
クジュラ・カドフィセスは[[カーブル]](高附)を支配していた[[ギリシア人]]の王[[ヘルマエウス]](またはヘルマイオス)と同盟を結び共同統治者となったが、やがてヘルマエウスを倒してカブールの支配権を単独で握った<ref group="注釈">クジュラ・カドフィセスによるカブール支配の確立は、彼が翕侯の地位についた後の出来事である。それはクジュラ・カドフィセスがヘルマエウスと共同で発行したコインの中にヤヴガ (Yavuga) という称号が刻まれている物があることから知られる{{要出典|date=2016-07-09}}。</ref>さらに濮達(ぼくたつ)と[[罽賓]](けいひん:[[ガンダーラ]]?)を征服し[[パルティア]]領([[インド・パルティア王国]])の一部をも征服した。当時この地域で勢力を持っていたのはインド・パルティア王国の王[[ゴンドファルネス]]であったが、クジュラ・カドフィセスは彼と争ったか、もしくは彼の死([[50年]]頃?)による同王国の弱体化に乗じてその領土の征服を行ったと言われている。いずれにせよ、クジュラ・カドフィセスのコインにはゴンドファルネスなどインド・パルティア王が発行したコインに重ねて打刻したものが見られることから、クジュラ・カドフィセスとゴンドファルネスや、彼の後継者[[アブダガセス1世]]などがほぼ同時代を生きていたのは確実である。
クジュラ・カドフィセスの子[[ヴィマ・タクト]]と、ヴィマ・タクトの子[[ヴィマ・カドフィセス]]は、北西インドの征服に成功した(北西インド征服時にはまだクジュラ・カドフィセスが生きていたという説もある)。最近の研究では、ヴィマ・タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そして[[バクトリア]]北部がクシャーナ朝の支配下に入ったといわれている。ヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスは北側からバクトリアに通じる交通の要衝に関門と要塞を多数構築し、大国としてのクシャーナ朝の基盤を構築した。そしてバクトリア地方の防御のためにカラルラングと呼ばれる特殊な地位を持った総督が配置された。また『後漢書』によれば北西インドの統治のために将軍が置かれたとあるが、この将軍とは後に[[西クシャトラパ]]をはじめとした独立勢力を構築することになる[[クシャトラパ]]であると考えられる。
 
クジュラ・カドフィセスの子[[ヴィマ・タクト]]と、ヴィマ・タクトの子[[ヴィマ・カドフィセス]]は、北西インドの征服に成功した(北西インド征服時にはまだクジュラ・カドフィセスが生きていたという説もある)。最近の研究では、ヴィマ・タクトの時代に、北西インドと中央インドの一部、そして[[バクトリア]]北部がクシャーナ朝の支配下に入ったといわれている。ヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスは北側からバクトリアに通じる交通の要衝に関門と要塞を多数構築し、大国としてのクシャーナ朝の基盤を構築した。そしてバクトリア地方の防御のためにカラルラングと呼ばれる特殊な地位を持った総督が配置された。また[[後漢書]]』によれば、クシャーナ朝は北西インドの統治のために将軍が置かれたとあるが、この将軍とは後に[[西クシャトラパ]]をはじめとした独立勢力を構築することになる[[クシャトラパ]]であると考えられる。
またヴィマ・タクトは[[西域]]進出も試み、[[90年]]に[[後漢]]の[[班超]]を攻めたが、撃退され失敗に終わった。これ以降、クシャーナ朝は後漢に毎年貢献するようになる。
 
ヴィマ・タクトはその支配領域に統一したコインを発行した。彼のコインには[[ギリシア語]]で「ソテル・メガス(偉大なる救済者)」と言う称号が刻まれている。クジュラ・カドフィセスのコインが各地の古い支配者が発行したコインをまねたものであったのに対し、ヴィマ・タクトによる新式のコイン導入は一体性を持った帝国としてのクシャーナ朝が確立していったことを暗示する。
 
=== カニシカ王と後継者 ===
[[画像:Kushan Empire 200 ad.jpg|thumb|400px|200年頃のクシャーナ朝]]
ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、[[#王朝交代説|王朝交代説]]を参照)[[カニシカ1世]]の時([[2世紀]]半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都が[[プルシャプラ]](現: [[ペシャーワル]])におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。
{{see|カニシカ1世}}
ヴィマ・カドフィセスの息子(異説あり、[[#王朝交代説|王朝交代説]]を参照)[[カニシカ1世]]の時([[2世紀]]半ば)、クシャーナ朝は全盛期を迎えた。都が[[プルシャプラ]](現: 在の[[ペシャーワル]])におかれ、独自の暦(カニシカ紀元)が制定された。
 
