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{{脚注の不足|date=2019年4月22日 (月) 23:34 (UTC)}}
{{Infobox scientist
| name = ジークムント・フロイト<br />Sigmund Freud
| image = Sigmund Freud LIFE.jpg
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| alt =
| caption = フロイト(1922(1921年)
| birth_name = ジギスムント・シュローモ・フロイト<br />Sigismund Schlomo Freud
| birth_date = [[1856年]][[5月6日]]
| birth_place = {{AUT1804}}<br>{{flagicon|BOH}} [[ボヘミア王国|ベーメン王国]]<br>[[モラヴィア辺境伯領|メーレン辺境伯領]]、フライベルク
| death_date = {{死亡年月日と没年齢|1856|5|6|1939|9|23}}
| death_place = {{GBR}}<br>{{ENG}}、[[ロンドン]]
| death_cause =
| residence = オーストリア<br />フランス<br />ドイツ<br />イギリス
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| nationality = [[第一共和国 (オーストリア)|オーストリア]]
| field = [[医学]]、[[神経学]]、[[精神医学]]、[[精神分析学]]、[[精神病理学]]、[[心理学]]
| workplaces = <!-- 研究機関 -->
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| known_for = [[自由連想法]]、[[無意識]]研究、[[精神分析学]]を創始し、後の[[心理学]]や[[精神医学]]の発展に影響
| influences = [[ウィリアム・シェイクスピア]]<br />[[ジャン=マルタン・シャルコー]]<br />[[アンブロワーズ=オーギュスト・リエボー]]<br />[[フリードリヒ・ニーチェ]]<br />[[旧約聖書]]など
| influenced = [[アンナ・フロイト]]<br />[[ヴィルヘルム・ライヒ]]<br />[[オットー・ランク]]<br />[[カール・グスタフ・ユング]]<br />[[シャーンドル・フェレンツィ]]<br />[[メラニー・クライン]]<br />[[カール・ヤスパース]] <br />[[ジル・ドゥルーズ]]<br />[[ドナルド・ウィニコット]]<br />[[ジャック・ラカン]]<br />[[ジャック・デリダ]]<br />[[フェリックス・ガタリ]]<br />[[フロイト=マルクス主義]]<br />[[柄谷行人]] <br />[[フランス現代思想]]<br />[[シュルレアリスム]]など
| awards = <!-- 主な受賞歴 -->
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| signature = FreudSignature.svg
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| footnotes = <!-- 備考 -->
}}
'''ジークムント・フロイト'''({{Lang-de-short|Sigmund Freud}}、[[1856年]][[5月6日]]{{ndash}} - [[1939年]][[9月23日]])は、[[オーストリア]][[心理学者]]、[[精神科医]]。神経病理学者を経て精神科医となり、[[神経症]]研究、[[自由連想法]]、[[無意識]]研究を行った。[[精神分析学]]の創始者として知られる。[[心理性的発達理論]]、[[リビドー]]、[[幼児性欲]]を提唱した。
 
[[精神分析学]]は、[[プシュケー]]の[[葛藤]]に起因する症状を診断し治療を行うための臨床メソッドであり、患者と分析家の対話に特徴づけられる<ref name="Systems">Ford & Urban 1965, p. 109</ref>。また、それに由来するプシュケーと人間主体の関係に関する独特の理論も包含されている<ref>Pick, Daniel (2015). ''Psychoanalysis: A Very Short Introduction''. Oxford: Oxford University Press. Kindle Edition, p. 3.</ref>。精神分析の成立過程においてフロイトは、[[自由連想法]]という診療技術の開発や、[[転移]]の発見を行った。転移は、分析過程において中心的役割を形成するものである。幼児期を含む「性」の再定義から、有名な[[エディプス・コンプレックス]]の理論が演繹され、それは精神分析学の中心的教義となった<ref>Jones, Ernest (1949). ''What is Psychoanalysis?'', p. 47. London: Allen & Unwin.</ref>。願望の不満足なものとしての、[[夢]]の分析の過程で、症状形成の臨床分析と潜在的な[[抑圧 (心理学)|抑圧]]の機構モデルが生まれた。この基礎において、フロイトは無意識の理論を洗練させ、[[イド]]、自我、超自我からなる精神モデルを開発した<ref name="mannoni">Mannoni, Octave (2015) [1971]. ''Freud: The Theory of the Unconscious'', pp. 49–51, 146–47, 152–54. London: Verso.</ref>。フロイトは、[[リビドー]]が存在すると仮定した。リビドーは性的エネルギーであり、精神的な過程や構造に注入されるものである。また、リビドーは性愛的撞着や[[死の欲動]]、強迫的な反復や憎悪、攻撃性や[[神経症]]の罪悪感の源泉を生み出すものとされている<ref name="mannoni2">Mannoni, Octave (2015) [1971]. ''Freud: The Theory of the Unconscious'', pp. 49–51, 146–47, 152–54. London: Verso.</ref>。晩年の著作では、宗教から文化まで広い範囲の批評を行った。
 
