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'''宇土城'''(うとじょう)は、[[熊本県]][[宇土市]]に存在しあっ[[日本の郭である]]。別名'''城山'''・'''鶴城'''ともいう。同市神馬町にあった中世期の宇土城である'''宇土古城'''についても併記する。
 
== 概要 ==
宇土城は[[小西行長]]によって宇土古城の東に位置する丘に築かれた[[平山城]]である。3重の[[天守]]などが建てられたとされるが、小西行長が[[関ヶ原の戦い]]に敗れ、同時期に肥後国[[緑川]]以北たあ[[葦北郡加藤清正]]領してい有するところとなっ[[加藤清正]]が、宇土城攻略を自身功績によっ隠居城とし小西領改修併合して肥加えたが、清正の死一国の大守は廃城となり、宇土城を所有した。その際、宇土城の天守は清正によって[[熊本城]]へ移築され、[[熊本城#櫓|宇土櫓]]となったという伝承があるが、[[1927年]]([[昭和]]2年)に熊本城実施された宇土櫓を解体の大規模修理したに伴う調査の際には移築の痕跡が見られず、[[城戸久]]どによて否定たとされている<ref>城戸久「熊本城宇土櫓造営年次私考」(『建築学会論文集』第30号、1943年)</ref>。
 
1632年([[寛永]]9年([[1632年]]加藤氏改易によって肥後国は[[細川氏|細川]]氏のするところとなった後り、2代藩主[[細川光尚]]1646年(正保3年)従兄弟の[[細川行孝|行孝]]へ3万石を分与して宇土へ置いた([[熊本藩#宇土藩|宇土藩]])。宇土藩は支藩であったため城は持たず、藩庁である[[宇土陣屋]]現在の新小路町に置かれ、地は荒蕪地とされた。
 
現在、後述する中世期の宇土古城跡(宇土市神馬町)は国の[[史跡]]に指定されており、[[歴史公園]]「史跡宇土城跡」として整備され、建物跡・横堀・城門など一部の遺構が復元整備されている。またほか近世宇土城跡は、本丸跡が城山公園として整備され、石垣(ただし、公園整備に際して旧状と異なる石積みが実施されたため遺構として古墳時代箱式垣でない箇所がある)と堀の痕跡が残っているが、二の丸跡は市営地となり、三の丸跡は宅地化進ん数基確認いて往時の面影を留めところは少ない
 
近世期の宇土城跡は、本丸跡が城山公園として整備され、石垣と堀の痕跡が残っているが、公園整備に際して旧状と異なる石積みが実施されたため、遺構としての石垣でない箇所も少なからずある。現存する石垣と堀のうち、公園の敷地内に残る部分については間近に見ることが可能ではあるが、遊歩道など特に整備されているわけではなく、一部は民有地も存在しており、旧城域を一周することはできないので注意を要する。二の丸跡は市営墓地となっており、三の丸跡は宅地化が進み、また学校の敷地となるなど開発が進んでいて、往時の面影を留めるところはほとんどない<ref>昭和後期、三の丸跡における建設工事中、旧宇土城の石垣の一部とみられる巨石が発見されたが、それらの中に線刻の施されたものが存在していた。調査の結果、古墳時代の装飾古墳の石材の一部であることが判明し、現在は宇土市民図書館の裏庭へ移設展示してある。</ref>。
 
なお公園内に立っている小西行長の銅像は、行長をイメージして制作された架空の肖像だが、豊臣政権下の海の司令官として世界(海)に目を向けているため宇土市街には背を向けている<ref>この銅像は宇土市制移行20周年を記念して建立されたが、「清正公さんの敵をなんで建てるんだ」という苦情が寄せられたことから、破壊されることを危惧して数年の間は囲いをして人目に触れないようにしてあったという市職員の証言がある。</ref>。
 
== 歴史 ==
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}}
 
宇土古城は、近世宇土城の少し西側、現宇土市神馬町に位置する。遅くとも平安時代中期には一帯の領主であった[[宇土氏]]によって西岡台と称される独立丘陵に築かれ(このため中世地元では宇土城を指して「西岡台」と通称しており、以後宇土古城を西岡台と表記する)、中央の迫地を挟んで東に主郭となる千畳敷(せんじょうじき)、西に三城(さんのじょう)という2つの[[曲輪]]を持った連郭式の体をなしている。東の千畳敷の周囲は横堀で囲まれており、北から東にかけての斜面には複数の竪堀が穿たれていた。近年、千畳敷と呼ばれる[[曲輪]]跡から多数の掘立柱建築の痕跡と<ref name="中井三浦">[[中井均]]・[[三浦正幸]]監修『よみがえる日本の城 12 熊本城』(学習研究社、2005年)</ref>、東側に[[虎口]]、[[城門]]遺構が発掘されており、一部の遺構については復元表示してある。
 
