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{{出典の明記|date=2011年3月}}
'''{{lang|en|TRON}}プロジェクト'''(トロンプロジェクト)は、[[坂村健]]による、[[リアルタイムオペレーティングシステム
== 概要 ==
[[File:Full-scale model of Hayabusa 2, JAXA 02.jpg|thumb|right|TRON系OS(T-Kernel 2.0)で制御される小惑星探査機「[[はやぶさ2]]」(2014年打ち上げ、2020年に地球へサンプル帰還後、2031年7月に別の小惑星を調査予定)TRONプロジェクトはリアルタイム制御が必要な場所で使われている、組込み向けのリアルタイムオペレーティングシステム(RTOS)の策定を中核とする]]
{{lang|en|'''TRON'''}}とは、「'''T'''he '''R'''eal-time '''O'''perating system '''N'''ucleus」(リアルタイムオペレーティングシステム核)の[[頭字語]]である。[[組み込みシステム|組み込み]]向けの
TRONプロジェクトの中心人物である坂村健は、TRONプロジェクトが開始した1984年頃より、リアルタイムカーネル(組み込み向け)の[[ITRON]]と、より大きなシステム(パソコン向け)の[[BTRON]]、それらを統合するシステムである[[MTRON]]、といったロードマップを示していたが{{efn|先頭のアルファベットを並べると「[[IBM]]」ではないか、という冗談があった。後にCTRONが加わり「[[大陸間弾道ミサイル|ICBM]]」と、より物騒になった、というオチが付く。}}、1987年に発表した論文『The Objectives of the TRON Project』<ref>The Objectives of the TRON Project {{doi|10.1007/978-4-431-68069-7_1}}</ref>において、HFDS(Highly Functionally Distributed System、超機能分散システム)と言う構想を発表。未来の地球人類社会では、[[日常生活]]のあらゆる部分([[電球]]1個、壁パネル1枚)にまで[[マイクロコンピュータ|マイコン]]が入り込み何らかの形で人間と関わりを持つようになると予想し、それらのコンピュータをそれぞれの機器別にバラバラに扱うのではなく、標準によってうまく連携させるのだという未来像が提示され、TRONはその実現に向け準備するプロジェクトだ、と規定された<ref>坂村健「TRONの目指すもの」、『TRONプロジェクト'87-'88』pp. 3~19</ref>。すなわち、μITRON3.0仕様書の言葉を借りれば「コンピュータ組み込み機器をネットワーク接続し、それらに積極的に環境を演出させる」という「電脳強化環境
1980年代にTRONプロジェクトの中核とされたサブプロジェクトのうち、組み込み向け
坂村は2015年、身の回りのあらゆるものがローカルのネットワークでつながる「ユビキタスコンピューティング」の次の段階として、身の回りのあらゆるものが[[クラウドコンピューティング]]を通じてつながるという「アグリゲート・コンピューティング」という構想を発表<ref>『IoTとは何か 技術革新から社会革新へ』坂村健、KADOKAWA、2016年</ref>。TRONは2010年代以降の[[IoT]]時代においても、IoTを実現する様々なデバイスを制御するための組み込み用リアルタイムOSの一つとなるべく、クラウドソリューションの[[Microsoft Azure]]を提供する日本マイクロソフト社とも連携しながら、開発が行われている。
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== サブプロジェクト ==
[[File:Samsung NX1.jpg|thumb|260px|TRON系OSを搭載した韓国サムスンのカメラ、Samsung NX1<ref>[http://30th.tron.org/products.html]</ref>
「TRONプロジェクト」とは、OSの開発だけでなく、ハードウェアやインターフェースの開発も含めた様々なサブプロジェクトを総称するための名称であり、その下に様々なサブプロジェクトが存在する。
1984年に坂村が開始し、1986年発足のTRON協議会(1988年に「トロン協会」に改称)が中心となって推進した初期のTRONプロジェクトにおいては、組み込み向けOSの「'''ITRON'''」、ビジネス向け(現代で言うパソコン向け)OSの「'''BTRON'''」、メインフレーム向け(現代で言うサーバー向け)OSの「'''CTRON'''」、TRONにおけるヒューマンインターフェイスをデザインする「'''トロン電子機器HMI研究会'''」、TRON構想を実現するためのハードウェアを策定する「'''トロンチップ'''」、これらを統括する(現代で言う[[分散コンピューティング]]に相当する)「'''MTRON'''」、の6つが主なプロジェクトとされていた。
「ITRON」プロジェクトの成功を受け、坂村は2000年に開かれたトロン協会の第12回通常総会において、TRONプロジェクトが第2ステージに入ったことを宣言。ITRONの標準化を進めた「μITRON4.0」を継承し、組み込みシステムの高性能化・高機能化に対応した、OSのより強い標準化を進めるため、2001年に次世代のTRONプロジェクト「T-Engineプロジェクト」が発足。2002年発足のT-Engineフォーラムが推進する初期のT-Engineプロジェクトおいては、コミュニケーションマシン(携帯情報端末、携帯電話など)向けの「BTRON3」、旧世代のOSながら依然として広く使われる「μITRON4.0」、などの従来からのサブプロジェクトに加えて、BTRON3で使われるファイル形式の「'''TAD'''
2011年、T-Kernel2.0の発表と同時にT-Engineプロジェクトの「Step2」が宣言され、それ以前のT-Engineプロジェクトが「Step1」、μITRON4.0が「Step0」と位置付けられた。2015年にT-Engineフォーラムは「トロンフォーラム」と改称され、IoT時代を見据えてTRON本来の役割に立ち返るべく、再び各種のサブプロジェクトの構想が活発化している。