全体的に、精神分析は臨床の実践で活用されることは減少しているが、[[心理学]]、[[精神医学]]、[[心理療法]]、[[人文科学]]全体には大きな影響を及ぼし続けている。それ故に、実際の治療効果の懸念、統計的、科学的実証性、[[フェミニズム]]の発展を妨げるか否かなど、多くの議論を生み出し続けている<ref>For its efficacy and the influence of psychoanalysis on psychiatry and psychotherapy, see ''The Challenge to Psychoanalysis and Psychotherapy'', [http://americanmentalhealthfoundation.org/a.php?id=24 Chapter 9, Psychoanalysis and Psychiatry: A Changing Relationship] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090606094737/http://americanmentalhealthfoundation.org/a.php?id=24|date=6 June 2009}} by [[Robert Michels (physician)|Robert Michels]], 1999 and Tom Burns ''Our Necessary Shadow: The Nature and Meaning of Psychiatry'' London: Allen Lane 2013 pp. 96–97.
 
* For the influence on psychology, see [http://thepsychologist.bps.org.uk/volume-13/edition-12 ''The Psychologist'', December 2000] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20141231004848/http://thepsychologist.bps.org.uk/volume-13/edition-12|date=31 December 2014}}
* For the influence of psychoanalysis in the humanities, see J. Forrester ''The Seductions of Psychoanalysis'' Cambridge University Press 1990, pp. 2–3.
* For the debate on efficacy, see Fisher, S. and Greenberg, R.P., ''Freud Scientifically Reappraised: Testing the Theories and Therapy'', New York: John Wiley, 1996, pp. 193–217
* For the debate on the scientific status of psychoanalysis see {{Cite book |last=Stevens |first=Richard |title=Freud and Psychoanalysis |publisher=Open University Press |year=1985 |isbn=978-0-335-10180-1 |location=Milton Keynes |pages=91–116}}, Gay (2006) p. 745, and {{Cite journal|last1=Solms|first1=Mark|year=2018|title=The scientific standing of psychoanalysis|journal=BJPsych International|volume=15|issue=1|pages=5–8|doi=10.1192/bji.2017.4|pmc=6020924|pmid=29953128}}
* For the debate on psychoanalysis and feminism, see Appignanesi, Lisa & Forrester, John. ''Freud's Women''. London: Penguin Books, 1992, pp. 455–74.</ref>。それにも関わらず、フロイトの著作は、現代の[[西洋思想]]や大衆文化に大いに浸透してきた。詩人の[[W・H・オーデン]]は、1940年の詩的称賛において、フロイトは「意見の全体的な雰囲気」を作り出し、フロイトの「下で我々は様々な生活を営んでいる」と述べた<ref>[https://poets.org/poem/memory-sigmund-freud "In Memory of Sigmund Freud"]</ref>。
 
== 生涯 ==
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=== 自然科学者としての出発 ===
[[1873年]](17歳)[[ウィーン大学]]に入学、2年間物理などを学び、医学部の[[エルンスト・ブリュッケ]]の生理学研究所に入り[[カエル]]や[[ヤツメウナギ]]など両生類・無顎類の[[脊髄神経]]細胞を研究し、その論文は、ウィーン科学協会でブリュッケ教授が発表した。
 
またフロイトは、[[脳性麻痺]]や[[失語症]]を臨床研究し論文でも業績を残している。やがて彼は、脳の神経活動としての心理活動を解明するという壮大な目的を抱いたが、当時の[[脳科学]]の水準と照らし合わせると目的へは程遠いという現実にも気づいていた。
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[[1881年]](25歳)ウィーン大学卒業。[[1882年]](26歳)、後の妻マルタ・ベルナイスと出逢う。彼は知的好奇心が旺盛であり、古典やイギリス哲学を愛し、[[シェークスピア]]を愛読した。また非常に筆まめで、友人や婚約者、後には弟子たちとも、親しく手紙を交わした。
 