カニシカはインドの更に東へと進み、[[パータリプトラ]]や[[ネパール]]の[[カトマンズ]]の近辺にまで勢力を拡大した。また、カニシカの発行したコインは[[ベンガル地方]]からも発見されているが、これを征服の痕跡と見なせるかどうかは定かではない。ともかくも、こうしたインド方面での勢力拡大にあわせ、[[ガンジス川]]上流の都市[[マトゥラー]]が副都と言える政治的位置づけを得た。
 
カニシカはその治世の間に[[仏教]]に帰依するようになり、これを厚く保護した。このためクシャーナ朝の支配した領域、特にガンダーラなどを中心に仏教美術の黄金時代が形成された([[ガンダーラ#ガンダーラ美術|ガンダーラ美術]])。この時代に史上初めて[[仏像]]も登場している。
 
{{クシャーナ朝の君主}}
 
軍事的にも文化的にも隆盛を誇ったカニシカ王の跡を継いだのは、おそらくカニシカの息子であろうと言われている[[ヴァーシシカ]]王である。しかし、ヴァーシシカ王以後、クシャーナ朝に関する記録は極めて乏しい。ヴァーシシカは最低でも4年間は王位にあったことが碑文の記録からわかるが、その治世がいつ頃まで続いたのか全くわかっていない。
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ヴァーシシカに続いて、やはりカニシカ王の息子であると考えられている[[フヴィシカ]]が王位についた。フヴィシカ王は40年前後にわたって王位にあったことが知られている。フヴィシカに関する碑文などがかなり広範囲から見つかっており、カニシカ王の死後は記録が乏しいとはいえ、クシャーナ朝自体は強勢を維持していたと考えられる。
 
[[3世紀]]頃、フヴィシカの跡を継いで[[ヴァースデーヴァ]](バゾデオス、ΒΑΖΟΔΗΟΣ、{{Lang-zh-short|波調}})が王位についた。彼の治世に、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]に使者を派遣した記録が残されている。ヴァースデーヴァというインド風の王名は、この時期のクシャーナ朝が極めて強くインド化していたことを示す。貨幣などの図案にも、インド土着の様式が強く現れるようになっている。
 
ヴァースデーヴァは[[サーサーン朝]]の王[[シャープール1世]]と戦って完全な敗北を喫した。以後クシャーナ朝はインドにおける支配権を失い、残された領土はサーサーン朝に次々と制圧された。クシャーナ朝はなおもカブール王として存続していたが、[[バハラヴァスデーヴァ2世]]([[276年]] - [[293年]])の時代にはサーサーン朝の支配下に置かれるようになった。
 
クシャーナ朝の旧領土はサーサーン朝の支配下においては「クシャーン・シャー」(クシャーナ王)と称するサーサーン朝の王族によって統治された。これは通例'''[[クシャーノ・サーサーン朝]]'''(クシャノササン朝)と呼ばれる。クシャーノ・サーサーン朝が発行したコインなどはサーサーン朝様式よりもクシャーナ朝の様式に近く、おそらくは多くの面においてクシャーナ朝の要素を継承したと考えられる。このようにクシャーナ朝の権威は滅亡した後も長く現地に残ったのであった。
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例えばカニシカ王の残した碑文の中には「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」と記す物がある。これはカニシカが使用した称号を羅列したものであるが、
* シャーヒ(Shahi)は月氏で昔から用いられた王の称号である。
* ムローダ(Muroda)は[[サカ|サカ人]]たちの首長を表す語である。
* [[ラージャ|マハーラージャ]](Maharaja)はインドで広く使われた称号であり大王を意味する。
* ラージャティラージャ(Rajatiraja)は「[[諸王の王]]」([[シャーハンシャー]])という[[イラン]]地方の伝統的な帝王の称号を[[サンスクリット語]]に訳したものである。
* デーヴァプトラ(Devaputra)はデーヴァ(神、漢訳では天と訳される)とプトラ(子)の合成語であって中華皇帝が用いた称号「天子」をサンスクリット語に訳したものである。
* カイサラ(Kaisara)は[[ラテン語]]の[[カエサル (称号)|カエサル]](Caesar)から来たもので、[[ローマ帝国|ローマ]]皇帝の称号の一つである。
カニシカ王に限らず、クシャーナ朝の王たちは世界各地の王の称号を合わせて名乗ることを好んだ。
 
