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| 芸名 = 芳村 真理
| ふりがな = よしむら まり
| 画像ファイル = Mari-Yoshimura-1.png
| 画像サイズ = 200px
| 画像コメント = <small>『映画情報』1960年3月号より</small>
| 本名 = 大伴 稲(旧姓:吉村)
| 別名義 =
| 出生地 = {{JPN}}・[[東京府]][[東京市]][[日本橋区]]<br/>(現:[[東京都]][[中央区 (東京都)|中央区]][[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]
| 死没地 =
| 国籍 =
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| 活動期間 = 1955年 ‐
| 活動内容 = 司会業・女優
| 配偶者 = [[ミッキー・カーチス]](1962 ‐ 1964年)<br>大伴昭(1968年 ‐ 2018年
| 著名な家族 = [[吉村実子]](実妹)
| 事務所 =
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| 備考 =
}}
'''芳村 真理'''(よしむら まり、[[戸籍]]名・'''大伴 稲'''(おおとも いね)/[[旧姓]]・'''吉村'''、[[1935年]][[4月3日]] - )は、[[日本]]の[[俳優|女優]]、[[モデル (職業)|モデル]]、[[タレント]]、[[司会|司会者]]。元所属事務所はHIRAKU([[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[元赤坂]])<ref>『タレント名簿録』(2008年版) 発行:[[連合通信社]]・[[音楽専科社]] 閲覧。</ref>である。2020年2月11日より生島ヒロシ氏が代表を務める「、[[生島企画室」に所属している。[[コケットリー|コケティッシュ]]な顔立ちとグラマラスな肢体で若い頃は有名な[[モデル (職業)|モデル]]であり、{{要出典範囲|芳村真理と同じ顔をしたマネキン人形は数十年にわたって大量に作られ、全国のデパートやブティック(洋品店)で多く見られた|date=2017年5月}}
 