[[1884年]]から2年間をフロイトは[[コカイン]]研究に情熱を傾けていた。その結果、目・鼻などの粘膜に対する[[局所麻酔]]剤としての使用を着想し、友人の眼科医らとともに眼科領域でコカインを使用した手術に成功した。その後、コカインを臨床研究に使用し始める。しかし[[1886年]]になると世界各地からコカインの常習性と中毒性が報告され、危険物質との認識が広まった。そのため、医学界からは不当治療の唱導者として医学界からは見なされ、追放されなかったものの、不審の目で見られるようになってしまった。
 
=== パリ留学 ===
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{{精神分析学}}
[[File:Structural-Iceberg-ja.svg|thumb|245px|right|フロイトによる構造論]]
[[1886年]](30歳)、[[ウィーン]]へ帰り、シャルコーから学んだ催眠による[[ヒステリー]]の治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが[[自由連想法]]であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を'''精神分析'''({{lang-de-short|Psychoanalyse}})と名づけた。
 
[[1889年]]、フロイトは催眠カタルシスか催眠暗示療法どちらをとるか迷っていたため、催眠暗示で名高い[[フランス]]の[[ナンシー]]に数週間滞在した。この滞在で治療者としての手本と、個々に合わせた治療という技法、催眠暗示の長所短所について意見を聞いた。
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[[1895年]](39歳)、フロイトは、[[ヒステリー]]の原因は幼少期に受けた[[性的虐待]]の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う[[心的外傷]]や[[PTSD]]の概念に通じるものである{{efn2|しかし、フロイトはやがて、「不安神経症」の原因として「性的虐待」を除外するようになる。というのも性的虐待を受けたと訴える患者の多くが、実は性的虐待を受けていないことが分かってきたのである。無論、虐待が皆無だったわけではなく、フロイトは少なくとも数件においては性的虐待がほぼ確実だと報告している。フロイトはしかし、他の大部分が事実に反するからといってそれを無視はせず、むしろ「なぜ」患者がそう考えるのかという側面から考察を進めた。いわゆる「客観的事実」としては誤りでも、患者にとって何かしらの「心的現実」があるという考えである。発達心理学者E.H.エリクソンはフロイトの理論を元にして、神経症患者達が性的な側面において損なわれており、患者達が過去において例外なくその発達課題を適切にこなせていなかったことを見いだした。{{要出典|date=2019-04-23}}}}。これに基づいて彼は、ヒステリー患者が[[無意識]]に封印した内容を、身体症状として表出するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する([[精神分析学#除反応|除反応]]、{{lang-de-short|Abreaktion}})という治療法にたどりついた。この治療法は[[精神分析学#除反応|お話し療法]]と呼ばれた。
 
[[自然科学]]者として、彼の目指す精神分析はあくまでも「[[科学]]」であった。彼の理論の背景には、[[ヘルムホルツ]]に代表される機械論的な[[生理学]]、[[唯物論]]的な科学観があった。[[脳神経]]の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じていた。しかし、彼は脳神経に考察を限っていたわけでもなかった。彼は[[ギムナジウム]]時代に受けた[[啓蒙]]的な教育の影響で、終生[[無神論]]者であり、[[宗教]]もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年に[[アルフレッド・アドラー|アドラー]]、[[カール・ユング|ユング]]をはじめ多くの仲間や弟子たちと袂を分かつことにもなった。
 
[[1896年]]に父ヤーコプが82歳で生涯を終えた。この出来事に強い衝撃を受け、以前からの不安症が悪化して友人ヴィルヘルム・フリースへの依存を高めた。フリースが分析者となり、1年間の幼児体験を回想する自己分析と夢分析から、自己の無意識内に母に対する性愛と父に対する敵意と罪悪感を見出した。この体験について『喪とメランコリー』や『「狼男」の分析』などに表し、のちに『トーテムとタブー』や『幻想の未来』に代表される、精神分析理論の核であるエディプス・コンプレックスへと昇華することとなる。自己・夢分析を始めて1年ほど経った[[1897年]]の4月頃、自身の見た夢の分析を通し、フリースへの怒りと敵意を自覚し始める。父親の死について自己の中であらかた整理がつき、フリースに頼る必要が無くなってきたのである。次第にフリースの説く[[バイオリズム]]という[[占星術]]風の理論、神経症の発症・消失は生命周期によって左右する、というものが荒唐無稽に見え始め、厳しい批判が向くこととなる。[[1900年]]の夏にお互いに批判、非難し合い、[[1902年]]の晩夏には完全に決別した。
 
やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。そして父親への依存を振り切ったフロイトは、[[自我#精神分析学における自我|自我・エス・超自我]]からなる構造論と神経症論を確立させた。
 
自身が[[ユダヤ人]]であったためか、弟子もそのほとんどがユダヤ人であった。また当時、ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ{{efn2|後にフロイトは大学教授の職を手に入れた。{{要出典|date=2019-04-23}}}}。彼は臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。『[[夢判断]]』を含む多くの著作はこの期間に書かれていった。フロイトは日中の大部分を患者の治療と思索にあて、決まった時間に家族で食事をとり、夜は論文の編纂にいそしんだ。夏休みは家族とともに旅行を楽しんだという。
 
===ユングとの出会いと訣別===
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[[1930年]]9月、母アマーリアが95歳で生涯を閉じた。父ヤーコプの時とは違う自分の反応について、「それは自由、解放の感情であって、その理由は、彼女が生きているかぎり、私は死ぬことを許されなかったが、今は私も死んでいいのです。どういうわけか、人生の価値が心の奥深い層で著しく変化してしまいました<ref name="小此木166" />」と、意味深長に述べた。同年に早期の母子関係に関する[[メラニー・クライン]]の研究に言及し、ロマン・ロランが『幻想の未来』発表後に手紙で指摘した「大洋感情」をめぐった論文『文化への不満』を発表した。
 
[[1931年]]になるとウィーン医師協会がフロイトを名誉会員に指名し、故郷フライベルクの市議会が生家に銅の銘をはりつけて、その名誉を記念した。また同年に開催された第六回国際精神療法医学大会では、議長[[エルンスト・クレッチマー|クレッチマー]]が75回の誕生日に敬愛の情のあふれる演説を行った。翌年には作家[[トーマス・マン]]が訪れて、互いに親しい間がらとなった。しかし[[1933年]]に、喜びと引き換えるように25年間もの付き合いがあった[[フェレンツィ・シャーンドル]]が死亡する。「フェレンツィとともに古い時代は去ってゆく。そして私が死ねば、新しいものがはじまるだろう。今は、運命、諦め、それだけしかない<ref>[[#人類の知的遺産|『人類の知的遺産 56 フロイト』]]167頁、II-6 闘病と苦難、より抜粋。</ref>」と、精神的喪失の大きさを語った。
 
[[1932年]]に入ると、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によるユダヤ人迫害は激しくなる。翌[[1933年]]は事態は一段と危機的になったため、フロイトの友人達は国外に亡命していった。出版していた本は禁書に指定されて焼き捨てられた([[ナチス・ドイツの焚書]])のだが、これに対して当人は、「なんという進歩でしょう。中世ならば、彼らは私を焼いたことでしょうに<ref>[[#人類の知的遺産|『人類の知的遺産 56 フロイト』]]168頁、II-6 闘病と苦難、より抜粋。</ref>」と、微笑んでいた{{efn2|その後のナチスによるユダヤ人に対する行動を暗にほのめかしてはいるが、この発言を額面通りに解釈しているユダヤ人歴史学者[[ピーター・ゲイ]]は著書『[[:en:Freud: A Life for Our Time|Freud: A Life for Our Time]]』でフロイトの機知を先見性がないと指摘している。なお、フロイトはナチスに殺害されなかったが、6年ほど後に病苦の末にモルヒネで[[安楽死]]して火葬式で弔われた。}}。ユダヤ人である弟子たちも亡命し始め、弟子がヨーロッパにはアーネスト・ジョーンズ1人となった。ドイツでは精神分析が一掃され、ナチス支配下の精神療法学会の会員は『[[我が闘争]]』の研究を要求されたため、これに反発したクレッチマーが辞職。後任の会長はユングとなり、精神分析の用語(エディプス・コンプレックスなど)さえも規制された。[[1936年]]、迫害と癌の進行が激しさを増すなかで、[[ジュール・ロマン]]、[[H・G・ウェルズ]]、[[ヴァージニア・ウルフ]]ら総勢191名の作家、芸術家からの署名を集めた挨拶状が80歳の誕生日にトーマス・マンによって送られ、9月には4人の子供たちから金婚式のお祝いを受けた。
 
