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|写真のコメント =
|国籍 = {{JPN}}
|出身地 = [[佐賀県]][[小城郡]](現在の[[多久市]]
|生年月日 = {{生年月日と年齢|1951|10|9|no}}
|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1951|10|9|2008|1|21}}
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|体重 = 73
|利き腕 = 右
|打席 =
|守備位置 = [[外野手]]、[[二塁手]]
|プロ入り年度 = 1969年
|ドラフト順位 = ドラフト外
|初出場 = 1972年9月19日
|最終出場 = 1990年10月13日(引退試合)
|経歴 =
* [[佐賀県立多久高等学校|佐賀県立多久工業高等学校]]
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* [[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]] (1983 - 1990)
}}
'''加藤 博一'''(かとう ひろかず、[[1951年]][[10月9日]] - [[2008年]][[1月21日]])は、[[佐賀県]][[多久市]]<ref name=jinmei>プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、151ページ</ref>(旧・[[小城郡]])出身の[[プロ野球選手]]([[外野手]]、右投打)、[[野球解説者]]、[[タレント]]
 
== 経歴 ==
[[佐賀県立多久高等学校|多久工業高]]時代は足の速さを買われ、地元の[[駅伝競走|駅伝大会]]に陸上部の助っ人として出場した事がある。打撃練習時には隣接する[[小城警察署|多久警察署]]に打球が何度も飛んでいったためにネットが増設され、通称「'''加藤ネット'''」といわれた。高校の2年後輩に、マラソン選手で現在は[[天満屋|天満屋陸上競技部]]監督を務める[[武冨豊]]や、大相撲幕内力士の[[天ノ山静雄]]がいた。
 
=== プロ入り前 ===
[[国士舘大学硬式野球部|国士舘大学]]や[[社会人野球]]チームからも勧誘されていたが、[[1969年]]に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ[[ドラフト外入団|ドラフト外]]で入団。[[伊藤光四郎]]二軍打撃コーチに「お前のバッティングでは飯が食えん、左で打て!」と言われ、[[スイッチヒッター]]に転向。当時の給料は5万円であったため、オフシーズンになると靴の配送・飲食店の厨房・鮮魚店勤務など[[アルバイト]]をして生計を立てた。
[[佐賀県立多久高等学校|多久工業高]]時代は足の速さを買われ、地元の[[駅伝競走|駅伝大会]]に陸上部の助っ人として出場した事がある。打撃練習時には隣接する[[小城警察署|多久警察署(現在の小城警察署多久幹部派出所)]]に打球が何度も飛んでいったためにネットが増設され、通称「'''加藤ネット'''」といわれた。高校の2年後輩に、マラソン選手で現在は[[天満屋|天満屋陸上競技部]]監督を務める[[武冨豊]]や、大相撲幕内力士の[[天ノ山静雄]]がいた。
 
[[国士舘大学硬式野球部|国士舘大学]]や[[社会人野球]]チームからも勧誘されていたが、1969年に[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]へ[[ドラフト外入団|ドラフト外]]で入団<ref name=jinmei />。
[[1974年]]には打率.359で[[ウエスタン・リーグ]]の首位打者に輝く。公式戦出場は[[1972年]]の3試合にとどまり、6年間でわずか1打席しかチャンスを貰えなかった。
 