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== TRONプロジェクト第1ステージ ==
[[ファイル:KL NEC V30.jpg|thumb|260px|NEC
坂村健が1984年に開始した、初期のTRONプロジェクトである。1986年発足のTRON協議会(1988年に社団法人トロン協会に改称)が中心となって推進していた。
=== ITRON(μITRON)===
[[File:Toyota Land Cruiser Prado 90 005.JPG |thumb|260px|車載用μITRONを史上初めて採用した[[トヨタ・ランドクルーザープラド]] 3.4
[[組み込みシステム]]向け(を重視した
1982年より、日本電子工業振興協会・マイクロコンピュータ技術委員会・OS分科会において、日本の電機各社とともに日本のマイコン開発をどう進めるかを議論していた中で、主査であった坂村健(当時は東京大学理学部情報科学科助手)が構想したものが、形となったものである。「まず基盤となるリアルタイムOSを含む開発環境整備から進め、その後、そのOSが最も効率よく動くチップを作ろう」<ref>[http://30th.tron.org/tp30-02.html TRON PROJECT 30th Anniversary]</ref>と言うことで、まず最初にITRONプロジェクトが開始された。
マイクロコンピュータ技術委員会に参加していたメンバーのうち、[[門田浩]](当時NECの集積回路事業部、退社後に組み込みシステム技術協会専務理事)と[[桑田薫]]
1984年当時、日本の組み込みシステムはOSを搭載しておらず、そのためITRONの当時のライバルは「他のリアルタイムOS」ではなく「OSを利用していない組み込みシステム」であった<ref>[https://monoist.itmedia.co.jp/mn/articles/0511/10/news123_2.html ITRON(API)からT-Engine(インフラ)へ (2/4)] - MONOist(モノイスト)</ref>。OSを搭載しないシステムと比較して、OSを搭載することでどうしても発生してしまうオーバーヘッドを最小限に減らし、OSの導入による標準化によって生じるソフトウェアの互換性や保守性の面でのメリットが上回るように、「弱い標準化」の方針で仕様の設計が行われた。
1987年5月に
1989年にはITRON1仕様に機能の追加やITRON2相互間の互換性強化などを施した
ITRON2仕様においては、ITRON間の互換性やアプリケーションプログラムの移植性が高められ、またITRON仕様とBTRON・CTRONとの整合性が強化された。ただし、μITRON仕様が非常に広く普及したのに対して、ITRON2仕様はほとんど利用例が無く、失敗に終わったといえる。
μITRON仕様の基本方針に関して、1989年当時、様々な汎用の
坂村の考えは成功し、μITRON3.0仕様が策定された1993年の時点で、ほとんどすべての日本メーカー製
1994年よりトヨタ社が車載用OSの候補としてITRONを検討し始め、1997年にはITRON専門委員会の下にRTOS自動車応用技術委員会が設立され、1999年にはITRONを搭載した初の自動車、[[トヨタ・ランドクルーザープラド]]が発売された。この頃には、民生用機器においては、デジタル家電で広く使用されていた他、1990年代後半から2000代前半にかけて普及した[[フィーチャー
組み込み機器の機能の高度化や複雑化・大規模化に対応するため、2001年に「より強い標準化」を目指したT-Engineプロジェクトが開始され、ITRONプロジェクトは終了した。しかし「リアルタイム性、リソースを浪費しないコンパクトさ、柔軟な仕様適合性、オープンアーキテクチャポリシー」<ref>『ITRON4.0仕様書』Ver. 4.03.03、p.i</ref>が強く支持され、その後も小規模システムにおいてはμITRONが広く使われている。
なお、μITRON4.0の仕様策定の中心人物であり、坂村健の監修のもとでμITRON4.0の仕様書を編纂した東大坂村研究室出身の[[高田広章]]は、T-Engineプロジェクトに移行せず、μITRON4.0仕様に準拠した「TOPPERS/JSPカーネル」をベースとする[[TOPPERSプロジェクト]]を独自に立ち上げた。
=== BTRON ===
[[ファイル:TRON-keyboard-PMC-TK1-up.jpg|thumb|260px|沖電気が1986年に試作した物をベースに、パーソナルメディア社が完成させたTRONキーボード、TK-
「{{lang|en|Business TRON}}」の略。OA機器(オフィスなどでビジネス用に使われることが想定されるコンピューターで、現代で言うパソコンに相当する)向けのOSの仕様で、1985年に開発がスタートした。ちなみに「BTRON」とはOSの名称ではなく、仕様の名称であり、BTRON仕様に準拠したOSが各社からリリースされることが想定される。
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1985年、文部省は「教育方法開発特別設備補助」5か年計画において、学校へのコンピューター導入のために初めて予算を計上した(初年度は20億円。年々増加し、自治体からの補助金も入れるとかなり巨額の補助金が出る)。同じころ、通商産業省も[[ソフトウェア危機]]に対応するために予算を計上し、またメーカーに働きかけを行った。1986年より、学校教育へのコンピュータの導入を目指して通商産業省と文部省が設立したCEC(セック、財団法人コンピュータ教育開発センター)によって、日本の教育用パソコンのOSの標準化を図るため、BTRON仕様OSが日本の学校教育における標準OSとして検討された。1987年当時、NEC以外のメーカーはパソコンのシェアが非常に少なかったので、CECの策定した「CECマシン」を作って当時全国に約3万5千校存在した小中学校において国費で確保された教育パソコン市場を取ることでNECの牙城を崩すべく、1987年9月までに、CECに加盟する日本の大手家電メーカーのうち、NECを除く11社がBTRONの採用に賛同した。