[[1938年]]3月11日、[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス・ドイツ]]が[[アンシュルス|オーストリアに侵攻]]した。フロイト宅にも[[ゲシュタポ]]が2度にわたって侵入し、娘アンナが拉致された。夜には無事に帰ってきたものの、拷問されて強制収容所に送られるのでは、と不安になり、1日中立て続けに葉巻を吸ってはうろうろと部屋を歩き回った。ユダヤ人を学会から追放した時、ユングは自身が会長を務める『国際心理療法医学会』の会員として[[ドイツ国]]内のユダヤ人医師を受入れ身分を保証すること、学会の機関紙にユダヤ人の論文を自由に掲載することの2点を決定し、フロイトに打診した。だが、フロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と言って援助を拒否し、この為ユダヤ人の医師たちは仕事を失い、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]のガス室に送られた{{efn2|国際心理療法医学会はドイツ精神療法学会を前身としており、ナチスが国際心理療法医学会に干渉してナチスへの忠誠を誓うマニフェストが学会誌に掲載されるなど、国際心理療法医学会もナチスから自由ではなかった。{{要出典|date=2019-04-23}}}}。ロンドンへの亡命を説得するためにジョーンズが危険を冒してウィーンに入るも、故郷を去ることは兵士が持ち場を逃げ出す事と同じだ、としてなかなか同意しなかった。最後はジョーンズの熱意に動かされ、愛するウィーンを去る決心をした。出国手続きで3ヶ月かかったのだが、その間にブロイアーの長男の妻の助けに応じて、アメリカ大使ブリットに働きかけて亡命を助けるなど、ここに彼の温かい人柄の一端を忍ばせている。それでも残して来ざるをえなかった4人の妹たちは数年後に収容所で焼き殺されてしまった。
 
6月4日にウィーンを発ち、パリを経由して6月6日にロンドンに到着すると熱狂的な歓迎を受けた。フロイトは亡命先の家に落ち着くと、ハイル・ヒトラーと叫びたいくらいだ、と冗談を言えるほどに回復した。やがてウェルズや[[ブロニスワフ・マリノフスキ|マリノフスキー]]、[[サルバドール・ダリ]]らが次々に訪問した。フロイトは亡命先でも毎日4人の患者の分析治療をし、ユダヤ人はなぜ迫害されるかを改めて問い直した『モーセと一神教』を発表した。その他にも未完に終わった『精神分析概説』や『防衛過程における自我分裂』を執筆するなど、学問活動を続けた。この頃には癌の進行により、手術不能の状態となった。癌性潰瘍によって眼窩と頬がせ細り、手術による傷口からは異臭が漂っていた。それにも関わらず鎮痛剤の使用を嫌い、シュテファン・ツヴァイクが使用を勧めるも、はっきりと考えられないのなら苦痛の中で考えた方がましだ、と彼に訴えた。8月に入ると食事も困難となり、9月には[[敗血症]]を合併して意識も不明瞭となった。
 
[[1939年]]9月21日、末期ガンに冒されたフロイトは10年来の主治医を呼び、「シュール君、はじめて君に診てもらった時の話をおぼえているだろうね。いよいよもう駄目と決まった時には、君は手をかしてくれると約束してくれたね。いまではもう苦痛だけで、なんの光明もない<ref>[[#人類の知的遺産|『人類の知的遺産 56 フロイト』]]173頁、II-6 闘病と苦難、より抜粋。</ref>」と言い、翌朝に過量の[[モルヒネ]]が投与されて、23日夜にロンドンで83歳4か月の生涯を終えた。遺体は火葬された後、骨は[[マリー・ボナパルト]]から送られたギリシャの壺に収められ、現在グリーン・ガーデン墓地に妻マルタと共に眠っている。最後の日々を過ごした家は現在[[フロイト博物館 (ロンドン)|フロイト博物館]]になっている。
 
== 著名な子孫 ==
3人の息子(他はオリヴァー、エルンスト)、3人の娘(他はマティルデ、ゾフィー)がいた。
:英語圏へのった者が多く、その場合は英語読みで「フロイド」と表記される。
 
