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{{改名提案|藤原媓子|date=2020年6月26日 (金) 13:06 (UTC)}}
{{記事名の制約|title=藤原媓子}}
{{基礎情報 皇后<!--日本の皇后-->
|名 = 藤原 媓子
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|脚注 =
}}
'''藤原 媓子'''(ふじわら の こうし/てるこ)、[[天暦]]元年([[947年]]) - [[天元 (日本)|天元]]2年[[6月3日 (旧暦)|6月3日]]([[979年]][[6月29日]]))は[[平安時代]]中期、[[関白]][[藤原兼通]]の長女。母は[[有明親王]]([[醍醐天皇]]皇子)の王女・昭子女王。ただし元平親王([[陽成天皇]]皇子)の王女との説もある。[[円融天皇]][[中宮]]。別名に'''堀河中宮'''。
 
== 生涯 ==
[[天禄]]3年([[972年]])父兼通が関白に就任。同4年([[973年]])2月円融天皇に入内。同年4月女御宣下を受け、さらに7月中宮に冊立される。[[貞元 (日本)|貞元]]2年(977年)父兼通が薨去。天元2年(979年)33歳で崩御
 
[[大鏡]]によれば、幼少の頃は父兼通に省みられなかったが優れた人柄であったといい<ref group="注釈">時折[[伏見稲荷大社|稲荷社]]に参詣して父に省みられるように祈ったという。</ref>、また兼通には他に適齢の娘もいなかったことから、当時としては遅い27歳で入内した。なお、当時「中継ぎ」とみなされていた円融天皇への娘の入内を多くの貴族がためらった中で兼通だけが天皇の元服後程なく入内させたこと、円融天皇の同母妹であった[[選子内親王]]を兼通が自邸の堀河殿に引き取って昭子女王・&#x5A93;子母娘が養育したとされる<ref>所京子「大斎院選子の仏教信仰」『斎王和歌文学の史的研究』国書刊行会、1989年(初出は1984年)</ref>ところは注目される<ref>栗山圭子「兼通政権の前提-外戚と後見」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』(明石書店、2017年) P128-134</ref>。
 
夫円融天皇より12歳も年上ながら、夫婦仲は睦まじかったらしい<ref group="注釈">葬送のあした、円融天皇が詠んだという「思ひかね眺めしかども鳥辺山 果てはけぶりも見えずなりにき」の和歌が伝わっている。</ref>が子女には恵まれず、また[[貞元 (日本)|貞元]]2年([[977年]])に父兼通去した後は有力な後見を失い、立后からわずか6年で天元2年(979年)に33歳で崩御した。その結果空いた中宮位を巡って、[[藤原頼忠]]の娘の[[藤原遵子|遵子]]と[[藤原兼家]]の娘の[[藤原詮子|詮子]]が争うこととなる。
 
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
<references/>
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
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[[category:平安時代の后妃後宮]]
[[Category:九条流|こうし]]
[[Category:10世紀日本の女性皇族]]
[[Category:947年生]]
[[Category:979年没]]