教育用パソコンも含めて1987年当時の日本のパソコン市場をほぼ独占していたNECは、当時は[[PC-8801]]シリーズから[[PC-9801]]シリーズへの移行期にあたり、[[N88-BASIC]]での動作を前提とする8ビット機のPC-8801に代わってMS-DOSの搭載を前提とする16ビット次世代機のPC-9801シリーズの普及を推進していたので、NECだけは最後まで渋ったが、半年以上ゴネた末にBTRONとMS-DOSのダブルOSを許可することで説得に応じ、日本の教育市場で使用されるパソコン「CECマシン」においてBTRON仕様のOSを採用することで1989年3月に正式決定。'87、'88、'89、と次第に仕様が固められたCECマシン仕様においては、トロンキーボードは不採用となるなど、CECマシンは坂村が当初構想していた「コミュニケーションマシン」としてのBTRONマシンとは異なる、普通のパソコンとなっていった。
BTRON仕様OSの開発に当たっては、BTRONプロジェクト開始当初よりNECに強力な対抗意識を燃やす[[松下電器産業]]が参画し、早川茂専務の即断で200人体制でBTRON仕様の開発に当たらせるなど、松下を中心とする反NEC陣営による強力な開発体制が敷かれた。BTRON1仕様OSは、[[櫛木好明]](当時は松下電器産業情報システム研究所長、後に松下電器常務取締役)率いる松下電器産業中央研究所(大阪府門真市)の情報システム研究所が中心となって開発され、現場は真弓和昭(当時は松下電器産業情報システム研究所次長、退職後に大阪産業大学客員教授)が主導した<ref>[https://30th.tron.org/tp30-05.html TRON PROJECT 30th Anniversary] TRON Forum</ref>。松下は1987年3月に試作機を公開(この段階ではBTRONの仕様・実装共に未完成であった)、CECマシンの仕様が固まるにつれて、1988年には[[Intel 80286]]での動作を前提とするBTRON/286 1.1を発表(このBTRON/286仕様がBTRON1仕様となる)、松下は1989年3月にはついにCECマシンの実用機を完成させた。CECマシンのOSであるBTRON仕様OSは、松下が他の11社にライセンスする形式で(BTRON仕様OSは誰でも開発できるとの建前だったが、実際は松下1社のみが供給した。「CECへの納入品のみに搭載できる」という条件で、松下は自社で開発したOSを各社に有料で貸し出した)、同年中にはCECに加盟するAX陣営(「反NEC陣営」から「FMR陣営」の富士通と松下を除いたもの)の共同により、AX陣営の各社が製造した[[AX]]アーキテクチャのパソコンにもBTRON仕様OSが移植され、1989年10月に[[東京国際見本市会場]]で開催された[[CEATEC|データショウ]]'89では、松下の策定したBTRON1.2仕様OSを搭載した、様々なBTRONマシンの試作品が展示された(なお、データショウ'89の目玉は、PC-98シリーズの新フラッグシップ[[PC-H98]]およびPC-98シリーズ初のラップトップパソコン「[[98NOTE]]」や、Mac初のラップトップパソコン[[Macintosh Portable]]であり、TRONは全く注目されなかった。TRON陣営にしても、例えば東芝は当時世界シェア1位のPC/AT互換ラップトップパソコン[[DynaBook]]の展示の方に力を入れていた)。
しかし1988年、[[アメリカ合衆国通商代表部]](USTR)によって「政府調達のOSを松下に限定するのは不公正である」との指摘を受け(この時は日本側は「BTRON仕様OSは誰でも開発できる」と釈明し、USTRは誤解を解いた)、さらに1989年4月、USTRが発表した「貿易障壁年次報告」においてBTRONが取り上げられ、[[スーパー301条]]に基づく制裁の候補とされるなど、[[日米貿易摩擦]]を背景とした米国からの圧力にさらされた。1989年5月にトロン協会がUSTRに対して「誤解だ」と抗議文を送り、同月中にUSTRは誤解を解いて、この時はトロンはスーパー301条対象品目から外された。なお、スーパー301条とは、市場における不公正な取引慣行に対して撤廃を求めて米国が対象国との交渉を行い、もし撤廃されなければ高額な関税などの制裁を課すというもので、「日本の教育市場における教育用パソコンについて、使用するOSを市場自身が選定するのではなく、日本の政府系機関であるCECが(マイクロソフト社のMS-DOSなどBTRON以外のOSを締め出す形で)選定するのは不公正である」と言う趣旨が協会抗議文への返書に書かれてあったとのこと。
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しかしこれを機に、NECがCECに対してBTRONの不採用を要求。6月、CECはBTRON仕様による統一を断念。この経緯を『[[日経コンピュータ]]』誌(1989年8月28日号)が「BTRONベースの教育用PC、標準化は事実上不可能に」と報じるなど、「BTRON採用断念」を同時期のマスコミが盛んに報じた。ただしこの時点では、OSの仕様の統一は断念されたと言っても、ほとんどのメーカーはCECマシンのOSとしてBTRON仕様OSを採用していたが、1990年3月にアメリカ合衆国通商代表部が発表した貿易障壁年次報告においても、再びBTRONが取り上げられた。
その結果(経緯の詳細は[[BTRON#通商問題]]を参照)、小学校への導入は当初の予定どおりには実現しなかった。BTRONプロジェクトに賛同したパソコンメーカーは、BTRONに教育用パソコンとしての目があるということだったので「ある程度の出費はしかたない」(東芝におけるBTRON仕様開発の中心人物としてNHK「トロン誕生」にも出演した元東芝基本ソフトウェア第2部主幹の小田一博の回想<ref>[https://odakz1941.web.fc2.com/s16.htm TRONプロジェクト]</ref>)と考えてBTRONプロジェクトに参加していたが、もはやBTRON採用の目がなくなったので、みなBTRONプロジェクトから手を引いた。1989年2月にはBTRON仕様OS対応ソフトウェア開発の協力のために、松下を中心としてBTRONソフトウェア懇談会が発足していたが、1990年には富士通を始めとするメーカーがBTRONソフトウェア懇談会から次々と脱会。富士通は元々は松下と並ぶBTRON陣営の中核企業として、1987年にパソコン開発において松下と提携していたが、同年中には「CECマシンの仕様を見極められない」として、MS-DOSを搭載した自社独自規格の[[FMRシリーズ]]を教育市場向けに発売し、1989年時点では教育市場でそれなりのシェアを持っていたので、既に「CECマシン」を開発する意味はなかった。さらに富士通は、FMRシリーズの次世代機として1989年2月に[[FM-TOWNS]]を発売していたが、にもかかわらず「反NEC」と言うだけで1990年までBTRONソフトウェア懇談会に参画していた<ref>