;長男[[アマルティ・フロイト]](Martin, 1889-1967)
:1958年に回想『父フロイトとその時代』([[藤川芳朗]]訳、[[白水社]]、2007年)を上梓
:遊戯療法の基礎を築く
;三女:[[アンナ・フロイト]]
:末娘で遊戯療法の基礎を築く
;孫:[[ルシアン・フロイド]]
:[[画家]]
;孫:[[クレメント・フロイド]]
:著述家・ブロードキャスター・[[政治家]]
;曾孫:[[エマ・フロイド]]
:[[ジャーナリスト]]
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== 評価と業績 ==
[[File:Sigmund Freud statue, London 1.jpg|thumb|upright|right|ロンドン北西部ハムステッドにあるフロイト像。この像の近くに亡命先の家があった。背後にあるビルは主要な心理医療施設の「Tavistock Clinic」。]]
フロイトは、人間の心の『[[無意識]]』という世界を発見したことによって、[[カール・マルクス|マルクス]]、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]とならんで20世紀の思想に大きな影響を与えた人物の一人ともされる<ref>Frosh, Stephen (1987). The Politics of Psychoanalysis. London: Macmillan. p. 1. ISBN 0-333-39614-6.</ref>。しかし、彼の理論に対しては生前から批判も絶えず{{efn2|「ユダヤ人の似非科学」というような揶揄、非難が浴びせられた。また、苗字の{{lang|de|'''[[:de:Freud|Freud]]'''}}({{lang-yi|פרייַד, פרייד&lrm;}})は{{lang-he-n|[[:wiktionary:he:שִׂמְחָה|שמחה]]&lrm;}} ''Śimḥā<small><sup>h</sup></small>''(シムハー、"喜び"を意味する[[:en:Category:Jewish feminine given names|ユダヤ人女性名]])のイディッシュ語訳 {{lang|he-n|פרייַדע&lrm;}} ''Frayde, Fraydel, Fraydl, Fraydes'' (< {{lang-de|[[:wiktionary:de:Freude|Freude]]}}) に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしば{{lang|de|'''Fraud'''}}(詐欺師)と[[揶揄]]された。一方、精神分析的解釈からすると、言葉の錯誤には無意識の働き([[コンプレックス]]等)が読み取れるため、精神分析派はそうした現象を逆に一種の[[錯誤行為|錯誤]]の結果として解釈するかもしれない。{{要出典|date=2019-04-23}}}}、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象になっている。また、[[シュールレアリズム|シュルレアリズム]]運動を率いた作家たちはその美術運動の[[理論]]的基礎をフロイトに求めるなど精神分析の登場は20世紀文化史における一大事件といってもよいだろう。
 
 
フロイトは、人間の心の『無意識』という世界を発見したことによって、[[カール・マルクス|マルクス]]、[[チャールズ・ダーウィン|ダーウィン]]とならんで20世紀の思想に大きな影響を与えた人物の一人ともされる<ref>Frosh, Stephen (1987). The Politics of Psychoanalysis. London: Macmillan. p. 1. ISBN 0-333-39614-6.</ref>。しかし、彼の理論に対しては生前から批判も絶えず{{efn2|「ユダヤ人の似非科学」というような揶揄、非難が浴びせられた。また、苗字の{{lang|de|'''[[:de:Freud|Freud]]'''}}({{lang-yi|פרייַד, פרייד&lrm;}})は{{lang-he-n|[[:wiktionary:he:שִׂמְחָה|שמחה]]&lrm;}} ''Śimḥā<small><sup>h</sup></small>''(シムハー、"喜び"を意味する[[:en:Category:Jewish feminine given names|ユダヤ人女性名]])のイディッシュ語訳 {{lang|he-n|פרייַדע&lrm;}} ''Frayde, Fraydel, Fraydl, Fraydes'' (< {{lang-de|[[:wiktionary:de:Freude|Freude]]}}) に由来するが、英語圏では、初期の精神分析学に対する社会的不信から、しばしば{{lang|de|'''Fraud'''}}(詐欺師)と[[揶揄]]された。一方、精神分析的解釈からすると、言葉の錯誤には無意識の働き([[コンプレックス]]等)が読み取れるため、精神分析派はそうした現象を逆に一種の[[錯誤行為|錯誤]]の結果として解釈するかもしれない。{{要出典|date=2019-04-23}}}}、彼の業績をどの程度評価するかは未だに議論の対象になっている。また、[[シュールレアリズム]]運動を率いた作家たちはその美術運動の[[理論]]的基礎をフロイトに求めるなど精神分析の登場は20世紀文化史における一大事件といってもよいだろう。
 