近年、アフガニスタンで発見されたダシュテ・ナーウル碑文や[[ラバータク碑文]]などの[[バクトリア語]]資料において、ヴィマ・タクトやカニシカは {{lang|xbc|ÞΑΟΝΑΝΟ ÞΑΟ}} (シャーウナーヌ・シャーウ)と称しており、[[アケメネス朝]]や[[アルサケス朝]][[サーサーン朝]]など他のイラン系の王朝と同じく、「諸王({{lang|xbc|ÞΑΟΝΑΝΟ}} シャーウナーヌ)」の「王({{lang|xbc|ÞΑΟ}} シャーウ)」([[シャー#アラム語形・中期イラン語での例|シャーハーン・シャー]])を名乗っていたことも判明している。
 
=== 美術 ===
[[カニシカ]]王のとき、あつく仏教を保護したため、仏教芸術が発達した(ただし、王家の間ではゾロアスター教などイランの宗教も崇拝されていた)。プルシャプラを中心とする[[ガンダーラ]]で興ったため、[[ガンダーラ#ガンダーラ美術|ガンダーラ美術]]と呼ばれる。
 
この隆盛を極めたガンダーラ美術の成果の中でも最も重要なものは[[仏像]]の登場である。従来の仏教美術において[[仏陀]]の姿を表現することは意識的に回避されてきた。仏教説話を表現する際、仏陀は[[法輪]]や[[仏塔]][[仏足跡]]などで象徴的に表されるだけであったが、クシャーナ朝支配下のガンダーラとマトゥラーにおいてついに、仏陀を人間の姿で表す仏像が誕生したのである。マトゥラーではガンダーラの仏像とはやや赴きを異にする仏像が多数制作されている。
 
ガンダーラやマトゥラーなど、当時クシャーナ朝が支配した領域で広く仏像が制作され始めたことは、仏像の誕生にクシャーナ人自体も深く関わっていたことを示唆する。なお、ガンダーラとマトゥラーのどちらで先に仏像の制作が始まったのかはわかっていない。
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特に、[[ラバータク碑文]]は1200字余20数行に渡る現存ではもっとも長いバクトリア語碑文で、クジュラ・カドフィセス、ヴィマ・タクト、ヴィマ・カドフィセス、カニシカに至る4代の王名が列挙され、カニシカの命令が、{{quotation|「ギリシア語の勅命を発してその後(治世の極初期に)アーリア語(バクトリア語)にした、カニシカの統治第1年にインドの[[クシャトリア]]の王国の全てに布告した。(中略)[[カウシャーンビー]]や[[パータリプトラ]]、スリー・チャンパーまで偉大なる支配者と他の者たちの意図の内に置いた」}}と、クシャーン朝の制度やこの時代のインド史を知る上で極めて重要な内容が書かれている。また、碑文の書式も[[アケメネス朝]]の古代ペルシア語による王碑文やサーサーン朝の王碑文などとの共通性が指摘されている。
 
=== 碑文 ===
*『[[ダシュティ・ナウル碑文]]』(ギリシア語バクトリア語未知の言語)…ヴィマ・タクトゥの戦勝記念碑。1967年フランス隊が確認・解読。
*『[[ディルベルジン碑文]]』(ギリシア文字/バクトリア語)…ヴィマ・タクトゥもしくはヴィマ・カドフィセスによる鑿井記念碑。1969年以降のソ連・アフガニスタン調査隊による発見。
*『[[スルフ・コタル碑文]]SK-1』(ギリシア文字/バクトリア語)…カニシュカによる神殿建立記念碑。1952年 - 1965年フランス隊調査による発見。
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クシャーナ朝の領土は、同時代に中央インドで繁栄を迎えてきた[[サータヴァーハナ朝]]などと同じく交易によって繁栄を迎えていた。かつてクシャーナ朝が北西インドを征服する以前、この地域の貨幣経済は衰退期を迎えていた。原因は知られていないが、北西インドでは[[銀]]が不足し、インド・パルティア人やサカ人の諸王朝が発行する銀貨は極度に品質の悪いものとなっていた。
 