== 略歴 ==
*[[東京府]][[東京市]][[日本橋区]](:[[東京都]][[中央区 (東京都)|東京都中央区]])[[日本橋 (東京都中央区)|日本橋]]の生まれ。生家は農家で、本名の「稲」は{{独自研究範囲|妹(実子)と共に農業・農作物に因んだ名前としてつけられたと思われる|date=2017年5月}}。また、芸名の「芳村」は旧姓の「吉村」の「吉」を出身地である日本橋・芳町の「芳」に替えたものである。[[第二次世界大戦]]中は[[宮城県]]に[[疎開]]する{{要出典|date=2017年5月}}。
*[[東京都立西高等学校]]出身<ref>{{efn|元セゾングループ代表で小説家の[[堤清二]]、元NHKアナウンサーの[[相川浩]]らは彼女の先輩、評論家の[[加藤諦三]]や、エッセイストの[[玉村豊男]]らは彼女の後輩に当たる。</ref>}}。高校卒業後、都内のデパート勤務を経て<ref group="注">『夜のヒットスタジオ』1979年3月5日放送分での発言より。</ref>{{出典無効|date=2020年8月|title=事実確認の機能を欠く情報源}}、[[銀座]]の山野美容会館([[山野愛子]])内に在ったモデルクラブ[[エフ・エム・ジー|FMG]](ファッション・モデル・グループの略、1952年に発足した日本初のモデルクラブであるTFMC(東京ファッションモデルクラブ)の分裂騒動により発足、現存する最古参のモデルクラブ)へ所属。[[1950年代]]後半(昭和30年代前半)において、人気[[ファッションモデル]]として、各デザイナーのショーや「週刊朝日」をはじめとする雑誌等の表紙グラビア(カバーガール)を飾るなどの活躍を見せる。このモデル時代に「[[ザ・ヒットパレード (テレビ番組)|ザ・ヒットパレード]]」([[フジテレビジョン|フジテレビ]])で、初めての司会を担当している。彼女のモデルでの活躍は[[団令子]]らと共に「ファニー・フェイス」の代表格として「美人」の固定観念を打破する一助となった。
[[ファイル:Yoshimura mari 1960.jpeg|thumb|200px|1960年]]
*[[1960年]](昭和35年)、[[大島渚]]監督の誘いを受けて[[松竹]]「霧ある情事」で[[俳優#性別での分類|映画女優]]として本格的に芸能活動を開始。以後、「黄色いさくらんぼ」、「喜劇駅前シリーズ」の脇役等、約80本の映画に出演。また、「日産スター劇場」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])など、[[テレビドラマ]]にも活躍の場を広げた。他方、当時隆盛を極めた学生運動等にも賛同しており、リベラルな思想の持ち主としても知られていた。
*[[1966年]](昭和41年)[[12月]]、フジテレビ系「[[小川宏ショー]]」の2代目ホステスとなり、以後、女優業を休業し司会者へと転身。当初、番組制作サイドは「夜のイメージ」があるという理由で起用に難色を示し、朝の番組ではまず珍しかったミニスカートを履いて司会をするというスタイルには視聴者の反発も強かったといわれているが、それまでの女性司会者にはない個性の強さがかえって20代・30代の主婦層が共感を覚え、徐々に支持を得るようになった。
*[[1968年]](昭和43年)3月、日本コカ・コーラ等、海外企業の日本での現地法人設立に数多く参画していた実業家の大伴昭(後に日本ポラロイド、[[キヤノン]]取締役、カルティエ・ジャパン社長を歴任。2018年没、享年89)と再婚。「小川宏ショー」を降板するが、同年[[11月]]、フジテレビ系「[[夜のヒットスタジオ]]」スタートと同時に当時の人気司会者・[[前田武彦]](マエタケ)と共に司会に抜擢される。当初はマエタケのアシスタント的色彩が強かったが、マエタケ降板の後からは彼女がこの番組の屋台骨となり、男性司会者は[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]、[[井上順]]、[[古舘伊知郎]]と交替する中、芳村は[[1988年]](昭和63年)[[2月]]の'''第1000回'''で降板するまで司会を担当。男性がメイン、女性がアシスタントというMCスタイルが多かった中で、台本を片手に持ちながら「自然体」の話術で進行をするという独特な司会スタイルが受け、「女性でメインをはれる司会者」の草分けとしてその名をテレビ史に残した。また、そのヘアスタイルやファッションはこの番組の名物となった。出演歌手、特に新人歌手の場合、極度の緊張で臨むことが多かったといわれる「ヒットスタジオ」の中で、その緊張感をほぐす精神的支柱としての役割をも担うことが多かったり、女優・男優を出演させる際には彼女の人脈が重要であった等、「ヒットスタジオ」における彼女の存在感は絶対的なものがあった(後年、[[石野真子]]<ref group="注">『夜のヒットスタジオ』最終回(1990年10月3日放送)での発言より。</ref>や[[工藤静香]]<ref group="注">『夜のヒットスタジオ・超豪華・秋スペシャル』(1994年10月12日放送)での発言より。</ref>もこのことについては述べている)。