松下電器産業のBTRONの開発部隊は松下グループで教育機器を作っていた[[松下通信工業]]に移ってBTRONの開発を続行した。1990年9月、松下通信工業から[[Panacom]](松下が販売していた富士通FMRシリーズの互換機)にBTRON1(BTRON/286)仕様OS「ET-Master」を搭載した「CEC仕様'90」準拠の教育用コンピュータが「PanaCAL ET」として発表されたが、「BTRON仕様」とは名乗らなかった。1990年7月に刊行された「CEC仕様'90」(『学校で利用されるコンピュータシステムの機能に関する調査報告書』)では、OSを規定せずにアプリケーションレベルでの規定の策定とし、また教育用パソコンとして教材の互換性に重きが置かれたため(例えばCEC仕様'90で策定された「CEC-BASIC」はNEC PC-8801/PC-9801標準の「[[N88-BASIC]]」互換だった)、平成元年改訂の新学習指導要領(数学A「計算とコンピュータ」数学B「算法とコンピュータ」)に合わせた教育用コンピュータとして、ほとんどの学校はマイクロソフト社のMS-DOSをOSとして採用したNEC PC-9801を選択した。1989年当時の教育市場の4割を握っていた富士通が「マルチメディアマシン」として全国の約200校の学校に貸与するなどして強力に推進した次世代機[[FM-TOWNS]]を選択した学校もそれなりにあったが、松下の「パナカル」を含め、それ以外のパソコンを選択して導入した学校は少なかった。1991年3月、松下は次こそは[[DOS/V]]でNECの牙城を崩すべく、AX陣営の残党とともに[[日本アイ・ビー・エム]]を盟主とする[[OADG]]陣営に参画。松下は1990年ごろにBTRONの開発を終了したらしい。CEC仕様の最終となる「CEC仕様'90」では、「CEC仕様'90」仕様に準拠した「CECマシン」が1994年までの5年間で全国の学校に40万台が配備される予定とされたが、松下以外のパソコンメーカーが「CECマシン」を作らず、松下もすぐに撤退したので、結局配備されなかった。
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その後、パーソナルメディア社は、東大坂村研究室が開発したμITRON3.0仕様OS「ItIs Phase3」をベースに、独自に拡張したBTRON3仕様を策定。1995年にはトロンチップ(富士通GMicro F32/300)にBTRON3.0仕様OS「3B」を搭載した「ピュアTRONマシン」であるワークステーションの「MCUBE / BTRON3 Work Station」を発売、ITRONの開発用マシンや業務用ハードウェアの制御用などに利用された。
1998年、パーソナルメディア社は「ItIs Phase3」を「I-right/V」としてDOS/V(i386および互換CPUを搭載した
TRONはパソコン用OSとしてあらゆる文字を扱えることを目標として、約150万字の文字を理論的には扱える文字コードの[[TRONコード]]を採用しており、BTRONは1997年発売の「1B/V3」の頃より多数の文字が扱える「多言語対応」をウリとしていた。初代『超漢字』が発売された1999年の時点では、[[Unicode]]にはまだ2万字程度しか収録されておらず、『超漢字』は当時のUnicodeには収録されていなかった[[異体字]]、[[梵字]]、[[変体仮名]]、[[甲骨文字]]などが扱えるという点で、漢字研究者やお坊さん、人名を扱う官公庁や自治体関係者などに主な需要があった。
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パソコン用OSとしてのBTRONの流れは上記の通りだが、一方でBTRON3はμITRON3をベースとしているため、一般的なGUIベースのOSが動かないような極めて貧弱な環境においても、μITRON3が動いている限りはBTRON3準拠のGUIを動かすことができるという特徴があった。そのため、1995年頃、パーソナルメディア社がセイコー電子工業など数社から携帯情報端末(PDA)向けのOS制作の依頼があったことを契機として、モバイルで動くBTRONの仕様を策定するというサブプロジェクト「μBTRON」(上記のワープロ専用機向けのμBTRONとは別のプロジェクト)の仕様の策定が開始される。
(なお、パソコン以外では、1990年発売の松下のワープロ専用機Panaword
=== μBTRON ===
[[ファイル:BrainPad-TiPO.JPG|thumb|260px|μBTRON仕様のOSを搭載した携帯情報端末(PDA)、[[BrainPad TiPO]]
携帯情報端末([[携帯情報端末|PDA]])向けのBTRON。BTRONのサブプロジェクトで、BTRON3仕様をベースに、キーボード未搭載のハードウェアへの対応や、タッチペンへの対応など、モバイル向けの仕様を追加したもの。なお、μITRON4.0の仕様書ではこれを「μBTRON」と呼んでいるが、μBTRON仕様OSを開発したパーソナルメディア社では「携帯端末用BTRON」と呼んでいる。
セイコー電子工業([[セイコーインスツル|セイコーインスツルメント]]、SII)の販売する業務用PDA「TiPO」シリーズの3代目で、1996年10月発表(1997年2月リリース)の「[[BrainPad TiPO]]」への搭載を前提として策定された。SIIより依頼を受けてパーソナルメディア社がPDA用に開発したμBTRON3.0仕様OSの名称が『B-right』であり、TiPO用の「B-right」で動くマイクロスクリプト(BTRON用のスクリプト言語)はDOS/V用の「B-right/V」でも動く(つまり、「B-right/V」が搭載されたパソコンを「TiPO」の開発機として利用することができる)。
