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'''ジークムント・フロイト'''({{Lang-de-short|Sigmund Freud}}、[[1856年]][[5月6日]] - [[1939年]][[9月23日]])は、[[オーストリア]]の[[心理学者]]、[[精神科医]]。神経病理学者を経て精神科医となり、神経症研究、[[自由連想法]]、無意識研究を行った。[[精神分析学]]の創始者として知られる。[[心理性的発達理論]][[リビドー]]論、[[幼児性欲]]を提唱した。
 
[[精神分析学]]は、[[プシュケー]]の[[葛藤]]に起因する症状を診断し治療を行うための臨床メソッドであり、患者と分析家の対話に特徴づけられる<ref name="Systems">Ford & Urban 1965, p. 109</ref>。また、それに由来するプシュケーと人間主体の関係に関する独特の理論も包含されている<ref>Pick, Daniel (2015). ''Psychoanalysis: A Very Short Introduction''. Oxford: Oxford University Press. Kindle Edition, p. 3.</ref>。精神分析の成立過程においてフロイトは、[[自由連想法]]という診療技術の開発や、[[転移]]の発見を行った。転移は、分析過程において中心的役割を形成するものである。幼児期を含む「性」の再定義から、有名な[[エディプス・コンプレックス]]の理論が演繹され、それは精神分析学の中心的教義となった<ref>Jones, Ernest (1949). ''What is Psychoanalysis?'', p. 47. London: Allen & Unwin.</ref>。願望の不満足なものとしての、[[夢]]の分析の過程で、症状形成の臨床分析と潜在的な[[抑圧 (心理学)|抑圧]]の機構モデルが生まれた。この基礎において、フロイトは無意識の理論を洗練させ、[[イド]]、自我、超自我からなる精神モデルを開発した<ref name="mannoni">Mannoni, Octave (2015) [1971]. ''Freud: The Theory of the Unconscious'', pp. 49–51, 146–47, 152–54. London: Verso.</ref>。フロイトは、[[リビドー]]が存在すると仮定した。リビドーは性的エネルギーであり、精神的な過程や構造に注入されるものである。また、リビドーは性愛的撞着や[[死の欲動]]、強迫的な反復や憎悪、攻撃性や[[神経症]]の罪悪感の源泉を生み出すものとされている<ref name="mannoni2">Mannoni, Octave (2015) [1971]. ''Freud: The Theory of the Unconscious'', pp. 49–51, 146–47, 152–54. London: Verso.</ref>。晩年の著作では、宗教から文化まで広い範囲の批評を行った。
 
全体的に、精神分析は臨床の実践で活用されることは減少しているが、[[心理学]]、[[精神医学]]、[[心理療法]]、[[人文科学]]全体には大きな影響を及ぼし続けている。それ故に、実際の治療効果の懸念、統計的、科学的実証性、[[フェミニズム]]の発展を妨げるか否かなど、多くの議論を生み出し続けている<ref>For its efficacy and the influence of psychoanalysis on psychiatry and psychotherapy, see ''The Challenge to Psychoanalysis and Psychotherapy'', [http://americanmentalhealthfoundation.org/a.php?id=24 Chapter 9, Psychoanalysis and Psychiatry: A Changing Relationship] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20090606094737/http://americanmentalhealthfoundation.org/a.php?id=24|date=6 June 2009}} by [[Robert Michels (physician)|Robert Michels]], 1999 and Tom Burns ''Our Necessary Shadow: The Nature and Meaning of Psychiatry'' London: Allen Lane 2013 pp. 96–97.
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{{精神分析学}}
[[File:Structural-Iceberg-ja.svg|thumb|245px|right|フロイトによる構造論]]
[[1886年]](30歳)、[[ウィーン]]へ帰り、シャルコーから学んだ催眠による[[ヒステリー]]の治療法を一般開業医として実践に移した。治療経験を重ねるうちに、治療技法にさまざまな改良を加え、最終的にたどりついたのが[[自由連想法]]であった。これを毎日施すことによって患者はすべてを思い出すことができるとフロイトは考え、この治療法を'''精神分析'''({{lang-de-short|Psychoanalyse}})と名づけた。
 