=== プロ入り後 ===
[[1976年]]に[[鈴木照雄]]・[[五月女豊]](後述する大洋時代に同僚となる)との2対2の交換トレードで、[[片岡新之介]]と共に[[阪神タイガース]]へ移籍。太平洋クラブ時代はファームに甘んじていたが、ファームの阪神戦([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])での活躍を見た[[吉田義男]]監督が獲得に動いた。移籍後も二軍暮らしが続いたが、1976年・[[1977年]]と2年連続でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得。1977年オフの納会では[[ピンク・レディー]]の[[形態模写]]をやってチームメイトの人気を集める。
[[伊藤光四郎]]二軍打撃コーチに「お前のバッティングでは飯が食えん、左で打て!」と言われ、[[スイッチヒッター]]に転向。自分の物にするために日常でも左利きの人のように左手を使うなど必死に努力した。後に加藤はこの頃を振り返り、「右手に[[スプーン]]で[[カレーライス]]、左手に[[箸]]で[[ラーメン]]を同時に食べられるようになった」と語っている<ref>{{Cite web|和書|title=「右手でカレー、左手でラーメン」……若き加藤博一の“首の皮一枚”/プロ野球20世紀・不屈の物語【1969〜75年】 {{!}} 野球コラム|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20200507-13|website=週刊ベースボールONLINE|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref>。また、当時の給料は5万円であったため、オフシーズンになると靴の配送・飲食店の厨房・鮮魚店勤務など[[アルバイト]]をして生計を立てた。
 
[[1974年]]には打率.359で[[ウエスタン・リーグ]]の首位打者に輝く。公式戦となったが一軍出場は[[1972年]]の3試合にとどまり、6年間でわずか1打席しかチャンスを貰えなかった。
[[1979年]]からは「つちのこバット」を使用するようになり、阪神と因縁のある'''[[江川卓 (野球)|江川卓]]に強い男'''として売り出した。プロ入り後の初本塁打も甲子園初登板の江川から打ったものであり、[[1980年]]も含めて江川から3本の本塁打を放っている。この年より監督に就任した[[ドン・ブレイザー|ブレイザー]]監督にそのガッツを買われた。1980年には一気にレギュラーに定着。打率.314で打率ベストテンの5位に入ると共に、[[高橋慶彦]]([[広島東洋カープ|広島]])と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]争いを演じ、阪神から[[1956年]](吉田義男)以来の盗塁王誕生かと思われたが、高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王はその後世紀を超えて[[赤星憲広]]が出現するまで誕生しなかった。また、当時の甲子園の土は[[盗塁]]に不利と言われていた)。[[1981年]]オフのファン感謝デーでは[[福間納]]や似鳥功(打撃投手)と共に[[イモ欽トリオ]]の形態模写を披露し、[[阪神ファン]]の人気を不動のものとする。
 
[[1976年]]に[[鈴木照雄]]・[[五月女豊]](後述する大洋時代に同僚となる)との2対2の交換トレードで[[片岡新之介]]と共に[[阪神タイガース]]へ移籍<ref name=jinmei />太平洋クラブ西鉄時代はファームに甘んじていたが、ファームの阪神戦([[阪神甲子園球場|甲子園球場]])での活躍を見た[[吉田義男]]監督が獲得に動いた。移籍後も二軍暮らしが続いたが、1976年・[[1977年]]と2年連続でウエスタン・リーグの盗塁王を獲得。1977年オフの納会では[[ピンク・レディー]]の[[形態模写]]をやってチームメイトの人気を集めるした
[[1983年]]に[[野村収]]との交換トレードで[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]へ移籍。移籍は当時の[[安藤統男]]監督からゴルフ場で告げられたという。「ダメでも、いずれ阪神に戻す」と言われたが、「その時にはもう監督でないかもしれないから(保証はない)」と反論した。大洋では2番打者に定着し、[[1985年]]には[[近藤貞雄]]監督の下、[[高木豊]]、[[屋鋪要]]と「[[スーパーカートリオ]]」を結成。3人で3ケタの148盗塁を記録し、個人では48盗塁とリーグトップの39犠打を記録した。[[1986年]]には17年目で初の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]出場を果たす。<ref>同年オールスターゲームでのセ・リーグ監督は前年リーグ優勝した阪神の吉田義男だった。阪神のベテラン選手である[[川藤幸三]]もオールスター初出場だった。</ref>この頃に左打ち一本に絞った。目立った数字は残せなかったものの、そのキャラクターでファンや選手に親しまれ、[[1990年]]まで21年間の現役生活を送った。所属したチームの成績には恵まれず、現役時代にリーグ優勝を一度も経験できなかった。大洋時代のチームメイトであった高木豊や[[若菜嘉晴]]も同じ境遇を味わっている(若菜は引退後、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]のコーチ時代に優勝を初経験)。大洋時代の打席での応援歌は「[[蒲田行進曲]]」。加藤が代打に告げられた際にはスタンドから「ひろかずコール」がなされた。加藤は、スタンドのファンがきっちり3回コールするのを待って打席に入っていた。
 
