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'''金 斗漢'''(きん とかん、キム・ドゥハン、[[1918年]][[6月23日]]〈[[5月15日 (旧暦)|陰暦5月15日]] - [[1972年]][[11月21日]]<ref name=":0" />)は、[[大韓民国]]の政治家で、[[第3代総選挙 (大韓民国)|第3代]]および[[第6代総選挙 (大韓民国)|第6代]]国会議員。[[金佐鎮]](キム・ジャジン、{{Lang|ko|김좌진}}、独立運動家]]の[[金佐鎮]]の息子<ref name="nate">[http://100.nate.com/dicsearch/pentry.html?s=B&i=119256 김두한] NATE 백과사전 (百科事典) 2011年6月10日閲覧。</ref> <ref name="韓洪九">韓洪九著、79頁</ref>。[[本貫]]は[[安東金氏]]<ref name="韓洪九" />。[[号 (称号)|号]]は「義松」(ウィソン)<ref name="nate" />。
[[ファイル:풍문여고 졸업식에서 부친 김두한 전의원과 함께.jpg|サムネイル|金斗漢(左)と[[キム・ウルドン|金乙東]]、李載熙]]
 
==人物・生涯==
陰暦1918年5月15日(1918年6月23日)<ref>[https://dbs.donga.com/comm/view?r_id=00157&r_serial=01 노변야화 김두한 편:제1화 부친 김좌진 장군 얘기. 東亜放送, 1969-10-14. (ラジオ番組).]</ref>、[[京城府]][[鐘路]](チョンノ)にて金佐鎮(キム・ジャジン)の息子として生まれたとされる。1924年に7歳で祖母と一緒に満州で1回だけ金佐鎮と対面した。[[朝鮮総督府]]から[[不逞鮮人]]として監視される一方、家庭内の事情も良くなく、梶童(キョドン)国民学校(現 キョドン小学校)を2年生で中退<ref name="naverbook">[http://book.naver.com/bookdb/book_detail.nhn?bid=119192 김두한 자서전 (1) 저자소개 (『キム・ドゥハン自叙伝 (1)』著者紹介)] NAVER 책 (本) 2011年6月13日閲覧。</ref>。[[開城]]に移ったが、10歳の時、1人で京城にきた際に乞食たちに捕まり[[路上生活者]]となり、袁氏を名乗る老人に「日帝の勉強はする必要がない。すぐに独立するのでその時勉強しなさい」と言われ、学校には通わずに{{仮リンク|水標橋|ko|수표교}}の下や路頭で17歳まで過ごした。
 
18歳にして朝鮮全土に約3万人の構成員を抱える[[暴力団]]、鐘路派(チョンノ・パ)の頭目に就任。[[日本統治時代 (朝鮮)|日本統治時代]]の末期にはソウルの繁華街、[[鐘路]](チョンノ)を中心に朝鮮のチュモッケの王<ref name="nate" />(げんこつ界の王、拳の皇帝、最強の腕っぷし)となった。
 
不良[[愚連隊]]や[[暴力団]]のごとく一般市民に対し悪行を働くのではなく、金佐鎮の息子であることを誇りに、強い抗日の姿勢から、日本軍の武器庫を爆破。日本系暴力団(商業権を狙って縄張りを拡大していた)と抗争を繰り広げ、朝鮮人商人を保護する[[侠客]]として活動した<ref>「抗日としての侠客ではありませんでした。」(韓洪九著、81頁)</ref>とされる。
 
後の自由党政権下で政治暴力団の頭目として急成長した[[{{仮リンク|李丁載]]|ko|이정재 (1917년)}}(イ・ジョンジェ)は、金斗漢(キム・ドゥハン)が組織する鐘路派の下位団体の準構成員出身である。
 
戦中に満州や朝鮮半島北部で優勢を誇った朝鮮半島北部の愚連隊の頭目であるシラソニこと[[{{仮リンク|李聖淳]]|ko|이성순}}(イ・ソンスン)とは私的に義兄弟として呼び合う仲だった。
 
1944年、[[全州李氏]]の{{仮リンク|李載熙|ko|이재희}}([[本貫]]は[[全州李氏]])と結婚。1945年9月5日、のちに国会議員となる[[キム・ウルドン]]が生まれる。
 