[[1889年]]、フロイトは催眠カタルシスか催眠暗示療法どちらをとるか迷っていたため、催眠暗示で名高い[[フランス]]の[[ナンシー]]に数週間滞在した。この滞在で治療者としての手本と、個々に合わせた治療という技法、催眠暗示の長所短所について意見を聞いた。
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[[1895年]](39歳)、フロイトは、[[ヒステリー]]の原因は幼少期に受けた[[性的虐待]]の結果であるという病因論ならびに精神病理を発表した。今日で言う[[心的外傷]]や[[PTSD]]の概念に通じるものである{{efn2|しかし、フロイトはやがて、「不安神経症」の原因として「性的虐待」を除外するようになる。というのも性的虐待を受けたと訴える患者の多くが、実は性的虐待を受けていないことが分かってきたのである。無論、虐待が皆無だったわけではなく、フロイトは少なくとも数件においては性的虐待がほぼ確実だと報告している。フロイトはしかし、他の大部分が事実に反するからといってそれを無視はせず、むしろ「なぜ」患者がそう考えるのかという側面から考察を進めた。いわゆる「客観的事実」としては誤りでも、患者にとって何かしらの「心的現実」があるという考えである。発達心理学者E.H.エリクソンはフロイトの理論を元にして、神経症患者達が性的な側面において損なわれており、患者達が過去において例外なくその発達課題を適切にこなせていなかったことを見いだした。{{要出典|date=2019-04-23}}}}。これに基づいて彼は、ヒステリー患者が[[無意識]]に封印した内容を、身体症状として表出するのではなく、回想し言語化して表出することができれば、症状は消失する([[精神分析学#除反応|除反応]]、{{lang-de-short|Abreaktion}})という治療法にたどりついた。この治療法は[[精神分析学#除反応|お話し療法]]と呼ばれた。
 
[[自然科学]]者として、彼の目指す精神分析はあくまでも「[[科学]]」であった。彼の理論の背景には、[[ヘルムホルツ]]に代表される機械論的な[[生理学]]、[[唯物論]]的な科学観があった。[[脳神経]]の働きと心の動きがすべて解明されれば、人間の無意識の存在はおろか、その働きについてもすべて実証的に説明できると彼は信じていた。しかし、彼は脳神経に考察を限っていたわけでもなかった。彼は[[ギムナジウム]]時代に受けた[[啓蒙]]的な教育の影響で、終生[[無神論]]者であり、[[宗教]]もしくは宗教的なものに対して峻厳な拒否を示しつづけ、そのため後年に[[アルフレッド・アドラー|アドラー]]、[[カール・ユング|ユング]]をはじめ多くの仲間や弟子たちと袂を分かつことにもなった。
 
[[1896年]]に父ヤーコプが82歳で生涯を終えた。この出来事に強い衝撃を受け、以前からの不安症が悪化して友人ヴィルヘルム・フリースへの依存を高めた。フリースが分析者となり、1年間の幼児体験を回想する自己分析と夢分析から、自己の無意識内に母に対する性愛と父に対する敵意と罪悪感を見出した。この体験について『喪とメランコリー』や『「狼男」の分析』などに表し、のちに『トーテムとタブー』や『幻想の未来』に代表される、精神分析理論の核であるエディプス・コンプレックスへと昇華することとなる。自己・夢分析を始めて1年ほど経った[[1897年]]の4月頃、自身の見た夢の分析を通し、フリースへの怒りと敵意を自覚し始める。父親の死について自己の中であらかた整理がつき、フリースに頼る必要が無くなってきたのである。次第にフリースの説く[[バイオリズム]]という[[占星術]]風の理論、神経症の発症・消失は生命周期によって左右する、というものが荒唐無稽に見え始め、厳しい批判が向くこととなる。[[1900年]]の夏にお互いに批判、非難し合い、[[1902年]]の晩夏には完全に決別した。
 
やがて彼の関心は心的外傷から無意識そのものへと移り、精神分析は無意識に関する科学として方向付けられた。そして父親への依存を振り切ったフロイトは、[[自我#精神分析学における自我|自我・エス・超自我]]からなる構造論と神経症論を確立させた。
 
自身が[[ユダヤ人]]であったためか、弟子もそのほとんどがユダヤ人であった。また当時、ユダヤ人は大学で教職を持ち、研究者となることが困難であったので、フロイトも市井の開業医として生計を立てつつ研究に勤しんだ{{efn2|後にフロイトは大学教授の職を手に入れた。{{要出典|date=2019-04-23}}}}。彼は臨床経験と自己分析を通じて洞察を深めていった。『[[夢判断]]』を含む多くの著作はこの期間に書かれていった。フロイトは日中の大部分を患者の治療と思索にあて、決まった時間に家族で食事をとり、夜は論文の編纂にいそしんだ。夏休みは家族とともに旅行を楽しんだという。
 