千畳敷の周囲は横堀で囲まれており、加えて、北から東にかけての斜面には複数の竪堀が穿たれていた。千畳敷からは近年の発掘調査で、きわめて多数の掘立柱建物の痕跡と<ref name="中井三浦">[[中井均]]・[[三浦正幸]]監修『よみがえる日本の城 12 熊本城』(学習研究社、2005年)</ref>、東側に[[虎口]]、[[城門]]遺構が確認されており、一部について復元表示してある<ref>表示された遺構の中に、古墳時代前期の豪族居館がある。中世期における築城の結果大半が削平されており、周溝の底部付近だけが検出されたにすぎないが、当時の大陸で神聖視されていたというガマガエルを意匠とした独特な形状をなしており、熊本県下における唯一の発見事例となっている。</ref>。
[[1998年]]([[平成]]10年)、千畳敷の北側に掘削作業途中の横堀跡が検出され、当時の土木作業工程・技術を示す貴重な事例となっている。さらに、城門遺構付近の横堀からは100点を超す石塔の部材が出土しており、同城の廃城([[破城|城破り]])に伴って念入りな儀式が行われたことを窺わせている。
 
[[1998年]]([[平成]]10年)、千畳敷の北側掘削作業途中の横堀跡が検出確認され、当時の土木作業工程・技術を示す貴重な事例となっている。さらに、城門遺構付近の横堀からは100点を超す石塔の部材が出土しており、同城の廃城([[破城|城破り]])に伴って念入りな儀式が行われたことを窺わせている<ref>千畳敷と三城の間の迫地部分に展示してある石塔部材も、このときの調査により出土したものである。</ref>
一方、三城には比較的大型の建物が存在していた痕跡があり、2012年(平成22年)の発掘調査時に碁石とみられる石製品が出土した。郭の南西麓には幅約10[[メートル|m]]、全長約300mの空堀が存在している。
 
一方、三城における建物跡は少ない代わりに柱穴の径が大きく、比較的大型の建物が存在していた可能性が高いほか、苑池とみられる水たまり跡が検出されている。2012年(平成22年)の発掘調査時には碁石とみられる石製品が出土した。
 
2011年(平成21年)、三城北側斜面の一部で実施した発掘調査では、切岸はおおむね55~60度に整えられていた。
 
三城の南西麓には幅約10[[メートル|m]]、全長約300mの空堀が存在している。部分的に実施された発掘調査の結果、戦国時代中~後期ごろにうがたれた可能性を指摘されている。
 
また千畳敷・三城いずれも、城域各所に矢穴がいくつか存在している<ref>一箇所だけ、矢穴を穿つ前の印だけが施されたものがある。地山から巨岩が露出しているように見え、印を施してはみたものの、実際にはさしたる大きさではなかったことが判明したので矢穴を穿つには至らなかったのであろうが、石材を割り取るまでの工程が垣間見えるようで興味深い事例である。</ref>。いずれも、近世宇土城の石垣部材として用意され、使われずに残ったものとみられるが、三城の主郭北側に転がっている巨石は、もともと庭園に用いられていた石材だった可能性がある。
 
西岡台の正確な築城年代は詳らかでない。一説には[[永承]]3年(1048年)、[[関白]][[藤原頼通]]下向の際に築かれたという。
 
[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の城主であった[[宇土高俊]]は、肥後国へ下向した[[懐良親王]]を網津湊に迎え、隈府へ送ると、自身は終始南朝方に呼応てふるまい北朝方[[阿蘇氏|阿蘇大宮司]]領であった隣の郡浦荘を押領するなど、宇土半島を中心に活動した。
 
