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== 特徴 ==
セクリターテの特徴は、メンバー構成員が主として国営の[[孤児院]]出身者から構成されていたことであり、一般住民との接触はかなり制限されていた。「優秀な子供」として選ばれた孤児たちは、洗脳と特殊訓練を受けてセクリターテへと育てられた。ルーマニア社会主義共和国は、この組織の下で徹底的な監視社会となり、「街中のカフェやレストランには必ず[[盗聴器]]が仕掛けられていた」と言われている程である。
 
セクリターテの主要任務としては、[[防諜]]、反体制派対策、[[ニコラエ・チャウシェスク]]大統領と側近の個人警護を担当していた。その外、ルーマニアには純粋な対外諜報機関である参謀本部情報局と対外情報部({{lang|ro|Departamentul de Informatii Externe}}、略称{{lang|ro|DIE}})が存在したにも拘らず、国外でも活動していた。国外でも秘密作戦(反体制派の除去など)のために、セクリターテには「コンドル」グループが存在した。
 
== 歴史 ==
;[[ファイル:Gheorghe Pintilie (Bodnarenko).png|サムネイル|ゲオルゲ・ピンティリー]]1948年~1965年
ルーマニア人民共和国成立後間もない[[1948年]][[8月30日]]に、[[ソビエト連邦]]の協力者であった{{仮リンク|ゲオルゲ・ピンティリー|ro|Gheorghe Pintilie|label=ゲオルゲ・ピンティリー}}を責任者として全国人民保安庁 ({{lang|ro|Direcția Generală a Securității Poporului}} - {{lang|ro|DGSP}}) が発足した。設置当初は[[ルーマニア共産党|共産党]]政権に批判的な[[自由主義|自由主義者]]や[[ルーマニア王国|王制派]]・党内の非主流派などを「反革命分子」「外国のエージェント」として[[民主主義]]勢力を摘発・[[弾圧]]するのが主な任務だった。設立時の職員の民族構成は、総勢3,973 人の内、ルーマニア人 3,334人 (83.92%)、ユダヤ人 338人 (8.51%)、ハンガリー人 247人 (6.22%)、ロシア人 24人 (0.60%)、ユーゴスラビア人 13人 (0.33%)、ドイツ人 5 人 (0.13%)、チェコ人 5人 (0.13%)、アルメニア人 3人 (0.08%)、ブルガリア人 3人 (0.08%)、イタリア人 1人 (0.03%) であった。
 
1960年代~1970年代、[[スペイン]]で「グレナダ」という渾名(あだな)を得た[[ワシレ・ゲオルゲ]]がジョルジェスクの後を継ぎ、ゲオルゲは反体制派の尋問(拷問)に個人的に参加すらしていた。その後、ディンク、ヴラダ、ボブ、ポステルニク、ドラギチがセクリターテの長官となった。
 
;1965年~1989年
[[ニコラエ・チャウシェスク]]が共産党書記長に就任し、国名を[[ルーマニア社会主義共和国]]に改名した1965年以後は、セクリターテの猛威影響は一層強まった。
 
チャウシェスク政権は、ルーマニアの全土に[[盗聴]]器を設置して、民衆を恐怖に陥れた。又、孤児たちに特殊訓練洗脳してセクリターテのメンバーにする一方で、全国の[[小学校]]にも授業時間にセクリターテのメンバーを間諜として送り込み、チャウシェスク政権への不平や不満を政府に報告していた。
 
しかし、[[1978年]]にチャウシェスク大統領の顧問も務めていたルーマニア対外諜報局の[[イオン・ミハイ・パチェパ]]副局長が[[アメリカ合衆国|アメリカ]]に[[亡命]]し、彼から情報を得た[[西側諸国]]によりセクリターテの対外諜報網は壊滅状態に陥った。激怒したチャウシェスクはパチェパの暗殺を命じたが失敗に終わった。
 
=== 崩壊後終焉 ===
[[1989年]]12月の[[ルーマニア革命 (1989年)|ルーマニア革命]]の際にはセクリターテは政権側に立ち、[[ブカレスト]]では反体制に寝返った[[ルーマニア軍|国軍]]兵士との間に銃撃戦が発生した。
 
ニコラエ・チャウシェスクが銃殺されてルーマニア社会主義共和国が倒され、民主国家が立てられた直後のルーマニアでは、[[東欧革命|民主化]]後の[[東ヨーロッパ]]で最も苛烈な[[非共産化|脱共産化]](旧[[共産党]]国家の政府関係者への弾圧)が行われ、セクリターテは解体された。それに伴い、「民主主義の敵だ」として民衆によってリンチ、殺害された共産党関係者も多かった。元セクリターテ長官のディンク、ヴラダ、ポープ、セクリターテの職員だった[[ニク・チャウシェスク]](ニコラエ・チャウシェスク大統領の次男)など、数百人の元セクリターテのメンバーが裁判にかけられた。最後の長官であるドラガッチャは、[[ハンガリー|ハンガリー第三共和国]]に亡命した。
 
また、民主政体下([[1990年]]以後)で施行された法律により、元セクリターテのメンバーに対して公職禁止が布かれた。元セクリターテのメンバーは、[[イスラエル]]の特務機関で働くか、[[極右]][[ナショナリズム|民族主義]]政党「[[大ルーマニア党]]」に避難したり、または裏の犯罪組織に入ったと考えられている。元メンバーのドゥミトレスクは、[[ドイツ]]でルーマニア・ジプシー・マフィア「親衛隊」を率い、かつての同僚を引き込んでいた。また、セクリターテに育成途中だった子供たちの多くは、他の孤児同様に『チャウシェスクの子供たち』と呼ばれる[[ストリートチルドレン]]になったと言われている。