===ユングとの出会いと訣別===
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[[1931年]]になるとウィーン医師協会がフロイトを名誉会員に指名し、故郷フライベルクの市議会が生家に銅板の銘をはりつけて、その名誉を記念した。また同年に開催された第六回国際精神療法医学大会では、議長[[エルンスト・クレッチマー|クレッチマー]]が75回の誕生日に敬愛の情のあふれる演説を行った。翌年には作家[[トーマス・マン]]が訪れて、互いに親しい間がらとなった。しかし[[1933年]]に、喜びと引き換えるように25年間もの付き合いがあった[[フェレンツィ・シャーンドル]]が死亡する。「フェレンツィとともに古い時代は去ってゆく。そして私が死ねば、新しいものがはじまるだろう。今は、運命、諦め、それだけしかない<ref>[[#人類の知的遺産|『人類の知的遺産 56 フロイト』]]167頁、II-6 闘病と苦難、より抜粋。</ref>」と、精神的喪失の大きさを語った。
 
[[1932年]]に入ると、[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]によるユダヤ人迫害は激しくなる。翌[[1933年]]は事態は一段と危機的になったため、フロイトの友人達は国外に亡命していった。出版していた本は禁書に指定されて焼き捨てられた([[ナチス・ドイツの焚書]])のだが、これに対して当人は、「なんという進歩でしょう。中世ならば、彼らは私を焼いたことでしょうに<ref>[[#人類の知的遺産|『人類の知的遺産 56 フロイト』]]168頁、II-6 闘病と苦難、より抜粋。</ref>」と、微笑んでいた{{efn2|その後のナチスによるユダヤ人に対する行動を暗にほのめかしてはいるが、この発言を額面通りに解釈しているユダヤ人歴史学者[[ピーター・ゲイ]]は著書『[[:en:Freud: A Life for Our Time|Freud: A Life for Our Time]]』でフロイトの機知を先見性がないと指摘している。なお、フロイトはナチスに殺害されなかったが、6年ほど後に病苦の末にモルヒネで[[安楽死]]して火葬式で弔われた。}}。ユダヤ人である弟子たちも亡命し始め、弟子がヨーロッパにはアーネスト・ジョーンズ1人となった。ドイツでは精神分析が一掃され、ナチス支配下の精神療法学会の会員は『[[我が闘争]]』の研究を要求されたため、これに反発したクレッチマーが辞職。後任の会長はユングとなり、精神分析の用語(エディプス・コンプレックスなど)さえも規制された。[[1936年]]、迫害と癌の進行が激しさを増すなかで、[[ジュール・ロマン]]、[[H・G・ウェルズ]]、[[ヴァージニア・ウルフ]]ら総勢191名の作家、芸術家からの署名を集めた挨拶状が80歳の誕生日にトーマス・マンによって送られ、9月には4人の子供たちから金婚式のお祝いを受けた。
 
[[1938年]]3月11日、[[アドルフ・ヒトラー]]率いる[[ナチス・ドイツ]]が[[アンシュルス|オーストリアに侵攻]]した。フロイト宅にも[[ゲシュタポ]]が2度にわたって侵入し、娘アンナが拉致された。夜には無事に帰ってきたものの、拷問されて強制収容所に送られるのでは、と不安になり、1日中立て続けに葉巻を吸ってはうろうろと部屋を歩き回った。ユダヤ人を学会から追放した時、ユングは自身が会長を務める『国際心理療法医学会』の会員として[[ドイツ国]]内のユダヤ人医師を受入れ身分を保証すること、学会の機関紙にユダヤ人の論文を自由に掲載することの2点を決定し、フロイトに打診した。だが、フロイトは「敵の恩義に与ることは出来ない」と言って援助を拒否し、この為ユダヤ人の医師たちは仕事を失い、[[強制収容所 (ナチス)|強制収容所]]のガス室に送られた{{efn2|国際心理療法医学会はドイツ精神療法学会を前身としており、ナチスが国際心理療法医学会に干渉してナチスへの忠誠を誓うマニフェストが学会誌に掲載されるなど、国際心理療法医学会もナチスから自由ではなかった。{{要出典|date=2019-04-23}}}}。ロンドンへの亡命を説得するためにジョーンズが危険を冒してウィーンに入るも、故郷を去ることは兵士が持ち場を逃げ出す事と同じだ、としてなかなか同意しなかった。最後はジョーンズの熱意に動かされ、愛するウィーンを去る決心をした。出国手続きで3ヶ月かかったのだが、その間にブロイアーの長男の妻の助けに応じて、アメリカ大使ブリットに働きかけて亡命を助けるなど、ここに彼の温かい人柄の一端を忍ばせている。それでも残して来ざるをえなかった4人の妹たちは数年後に収容所で焼き殺されてしまった。
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* {{IEP|freud|Sigmund Freud}}
* {{Kotobank|フロイト}}
* 『[https://www.project-archive.org/0/004.html 言葉・無意識・性(原題:「精神分析の初歩的入門」]』 - ARCHIVE。精神分析について概略を述べたフロイト自身による講演録(『フロイド選集 第1巻 精神分析入門〈上〉』収録)。
 
{{心理学}}