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{{別人|x1=工学者の|志水英二}}
'''清水 英次'''(しみず えいじ、[[1947年]][[12月14日]] - [[2005年]][[7月5日]])は、[[日本中央競馬会]]に所属した[[騎手]]。[[京都府]][[京都市]]出身。
{{騎手
|名 = 清水英次
|国 = {{JPN}}
|出 = [[京都府]][[京都市]]
|生 = [[1947年]][[12月14日]]
|死 = {{没年月日と年齢|1947|12|14|2005|7|5}}
|団 = [[日本中央競馬会]](JRA)
|厩 = [[阪神競馬場|阪神]]→[[栗東トレーニングセンター|栗東]]・[[佐藤勇 (競馬)|佐藤勇]](1967 - 1972)<br />栗東・[[坂田正行]](1972 - 1986)<br />栗東・[[騎手#フリー騎手|フリー]](1986 - 1995)
|初 = [[1967年]][[3月4日]]
|区 = 平地
|引 = [[1996年]][[6月13日]]<br />[[1994年]][[4月23日]](最終騎乗)
|重 = 23勝
|G1 = 4勝
|通 = 5569戦550勝
}}
'''清水 英次'''(しみず えいじ、[[1947年]][[12月14日]] - [[2005年]][[7月5日]])は、[[日本中央競馬会]]に所属した[[騎手]]。[[京都府]][[京都市]]出身の元[[騎手]]
 
叔父は元[[調教師]]の[[清水茂次]]
 
== 経歴 ==
[[1965年]]に[[馬事公苑]]短期騎手課程第4期生となりして受講し[[1967年]]騎手として[[阪神競馬場|阪神]]・[[佐藤勇 (競馬)|佐藤勇]]厩舎からデビュー。同年にデビューした者には[[福永洋一]]・[[岡部幸雄]][[柴田政人]][[伊藤正徳 (競馬)|伊藤正徳]]ら「[[馬事公苑花の15期生|花の15期生]]」がいる(ただし、清水は短期騎手課程を修了後騎手試験に合格した騎手であり、長期騎手課程を修了してこの年にデビューした、いわゆる「[[馬事公苑花の15期生]]」とは、騎手になるまでの過程が異なる
 
同年[[3月4日]]の[[京都競馬場|京都]]第4競走4歳以上40万下・ノルニオー(6頭中6着)で初騎乗を果たし、[[3月5日|翌5日]]の第5競走4歳60万下・ライリキで初勝利を挙げる。同馬は14頭中12番人気と低評価であったが、[[田島日出雄]]・[[高橋隆]]・[[栗田勝]]・[[宮本悳]]・[[簗田善則]]ら一流騎手とハナ、アタマ、ハナ、アタマ、ハナの大激戦を制し、単勝8840円の波乱となった。夏の[[札幌競馬場|札幌]]では[[9月3日]]に初の1日2勝を挙げるなど6勝を挙げ、[[10月29日]]の京都では2度目の1日2勝をマークし、第9競走桔梗特別では14頭中14番人気のヨウテイサンを勝たせ、単勝1万3690円の大波乱となった。
デビュー翌年の[[1968年]]は、病気のためまったく騎乗することができないなど苦労したが、[[牝馬]]として史上初の[[JRA賞|年度代表馬]]を受賞する[[トウメイ]]と出会ってから成績が安定し、20 - 30勝の勝ち星を挙げる中堅上位騎手となる。1978年には[[テンメイ]]に騎乗して史上初の[[天皇賞]]母仔制覇を成し遂げた。
 
1年目から2桁の13勝を挙げたが、2年目の[[1968年]]は病気で全く騎乗することが出来ず、3年目の[[1969年]]には復帰。[[1971年]]には[[トウメイ]]の[[主戦騎手]]となり、[[マイラーズカップ]]で前年の菊花賞馬・[[ダテテンリュウ]]を退けて連覇し、清水自身は重賞初制覇。[[阪急杯]]ではトップハンデ58kgを背負いながら制覇し、[[10月]]からは東上。[[府中牝馬ステークス|牝馬東京タイムズ杯]]を59kgのトップハンデを強いられながらも快勝し、3番人気で出走した[[天皇賞(秋)]]では「1600メートルを2回走ると思えばええのやろ」と考えて騎乗。[[菊花賞]]馬・[[アカネテンリュウ]]や[[東京優駿|ダービー]]馬・[[ダイシンボルガード]]を下し、人馬共に初の[[グレード制|GI]]級レース・[[八大競走]]制覇を成し遂げる。[[馬インフルエンザ]]の影響でアカネテンリュウ・[[メジロアサマ]]が出走を取り消し、史上最少となる6頭となった[[有馬記念]]では最後方からレースを進め、第4コーナーで先頭に並びかけるとそのまま先頭に立ち優勝。トウメイは[[牝馬]]として史上初の[[JRA賞|年度代表馬]]を受賞し、清水もトウメイと出会ってから成績が安定し、20~30勝の勝ち星を挙げる中堅上位騎手となる。
長らく中堅騎手として活躍し、とくに[[牝馬]]に騎乗しての好成績から、関東馬であった[[リーゼングロス]]に依頼されて騎乗するなど、その技術は高く評価されていた。このほか[[メジロモンスニー]]などでの活躍が知られている。
 