1979年からは「つちのこバット」を使用するようになり、8月末からは[[中堅手]]、[[二塁手]]を兼ねてチャンスメーカーとして活躍。同年は36試合に先発出場を果たす。阪神と因縁のある[[江川卓 (野球)|江川卓]]に強い男として売り出した。プロ入り後の初本塁打も甲子園初登板の江川から打った。
現役引退後は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の野球解説者を務めたが、[[2006年]]に[[肺癌|肺ガン]]と診断されてからは治療のため入退院を繰り返し、[[2007年]]2月には左肺を摘出していた。いったんは回復し、『[[すぽると!]]』や『CSプロ野球ニュース』などで再びキャスターなどとして活躍していたが、左足大腿骨にガンが転移。その後容態が悪化し、[[2008年]][[1月21日]]午後0時54分、肺ガンのため[[横須賀市]]の病院で死去。{{没年齢|1951|10|9|2008|1|21}}。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は釋博仁。
 
[[1979年]]からは「つちのこバット」を使用するようになり、阪神と因縁のある'''[[江川卓 (野球)|江川卓]]に強い男'''として売り出した。プロ入り後の初本塁打も甲子園初登板の江川から打ったものであり、[[1980年]]も含めて江川から3本の本塁打を放っている。この年より監督に就任した[[ドン・ブレイザラッシンゲ|ドン・ブレイザー]]監督にそのガッツを買われた。1980年一気に開幕からレギュラーに定着し、初の[[規定率.314で席]]に到達、打率ベストテンの.314(リーグ5位に入ると共に、)を記録した<ref name="jinmei" />。同年は[[高橋慶彦]]([[広島東洋カープ|広島]])と[[最多盗塁 (日本プロ野球)|盗塁王]]争いを演じ、阪神から[[1956年]](吉田義男)以来の盗塁王誕生かと思われたが高橋の38盗塁に及ばず34盗塁でタイトルを逃した(阪神の盗塁王はその後世紀を超えて[[赤星憲広]]が出現するまで誕生しなかった。また、当時の甲子園の土は[[盗塁]]に不利と言われていた[[1981年]]オフのファン感謝デーでは[[福間納]]や似鳥功(打撃投手と共に[[イモ欽トリオ]]の形態模写を披露し、[[阪神ファン]]の人気を不動のものとする
2008年[[4月12日]]の横浜vs.阪神戦([[横浜スタジアム]])は、「'''加藤博一氏追悼試合'''」として開催され、追悼セレモニーなどを執り行った。この試合では、横浜の応援団が[[石井琢朗]]に対して、加藤の応援歌だった「蒲田行進曲」を使用した。
 
1981年は[[岡田彰布]]が二塁手に定着、[[左翼手]]に回る。5月から故障もあって欠場するが、8月には先発に復帰した。同年オフのファン感謝デーでは、[[福間納]]や似鳥功(打撃投手)と共に[[イモ欽トリオ]]の形態模写を披露し、[[阪神ファン]]の人気を獲得した。
 
1982年は[[北村照文]]の成長、[[キム・アレン]]、[[グレッグ・ジョンストン]]の入団もあって出場機会が減少する。
 
1983年に[[野村収]]との交換トレードで[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]へ移籍した<ref name="jinmei" />。移籍は、当時の[[安藤統男]]監督からゴルフ場で告げられたという。「ダメでも、いずれ阪神に戻す」と言われたが、「その時にはもう(安藤が)監督でないかもしれないからその保証はないでしょう」と反論した。
 
