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[[画像:Peninsular Railway 52 2006.jpg|250px|サムネイル|ウェスタン鉄道博物館に保存されているペニンシュラ鉄道のインターアーバン]]
'''インターアーバン'''({{Lang-en|Interurban}}、'''都市間電気鉄道''')は、
[[英語]]の発音は'''インタ・アーバン'''に近く、そこから転じて日本では'''インターバン'''と呼ばれることもある。一部書籍では[[ドイツ語]]風の'''インターバーン'''という表記も見られるが、英語由来の単語である<ref group="注釈">そもそも、Interurban は英語で Inter(~間) urban(都市) であって、ドイツ語の「道」bahn と全く別であるから、'''インターバーン'''はドイツ語としては意味をなさない。</ref>。
== インターアーバンの定義 ==
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「インターアーバン」は[[アメリカ合衆国]]を発祥とする。
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当時のアメリカ合衆国で、都市間を結ぶ電気鉄道には二種類が存在した。
一つは都市と[[農村]]を連絡するために建設された[[路面電車]]網がお互いに接続することで都市間の[[ネットワーク]]{{要曖昧さ回避|date=2023年5月}}を形成したケースである。この種の路線は主として[[ニューイングランド]]地方で発達した。農村地域での短距離移動や農村から町に出る際には簡便で適切な[[交通機関]]であったが、都市間(拠点間)移動の分野では所要時間がかかりすぎてあまり
もう一つは、初めから都市間の直結を意図して建設された高速路線である。一般にインターアーバンとはこの後者の種類の鉄道を指す。
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# 市街地では[[併用軌道]]、郊外では[[専用軌道]]を走行する。
# 当初から[[電気鉄道]]として建設されたものが中心だが、
# [[旅客輸送]][[収入]]を主な収入源としていた。
# 車両は[[ボギー車]]で、[[増解結|連結運転]]が行われる事もあった。
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# [[ダイヤグラム|所要時間と運行間隔]]から、50[[マイル]] (80 km) 程度離れた都市間内で最もその能力を発揮した。
# [[1890年代]]から[[1930年代]]までに建設された。
上記の特徴を持つ路線をアメリカ合衆国では'''インターアーバン'''と呼ぶことが多い。
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なお、インターアーバンの公式の
== アメリカのインターアーバン ==
=== 歴史 ===
==== 黎明期 ====
都市間を結ぶ電気鉄道が実用的なものになったのは[[1890年代]]の事である。電気モーターで鉄道車両を走行させる駆動システムには初期の試行錯誤はあったものの、[[フランク・スプレイグ]] (Frank Julian Sprague) が[[1887年]]に開発した[[吊り掛け駆動方式]]は、モーターの回転力を安定して車軸に伝える事を可能にし、以後半世紀にわたって電車の駆動システムの主流をなした。この結果、路面電車の急速な発展がもたらされ、やがては都市市街地以外への電車の進出をも促したのである。[[1893年]]ごろからインターアーバンの建設がはじめられ、[[1900年]]までに3000キロほどの路線が建設された。
==== 最盛期 ====
[[画像:Illinoisrailwaymuseum308.jpg|250px|
インターアーバンが急速に普及したのは