*その後も、「[[3時のあなた]]」(フジテレビ)、「[[ラブラブショー]]」(フジテレビ)、「[[料理天国]]」([[TBSテレビ|TBS]])など斬新な企画を目玉とする番組の司会を担当。また、「[[FNS歌謡祭]]'77〜'86グランプリ」(フジテレビ)、「[[新春かくし芸大会]]」(フジテレビ)といった大型番組の司会も長年にわたり務め、[[黒柳徹子]]、[[うつみ宮土理]]らと共に1980年代までは大物女性司会者の一人としてブラウン管でもお馴染みの顔であった。芳村の、男性司会を立てつつ進行をしていくというスタイルは「くだけた感じの品位」という絶妙の雰囲気を番組にもたらし、各番組の長寿化を後押しする一助となった(特に「かくし芸」での[[高橋圭三]]とのコンビ、「[[FNS歌謡祭]]'78〜'86グランプリ」での[[露木茂]]とのコンビ、「料理天国」での[[西川きよし]]とのコンビ、「夜ヒット」での[[井上順]]とのコンビはそれぞれ約10年近くに渡る長期司会となった)。
*1988年2月に「この辺りで人生の一区切りを付けたい」という意思を表明して、約20年間にわたってレギュラー司会者を務めた「夜のヒットスタジオ」を降板した。1990年頃までは「[[知ってるつもり?!]]」、「[[クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!]]」(いずれも[[日本テレビ放送網|日本テレビ]])などにもゲスト出演していたが、1992年、これも長く司会を務めたTBS「料理天国」終了と同時に、司会業等の主だった芸能活動は事実上セミリタイアとなり、その後メディアへは単発的なゲスト出演がメインとなる。
*その後、1996年には森林の育成などをテーマとする「MORI MORIネットワーク」を立ちあげ副代表に就任、他にも(株)ミキモト取締役(現在は同社顧問)や自身の経営するコスメティック・カウンセリング会社の取締役(ズムズム株式会社など)、[[林野庁]]林政審議会委員(2001年 - 2006年)や(財)福澤記念森林会理事など政府系機関や財団・NPO法人の委員・理事を務めるなど経営・文化活動が中心的な活動となっている。特に「MORI MORIネットワーク」、林政委員会委員としての活動は活発的であり、熱帯林問題が深刻となっている[[タスマニア島|タスマニア]]など[[環境問題]]を抱えている外国への視察訪問や各地での植林啓発活動にも深く関わっている。
*「料理天国」終了後は「[[午後は○○おもいッきりテレビ]]」に不定期にコメンテーターとして出演していた。2000年代後半以降は、年に数回登場する程に減少、テレビ界での活動を極力控えて、1年の大半をプライベートや植林・環境保護の仕事の関係で海外や地方で過ごす毎日を過ごしている。モデル時代に数多く表紙を飾った「[[婦人画報]]」で「真理の真理(まりのしんり)」というタイトルの連載を執筆し、ファッションについての様々な一家言を述べている。
*2014年の定期健診で[[動脈瘤]]があることが判明。早期の発見だったため大事には至っていないが、この出来事で「残りの人生を大切にしたい」との思いが芽生えたという。2015年頃からはテレビ番組のゲストとして、往年のレギュラー番組にまつわる秘話を披露することや、かつて番組で共演していた歌手・司会者と再会することが相次いでいる。2017年2月13日には、[[TBS系列]]でおよそ4時間にわたって放送された『[[歌のゴールデンヒット]]〜オリコン1位の50年間〜』([[堺正章]]司会の特別番組、第1弾)へスペシャルゲストとして出演。『[[夜のゴールデンショー]]』以来47年振りに、堺とのコンビで一部のコーナーの司会進行を担当した<ref>[httphttps://www.tbs.co.jp/utanogoldenhit/ 『歌のゴールデンヒット〜オリコン1位の50年間〜』番組公式サイト]</ref>。
*[[2018年]][[1月3日]]生放送の[[BS朝日]]「[[人生、歌がある]]」の生放送!新春5時間スペシャルもて特別出演しサブ司会という立場で田原俊彦と共に久々の生放送司会を担当した<ref>BS朝日 公式ページ https://www.bs-asahi.co.jp/jinseiutagaaru/lineup/prg_100/</ref>。生放送中に数回の衣裳チェンジもお披露目した。この番組の演出・プロデューサーは夜ヒット時代の[[疋田拓]]である。
 