===解放後===
日本の降伏の後、すぐ鐘路派を率いて[[朝鮮建国準備委員会]]に参加。治安維持にあたった。建国準備委員会が解消した後は、水標橋で共に過ごした竹馬の友であり、社会主義活動家の[[朴憲永]]の秘書となっていた[[丁鎮龍]](チョン・ジニョン)の勧めもあり[[朝鮮共産党]]に入党。{{仮リンク|朝鮮青年前衛隊|ko|조선청년전위대}}隊長に就任。この際、[[朝鮮人民軍|人民軍]]南朝鮮司令官に任命する提案もあったという。
 
間もなく父の死が[[共産主義者]]による暗殺だった事実を知り<ref>「日帝の強占期から周知の事実でしたから、息子である金斗漢だけが知らなかったとは信じられません。」(韓洪九著、83頁)</ref>、[[共産主義]]から[[民族主義]]に転向。民族主義に転向したことで、[[在朝鮮アメリカ陸軍司令部軍政庁|米軍政庁]]の警務部長[[趙炳玉]](チョ・ビョンオク)や、のちの[[新民党]]総裁の[[柳珍山]](ユ・ジンサン)を知り、民族主義陣営指導者達たちとの交流を深め、反共産主義闘争の[[白色テロ]]の代行者となり、デモ隊鎮圧などで多数を殺害した。
 
[[李承晩]](イ・スンマン)、[[金九]](キム・グ)、[[柳珍山]](ユ・ジンサン)が主導する大韓民主青年同盟の監察部長になり<ref>韓洪九著、83頁</ref>、[[保守]][[右翼]]陣営の最先鋒として活動。団体の資金を調達するために、後に[[反民族行為特別調査委員会]]の逮捕対象となる[[朴興植 (実業家)|朴興植]]など[[親日派]]資本家の家を襲撃した。私的流用しない根拠として、鍾路区三清洞の自分の家を抵当とし、李承晩の直筆揮毫を見せて領収書を書いた。
 
金斗漢とその別働隊は反共産主義闘争に力を尽くす<ref>「左翼が主導した四六年九月のゼネストなどを破壊する先頭に立ちました。」(韓洪九著、83頁)</ref>過程で、[[左右合作運動|左右合作]](左翼・右翼、両陣営の合同)を提唱した[[呂運亨]](ヨ・ウニョン)、[[金奎植]](キム・ギュシク)らの拉致・暗殺未遂事件を起こす。これに憤慨した[[金九]]から注意を受け、以降は一切加害しなかった。
 
金斗漢が共産党を離脱し、民族主義陣営に加わったことで、共産党前衛隊(左翼)と青年同盟別働隊(右翼)の争いが加熱。米軍から逮捕状が出て潜伏中だった金斗漢は潜伏先で共産党前衛隊に襲撃され、頭部に銃弾を受けた。通報で駆けつけた米軍により病院に搬送され、緊急手術を受けて一命を取り留める。回復後、朝鮮共産党系の陸軍準備隊の武力鎮圧など、左翼運動家に対する数々の殺傷行為容疑で米軍に逮捕される。
 
1948年、[[死刑]]判決を受け<ref>韓洪九著、84頁</ref>、[[在沖米軍|沖縄米軍]]管轄の[[沖縄刑務所]]<ref>「西大門刑務所から梨泰院の米軍刑務所に…さらに大田刑務所に」(韓洪九著、85頁)</ref>に収監。死刑執行予定日の数日前に大韓民国政府が樹立。[[李承晩]](イ・スンマン)らの計らいにより刑死をまぬがれる。
 
大韓民国政府樹立以後、当時最大の労働組合組織である[[大韓独立促成全国労働総同盟]]最高委員に就任<ref name="韓洪九著、86頁">韓洪九著、86頁</ref>。労働者の要求に耳を傾け諸課題を解決。労組所属の全国の労働者から絶大な人気を得る。
 
[[朝鮮戦争]]中に、大韓学徒義勇軍参謀長に就任。約1,500名の学徒兵を連れ、参戦。対北テロ集団の白衣社の幹部に就任し[[金日成]](キム・イルソン)の暗殺未遂を起こすなど反共活動を続ける。
 