インターアーバンの建設最盛期は[[1908年]]に終焉を迎えた。[[1907年恐慌|1907年に起こった恐慌]]の影響が甚大であった事に加え、期待していたほど利益が得られないことが徐々に判明したからである。ミネアポリスから東部に至るアメリカ北東部の隅々を結ぶ路線計画が練られていたが、そのほとんどは実現することがなかった。
インターアーバンの全盛期はその後の10年間である。当初は既存の鉄道路線に比べて格安の運賃も魅力的であったが、中西部の諸州では鉄道の普通[[運賃]]の上限を規制する法律が制定され、既存の鉄道会社とインターアーバンの運賃格差はほとんどなくなってしまった。アメリカの蒸気機関車による客車普通列車は平均40-50km/h程度で走行していたが、インターアーバンでは併用軌道が存在するために、速度は平均30-40km/h程度に抑制され、その点でも不利であった。このため、既存の鉄道会社の1日に数本という運行本数に対し、1時間に1本程度の運行間隔を確保し、既存の鉄道会社の列車が存在しないルートに盛んに列車を運行するフリークエントサービスで、集客を図っていた。電車の機動性・軽便性を活かした頻発運転は、蒸気鉄道にはないメリットであった。
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インターアーバンの衰退は、[[第一次世界大戦]]後すぐに始まった。第一次大戦期に進められた農村の道路整備により、既にそれ以前から普及し始めていたバスや自家用車が急速に広まり、「[[モータリゼーション]]」が進展したことが原因である。[[1920年代]]のバス路線網の拡張は著しく、1920年代半ばには大陸横断を行うバス路線すら登場した。インターアーバンは軌道維持費用の自己負担など自動車にはない不利な点があった。電鉄各社が自ら[[バス (交通機関)|バス]]の経営に乗り出すことで、1920年代の末頃から路線網の廃止が急速に進んだ。
[[1930年代]]、インディアナ州とオハイオ州では、インディアナ鉄道と[[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]が、高性能車両による路線の生き残りを図った。インディアナ鉄道では、[[アルミニウム合金製の鉄道車両|アルミ合金製の軽量車両]]を導入し、平均速度を50km/hから70km/hに上げるなどの施策で存続を図ったが、利用客の減少、[[ニューディール政策]]に関連して制定された収益の上がる電力事業からの内部補助の禁止を定めた法令、道路整備などの逆境に対抗するのは容易ではなく、[[第二次世界大戦]]末期までに中西部の路線のほとんどは消え去った。[[シカゴ]]の近郊路線の[[シカゴ・ノースショアー・アンド・ミルウォーキー鉄道|ノースショアー線]]、[[サウス
==== 現在 ====
軌道設備がしっかりとしていて、競合する通勤鉄道会社も存在しなかったサウス・ショアー線はその後も存続し、公営組織である
=== 技術 ===
初期のインターアーバンの車両に用いられた技術は、当時の最新の電気鉄道システムであった。[[架線]]電圧は[[直流電化|直流]]600[[ボルト (単位)|V]]が中心で、早くから[[ボギー車]]が用いられ、[[20世紀]]初頭以降に導入された車両は[[総括制御]]も可能であった。軌間は[[標準軌]]である1435mmが中心であるが、アメリカの市街電車では、一般鉄道線貨車の市内への侵入を防ぐために標準軌以外の軌間を採用した都市が多く、それに合わせて特殊な軌間を採用した路線もあった。
長距離路線では変電所の運営コストが問題になったため、[[1905年]]ごろからは、送電効率の高い[[交流電化]]の採用も行われ、交流3300V・6600Vでの電化が行われた。しかし交流整流子モーターを用いる交流電車は、当時の技術では重量や[[電気車の速度制御|速度制御]]の面で問題が大きく、採用した路線は一部、導入期間は短期間に留まった。その後、交流電化と直流電化の両方のメリットを取り入れるために、直流1200V・1500Vの高圧[[直流電化]]が行われ、成功を収めた。
速度に関しては、軌道の水準が低いことと、併用軌道が各所に存在したために、特急電車であっても[[蒸気機関車]]牽引の普通列車に比べても劣ることが多かった。インターアーバン各社は低料金のパーラーカーやフリークエントサービス、停車駅を多く設けることなどで既存の鉄道路線に対抗した。