[[室町時代]]後半、[[宇土忠豊]]の養子として肥後国守護の[[菊池氏]]から[[宇土為光]]が入る。その為光は[[文明 (日本)|文明]]16年([[1484年]])・[[明応]]8年(1499年)と守護職押領を企てるが失敗する。[[文亀]]元年([[1501年]])、為光は3度守護職押領を企て、ついに成功し肥後国守護となる。しかし[[文亀]]3年([[1503年]])、亡命していた菊池本家の22代[[菊池能運]]の反撃に遭い、西岡台へ籠城するが破れ、殺害された。西岡台には菊池氏家臣の[[城為冬]]が入城するが、[[永正]]元年([[1504年]])に能運が急死すると城氏為冬没落し菊池へ引き上げ、空城となった西岡台には為光の娘婿であるとなっていた[[名和顕忠]]が入った。[[名和氏]]はその後、約80年間にわたり西岡台の城主となる
 
[[名和氏]]はその後約80年間にわたり西岡台の城主となるが、[[天正]]15年([[1587年]])に行われた[[豊臣秀吉]]の[[九州征伐]]に際し、宇土名和氏の6代[[名和顕孝]]は当初島津氏に属していたがすぐに秀吉に降伏し、所領を安堵されるが、同年に起きた[[肥後国人一揆]]に際しては肥後国主に封ぜられた[[佐々成政]]へ合力せず中立を保ったことを咎められた。顕孝はみずから釈明すべく[[大坂城|大坂]]へ赴いた際くが、城代となっを任せた弟の[[名和顕輝]]が秀吉軍の開城勧告を拒否したため討伐され改易となり、名和氏の時代は終わった<ref name="宇土市史">宇土市史編纂委員会『新宇土市史 通史編第二巻』(宇土市、 2007年)</ref>。
 
=== 近世・宇土城 ===
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[[File:Uto Castle (Kinsei), ishigaki.jpg|thumb|220px|right|石垣]]
 
天正16年([[1588年]])[[小西行長]]は、肥後国[[宇土郡]][[益城郡]][[八代郡]]あわせて17万5,000石(諸説あり)を所領すると、宇土古城の東にあった高さ約13[[メートル|m]]の城山(宇土市古城町)に城地を移し、新城を築く計画を立てた。しかし、普請に際して天草の[[国人]]衆が助力を拒否したことから[[天草国人一揆]]が生じたため、実際の普請開始は翌天正17年([[1589年]])頃からと見られている。
 
行長の手になる宇土城は、城郭本体だけでなく、城・武家屋敷・城下町が水堀と[[運河]]によって一体的に結合されることで「[[惣構]]」を形成するという防御的な性格を有していたことが、市内各所の発掘調査によって明らかになりつつある。
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慶長5年(1600年)7月、上方へ出陣していた行長が西軍(石田方)に呼応すると、加藤清正は[[徳川家康]]から8月12日付で肥後・筑後切り取り次第の御内書を取り付ける。9月15日、清正は豊前国の[[黒田孝高|黒田如水]]応援のため[[豊後国]]へ出陣した。しかし、豊後戦線が如水優位になると直ちに軍を反転し、宇土城攻撃に取りかかる。
 
9月19日に前哨戦である石ノ瀬口の戦闘が始まると、翌20日は城下での戦闘を経てとなり同日清正が宇土へ到着した。21日には5方向からの宇土城惣攻めが開始され城の北側、瓢箪渕と呼ばれる大濠を舟で押しわたってきた攻め手を大筒で撃退するなど、小西勢は奮闘するも、10月2日には三ノ丸まで抜かれ、本丸・二ノ丸の攻防戦に入っているが、た。10月13日城代[[小西行景|小西隼人]]は宇土城開城に合意し、14、翌14日に実際に執り行われたので戦闘ないかとされている終結した<ref>阿蘇品保夫[宇土城開城に関する新出史料―(慶長五年)一〇月一三日付清正書状について―](『熊本史学』85・86号、2006年)</ref>。隼人は城内で切腹したとも、隈本城下へ移され謀殺されたとも伝わり消息は判然としないが、熊本市西区横手の禅定寺に小西隼人の墓と伝わる石がある
 