枠にとらわれない様々な功績を残し、李承晩(イ・スンマン)大統領から報酬や要職の提供を打診されたが、独裁色が濃くなった李承晩政権に難を示し受けなかった。
 
大統領特使、国連韓国代表を務めていた[[趙炳玉]](チョ・ビョンオク)が大統領李承晩との意見の衝突で辞職。金斗漢は反李承晩勢力の主要人物となった趙炳玉や柳珍山(ユ・ジンサン)らと行動を共にする。
 
===政界進出===
1954年、36歳の時に鐘路選挙区乙区から[[第3代総選挙 (大韓民国)|第3代国会議員選挙]]に[[民主国民党]]の指名を断って無所属で出馬。初当選を果たす。同選挙区の対立候補には金斗漢より有能な人物が立候補していたが、鐘路遊興街の女性たちの圧倒的な支持を受け、僅差で当選した<ref> name="韓洪九著、86頁<"/ref>。
 
議員選挙初当選後、その祝賀会で鐘路派を解散し、派からの引退を表明する。部下たちからは反対の声はあがらず、祝杯を受ける。幹部のほとんどが金斗漢より年上であったが、常に親分・兄貴と慕われ、損得ぬきの忠誠を受けた。解散時の鐘路派の規模は構成員数3万人以上と言われ、当時アジアにおいて最大の組織勢力だった。
 
金斗漢の推薦でシラソニこと李聖淳(イ・ソンスン)は[[申翼煕]](シン・イッキ)、[[張勉]](チャン・ミョン)の警護責任者に就任した。
 
1956年5月5日、民主党公認大統領候補となった申翼煕が選挙遊説の途上倒れ、張勉、金斗漢、李聖淳らに見取られながら死去した。脳溢血だった。その後、本人の細かい暴力事件と失言や、韓国仏教界の[[太古宗]]と[[曹渓宗]]の対立との関わり、自由党に在籍していたことなどにより信頼を失い、[[第4代総選挙 (大韓民国)|第4代総選挙]]で鐘路選挙区にて労農党候補として、[[第5代総選挙 (大韓民国)|第5代総選挙]]で[[洪城郡|洪城(ホンソン)選挙区]]にて無所属として、[[第6代総選挙 (大韓民国)|第6代国会議員選挙]]で鐘路選挙区にて無所属として出馬するものの、すべて落選した。
 
1960年の[[四月革命 (韓国)|4.19革命]]で[[李承晩]]が失脚、[[1960年大韓民国大統領選挙|1960年の第4代大統領選挙]]では[[趙炳玉]]を支持したが、民主党旧派の代表格として[[尹ボ善|尹潽善]]が第4代韓国大統領になったことで空席となった鐘路選挙区で行われた補欠選挙でも落選した。
 
1961年5月16日、軍事革命委員会による[[5・16軍事クーデター]]が起きると[[金鍾泌]](キム・ジョンピル)が接近。金斗漢は軍政と距離を置き、静観した。
 
1962年3月1日、軍政率いる国家再建最高会議より父、将軍・金佐鎮(キム・ジャジン)に建国勲章の授章があり、遺族代表として[[朴正煕]](パク・チョンヒ)議長から1等国家功労賞を授与される。
 
1963年、金鍾泌の「我が軍は政治に関与しない」という言葉を信じ、金鍾泌の提案で、愛国団を結成。全国に2万人の団員を集めたが、軍政内部の争いにより金鍾泌と敵対する[[金炯旭]](キム・ヒョンウク)中央情報部長(当時)から圧力を受け解散。この内部闘争で金斗漢も[[大韓民国中央情報部|韓国中央情報部]]に逮捕され拷問による取り調べを受けた。
 
1965年、韓日国交正常化に反対する野党議員の辞職に伴う[[第6代総選挙 (大韓民会議員)|第6代総選挙]]の補欠選挙で[[龍山区 (ソウル特別市)|龍山(ヨンサン)選挙区]]から[[韓国独立党]]候補として出馬し当選。第6代国会に登壇するや否や軍事政権批判を行うと、 1966年1月8日、[[韓国独立党内乱陰謀事件]]に関与したとして[[西大門刑務所]]に収監。1月29日、国会で金斗漢議員の釈放決議案が野党のみならず与党共和党員までが賛成票を投じ可決された。4月28日に5年の刑が求刑された後、5月10日に無罪宣告され、金斗漢をはじめとするすべての議員が釈放された。
 