1996年当時の一般的なモバイル端末は、GUIベースのOSは実用的ではなく、SIIの業務用端末「BrainPad」シリーズもそれまではOSとしてMS-DOSを積んでいたが、「BrainPad TiPO」ではμBTRONベースのシステムを用いることで、当時の極めて貧弱なモバイル用ハードウェアにおいても実用的な解像度と稼働時間を維持しながらGUIのマルチウィンドウシステムを動かすことができた。「BrainPad TiPO」は1997年開催の[[なみはや国体]]の競技記録システムや博物館の案内システムなどの業務用で採用されたほか、1997年2月にはパーソナルメディア社から「電房具TiPO」として、SIIのOEM版が一般向けにも市販された。TiPOは単三アルカリ乾電池1本でハーフVGA(640x240)の解像度と50時間の連続稼働時間を誇りながら、[[NetFront Browser]]
しかし、業務用としてはともかく一般消費者用の機器としては、「パソコンと同等の機能を持ったPDA」と言うμBTRONおよびTiPOのコンセプトは、ビジネスマンを中心とする当時の携帯情報端末のユーザー層に受け入れられたとはいいがたい。当時の非力なモバイル端末に、パソコン(それも一般にほとんど普及していない「TRON作法」を採用したBTRON)のGUIをほとんどそのまま載せていることから、シングルタスクとシングルウインドウシステムを採用した同時期の他のモバイル端末と比べると、表示速度が遅く、「ビジネスのための情報ツール」としての使い勝手は、当時ヒットしていたPDAのシリーズである[[ザウルス]]や[[Palm (PDA)|Palm]]などと競合するには至らなかった。また、BTRONの特徴である文書の実身・化身機能を生かそうにも、文書を編集するためのキーボードが付いておらず、ソフトウェアキーボードを起動すると画面の大半を占有して文書が見えなくなった。そのため、「文書の編集ツール」という点でも、DOSと物理キーボードの搭載によって高速かつ強力な文書編集機能を持っていた[[モバイルギア]]などと競合するには至らなかった。
TiPOは、このようなユーザーの声を聞きながらインターネットを通じたプログラムのアップデート(当時としては画期的)を繰り返し、1998年には
携帯情報端末にBTRONのGUIをほとんどそのまま載せた「TiPO」は成功しなかったものの、1999年頃よりITRONを搭載したインターネット対応の携帯電話(2010年代においては[[ガラパゴスケータイ]]と呼ばれている)が続々と登場し、家電や携帯電話にGUIを持ったTRONが搭載されるのが当然の時代になり、そのGUIの開発の大変さがTRONプロジェクトにおいて問題となった。BTRON3仕様OS「B-right」の制作に携わり、松下の手を離れてからのBTRONの開発の中心人物であった松為彰(当時はパーソナルメディア社TRON特別室室長)は、携帯電話などの小型端末からパソコンや[[ファクトリーオートメーション|FA]]機器などの大型端末までにおける、GUIの標準化を目指し、BTRON仕様をベースとするTRON-GUIプロジェクトを1999年に立ち上げた。
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当時の電電公社で使用されるハードウェアは、電電公社が独自に策定した「電電公社仕様」ともいえる特殊なハードウェアが指定されており、「電電ファミリー」と呼ばれる電電公社に近しい電機メーカーとのハードウェア共同開発体制を取ることにより、電電ファミリー各社の技術向上に寄与すると同時に、電電公社仕様に追随できない外資系メーカーを事実上締め出すことに成功していた(ただし、1機あたり数百億の開発費によって電電公社に莫大な赤字をもたらし、電電公社がNTTとして分割・民営化される遠因ともなった)。そのため、米国より「機器納入の自由化」への圧力がかけられていたが、CTRONプロジェクトでは「CTRONが稼働する限りアーキテクチャは問わない」というオープンな仕様となり、さらに機器納入元としてNEC、富士通、沖電気、日立製作所という「電電ファミリー」4社に加え、海外メーカーとして米[[AT&T]]と加[[ノーテル]](ノーザンテレコムジャパン株式会社)を加えることで外圧を乗り切った。1990年4月にはNTTにノーテル製の中継局用交換機が納入されたが、海外メーカー製の交換機を導入するのは電電公社/NTTにとって初めての事であった(TRONプロジェクトの主要な協力メーカーはほとんど日本企業だが、CTRONプロジェクトにおいては外資のノーザンテレコムジャパンも主要な協力企業の一つである)。
電電公社によるCTRONプロジェクトは成功し、1990年頃よりNTT社内において、DEXのOSである「DEX-OS」とDIPSのOSである「DIPS-OS」が、CTRON準拠の「
電電公社によるCTRONプロジェクトにおいては、各社の独自OSからCTRON仕様OSに変えることで従来のアプリが使用できなくなるため、乗り気ではない企業も存在したが、沖電気がプロジェクト発足当初から積極的で、結果としてNTTへの大量納入に成功している。商用のシステムとしても、沖電気では1990年発売のOKI iOX100でCTRONのサブセットを採用し、1992年に自社独自OSのAPOLLOSを廃止し、1996年発売のOKI iOX200シリーズではCTRONが全面採用された。1990年代には日本の電話交換機のほとんどがCTRONベースのシステムとなり、同時に海外にも輸出され、1990年代後半から2000年代前半にかけてのPHSやISDN(N-ISDN)などの高速通信サービスを支えた。
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=== JTRON ===
[[ファイル:P503i.jpg|thumb|260px|JTRONを搭載し、Javaアプリケーション([[iアプリ]])に対応した初の携帯電話、[[P503i]]
μITRONのタスクと [[Java仮想マシン]]のインタフェースを定めた規格。1997年12月に発表。