1984年5月から2番打者に定着。
 
1985年には[[近藤貞雄]]監督の下、[[高木豊]]、[[屋鋪要]]と「[[スーパーカートリオ]]」を結成して売り出され、3人で3ケタの148盗塁を記録した。個人では48盗塁、リーグ最多の39犠打を記録し、2度目の規定打席(リーグ26位、打率.280)に到達する。
 
1986年には規定打席には届かなかったが打率.317を記録、17年目で初の[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]出場を果たす<ref name="jinmei" />。この頃に左打ち一本に絞ったが、その後は出場機会が減少。
 
1990年に引退を決意する。引退試合は10月13日の広島戦(横浜)で行われた<ref>{{Cite web|和書|url=https://storys.jp/story/23773|title=横浜大洋ホエールズとともに生きていく 【其の四・さようならホエールズ&こんにちはベイスターズ】|date=|accessdate=2021-07-11|publisher=|author=山口寛之}}</ref>。自身は8回裏に代打で登場。[[佐々岡真司]]と対戦したが、空振り三振に終わった。9回表はそのまま右翼の守備に就いた。試合後、チームメイトからは胴上げされた。21年間の現役生活を送ったが、所属したチームの成績に恵まれず現役時代にリーグ優勝を一度も経験できなかった。大洋時代のチームメイトであった高木や、加藤が所属した3球団全てでチームメイトだった[[若菜嘉晴]]も同じ境遇を味わっている(若菜は引退後、[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]のコーチ時代に優勝を初経験している。)。加藤はタイトル獲得こそは無かったが、その明るくひょうきんなキャラクターでファンや選手に親しまれた。大洋時代の打席での応援歌は「[[蒲田行進曲]]」。加藤が代打に告げられた際には、スタンドから「ひろかずコール」がなされた<ref>{{Cite web|和書|title=野球解説者の加藤博一さんが肺がんで死去、病床でもコラム執筆。 |url=https://www.narinari.com/Nd/2008018673.html|website=www.narinari.com|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref>。加藤は、スタンドのファンがきっちり3回コールするのを待って打席に入っていた。
 
=== 現役引退後 ===
タレント・キャスターに転身し、そして1991年から2008年までは、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の野球解説者を務めた。
 
2006年に[[肺癌]]と診断されてからは治療のため入退院を繰り返した。
 
現役引退後は、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]の野球解説者を務めたが、[[2006年]]に[[肺癌|肺ガン]]と診断されてからは治療のため入退院を繰り返し、[[2007年]]2月には左肺を摘出してい。いったんものの、一旦は回復し『[[すぽると!]]』や『CSプロ野球ニュース』などで再びキャス解説者・ーなどレントとして活していたが、再発ならびに左足大腿骨にガンがへの転移が判明。その後れから程なく容態が悪化し、[[2008年]][[1月21日]]午後0時54分ガンのため[[横須賀市]]の病院で死去。{{没年齢|1951|10|9|2008|1|21}}<ref name="nikkan080121" />。[[法名 (浄土真宗)|法名]]は釋博仁。
 
2008年4月12日の横浜対阪神戦([[横浜スタジアム]])では「加藤博一氏追悼試合」として開催され、試合前に加藤の追悼セレモニーが行われた。セレモニーでは、加藤の家族とスーパーカートリオのメンバー高木、屋鋪がグラウンドで見守る中、レフトスタンドから阪神時代の応援歌が、ライトスタンドからは大洋時代のひろかずコールに続き、応援歌である「蒲田行進曲」が鳴り響いた<ref>{{Cite web|和書|title=改めて「親父、すげえな」って思った…“56歳で他界”元大洋・加藤博一さんと最愛の息子の物語 | page=2|url=https://bunshun.jp/articles/-/39929|website=文春オンライン| date=|accessdate=2021-07-10|first=黒田|last=創}}</ref>。試合では、横浜応援団が[[石井琢朗]]に対し加藤の応援歌を演奏した。
 