== エピソード ==
=== 家庭関連・モデル時代 ===
*1男3女兄妹の長女。女優の[[吉村実子]]は実の妹(三女。なお、真理、実子の間にいた次女は30代で夭逝している)、彼女と結婚していた俳優の[[石立鉄男]]は義弟に当たる。前夫のミッキー・カーチスとの間に息子が1人おり(元歌手の大伴修)、修の娘(芳村の孫)は歌手のKaya(大伴花矢)である。大伴昭との間に子供はいない
*実兄は[[東京新聞]]社会部の記者として長年、同新聞の学芸欄(学術・芸能関係の記事)の編集に従事していた。
*ミニスカートを日本の女性タレントで最初に着た人物との説がある(芳村と親交のある[[野際陽子]]説もある){{要出典|date=2016年8月20日 (土) 17:15 (UTC)}}。
 
=== 女優時代 ===
*略歴で記した経緯から、女優時代には[[松竹]]に在籍していたが、正規の入社手続きを経てい専属契約ではい”外様"扱いであったため、事実上は[[五社協定]]の拘束を受けないフリーランスの立場で活動をしており、既に女優デビューして程なくの頃からテレビドラマの世界にも進出。<ref groupname="#1">https://web.archive.org/web/20160921112156/http://www.isec-j.co.jp/10intrvw/room0304/room07.html</ref>特に[[1960年]]放送の生放送ドラマ「私がえらんだ人」([[日本テレビ放送網|日本テレビ]])では、モデル出身という経歴を活かした早着替えの特技を披露し、強烈な個性を発揮。若手の個性派女優として注目を集めるようになった。
*カーチスとの離婚後、正式に松竹を離れて他社製作の映画にも進出。離婚早々に出演した[[東映]]製作の『[[くノ一忍法]]』(1964年)ではセミヌード姿や[[名和宏]]らを相手に激しい濡れ場にも挑戦、新境地を開拓し、以後はテレビドラマを中心に主に悪女役を多数好演する。しかし、当人の希望している役柄とはあまりに隔たりがあったこともあり、次第に「女優という仕事は肌に合わない」と痛感。『小川宏ショー』の司会抜擢を機に、女優業廃業を決意した。
 
