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{{出典の明記|date=2018年5月}}
{{改名提案|ウォール・ストリート|t=ノート:パーク街|date=2019年3月}}
{{Otheruses|ニューヨークにある金融街|1987年のアメリカ映画|ウォール街 (映画)}}
{{Redirect|ウォール・ストリート|2010年のアメリカ映画|ウォール・ストリート (映画)}}
[[画像:Photos NewYork1 032.jpg|thumb|250px|ウォール街と[[ブロードウェイ]]の交差点から見た[[ニューヨーク証券取引所]]]]
 
'''ウォール街'''(ウォールがい、{{lang-en-short|Wall Street}}、'''ウォールストリート''')は、[[アメリカ合衆国]][[ニューヨーク州]][[ニューヨーク市]][[マンハッタン]]の南端部([[ロウアーマンハッタン]])に位置する細い[[通り|ストリート]]の一つ。[[ブロードウェイ]]から東へ[[イースト・リバー]]に下る場所にある。
 
現在では通りの周辺の区域も含めて、世界の[[金融センター]]「ウォール街」として定着している。[[ニューヨーク証券取引所]]をはじめ米国の金融史とゆかりのある地区である。米国の金融業界や証券市場を指す比喩としての用法もある。
 
ウォール街はかつて[[シティ・オブ・ロンドン]]から[[国際金融市場]]としての主導権を奪った。今では多くの[[金融機関]]がウォール街に置いていた本社機能を移転している。行き先は[[タックスヘイン]]である[[マンハッタン]]の[[ミッドタウン]]、通信にやたら強い[[ニュージャージー州]]、投資税率が下がり従業員の所得税に転嫁され、[[ゼネラル・エレクトリック]]がいる[[ブリッジポート (コネチカット州)|ブリッジポート]]である。[[JPモルガン・チェース]]が最後まで残っていたが、[[2001年]]11月、本社ビルを[[ドイツ銀行]]に売却した。このため、もはやウォール街には純米国資本の大手金融機関の本部は存在しない。
 
付近には[[ニューヨーク連邦準備銀行]]や[[フェデラル・ホール]]、[[トリニティ教会 (ニューヨーク市)|トリニティーチャーチ]]などもある。ブロードウェイを南に少し下ったところにある雄牛像は有名。なお、今や観光名物となったこの[[銅像|ブロンズ像]]「[[チャージング・ブル]](仮訳:突進する雄牛)」は、[[イタリア]]の[[シチリア島]]出身の芸術家[[アルトゥーロ・ディ・モディカ]]([[:en:Arturo Di Modica|Arturo Di Modica]])が制作し、1989年12月15日に無許可で[[ニューヨーク証券取引所]]前に設置したものだが、その後様々な手続きを経て現在の場所に至る。
 
== 歴史 ==
[[画像:Wall Street Sign.jpg|thumb|right|200px|ウォール街の道路標識]]
[[1652年]]、オランダ([[ネーデルラント連邦共和国]])の植民地[[ニューアムステルダム]](現在のニューヨーク)を管轄していた[[オランダ西インド会社]]が、[[アメリカ州の先住民族|インディアン]]や、[[ニューイングランド]]に入植した[[イギリス|イギリス人]]からの攻撃に備えて、木材などを利用して築いた防護壁('''wall''')に由来する。もっとも実際の戦闘で利用されることはなく、[[1699年]]に解体された。
 
=== ウォール街の誕生 ===
[[ファイル:The Night Watch - HD.jpg|サムネイル|[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]画「[[夜警 (絵画)|夜警]]」アムステルダム市民の集団自画像。]]
17世紀終わりごろ、[[八十年戦争]]を背景として[[ベネルクス]]の中心的な都市であった南部の都市[[アントウェルペン]]から大勢の商人が北部の都市[[アムステルダム]]に移住した。{{Sfn|川北稔|1996|pp=30-31}}{{Efn|大量移住の理由には、
 
* 商工業者の多くは[[新教徒]]([[カルヴァン派]]、[[ゴイセン]])であったこと
 
* 独立運動の中で[[フランドル地方]]が荒廃し、商工業者は新天地を求めたこと
 
など、複数の要因が考えられる。}}。こうしてアムステルダムは、[[欧州]]最大の[[商業]]、[[金融]][[都市]]として発展した。また、オランダは[[経済]]的・[[学問]]的な繁栄に加え、[[宗教]]に寛容だったため多くの[[ユダヤ人]]が亡命し、こうした要因もまた、オランダを発展させることになった{{Sfn|木畑洋一|2023|p=199}}{{Sfn|渡辺惣樹|茂木誠|2022|p=24}}。
 
オランダは[[スペイン帝国|スペイン]]の衰退や造船業の発展を背景に1602年、続けて1621年には[[オランダ東インド会社|東インド会社]]、[[オランダ西インド会社|西インド会社]]を設立し、[[アジア]]、[[アメリカ大陸|アメリカ]]に進出した。特に、[[北米]]にはニューネーデルラント植民地・[[ニューアムステルダム]]港を建設した。
 
こうして、[[十七世紀]]前半にはオランダ一国で世界の貿易額の50%を握るようになっていった。また、[[ギルダー]]の発行も行うようになり、世界進出を目論む[[イングランド王国|イギリス]]にとっても大きな障害となった{{Sfn|渡辺惣樹|茂木誠|2022|p=24}}。
 
しかしながら、十七世紀後半の三次にも及ぶ[[第一次英蘭戦争|英蘭戦争]]にてイングランドに敗れ、ニューアムステルダム港は[[ニューヨーク]]と改名された。この頃から、オランダ人が築いた城壁に沿った道が「ウォール{{Efn|{{Lang-en|wall}}}}街」と呼ばれるようになったのである{{Sfn|渡辺惣樹|茂木誠|2022|p=24}}。[[画像:Wall Street Sign.jpg|thumb|right|200px|ウォール街の道路標識]]
[[1792年]]、[[材木]]の取引のために[[商人]]や[[投資家]]が集まり非公式に取引所を開設した。これがニューヨーク証券取引所のはじまりである。
 
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[[1950年代]]を通じて株価が上昇して、インサイダー取引が復活したり、うまみにつられて野良のブローカーがウォール街に押し寄せたりした。その陰では[[投信]]業界が、構成員がほぼ同一の取締役会で、グループのファンド・営業・運用各部門を全て支配した。[[証券取引委員会]]は投信業界がファンド購入者と[[利益相反]]して三部門を統括している問題に手が回らなかった。
 
== 出典 ==
=== 注釈 ===
{{notelist}}
=== 出典 ===
<references />
 
== 参考文献 ==
 
* {{Cite book|和書 |title=教科書に書けないグローバリストの近現代史 |date=2022/3/1 |year=2022 |publisher=[[ビジネス社]] |author=渡辺惣樹 |ref=harv |author-link=渡辺惣樹 |author2=茂木誠 |author2-link=茂木誠 |isbn=978-4-8284-2370-8 |chapter=大英帝国と明治維新 ――近代日本の根本構造とは何か}}
* {{Cite book|和書 |title=砂糖の世界史 |date=1996-07-22 |year=1996 |publisher=岩波書店 |ref=harv |author=川北稔 |author-link=川北稔 |isbn=9784005002764 |series=岩波ジュニア新書}}
* {{Cite book|和書 |title=世界史探求 |date=2023-01-25 |year=2023 |publisher=実教出版 |ref=harv |editor=木畑洋一 |editor-link=木畑洋一 |isbn=978-4-407-20506-0 |location=東京 |pages=198-199 |chapter=近世ヨーロッパの形成と展開}}
 
== 関連項目 ==