=== 国会汚物投擲事件 ===
国会で現職の国務総理らが関与したと言われる[[サッカリン密輸事件]]の議論が紛糾した際には、国会議事堂において[[丁一権]](チョン・イルグォン)国務総理らにアルミ缶に詰めた糞尿を投げつける前代未聞の[[国会汚物投擲事件]]を起こした。結果として与党共和党の国務総理をはじめとする首脳陣全員が内閣総辞職したが、この事件により1966年、国会議員を辞職。逮捕され、再び西大門刑務所に収監。その後、持病の[[高血圧]]により病気釈放。
 
釈放後、朴正煕大統領と金斗漢は面会し、金斗漢が政治にかかわらないことを条件にソウル市長に面倒を見るよう指示、異例の特別待遇をした。しかし事業には失敗し、安宿を転々としていたという。
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=== 没後 ===
父・金佐鎮に贈られた1等国家功労賞の年金全額を孤児院に寄付していたことから、金斗漢(キム・ドゥハン)の葬儀には多くの孤児が参列した。
 
その遺志は長女のキム・ウルドンを経て孫の[[ソン・イルグク]]が引き継ぎ、40余年に渡って1等国家功労賞の年金全額を慈善活動に注いでいる。その総額は数10億ウォンにおよぶ。
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現在の韓国において金斗漢は裏社会の祖として非常に著名で、その世界で知らぬ者はいないと言われる。
 
娘の[[キム・ウルドン]](金乙東、{{Lang|ko|김을동}})は俳優。[[2008年]]に[[親朴連帯]]から[[第18代総選挙 (大韓民国)|国会議員選挙]]に出馬して当選。ウルドンの息子で俳優の[[ソン・イルグク]]は外孫にあたるとされる。
 
=== その他 ===
大韓復興建設団長、国民連合戦線議長、仏教養老院副院長、大韓[[ボクシング]]総連盟理事、全国高学生総連盟委員長を歴任した<ref name=":0">{{Cite web |title=대한민국헌정회 |url=https://www.rokps.or.kr/profile/profile_view.asp?idx=1063&page=1 |website=www.rokps.or.kr |access-date=2022-07-23}}</ref>。
 
==金斗漢が登場する作品==
;映画
* [[実録・金斗漢]] (1974年)
* [[侠客・金斗漢]] (1975年)
* [[金斗漢 第3部 爆弾列車篇]] (1975年)
* [[金斗漢・第4部]] (1975年)
* [[金斗漢と西大門一番地]] (1981年)
* [[将軍の息子]] 三部作(1990~1992年)
** {{仮リンク|将軍の息子|ko|장군의 아들}} (1990年)
** {{仮リンク|将軍の息子2 英雄武闘伝説|ko|장군의 아들2}} (1991年)
** {{仮リンク|将軍の息子3|ko|장군의 아들3}} (1992年)
**: 韓国では[[セガ・マスターシステム]]と[[Nintendo Entertainment System|NES]](両方とも同じ会社だが、別内容)で[[シネマゲーム|ゲーム化]]もされている。
;テレビドラマ
* [[野人時代|野人時代 将軍の息子 キム・ドゥハン]] (2002年)
*: 侠客時代の金斗漢を描いた2002年[[SBS (韓国)|SBS]]制作の[[韓国ドラマ|テレビドラマ]]
 
==関連項目==
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{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:き とかん}}
[[Category:韓国の国会議員]]
[[Category:20世紀韓国の政治家|きむ とうはん]]
[[Category:韓国の国会議員|きむ とうはん]]
[[Category:市民活動家]]
[[Category:韓国の右翼活動家]]
[[Category:韓国の反共主義者]]
[[Category:韓国20世紀朝鮮仏教徒人物]]
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[[Category:朝鮮・韓国のテロリスト]]
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[[Category:拷問被害者]]
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[[Category:ソウル特別市京城出身の人物]]
[[Category:韓国の国会議員仏教徒]]
[[Category:20世紀の仏教徒]]
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[[Category:1972年没]]
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[[Category:韓国の仏教徒]]