[[1975年]]には[[東京大学大学院農学生命科学研究科・農学部|東京大学農学部]]付属牧場<ref>[http://www.bokujo.a.u-tokyo.ac.jp/ ホーム | 東京大学大学院農学生命科学研究科附属牧場]</ref>生産のメイセイヒカリで[[京都4歳特別]]を制し、同馬では[[1976年]]の[[京都記念|京都記念(春)]]で11頭中11番人気で3着に入った。
晩年は、騎乗回数こそ減少したものの、まだデビュー間もない厩舎期待の若駒に騎乗して、レースを教えるなど、自らの熟練の技術を生かした騎乗を行い、「英次の脚決めが終わった」という言葉があった。
 
[[1978年]]にはジンクエイトで[[第25回日本経済新春杯]]を制し、[[福島勝]]厩舎に初重賞をもたらしたが、このレースは[[テンポイント]]が故障、競走中止したレースとして知られる。同年はトウメイ産駒の[[テンメイ]]に騎乗し、天皇賞(秋)では1周目のスタンド前の大歓声に興奮して止むなく暴走気味の大逃げを打ち、向正面で10馬身近い差を付けた差を利用しての粘り込みを図る[[プレストウコウ]]を菊花賞とは逆にゴール前で半馬身差交わし優勝。初重賞制覇が天皇賞となると共に、史上初の母子天皇賞制覇を成し遂げたほか、同一馬主・同一調教師・同一騎手により勝利、母と同じ大外12番枠スタートからの半馬身差勝利という偶然も重なった。
しかしながら、1994年4月23日の[[阪神競馬場]]での競走中に落馬し、頸部損傷の重傷を負う。全治は3か月という診断であったが、予後が思わしくなく、結局復帰することはできずに1996年6月13日をもって騎手を引退した。以後は長らく[[リハビリ]]生活を続けていたが、怪我の影響によって、2005年7月5日に57歳で死去した。
 
[[牝馬1982年]]には[[桜花賞]]で関東馬相性が良く、トウメイや[[リーゼングロス]]のほに騎乗し、スタートら逃げるツキマリーの7全競8身後ろ重賞競走7番手くらい位置。残り600m地点で3番手まで進た事、最終コーナーも知逃げるツキマリーに外か並びかけまもなく交わして先頭となった。独走して後方との差を広げ、外から追い込んだメジロカーラに5馬身差をつけて勝利。1975年の[[ヤマノテスコガビー]]が記録した大差に次ぐ史上2番目の着差を記録した。清水は[[クラック (競馬)|クシック]]初優勝となり、最終コーナー時点の活躍が知られ勝利を確信していたと明かしている。翌[[1983年]]には[[メジロモンスニー]]で[[皐月賞]]・東京優駿2着と活躍かし[[優駿]]1988年4月号の記事によるとでは「世間ではトウメイの清水と言われているが、俺は[[メジロモンスニー]]の清水と言われて欲しかった」と語っている。
 