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=== 夜のヒットスタジオ ===
*[[前田武彦]]と共に『夜のヒットスタジオ』の初代司会に抜擢された理由は、番組がスタートする約1年前に放送された[[ニッポン放送]]のラジオ番組「男性対女性」のなかで展開された二人のやり取りを気に入った構成作家の[[塚田茂]]が、番組の初代プロデューサー・伊藤昭に推薦したためである<ref group="注">『マエタケのテレビ半生記』(前田武彦・著、[[いそっぷ社]]刊)より。</ref>。しかし、芳村も前田も大のジャズファンではあるものの歌謡曲に対する造詣は皆無に等しく、「歌謡番組の司会者」としてオファーをかけても断られるのが関の山だろうと考えた伊藤は、あえて「'''ジャズ番組の司会者」と偽って'''、「夜ヒット」への出演を依頼。「大好きなジャズをたくさん聞けるのなら」と芳村は二つ返事で仕事を引き受けたが、いざ初回のリハーサルに参加するや、当日出演するゲストの顔ぶれが歌謡曲の分野で活躍する歌手ばかりで「(伊藤に)騙された」と酷く落胆し、一度はすぐにでも番組降板を申し出ようとも考えていたと、芳村は自著<ref group="注">『芳村真理の夜のヒットスタジオDELUXE』(フジテレビ出版刊)より。</ref>で回顧している。
*『夜ヒット』などの生放送の番組を務める時には必ずといっていいほど、台本(または進行表やメモ書き)を携帯するスタイルを採っていた。
*『夜ヒット』での共演が縁で[[1987年]]には夫と共に[[古舘伊知郎]]の結婚式の仲人を務めている。婚約会見のとき、すでに古舘の妻は一人目の子供を身ごもっており、腹部が膨らんでいることを記者が質問した際、芳村は「'''こういう形のドレスなんです'''」と述べ夫人、妻を庇った<ref groupname="#2">『喋らなければ負けだよ』(古舘伊知郎・著、[[青春出版社]]刊)より。</ref>。
*古舘の司会初回の際、相当の緊張状態に達していた古舘をフォローするため、芳村は「'''時間が経てば終わるのよ'''」という言葉をかけた。古舘はこの言葉をかけられて、自然と気が楽になったと述べている<ref groupname="#2">『喋らなければ負けだよ』(古舘伊知郎・著、[[青春出版社]]刊)より。</ref>。
*[[光GENJI]]が番組初出演の挨拶をしに芳村の楽屋を訪れた際、「ちわーす。」という軽い挨拶だけで楽屋を後にしてしまったという。彼ら以外にも、担当末期の頃になると、これまでの芸能界・テレビ界のルールや仕来りに捉われないスタンスで周囲に振舞う歌手やスタッフが増えてきており、彼らの自由な立ち居振舞いを通じて「もうここには私の居場所はない」と若い歌手・スタッフとのジェネレーションギャップを強く痛感。このことが、番組を勇退する決意を固めた最大の要因であったとされる<ref groupname="#1">http://www.isec-j.co.jp/10intrvw/room0304/room07.html</ref>。
*番組司会当時、その日のゲスト歌手に声をかけて、本番終了後に食事をご馳走することも多かったという。特に複数回にわたって、芳村の行きつけのワインバーで酒席を共にしたという[[西城秀樹]]や[[未唯mie]](元[[ピンク・レディー]])は、バーでの芳村の立ち振る舞いから「本当の意味での大人の社交術を(芳村から)教わった」と後年、感謝の念を述べている<ref group="注">1992年放送のTBS系特番、『芸能界クイズ大作戦』でのVTRインタビュー内の発言より</ref>{{出典無効|date=2020年8月|title=事実確認の機能を欠く情報源}}
*当日の本番で身に付ける衣装のコーディネートに困っている女性歌手などには、頻繁にアドバイスを送ったり、特別にスタイリストを買って出ることもあったという。[[1987年]][[9月9日]]放送では、同月のマンスリーゲストであった[[八代亜紀]]とのコラボレーション企画として、芳村による衣装コーディネート企画が正式な番組イベントの一環として組まれたこともある。
* 上記の八代、西城、未唯mieのほか、番組担当当時には[[梓みちよ]]、[[アン・ルイス]]、[[小柳ルミ子]]、[[高田みづえ]]、[[田原俊彦]]、[[近藤真彦]]、[[中森明菜]]、[[郷ひろみ]]、[[石野真子]]、[[布施明]]、[[薬丸裕英]](元[[シブがき隊]])らとも親しい関係にあった。特に高田に関しては、彼女の結婚披露宴の際に新婦側の来賓として祝辞を行っているほか、芳村が番組を勇退した際には、夫の[[若嶋津]](現・二所ノ関荒磯親方)と共に彼女に花束を渡すために、芸能界[[引退]]以来約3年ぶりに公の場に登場するなど殊に深い親交を持っていた。
 
=== 料理天国 ===
*『料理天国』司会当時は、毎回、番組で紹介した料理を持参したタッパーに入れて家に持ち帰っては家族に振舞っていたという。
 
=== その他 ===
*他者が芳村を呼ぶ際、「芳村さん」よりも「'''真理さん'''」と呼ぶことが多い。ただし、「料理天国」で長年相棒を務めた西川きよしは自分よりも10歳以上年齢が上であることや芸能生活も長いことなどをふくめ芸人の間柄でよく使われる「(芳村の)お姉さん」という呼称で芳村のことを呼んでいた。
*[[1988年]][[4月28日]]放送の「[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]」でテレフォンショッキングのゲストとして登場した際、その時着用していたハイヒールが床の隙間に挟まってしまい身動きが取れなくなってしまうというハプニングが起きたことがある<ref>{{efn|この際に芳村が「お友達」として紹介したのが[[田原俊彦]]であり、翌[[4月29日]]放送の田原がゲスト出演した「いいとも!」が番組最高視聴率、27.9%を記録している。</ref>}}
*戦時中は兄とともに[[宮城県]]飯野川町(現・[[石巻市]])に疎開。豊かな宮城の自然に囲まれながら小学生時代を過ごした。その時の経験が「MORI MORIネットワーク」設立を思い立った契機となっているという<ref group="注">https://web.archive.org/web/20140725101346/http://park5.wakwak.com/~isao/news_topics/snc_99/yoshimura.html[https://archive.ph/3Gh2]</ref>。
 