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日本で2001年以降に普及した「Java対応携帯電話」においては、NTTドコモでは[[503i]]シリーズ以降において、J-フォンとauにおいては全ての製品でJBlendが採用されていた<ref>[https://k-tai.watch.impress.co.jp/cda/article/keyword/10223.html ケータイ用語 第100回:JBlend とは] - ケータイWatch</ref>。アプリックス社は2004年に台湾iaSolution社を買収し、同社のJava環境「iaJET」をJBlendに統合。同年には台湾[[BenQ]]社の携帯電話に、台湾メーカーとしては初めてJBlendが採用され、JTRONはアジア地域にも進出した。2006年にはJBlendおよびiaJETを採用した製品の出荷台数が3億台を突破する<ref>[https://www.aplix.co.jp/images/ir/disclose/ir090331yuho.pdf 有価証券報告書] 株式会社アプリックス</ref>など、2000年代に販売された極めて多くのJava対応携帯電話で使われた。
しかし、ITRONなどの
例えばNTTドコモは、2004年に「[[MOAP]]プラットフォーム」を策定し、今後の3Gサービス([[FOMA]])向けの携帯電話の開発においてはTRONに代わり、[[Linux]]をベースとする「MOAP(L)」か、もしくは[[Symbian OS]]ベースの「MOAP(S)」のどちらかのプラットフォームを携帯電話メーカー各社に選択させることにした。例えばパナソニック製端末では、2005年2月発売の[[P901i]]で早くもMOAPに対応(この時にパナソニックの携帯電話向けOSをLinuxに一本化する決断をしたのが、1987年当時にBTRON1仕様開発の中心人物であった櫛木好明パナソニックモバイルコミュニケーションズ社長である)。2006年にはアプリックス社もNTTドコモとMOAPライセンスを締結し、MOAPプラットフォーム向けのミドルウェアをNTTドコモに提供することになった<ref>[https://mag.osdn.jp/06/11/08/094238 アプリックス、携帯電話Linuxプラットフォーム「MOAP(L)」をライセンス、統合ソリューションを提供] OSDN Magazine</ref>。さらに、2006年にはモトローラやNTTドコモなど世界各国の携帯電話プラットフォーマー6社により、携帯電話向け組み込みLinuxのAPIを共通化するための[[LiMo Foundation]]が設立され、NTTドコモのMOAPプラットフォームもここに糾合され、2011年には携帯電話向け組み込みOS[[Tizen]]として結実したものの、Android(及びアップル専用のiOS)とのシェア争いに負け2010年代中ごろに事実上消滅し、サムスン電子がウェアラブル端末にしばらく使い続けたに留まった。Symbian OSも同様にAndroidに敗北した。
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アーキテクチャはCISC型を採用している。チップの設計においては、坂村は命令セットの設計のみを行い、実際の回路の設計は生産に当たる各社で行う、と言う形式を取った。そのため、同じアーキテクチャの製品が複数のメーカーから発売された。この方式は、後に組み込みCPU市場を寡占する[[ARM]]社でも採用されることになる。
トロン仕様チップの策定は東京大学坂村研究室が行ったが、策定当初より日立製作所が積極的に関与した。1983年当時、日立はモトローラ68000のセカンドソースを製造していたが、当時のアメリカの各CPUメーカーは日本メーカーに対するCPUのライセンス供与に消極的になりつつあり、モトローラからの独立を果たそうとする日立のマイコン部門(日立製作所武蔵工場、日立製作所半導体事業部を経て、後のルネサス武蔵)は1983年頃より
最終的に、トロンチップの開発・製造には、富士通、三菱電機、日立製作所、松下電器産業、東芝、沖電気工業、の6社が参加した。主な実装としては、[[富士通]]・[[三菱電機|三菱]]電機・[[日立製作所|日立]]の3社(G<small>MICRO</small>グループ)の共同開発によるG<small>MICRO</small>シリーズや、沖電気の通信用システムで使われたOKI O32などが挙げられ、各社の製品は1988年頃よりサンプル出荷、1989年頃より量産された。
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TRONプロジェクトにおいては、OSとCPUの仕様が並行して開発されたことが大きな特徴である。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』によると、坂村はITRONとBTRONを「目標OS」としてアーキテクチャを決定したとしている。命令セットを設計した坂村によると、「仕様策定の段階でソフトウェアとハードウェアの総合した最適化の考え方が取り入れられている」とのことで、具体的には「オペレーティングシステムの高速実行に向いた命令セット、あるいはコンパイラ開発に有利な命令セットが準備されている」とのこと<ref>[http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DKankoub/Publish_db/1997DM/DM_CD/DM_TECH/BTRON/PROJ/CHIP.HTM TRON Project/CHIPサブプロジェクト] 東京大学デジタルミュージアム</ref>。坂村は1985年当時、ワークステーション並みの性能でパソコン並みの低価格なマシンである「スーパーパーソナルコンピュータ」の概念を提唱しており、トロンチップを主にパソコン向けとして想定していた。
しかし、トロンチップにメインフレーム用のIBMのOSを載せ、「IBM互換機の下位機種を作る」つもりの日立と富士通に、坂村は押し切られた<ref>[http://30th.tron.org/renesas.html TRONプロジェクト30周年特別対談]</ref>。ミニコン・オフコンにも使いたい日立や富士通の意見を入れる形で、チップは高機能化。日立でTRONチップの設計が完了した1987年7月の時点では、TRON仕様OSである