晩年は騎乗回数こそ減少したものの、デビュー間もない厩舎期待の若駒に騎乗してレースを教えるなど、自らの熟練の技術を生かした騎乗を行い、「英次の脚決めが終わった」という言葉があった。一方で、調教スタンドでは[[二日酔い]]全開の風貌であり、厩舎取材班の[[トラックマン]]からその週の騎乗予定馬を聞かれた時も「え~と、土曜の1Rは○○厩舎の白い馬、2Rは○○の黒いヤツだな」のような受け応えであった。トラックマンは取材ノートに白だの黒だのと一杯書いて、厩舎と馬を照らし合わせて馬を探す作業に当たらねばならなかったが、気のある馬は馬名が出てくる騎手であった。実際にまだ有名になる前の[[ナリタブライアン]]で[[1993年]][[10月24日]]の[[福島競馬場|福島]]第9競走きんもくせい特別を勝った時はスラスラと名前が出てきた<ref name="往年の名騎手・清水英次">[https://www.daily.co.jp/horse/tamagawa/2017/10/06/0010619980.shtml ふとしたことから往年の名騎手・清水英次さんを思い出しました - デイリースポーツ]</ref>。後年同馬について「[[ナリタタイシン]]の今頃よりも乗りやすい。とにかく器が違う」と評し<ref>{{Cite book|和書|author=橋本全弘|title= ナリタブライアンを忘れないー私が見つめた最強三冠馬の軌跡 |publisher=[[ベストセラーズ]]|year=1997|isbn= 4584182884 |page=54}}</ref>、騎手引退後には「トウメイと並んでもっとも賢い競走馬だった」と述べている<ref>{{Cite book|和書|title= プーサンvol.7 |publisher=大村書店|year=1997|isbn= 4756310532 |page=65}}</ref>。トラックマン2人を夕食を連れて行った際には「俺のなじみの店があるからそこで」といきなり[[スナックバー|スナック]]へ連れて行き、若手トラックマンが「あの~まだご飯、食べていませんけど」と流石に言うと、「まあ、え~やないか!」と酒のお供を延々とさせ、「俺は[[日活|日活映画]]の[[和泉雅子]]さんが大好きでな~」と語ったこともあった<ref name="往年の名騎手・清水英次" />。
 
[[1994年]][[3月13日]]の[[小倉競馬場|小倉]]第5競走4歳未勝利で師匠・佐藤の管理馬イチライスキーを初勝利に導くが、現役最後の勝利となった。[[4月23日]]の阪神第4競走4歳未勝利でバンブージパングに騎乗中に落馬し、[[頸部]]損傷の重傷を負う。全治3ヶ月という診断であったが、予後が思わしくなく、結局復帰することは出来ずに[[1996年]][[6月13日]]をもって現役を引退。
 
引退後も日常生活へのリハビリを続け、自宅で[[歩行器]]を使っての運動、夫人との[[散歩]]を繰り返した<ref name="「勝負師たち」清水英次">[https://www.nikkankeiba.co.jp/koei/yoshikawa/backnumber/yoshikawa-column041207.html 「勝負師たち」あさっての馬《吉川彰彦》/日刊競馬新聞社]</ref>。事故から10年経っても容易に状況は好転せず<ref name="「勝負師たち」清水英次" />、怪我の影響によって、2005年7月5日に57歳で死去。
 
== 通算成績 ==
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*初騎乗:1967年3月4日ノルニオー(6着) 
*初勝利:1967年3月5日ライリキ
*[[重賞]]競走23勝(うちGI級競走4勝)
 
=== 主な騎乗馬 ===
'''太字'''は[[八大競走]]、括弧内は清水騎乗による優勝重賞競走。''
*''' [[トウメイ]]'''(天皇賞・秋、[[有馬記念]]、(1971年[[マイラーズカップ]][[阪急杯]][[府中牝馬ステークス|牝馬東京タイムズ杯]]・'''[[天皇賞(秋)|天皇賞 (秋)]]'''・'''[[有馬記念]]'''
* ナニワライト(1974年[[シンザン記念]])
* メイセイヒカリ(1975年[[京都4歳特別]])
* トウカンタケシバ(1976年[[愛知杯]])
* ジンクエイト(1978年[[日経新春杯|日本経済新春杯]])
*''' [[テンメイ]](1978年'''天皇賞 ()'''1979年[[京都大賞典]])
* ゴットガリトー(1979年[[アラブ大賞典]])
*''' [[リーゼングロス]](1982年'''[[桜花賞]]'''・[[フローラステークス|4歳牝馬特別]])
* [[メジロモンスニー]](1983年シンザン記念、1985年[[高松宮記念 (競馬)|高松宮杯]]、シンザン記念
* [[ヤマノシラギク]](1984年[[小倉大賞典]]、1985年[[京都大賞典]]2回
* エイシンガッツ(1986年京都4歳特別) 
* [[ドウカンヤシマ]](1986年[[朝日チャレンジカップ]]、1987年[[京都金杯|金杯 (西)]])
* タガジヨオー(1988年[[北九州記念]]
* [[ナリタタイシン]](1992年[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯3歳ステークス]])
 
;その他
*[[ナリタブライアン]]
*[[オペックホース]]
*[[バンブービギン]]
*[[ニチドウタロー]]
*[[キングスポイント]]
*[[ヤマニンスキー]]
 
== 関連項目 ==
*[[村本善之]] - 弟弟子
 
== 脚注 ==
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