== 出演 ==<!--
単発のゲスト出演は不要。レギュラー番組のみ記述をお願いします。「プロジェクト:芸能人」参照 -->
=== テレビ司会 ===
芳村は「夜ヒット」を初め「[[FNS歌謡祭]]'77〜'86グランプリ」「新春かくし芸大会」というフジテレビの年末年始の一大イベントといえる大型番組を長年担当したり、「小川宏ショー」「3時のあなた」というフジテレビワイドショー番組の源流となっている2番組のホステス役も務めるなど、{{独自研究範囲|元祖「フジっ子」(フジテレビ番組を好んで出演するタレント、もしくはフジテレビの番組が好きな視聴者を意味する言葉)ともいえる存在であり、フリー司会者であったが、[[1980年代]]までのフジテレビを語る上ではまず欠かすことができない人物であるということができる|date=2017年5月}}
 
==== レギュラー番組 ====
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*[[料理天国]](1975年10月 - 1992年9月、[[TBSテレビ|TBS]]系)※相手役は西川きよし→[[金田賢一]]→[[小林繁]]→[[渡辺徹 (俳優)|渡辺徹]]と交替
*[[八木治郎ショー]](1977年10月 - 1980年9月、[[毎日放送]])
*[[金曜娯楽館]](1979(1980121月 - 1980年8月、日本テレビ系)※[[山城新伍]]と司会
*[[悪友親友]](1981年10月 - 1984年3月、TBS系)
*世界名画劇場(解説。NHK教育)
*気分はインテリア(1985年4月 - 1986年3月、テレビ朝日系)
*芳村真理のTVトレンディ(1989年10月 - 1990年3月、[[テレビ東京]]系)※[[中山秀征]]と司会
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*[[思い出のメロディー]](1979年度、[[日本放送協会|NHK]])※[[相川浩]]と司会
*[[世紀の祭典]](1969年 - 、フジテレビ系)※数回司会を担当
*[[ライオン (企業)|ライオン]]スペシャル・Doファッション 歌う[[両国国技館|国技館]](1984(198510月・1985年32月、フジテレビ系)※両国国技館の竣工記念(1984年秋)、および杮落とし記念(1985年春)番組として『[[ファミリーワイド|木曜ファミリーワイド]]』枠で放送、井上順・堺正章と司会
*[[水曜スペシャル|水曜スーパーキャスト]]・[[郷ひろみの宴ターテイメント]](1989年、[[テレビ朝日]]系)※特別司会扱いで郷と番組進行を担当
*テレビ朝日開局30周年記念番組・[[大爆笑!テレビ30年夢のオールスター大集合 (生) スペシャル]](1989年、テレビ朝日系)[[タモリ]]と総合司会)
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*[[秋津温泉]](1962年、松竹)
*[[くノ一忍法]](1964年、東映)※主演
* [[黒い猫]](1965年、東映)
* [[昨日のあいつ今日のおれ]] (1965年、松竹)
*[[駅前シリーズ|喜劇 駅前医院]](1965年、[[東宝]])
*非行少女ヨーコ(1966年、東映)
187 ⟶ 189行目:
*爆報! THE フライデー(2017年4月21日、TBS系)※スタジオゲスト出演、再現VTRでこれまでの経歴を紹介し井上順とも涙の再会をした
*[[中居正広の金曜日のスマたちへ]](2017年5月19日、TBS系)※「金曜日のリクエスト」という企画の第1回ゲストとして、[[西城秀樹]]と30年振りに再会した。
*[[人生、歌がある]](2018年1月3日、BS朝日) - 生放送!新春5時間スペシャルにて特別出演し田原俊彦と共にサブ司会を担当した。
*[[おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR, NO LIFE!|おぎやはぎの愛車遍歴 NO CAR,NO LIFE!]](2022年2月5日、2月12日(予定)、BS日テレ)
*[[人生、歌がある|人生、歌がある お正月!5時間スペシャル2024]](2024年1月1日 - 3日、BS朝日 / P&D) - 新春特別番組第一夜~第三夜のスペシャルゲスト司会として出演。
ほか
 