正常か異常かを問わず人間の心理は共通同一の原理で動いており、人の行動には無意識的な要素が作用していると考えることは、自身の合理性を疑わない19世紀の知識人を驚かせた。フロイトは、[[催眠]]状態での暗示によって、被験者が実験者の促した行動をとり、かつなぜその行動をとるのかしばらくわからずにいた事実から、「無意識」の行動における影響について着想を得たのだった。
166 ⟶ 176行目:
* [[オットー・ランク]]
* [[メラニー・クライン]]
* [[スネーク・トンプソン]]
* [[カール・グスタフ・ユング|カール・ユング]]
* [[ジャック・ラカン]]
172 ⟶ 183行目:
* [[呉建]]
 
== 主な著作 ==
訳者により、邦題が異なる場合がある。( )内はドイツ語の原題。なお、英語訳のリストについては[[:en:Sigmund Freud#Bibliography|Freud's Bibliography]]を参照。『フロイト全集』([[岩波書店]]、全22巻・別巻1)が、2006年秋より中断をはさみつつ約15年かけ刊行。
 
214 ⟶ 225行目:
 
== フロイトが登場するフィクション ==
;'''小説'''
* 『[[シャーロック・ホームズ氏の素敵な冒険]]』[[ニコラス・メイヤー]]著
* 『[[ホームズ対フロイト]]』[[キース・オートリー]]著
* 『[[ニーチェが泣くとき]]』[[アーヴィン・D・ヤーロム]]著
*『[[キオスク]]』[[ローベルト・ゼーターラー]]著
;'''映画'''
* 『[[シャーロック・ホームズの素敵な挑戦]]』
* 『[[ビルとテッドの大冒険]]』
225 ⟶ 236行目:
* 『[[脳男]]』…精神を病み末期癌を患った連続爆弾犯がフロイトを引き合いに出し、「フロイトはモルヒネで死んだ。私はそんな死に方嫌」と語るシーンがある。
* 『[[マーラー 君に捧げるアダージョ]]』
;'''テレビドラマ'''
* 『[[インディ・ジョーンズ/若き日の大冒険]]』
*『[[フロイト -若き天才と殺人鬼-]]』 [[Netflix]]と[[オーストリア放送協会]]の共同製作、2020年3月23日配信
 
