「三井八郎右衛門」の版間の差分

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== 11代高公 ==
'''三井 高公'''(みつい たかきみ、[[明治]]28年([[1895年]])[[8月3日]] - [[平成]]4年([[1992年]])[[11月13日]])は、三井家11代当主。10代当主高棟の二男。1919年に16代三井八右衞門を襲名。1920年に[[京都大学|京都帝国大学]]法学部を卒業して[[日本銀行]]に入り、1924年から5年間[[ロンドン]]に留学、帰国後三井合名に入社(のち社長)<ref>[https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E4%BA%95%20%E5%85%AB%E9%83%8E%E5%8F%B3%E8%A1%9B%E9%96%80%2816%E4%BB%A3%E7%9B%AE%29-1655918 三井 八郎右衛門(16代目)]コトバンク</ref>。
戦前の[[長者番付]]では常連と化しており、[[1939年]]公表の納税額は日本一となる287万4037円を記録。東の横綱となっていた<ref>横綱は三井高公、映画では入江たか子『大阪毎日新聞』昭和14年7月5日(『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p482 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)</ref>。このため社会の変革を望む右翼系団体から[[特権階級]]の一員として標的にされることもあった<ref>政財界巨頭暗殺を狙う一味七人を検挙『東京日日新聞』昭和10年5月1日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p242)</ref>。
 
敗戦後の[[財閥解体]]で三井系各社への支配権を失った後は、父・高棟が創設した幼稚園、[[若葉会幼稚園]]を終生にわたって経営した。また、東京都港区[[西麻布]](旧・麻布笄町)にあった総領家三井八右衞門高公邸(1952年築)は、東京都[[小金井市]]にある[[江戸東京たてもの園]]に移築され、一般公開されている。妻の鋹子(としこ・1901年-1976年)は旧[[福井藩]]主・[[越前松平家]]第18代当主・[[松平康荘]]の長女。三男・公乗の岳父に[[浅野八郎 (財閥)|浅野八郎]]。四男・之乗の岳父に林友春([[林博太郎]]の子)。長女・久子は浅野久弥(浅野八郎次男)の妻。
 
自動車愛好家としても知られ、第二次世界大戦前は[[ベントレー]]・[[イスパノ・スイザ]]、[[ブガッティ]]、[[ランチア]]などヨーロッパの高級車やスポーツカーを常時10台以上所有し、90歳代になっても[[ベントレー・Tシリーズ|ベントレー・Tタイプ]]を自ら運転していた。