194 ⟶ 199行目:
=== ラジオ番組 ===
*[[クローズアップにっぽん]](1979年 - 2001年、[[TBSラジオ]]など[[Japan Radio Network|JRN]])
*[[セキスイハイム近畿 3世代ミュージックハイム]](2022年2月6日 - 毎週日曜7:30~7:55、[[エフエム大阪|FM大阪]])
 
=== CM ===
202 ⟶ 208行目:
*第1回[[日本ジュエリーベストドレッサー賞]]50代部門(1990年)
*[[日本映画批評家大賞]]ゴールデン・グローリー賞(2006年)
 
== 音楽 ==
 
=== アルバム ===
{| class="wikitable"
!発売日
!規格
!規格品番
!アルバム
|-
! colspan="4" |[[キングレコード]]
|-
|1969年
|LP
|SKK-513
|'''愛のささやき -<small>真理と貴方の夜-</small>'''
 
※ ナレーター:芳村真理、ハミング:[[香山ユリ]]、構成:[[西川ひとみ]]、編曲:[[萩原秀樹]]。
 
SIDE A:
 
# 知りすぎたのね(作曲:[[なかにし礼]])
# [[花と蝶]](作曲:[[彩木雅夫]])
# 私って駄目な女ね(作曲:[[奥村英夫]])
# [[恋のしずく]](作曲:[[平尾昌晃]])
# [[愛のさざなみ]](作曲:[[浜口庫之助]])
 
SIDE B:
 
# [[ベッドで煙草を吸わないで]]
# 誰もいない処で(作曲:[[中洲朗]])
# [[涙のかわくまで]](作曲: [[宮川泰]])
# [[年上の女]](作曲:彩木雅夫)
# 朝のくちづけ(作曲:[[鈴木淳 (作曲家)|鈴木淳]])
|}
 
== 著書 ==
216 ⟶ 257行目:
*『生きるお手本―一千年のバトンタッチ 語り継ぐ希望・勇気・未来〈下〉』(1996年10月、[[ハースト婦人画報社|婦人画報社]])ISBN 4573210415 ※[[残間里江子]]、森岡まさ子、淡谷とし子、[[メイ牛山]]らと共著
 
== ==
{{Reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|group="注"|2}}
 
== 関連項目 ==
*[[女性モデル一覧]]
*[[日本の女優一覧1950年代以前生まれ]]
*[[東京都出身の人物一覧]]
*[[夜のヒットスタジオ]]
234 ⟶ 277行目:
{{FNS歌謡祭司会}}
{{日本ジュエリーベストドレッサー賞受賞者}}
{{Normdaten}}
 
{{DEFAULTSORTデフォルトソート:よしむら まり}}
[[Category:日本の女優]]
[[Category:悪役モデル出身の俳優]]
[[Category:日本の女性タレント]]
[[Category:日本の司会者]]
[[Category:日本の女性ファッションモデル]]
[[Category:日本の女性実業家]]
[[Category:夜のヒットスタジオ]]
[[Category:東京都立西高等学校出身の人物]]
[[Category:東京都区部出身の人物]]
[[Category:1935年生]]