== 選手としての特徴 ==
俊足巧打の韋駄天<ref name="nikkan080121">{{Cite web|和書|title=野球解説者、加藤博一氏が肺がんで死去 |url=https://www.nikkansports.com/baseball/f-bb-tp0-20080121-310107.html|website=www.nikkansports.com|accessdate=2021-07-10}}</ref>。打撃では選球眼が良く、追い込まれてからファールで粘る技術に優れていた<ref>{{Cite web|和書|title=スーパーカートリオVS八重樫幸雄。ダントツNo.1で俊足だったのは? |url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/baseball/npb/2020/10/22/vs_split_no1/|website=集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva|accessdate=2021-07-30}}</ref>。また、小技も巧みであった。走塁では高い盗塁技術を誇った。大洋時代の1985年は、主に2番打者を務め、1番・高木豊、3番・屋鋪要との俊足三人組は「[[スーパーカートリオ]]」と呼ばれた<ref name="shuube190206">{{Cite web|和書|title=加藤博一 ひょうきんで職人肌、スーパーカー・トリオの“2号車”/プロ野球1980年代の名選手 {{!}} 野球コラム|url=https://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20190206-13|website=週刊ベースボールONLINE|accessdate=2021-07-10|language=ja}}</ref>。
 
高木は加藤との思い出を振り返り、「加藤さんにはとても助けられた。盗塁にしても、たくさんフォローしてもらったし。足のスランプで、調子が悪くて盗塁できない時は、加藤さんに[[ヒットエンドラン]]を頼んだりしていた。屋鋪に対しては、打席で粘ってくれたと思う。加藤さんは屋鋪が初球から打ちにいける態勢を作ってくれました」と語っている。屋鋪は「加藤さんは色々な技術を持っていた。打席で犠打の構えをして、捕手と同じ目線で球を見て、バットをサッと引いてパスボールを誘ったり。これぞプロの技だと思いました」と語っている<ref name="shuube190206"/>。
 
== 人物・交友関係 ==
現役時代から「面白い陽気なキャラクターの野球選手」としで知られ有名でおり、'''プロ野球界オフの主役'''として『[[プロ野球ニュース]]』『[[プロ野球珍プレー・好プレー大賞]]』などにたびたび登場していた。大洋時代に同じ阪神OBである[[江本孟紀]]も出演するテレビ番組で「第2の江本孟紀人気目指す」と繰り返し、江本がテレ集め苦笑する中で阪神時代から旧知の[[島田紳助]]に「加藤さんの場合は、江本さんではなく第2の[[板東英二|板東(英二)さん]]!」と'''芸人'''としてのツッコミを受けことがある
 
島田紳助・大洋時代に同じ阪神のOBである[[小錦八十吉 (6代)|小錦江本孟紀]]とは古くから共演した際に「第2親友江本孟紀を目指す」繰り返、江本が照れ苦笑する中で阪神時代か旧知の[[島田紳助]]に「加藤さんの場合は江本さんではなく第2の[[板東英二|板東(英二)さん]]!」とツッコミを受けたことがある。また紳助からは「'''世界の[[福本豊|福本(豊)]]に対し、町内の加藤'''」とよく言われていた。
 
== 詳細情報 ==
85 ⟶ 114行目:
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1985}}
|129||522||436||63||122||16||'''5'''||4||160||35||48||18||'''39'''||0||44||0||3||60||6||.280||.350||.367||.717
|-
|style="text-align: center;"|{{by2|1986}}
105 ⟶ 134行目:
|1063||2619||2321||342||628||93||22||23||834||176||169||67||95||7||179||7||17||361||36||.271||.326||.359||.686
|}
* 各年度の'''太字'''はリーグ最高
 