車両の大きさは、車体長15-20mと路面電車と蒸気運転の鉄道の客車の中間くらいの大きさで、併用軌道区間の急カーブを連結運転で運行できるようにするために長柄の[[連結器]]と連結器の首振り幅に対応した丸みをもった前面形状を持つことが特徴であった。極めて急なカーブにも対応できたのが大きな特徴で、中西部のインターアーバンの統一規格では、直通車両に必要な曲線通過能力として連結運転時の最小通過半径35[[フィート]] (≒10.7m) を要求していた。このため、貫通路を設けることが難しく、一部の例外を除いて車両間の移動を考慮しない車両がほとんどであった。[[食堂車]]の営業を試みた会社も存在したが、車両間に貫通路がないことから列車の全乗客に食事サービスを提供することが難しいため、パーラーカー利用客への軽食のシートサービスとするか、客単価が高く食事時間も長くなることから客の入れ替えを考慮しなくてもいいフルコースの提供をするかのどちらかを選択することがほとんどであった。
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車体の外見上もう一つの特色は塗色にあり、中西部の会社の標準的な塗装であったオレンジ色に塗られた車両は、インターアーバン産業のシンボルであった。この他、プルマン寝台車の標準的塗装であるプルマングリーンの他、赤などの塗色がよく用いられた。赤色は日本ではパシフィック電鉄の塗装として有名だが、サザンパシフィック鉄道のオークランドやオレゴン州内の電車運行区間、中西部や東部の電鉄会社の塗装としても用いられ、「レッド・デビル」「レッド・アロー」といったニックネームが今に伝えられている。
市街地の街路には急坂が偏在し、また盛り土や切り通しの費用を節約するために急勾配が多用され、起伏の多い地域での60[[パーミル|
インターアーバンには[[寝台車 (鉄道)|寝台車]]のサービスも存在した。これらのサービスの規模は小さく、アメリカ[[鉄道の歴史|鉄道史]]の中で占める役割は大きくなかったが、電動車を利用した寝台車のサービスはことに珍しいものといえよう<ref group="注釈">日本における寝台車の電車は、[[1967年]]の[[国鉄583系電車|581系電車]]が初例である。</ref>。
[[Image:Electroliner.jpg|thumb|300px|イリノイ鉄道博物館で保存されている[[エレクトロライナー]]]]
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==== 東部 ====
*[[ポートランド・ルイストン・インターアーバン]]
*[[ワシントン・ボルチモア・アンド・アナポリス電鉄]]
*[[南東ペンシルベニア交通局#フィラデルフィア・サ
==== 南部/南西部 ====
*
*[[ヒューストン・ガルベストン電鉄]]
==== 中西部 ====
*
*[[オハイオ電鉄]]
*[[デトロイト市交通局#デトロイト・ユナイテッド鉄道|デトロイト・ユナイテッド鉄道]]
*
*[[シンシナティ・アンド・レイクエリー鉄道]]
*{{仮リンク|インディアナ鉄道|en|Indiana Railroad}}
*
*[[シカゴ・オーロラ・アンド・エルジン鉄道]](オーロラ・エルジン線)
*[[シカゴ・
*[[シカゴ・サウスショア・アンド・サウス・ベンド鉄道]]([[サウスショアー線]])
*[[アイオワ・トラクション鉄道]]
*[[シカゴ-ニューヨーク・エレクトリック・エアライン鉄道]]
==== 西部 ====
*
*
*[[パシフィック電鉄]]
*[[キー・システム]]
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== 日本における歴史(アメリカとの比較) ==
=== 日本における初期のインターアーバン路線 ===
アメリカにおけるインターアーバン発達の情報は日本にも早期に伝わった。当時の日本で電気鉄道を積極的に推進していた電気技師としては