トロン仕様チップでは、[[メモリ管理ユニット|MMU]]などを搭載した「L1(Level 1)」仕様と同時に、「L1」仕様から命令再実行(リラン)機能とMMUを除去した(ITRONとμBTRONの動作を想定した)「L1R(Level 1 Real)」仕様が規定された。『トロン仕様チップ標準ハンドブック』が刊行された1991年10月の時点では、将来製造されるトロンチップに実装される予定の「L2(Level 2)」も策定されていた。また、32ビット版トロンチップの設計時点で64ビットまでの上位拡張性が確保されており、64ビット版トロンチップの仕様である「
トロンチップが各社から出そろった1990年当時、
しかし組み込み用としては、トロンチップは元々パソコンやワークステーション用として開発されていたこともあって、COBOLコンパイラを使うときのための十進演算命令や、MMUを搭載するなど組み込みには不相応なほど規模が大きく、コストパフォーマンスが悪すぎたため、成功しなかった
パソコン・オフコン・ワークステーション用としても採用例が無く、同時期には[[PA-RISC]](日立のHP/PA互換CPUで、マイコン部隊がいる日立武蔵より「格上」とされる、日立の中央研究所が開発)や[[MC68040]]が存在したこともあり、日立のマイコン部門が設計したH32を、日立のオフコン部門は採用しなかった。『日立評論』1990年1月号ではH32シリーズのファミリー展開に大いに期待を寄せているが<ref>『日立評論』1990年1月号、p.96</ref>、『日立評論』1991年1月号ではH8シリーズのH8/300しか取り上げられておらず、日立(のマイコン部門)は1990年内にH32シリーズの多展開を諦めたようだ。
組み込み専用のアーキテクチャとなると、敢えてCISC型で行く意味はなく、ちょうどそのころ組み込み用CPUとしてRISC型のアーキテクチャが注目されていたこともあり、各社とも1990年頃には組み込み用32ビットCPUとしてのTRONチップの継続を諦め、RISCによる独自アーキテクチャの開発が行われることとなった。日立でも、1992年11月にはH32シリーズの後継として、高性能、低消費電力、低価格を同時に満たすRISC型CPUのSH-1をリリースし、SHシリーズを
一方、NTTによるCTRONプロジェクトは成功していたため、トロンチップは1990年代中頃まで電話交換機用プロセッサとして各社で開発が続けられた。例えば日立もNTTに通信機を納入しているため、CTRONを載せた通信用プラットフォームを作るためにはGMICRO/300を使った方がコストパフォーマンスが高いと日立の情報システム部門は判断し<ref>『日立評論』1992年1月号p.45</ref>、1993年にはGMICRO/500を完成させるなど<ref>『日立評論』1994年1月号、p.40</ref>、トロンチップの開発を続けた。
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1994年に三菱がリリースしたGmicro/400(40MHz)が最後のトロンチップとなる。ただし、性能自体は日立のGmicro/500(66MHz)の方が高い。
坂村自身の考えでは、トロンチップを制作した各電機メーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由として、半導体部門が作ったトロンチップをコンピュータ部門は「おもちゃ」として見ておらず、半導体部門が勝手にコンピュータを作れない以上、トロンチップはソフトウェア開発装置かCPU評価基板として作られるしかなかった、としている。また、半導体部門を抱える電機メーカー以外のメーカーからトロンチップを使ったパソコンが出なかった理由としては、「周辺チップの不足」を理由に挙げており、各社がCPUを作ることを第一義としていたため周辺チップが揃わず、周辺チップが揃った
1986年10月に「マイコン独立宣言」を発表して日立の独自マイコンHシリーズ(H8・H16・H32)の開発を指揮した牧本次生(1989年当時は「(半セ)」こと日立製作所半導体事業部半導体設計開発センター長、後に日立製作所専務取締役)の回想によると、トロンチップが失敗したのは「日米貿易摩擦のターゲットとして取り上げられた」ためとのことで<ref>[http://www.shmj.or.jp/makimoto/pdf/makimoto_02_09.pdf 牧本資料室第2展示室「マイコン事業の回想(アーキテクチャ独立戦争の記録)」第9章マイコン独立戦争]</ref>、Hシリーズの後継であるSHシリーズの開発を指揮した木原利昌(当時は半導体設計開発センター・マイコン設計部長、後にSuperH,Inc.のCEO)の回想によると、トロンチップが組み込みに使えなかったのはコスパが悪かったからとのこと<ref>{{PDFlink|[
統一規格であったものの、各社で用途に応じて様々な工夫を行い、例えば三菱のGMICRO/200は宇宙線対策が施され、技術試験衛星「[[きく7号]]」に搭載され、
パーソナルメディア社が1993年に制作した、BTRONを搭載したパソコンの試作機「SIGBTRON基本ボード」でGmicro/300が採用され、1995年に発売したBTRONワークステーションMCUBEでGmicro/500が採用された。
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== T-Kernelプロジェクト(TRONプロジェクト第2ステージ) ==
[[ファイル:Pentax K3 jm6729.jpg|thumb|260px|T-Kernel仕様
坂村健が2000年に開始した、TRONプロジェクトの第2ステージであるT-Kernelプロジェクトである。2002年発足のT-Engineフォーラムが中心となって推進していた。
=== eTRON ===
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=== T-Kernel ===
[[File:TOYOTA_PRIUS_ZVW50_A_Touring_Selection_03.jpg|thumb|260px|GUIを持つシステムで使われることが想定されるT-Kernel。[[トヨタ]]の[[カーナビ]]や車両周辺監視システム「パノラミックビューモニター」([[富士通テン]]の開発した「マルチアングルビジョン」)でイーソルのT-Kernel仕様OSが採用されている。]]