=== タイトル表彰 ===
* [[ウエスタン・リーグ]]首位打者:1回 (1974年)
* ウエスタン・リーグ盗塁王:2回 (1976年、1977年)
 
=== 記録 ===
'''; 初記録'''
* 初出場:1972年9月19日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]25回戦([[大阪スタヂアム]])、8回表に[[基満男]]の代走として出場
* 初安打:1977年7月18日、対[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルトスワローズ]]19回戦([[明治神宮野球場]])、8回表に[[山本和行]]の代打として出場、[[会田照夫]]から三塁打
118 ⟶ 148行目:
* 初打点:1978年10月8日、対[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]26回戦([[横浜スタジアム]])、3回表に[[斉藤明夫]]から
* 初本塁打:1979年7月28日、対[[読売ジャイアンツ]]19回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に[[江川卓 (野球)|江川卓]]からソロ
'''; 節目の記録'''
* 1000試合出場:1989年10月18日、対広島東洋カープ26回戦(横浜スタジアム)、7回裏に[[遠藤一彦]]の代打として出場 ※史上291人目
'''; その他の記録'''
* [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:1回 (1986年)
 
=== 背番号 ===
入団時から大きな背番号を背負ったため、阪神時代に1桁の「8」を付けたことに感激。前任の[[島野育夫]]コーチに故障に泣かされる番号だからと忠告されたが、やはりその後ケガに見舞われた。
* '''75''' (1970年 - 1972年)
* '''67''' (1973年)
132 ⟶ 161行目:
* '''22''' (1983年)
* '''44''' (1984年 - 1990年)
{{Refnest|group="注"|入団時から75番という(首脳陣が着けるような)大きい背番号を背負ったことや、入団時に「背番号8をつけるまで辞めない」と語った経緯もあり、阪神時代に一桁の背番号8を着けたことには感激したという。前任の[[島野育夫]]コーチからは「(阪神の背番号8は)故障に泣かされる番号だから(やめた方がいい)」と言われ、加藤と親交の深かった[[掛布雅之]]からは、「32番で結果が出たんですから、加藤さんにとって32番が良い番号なんじゃないですか?変えない方が良いと思いますよ」と忠告されたが、8番を着けたいという夢を諦めきれず、加藤は8番に変更してしまった。しかしその後、やはりケガに見舞われてしまったため、「あの時、掛布の言うことを聞いておけばよかった」と語っている<ref>『[[ベースボールマガジン]]』1993年夏号「背番号は生きている」、[[ベースボール・マガジン社]]、1993年。[[関本四十四]]との対談より。</ref>。}}
 
== 関連情報 ==
155 ⟶ 185行目:
'''ラジオ'''
* [[すまいの一番]]
 
=== ゲーム ===
* [[ヒューマンベースボール]](1993年8月6日に[[ヒューマン (ゲーム会社)|ヒューマン]]より発売。[[スーパーファミコン]]用ソフト。加藤博一監修)<ref>{{Cite journal |和書 |author = |authorlink = |title = |date = 2019-9-28 |publisher = [[ジーウォーク]] |journal = スーパーファミコン パーフェクトカタログ |volume = |number = |isbn = 9784862979131 |page = 91 |url = |ref = harv}}</ref>
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
170 ⟶ 207行目:
{{BASEBALLstats|brjpn=kato--000hir}}
 
{{Normdaten}}
{{デフォルトソート:かとう ひろかす}}
[[Category:日本の野球選手]]
177 ⟶ 215行目:
[[Category:NPBオールスターゲーム選出選手]]
[[Category:野球解説者]]
[[Category:日本のタレント]]
[[Category:佐賀県出身の人物]]
[[Category:肺癌で亡くなった人物]]
[[Category:1951年生]]
[[Category:2008年没]]