こうした課題を乗り越え、日本で最初にインターアーバンを開業させたのは[[阪神電気鉄道]](阪神)であった。阪神は、[[大阪市|大阪]] - [[神戸市|神戸]]間の並行線開業に反対する[[鉄道省|鉄道作業局]]が所管する[[私設鉄道法]]ではなく、[[内務省 (日本)|内務省]]と鉄道作業局が共同で所管していた[[軌道条例]]に依拠し、しかも当時の内務省幹部であった[[古市公威]]から「線路のどこかが道路上にあればよかろう」との了解を得ることで、ほぼ全線を高速運転に有利な専用軌道とするという、法の抜け穴を突いた奇策によって、[[1905年]](明治38年)[[4月]]に[[出入橋駅|大阪出入橋]] - [[三宮駅|神戸三宮]]間のインターアーバン路線(後の
日本での初期のインターアーバンとしては、この他に[[1910年]](明治43年)の[[名古屋電気鉄道]]郡部線(後の[[名鉄犬山線]]、[[名鉄津島線|津島線]]など)、[[京阪電気鉄道]][[京阪本線]]の事例などを挙げることができる。いずれも
=== 日本におけるインターアーバンの展開 ===
これ以降も、インターアーバン的な私鉄路線の建設は盛んに行われたが、その性質は本家のアメリカのものとは徐々に乖離するようになっていった。アメリカのインターアーバンの建設が1908年を境にあまり行われなくなったのに対し、日本ではむしろそれ以降に盛んとなり、[[1930年代]]まで新規路線の開業が続いたのは、もっとも大きな相違点と
建設時期や専用軌道区間が多く、通勤輸送が主体であるという特徴は[[ロサンゼルス]]のパシフィック電鉄などにも共通した特徴であるが、日本
電鉄企業自体が[[デベロッパー (開発業者)|ディベロッパー]]となった沿線不動産開発や、日本における鉄道駅併設型百貨店(ターミナル・デパート)経営などは、[[小林一三]]
1920年代から1930年代初頭にかけ、日本における第二世代のインターアーバン路線として[[阪神急行電鉄]](現
これらはいずれも直線主体の[[線形 (路線)|線形]]を備え、直流
これら日本の第二世代インターアーバン各社は
=== 以後の影響 ===
衰退期に入っていた1920年代のアメリカのインターアーバンから日本が直接に学ぶ
こうしたアメリカの電気鉄道技術自体は、インターアーバン衰退後も
日本のメーカーは戦後まで、欧米のメーカとの提携により、その技術を吸収していた。例えば電気機器は、以下のような関係が存在した。現在でもその影響は残っている。
*[[日立製作所]]-[[ゼネラル・エレクトリック]](提携でなく[[リバースエンジニアリング]]の特許回避が目的)
*[[東芝]]-
*[[三菱電機]]-[[ウェスティングハウス・エレクトリック]]
*[[富士電機]]-[[シーメンス]]
*[[東洋電機製造]]-[[イングリッシュ・エレクトリック]](デッカー)(現在は[[アルストム]]に吸収)
大半の電機メーカーは提携先メーカー製品の完全なデッドコピー品<ref group="注釈">スケッチ生産品とも呼ばれる。ただし、ウェスティングハウス・エレクトリック製電動機のデッドコピー品を東芝(芝浦製作所)が製造するなど、提携外のメーカーの製品をコピーした例も少なくない。</ref>を製造してそのノウハウの吸収に努めたが、日立製作所に限っては電動機も制御器もその最初期より独自設計の方針を打ち出していた。
インターアーバンの系譜上にある日本の電気鉄道および電気車技術が、アメリカの影響を脱して独自性を発揮するに至るのは1950年代後半以降のことである。
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 関連項目 ==▼
* [[ライトレール]]
* [[トラムトレイン]]
* [[通勤列車]]
* [[都市高速鉄道]]
* [[インターシティ]]
* [[都市間鉄道]]
== 外部リンク ==
*[
{{Rail-stub}}▼
▲== 関連項目 ==
{{公共交通}}
▲{{Commonscat|Interurbans|インターアーバン}}
▲{{Rail-stub}}
{{DEFAULTSORT:いんたあはん}}
[[Category:アメリカ合衆国の鉄道]]
[[Category:路面電車]]
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