しかし、クシャーナ朝が北西インドを支配した時代、すなわちヴィマ・タクトとヴィマ・カドフィセスの治世以降、彼らは盛んに金貨と銅貨を発行し、特に北西インドで作られた金貨は質・流通量ともに向上した。ローマやインドの商人によってローマやインドへ向けて[[絹]]・[[香料]]・[[宝石]]・[[染料]]などが輸出された。これらの商品はローマでは原価の百倍もの価格で売れ、代金として金がクシャーナ朝にもたらされた<ref group="注釈">[[プリニウス]]は当時インド人がローマの金を年間5千万[[セステルティウス]]持ち去っていると記しているが、これにはクシャーナ朝にもたらされた分も含まれているであろう{{要出典|date=2016-07-09}}。</ref>
 
クシャーナ朝にとってローマとの貿易がいかに重要なものであったかは、彼らが発行した金貨の単位からもわかる。クシャーナ朝は金貨の単位をローマの金貨単位にリンクさせており、その金貨は正確にローマの2[[アウレウス]]分の重量を持っていた。さらにローマの[[デナリウス]]はディーナーラとして、その通貨単位がクシャーナ朝に取り入れられた。
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これはカニシカ以後、「カドフィセス」から「イシカ」系列に王名が切り替わっていることや、カニシカが独自の暦を定めていること、両カドフィセス王時代のコインでは[[ギリシア語]]の称号を[[ギリシア文字]]で、[[プラークリット語]]の称号を[[カローシュティー文字]]で、併記する様式であったのに対し、カニシカ王以後は[[バクトリア語]]の称号をギリシア文字で記したものに変化していることなどを根拠としている。
 
これとあわせて、[[チベット]]の伝説に[[ホータン]]の王子[[ヴィジャヤキールティ]]が「カニカ」(Kanika)王とグザン(Guzan, おそらくはクシャン、クシャーナ)王とともにインド遠征を行ったというものがあること。漢訳仏典の中にカニシカがホータン出身であると解せるものがある。このことからカニシカが[[小月氏]]の出身であるとする説もある。
 
ところが近年新たにカニシカ王の碑文が解読され、クシャーナ朝の歴史について多くの新事実が明らかとなった。この碑文は[[1993年]]に[[アフガニスタン]]の[[ラバータク]]で偶然発見されたもので、[[バクトリア語]]で記された1200字あまりの文書であり、クシャーナ朝時代のものとしては最も長文の記録の1つである([[ラバータク碑文]])。内容はこの地方のカラルラッゴ(総督)であったシャファロに対して、カニシカ王の祖先の彫像を納める神殿を建設することを命じたことが記録されたものであった。この結果、カニシカ王とそれ以前の王との間に血縁があったことが判明した。
 
この碑文の解読によって、祖父クジュラ・カドフィセス、祖父ヴィマ・タクト、父ヴィマ・カドフィセス、そして碑文を作らせたカニシカの4名4世代の王統が判明した。特にヴィマ・タクト<ref group="注釈">{{Refnest|ヴィマ・タクト (Vima takto) の名前は碑文の摩滅によって正確にはわからず、名前の最後を「to」と読む説は確定的ではない{{要出典sfn|date山崎|2007|p=2016-07-09139}}。</ref>|group=注釈}}は従来全く知られていない王であったが、彼の存在が明らかになったことによって初期クシャーナ朝の歴史に本質的な修正がもたらされた。これまでクシャーナ朝時代に発行されたコインの中で、ソテル・メガスという称号のみが記されたタイプの物がクジュラ・カドフィセスによるものか、ヴィマ・カドフィセスによるものかが論じられてきたが、その多くはヴィマ・タクトのものであると考えられるようになり、クシャーナ朝の大幅な勢力拡大が彼の時代に行われた可能性も考えられている。
 
=== 大月氏とクシャーナ朝 ===
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中国ではクシャーナ朝が権力を握った後も、その王を大月氏王と呼び続けた。『後漢書』には以下のようにある。
{{quotation|
月氏自此之後,最爲富盛,諸國稱之皆曰貴霜王。漢本其故號,言大月氏云。<br />
 