ITRONをベースに設計された、組み込み向け
ITRONでは1980年代当時のハードウェアの性能による制限から、仕様書だけ策定されており、実装はハードウェアに合わせて各自で行なう「弱い標準化」の方式となっていたため、最小のシステムから大規模システムにまで対応できるスケーラビリティを持つ一方、それぞれの実装で細かい違いがあり、ソフトの再利用などが困難だった。その反省から、T-Kernelでは2000年代のハードウェアの性能に合わせて「強い標準化」を目指し、仕様書だけでなくソースコードもオープンとなっており、それによって細かな実装上の違いをなくし、デバイスドライバやミドルウェアの再利用が促進できるようになっている。
GUIを持つことが前提となる「T-Kernel」とともに、T-Kernelと互換性を持ちつつ必ずしもGUIを持たないような小さいシステムでも利用できる「μT-Kernel」も策定された。このように、ソフトの再利用性やミドルウェアの利用による開発の容易さと言った特徴を持ちつつも、
旧来のμITRONのソフトウェアをT-Kernel上で再利用するため、T-Kernel上でITRON用アプリを実行できるラッパーも用意されている。
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T-Engineの標準プラットフォームで、T-Kernelが動作するハードウェア。eTRONを搭載している。ソフトウェアの移植性が高く、異なるCPUを搭載したボードでも同一のソースでソフトウェアが使用できる。
2019年現在、パーソナルメディア株式会社よりトロンフォーラム公認のT-Engineリファレンスボード
=== TRON多国語言語環境 ===
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=== ユビキタスID ===
[[ファイル:Ucode of Intelligent Trig points.jpg|thumb|260px|ucodeが埋め込まれた三角点。右上にucodeのマークが見えるが、屋外なので色褪せている]]
RFIDタグ
T-Engineフォーラムに2003年に設置されたユビキタスIDセンター(センター長:坂村健)と、東京大学ユビキタス情報社会基盤センターの坂村健(2009年よりセンター長、2017年に定年退職)および[[越塚登]](坂村の定年退職後にユビキタス情報社会基盤センター長)によって推進されている。
ucodeをタグだけではなく空間に埋め込む「空間コード」の実証実験が2007年より始まった。日本各所の三角点などに
===
BTRON仕様OSにおいて使われるデータ交換形式。BTRONにおいて扱われるデータに関する情報を標準化したもので、このファイル形式を採用することで、アプリケーションのメーカーやバージョンに関係なく、BTRONを搭載した全ての機器におけるデータの完全な互換性が実現される。
355行目:
=== μT-Kernel 3.0 ===
μT-Kernel 2.0が小規模マイコン向けであったのに対して、μT-Kernel 3.0はIoTエッジノード向けに最適化されており、μT-Kernel 2.0からプロセス管理機能や仮想記憶などが省略されている。また、ソースコードが見直され、最新のマイコンへの移植性が高められた。
363行目:
== その他 ==
=== シンボル ===
{{特殊文字|節|説明=[[
[[File:TRON-symbol.jpg|128px|none]]
1989年のデザイン<ref>『TRON DESIGN』p. 4</ref>。「[[ファイル:TRON 2-D77C.gif]]」(大漢和 5-13536、GT 17106、U+23091「𣂑」)をモチーフとしたもの。「斗」の古字で「[[升]]」の意があり、升=計器=規格に通じる、といった考えがある。中央の「十」の部分がTRONの頭文字「t」を模してもいる。
397行目:
* 1982年のヒット映画「[[トロン (映画)|トロン]]」との関連は曖昧にされており、プロジェクト発足直後にあたる時期の坂村の著書『電脳都市』の映画「トロン」の章の注には、よく映画から採ったのか、と聞かれるのだが「そうでもないし、そうでもある、というところで実のところ全く関係ない。でも、このプロジェクトを始める前に映画を見た記憶はある。{{lang|en|TRON}} は {{lang|en|The}}… の略である。」{{sfn|坂村健|1987a|p=290}}と書かれている。
* 坂村は{{lang|en|[[Unicode]]}}、特に[[CJK統合漢字]]のために行われた {{仮リンク|Han unification|en|Han unification||label={{lang|en|Han unification}}}}を、[[漢字文化圏]]の文化を破壊するものとして、強く批判した。主要な主張は[[日本電子工業振興協会]]発行の『未来の文字コード体系に私達は不安をもっています』({{全国書誌番号|20985671}})にある(このパンフレットは[[1993年]]に発行されており、坂村らの以後の主張が指す「{{lang|en|Unicode}}」は、当時の規格である、{{lang|en|Unicode}} 1.1 と、{{lang|en|Unicode}} との共通性を強く指向したISO/IEC 10646-1:1993を基としている)。
* [[TOPPERSプロジェクト]]は、[[豊橋技術科学大学]]助教授(のち[[名古屋大学]]教授)の[[高田広章]]が2003年に開始した、組み込みシステム開発のためのプロジェクトである。μITRON4.0仕様に準拠した
== 脚注 ==
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* [[Tフォント]] - GT書体と互換性を持つフォント。
* [[東京大学大学院情報学環・学際情報学府]] - Tフォントの開発。
* [[TOPPERSプロジェクト]] - μITRON4.0仕様に準拠した
*[[ユビキタスコンピューティング]]
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