戦後、清正は宇土城を自身の隠居城と定め、おもに主曲輪の改修を行ったが<ref name="秀吉の城">石井正明・高田徹ほか執筆『秀吉の城と戦略』(成美堂出版、1998年)</ref>、大阪城行長時代ように旧城郭遺構いったん埋めつぶし、その上に新しく城普請を行っ清正時代の遺構が作られていた痕跡ことが本丸における発掘調査によって確認されていることからおり、かなり大がかりな工事を行ったであろうことが想定され窺える。その後、清正が[[慶長]]16年([[1611年]])に死去すると、翌慶長17年([[1612年]])、宇土城は[[水俣城]]・[[愛藤寺城|矢部城]]とともに破却された。熊本城の<ref>元禄年間ごろに書かれたとみられる「肥後国宇土軍記」は、かつ関ヶ原合戦における宇土城周辺の戦況を描いたものだが、その文末におい宇土城の堅固さに内心感銘を受けた清正が、同城の天守自身の居城たる(隈本)城内へ移築させて小天守と称したとの説が記してり、その小天守には、いったん建てた後に眺望、平成元年悪い解体修理で少しずらして建て直すよう国許へ命じた清正際にその痕跡指示書見つ残されていることから、熊本県内に広く喧伝されている「宇土櫓は宇土城ら移築説」は、じたのさいには宇土櫓、現在否定されなく小天守を指していた可能性があ。</ref>
 
[[寛永]]9年([[1632年]])、2代[[加藤忠広]]は[[徳川家光]]への謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、同年、肥後国は[[豊前国]][[小倉藩]]主[[細川忠利]]に与えられる。寛永14年([[1637年]])、[[島原の乱]]における[[原城]]のような[[籠城|立て篭もり]]を防ぐため、[[徳川幕府]]は西国の廃城に対し再度の破却を命じ、城跡は徹底的な破却を受けた。その後、城地内には造作禁止令が出され、荒蕪地として放置されたためことから、石垣部材の抜き取りや土採りなどに遭い、しだいに城跡の荒廃が進んだ。
清正は、宇土城を自身の隠居城と定め、おもに主曲輪の改修を行ったが<ref name="秀吉の城">石井正明・高田徹ほか執筆『秀吉の城と戦略』(成美堂出版、1998年)</ref>、大阪城のように旧城郭をいったん埋めつぶし、その上に新しく城普請を行っていた痕跡が本丸における発掘調査によって確認されていることから、かなり大がかりな工事を行ったであろうことが想定される。その後、清正が[[慶長]]16年([[1611年]])に死去すると、翌慶長17年([[1612年]])、宇土城は[[水俣城]]・[[愛藤寺城|矢部城]]とともに破却された。熊本城の宇土櫓は、かつては宇土城天守閣を移築したとの説があったが、平成元年の解体修理の際にその痕跡が見つからなかったので、現在は否定されている。
 
[[正保]]3年([[1646年]])に、[[細川行孝]]が宇土郡3万石を分封され、[[熊本藩#支藩|宇土藩]]が成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町に宇土陣屋を設けて、宇土細川11代拠点とした。その行孝領内の水事情改善のた[[明治時代轟泉自然公園|明治轟泉水道]]を開通したことで、旧城域北側を中心至っている大きく改変を受けた
[[寛永]]9年([[1632年]])、2代[[加藤忠広]]は[[徳川家光]]への謀叛の嫌疑をかけられ改易となり、同年、肥後国は[[豊前国]][[小倉藩]]主[[細川忠利]]に与えられる。寛永14年([[1637年]])、[[島原の乱]]における[[原城]]のような[[籠城|立て篭もり]]を防ぐため、[[徳川幕府]]は西国の廃城に対し再度の破却を命じ、城跡は徹底的な破却を受けた。その後、城地内には造作禁止令が出され、荒蕪地として放置されたため、石垣部材の抜き取りや土採りなどに遭い、城跡の荒廃が進んだ。
 
[[明治時代|明治]]に至ると、向峯にあった武家墓地が手狭になったことから旧二の丸が新たに士族墓地となり、現在の市営墓地となった。
[[正保]]3年([[1646年]])に、[[細川行孝]]が宇土郡3万石を分封され、[[熊本藩#支藩|宇土藩]]が成立するが、支藩であったため城は築かれず、現・新小路町に宇土陣屋を設けて、宇土細川11代が治め、[[明治時代|明治]]に至っている。
 
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[[Category:熊本県の城]]
[[Category:現存しない熊本県の建築物]]
[[Category:熊本県にある国指定の史跡]]
[[Category:肥後国|うと]]
[[Category:宇土市の歴史]]
[[Category:宇土市の建築物|廃うとしよう]]
[[Category:宇土氏|城うと]]
[[Category:名和氏|城うと]]