(クジュラ・カドフィセスのインド征服)以後、月氏は最も富み盛んとなった。諸国は彼をクシャーナ王と呼んでいる。漢では古い号を用いて大月氏と呼んでいる。
|後漢書}}
 
また、[[中国]]の三国時代にヴァースデーヴァ1世(波調)が[[魏 (三国)|魏]]に使節を派遣した際、魏はヴァースデーヴァに対し、「親魏大月氏王」の[[金印]]を贈っている。これは[[倭国]]の王[[卑弥呼]]に対するものと並んで、魏の時代に外国に送られた金印の例であることから比較的よく知られているが、3世紀に入っても中国ではクシャーナ朝が大月氏と呼ばれていたことを示すものである。
 
しかし、大月氏とクシャーナ朝を同一のものと見なしていいかどうかにはさまざまな立場がある。[[ソグディアナ]]や[[ホラズム]]地方の大月氏系諸侯は、クシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られており、これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した痕跡は現在まで一切発見されていない。
 
== 歴代王 ==
 
# [[クジュラ・カドフィセス]](カドフィセス1世 - [[80年]]頃、『[[後漢書]]』によれば80歳以上まで生きた)
# [[ヴィマ・タクト]]([[1世紀]]後半)
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# [[カニシカ2世]]([[3世紀]]前半、一時ヴァースデーヴァと共同統治?)
→[[サーサーン朝]]の征服
 
 
== 脚注 ==
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{{reflist|group="注釈"}}
=== 出典 ===
<references />
 
== 参考文献 ==
213 ⟶ 219行目:
** のち改版。小谷仲男 『大月氏 中央アジアに謎の民族を尋ねて 新装版』 東方書店、〈東方選書 38〉、2010年3月。ISBN 978-4-497-21005-0。
{{参照方法|date=2016年7月9日 (土) 01:57 (UTC)}}
* {{Cite book |和書 |author=[[加藤九祚]]|authorlink=加藤九祚 |title=アイハヌム 加藤九祚一人雑誌 2002 |publisher=[[東海大学出版部|東海大学出版会]] |date=2002-09 |isbn=978-4-486-03162-8 |ref= }}<!--2006年5月27日 (土) 11:37 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=加藤九祚 |title=アイハヌム 加藤九祚一人雑誌 2003 |publisher=東海大学出版会 |date=2003-11 |isbn=978-4-486-03167-3 |ref= }}<!--2006年5月27日 (土) 11:37 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=[[中村元|authorlink=中村元 (哲学者)|中村元]] |title=中村元選集 決定版 第7巻 インド史III |publisher=[[春秋社]] |date=1998-04 |isbn=978-4-393-31207-0 |ref= }}<!--2006年5月27日 (土) 11:37 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |last=フォーヘルサング |first=ヴィレム |authorlink=:en:Willem Vogelsang |others=[[前田耕作]]・山内和也監訳 |title=アフガニスタンの歴史と文化 |publisher=[[明石書店]] |series=世界歴史叢書 |date=2005-04 |isbn=978-4-7503-2070-0 |ref= }}<!--2006年10月10日 (火) 14:06 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=前田耕作、NHK「文明の道」プロジェクトほか |title=NHKスペシャル 文明の道 2 ヘレニズムと仏教 |publisher=[[NHK出版]] |date=2003-07 |isbn=978-4-14-080776-7 |ref= }}<!--2006年5月27日 (土) 11:37 (UTC)-->
* {{Cite book |和書 |author=[[山崎元一]]|authorlink=山崎元一 |title=世界の歴史 3 古代インドの文明と社会 |publisher=[[中央公論新社|中央公論社]] |date=1997-02 |isbn=978-4-12-403403-5 |ref= }}<!--2006年5月27日 (土) 11:37 (UTC)-->
* {{Cite book|和書|title=世界歴史大系 南アジア史1 ─先史・古代─|date=2007-06-10|year=2007|publisher=[[山川出版社]]|volume=1|isbn=978-4634462083|editor=山崎元一・[[小西正捷]]|ref={{SfnRef|山崎|2007}}}}<!--~~~~~-->
 
== 関連項目 ==
229 ⟶ 236行目:
* [[西クシャトラパ]]
* [[仏教のシルクロード伝播]]
* {{仮リンク|キダーラ|en|Kidarites|label=[[キダーラ朝}}]]
<!--関連項目は、[[Wikipedia:関連項目]]をご覧の上で追加して下さい-->