;'''漫画'''
*『[[フロイト1/2]]』[[川原泉]]著…フロイトの幽霊が提灯造りとして登場する。
 
== ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{notelist2}}
 
=== 出典 ===
{{reflistReflist|2}}
 
== 参考文献 ==
{{参照方法|date=2019年4月22日 (月) 23:34 (UTC)|section=1}}
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* {{Cite book|和書|author=[[小此木啓吾]]|authorlink=小此木啓吾|year=1985|title=精神分析の成立ちと発展|series=精神医学叢書|publisher=弘文堂|isbn=978-4-335-65053-6}}
* Freud, S. (1914/1999). Zur Psychologie des Gymnasiasten. In: ''Gesammelte Werke'' (Bd. 10, pp. 203-207). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1914)
* Freud, S. (1933/1999). Warum Krieg? In: ''Gesammelte Werke'' (Bd.16, S.11-27). Frankfurt am Main: Fischer Taschenbuch Verlag. (Original work published in 1933)
* {{Cite book|和書|author=[[ピーター・ゲイ]]|authorlink=ピーター・ゲイ|year=2004|title=フロイト|others=[[鈴木晶]] 訳|publisher=みすず書房}} 全2巻、ISBN 4-622-03188-4, ISBN 4-622-03189-2
* {{Cite book|和書|author=小此木啓吾|year=1978|title=人類の知的遺産 56 フロイト|publisher=講談社|ref=人類の知的遺産}}『フロイト』講談社学術文庫(1989年)。
* {{Cite book|和書|author=[[アンリ・エランベルジュ]]|authorlink=アンリ・エランベルジュ|year=1980|title=無意識の発見|others=木村敏・中井久夫 訳|publisher=弘文堂}}
* {{Cite book|和書|author=[[鈴木晶]]|authorlink=鈴木晶|year=2004|title=([[図解雑学シリーズ|図解雑学]])フロイトの精神分析|publisher=ナツメ社|isbn=481633646X}}
* {{Cite book|和書|authoreditor1=[[新宮一成]]・[[|editor1-link=新宮一成|editor2=立木康介|editor2-link=立木康介]]編|year=2005|title=知の教科書 フロイト=ラカン|series=講談社選書メチエ|publisher=講談社|isbn=4-06-258330-5}}
* {{Cite book|和書|author=[[ハンス・アイゼンク]]|authorlink=ハンス・アイゼンク|title=精神分析に別れを告げよう―フロイト帝国の衰退と没落}} ISBN 4891750855, ISBN 4826502281
* {{Cite book|和書|author=[[ロルフ・デーゲン]]|authorlink=ロルフ・デーゲン|year=2003|title=フロイト先生のウソ(原題:Lexikon der Psycho-Irrtuemer(心理学間違い事典))|publisher=文藝春秋|isbn=4167651300}}
* {{Cite book|和書|author=ジークムント・フロイト|year=2010|title=フロイト全集 第19巻|others=新宮一成、鷲田清一、[[道籏泰三]]、高田珠樹、須藤訓任、石田雄一、大宮勘一郎、加藤敏 訳|publisher=岩波書店|isbn=978-4-00-092679-9}}
* {{Cite book|和書|author=T・H・リーヒー|year=1986|title=心理学史―心理学的思想の主要な潮流|others=宇津木保 訳|publisher=誠信書房}} ISBN 4414302587, ISBN 978-4414302585
* {{Cite book|和書|author=[[斎藤環]]|authorlink=斎藤環|year=2007|title=思春期ポストモダン―成熟はいかにして可能か|publisher=幻冬舎}} ISBN 434498059X, ISBN 978-4344980594
* {{Cite |和書 |author = [[十川幸司]] |title = フロイディアン・ステップ――分析家の誕生 |date = 2019年9月 |publisher = みすず書房 |isbn = 978-4622088103 }}
 
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|de|Sigmund Freud|ジークムント・フロイト}}
{{Commons&cat|Sigmund Freud}}
* [[力動精神医学]]
* [[アンビバレンス]]
* [[疑似科学]] - フロイトの理論は[[反証可能性]]を欠くため疑似科学であると批判されることがある。
* [[抑圧 (心理学)]]
* [[膣オーガズムの神話]]
* [[抑圧された記憶]]
* [[ヴァギナ・デンタタ]]
* [[小児性欲]]
* [[スタニスラフ・グロフ]]
* [[グラディーヴァ]] - フロイトが論じた小説作品
 
== 外部リンク ==
{{wikisourcelang|de|Sigmund Freud|ジークムント・フロイト}}
{{Commons&cat|Sigmund Freud}}
* [http://www.freud.org.uk/ Freud Museum London]{{en icon}} - フロイトが最後の1年を過ごした家を博物館に転用したもの。
* [http://psychclassics.yorku.ca/index.htm Classics in the History of Psychology]{{en icon}} - 心理学の重要な論文が心理学史を追って読めるサイト。フロイトのものもある。
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* {{Cite journal|和書|author=岩切正介 |title=フロイトとヘルバルト.とくにリントナ-編「経験的心理学教本」について |url=https://hdl.handle.net/10131/2758 |journal=横浜国立大学人文紀要 第二類 語学・文学 |issn=0513563X |publisher=横浜国立大学 |year=1988 |month=oct |issue=35 |pages=127-139 |naid=110005857724}}
* {{IEP|freud|Sigmund Freud}}
* {{Kotobank|フロイト}}
* 『[https://www.project-archive.org/0/004.html 言葉・無意識・性(原題:「精神分析の初歩的入門」)]』 - ARCHIVE。精神分析について概略を述べたフロイト自身による講演録(『フロイド選集 第1巻 精神分析入門〈上〉』収録)。
 
{{心理学}}
{{心理療法}}
{{典拠管理}}
{{AT-stub}}
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ふろいと しいくむんと}}
[[Category:ジークムント・フロイト|*]]
289 ⟶ 306行目:
[[Category:精神病理学者]]
[[Category:性の研究者]]
[[Category:ゲーテ賞の受賞者]]<!-- 1930年 -->
[[Category:王立協会外国人会員]]
[[Category:フロイト派心理学]]
305 ⟶ 323行目:
[[Category:1856年生]]
[[Category:1939年没]]
{{AT-stub}}