「マックス・シェーラー」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
m r2.7.2) (ロボットによる 追加: eu:Max Scheler |
|||
(22人の利用者による、間の43版が非表示) | |||
1行目:
[[画像:Scheler_max.jpg|thumb|マックス・シェーラー]]
'''マックス・シェーラー'''
▲'''マックス・シェーラー'''('''Max Scheler''', [[1874年]][[8月22日]] - [[1928年]][[5月19日]])は[[ユダヤ]]系の[[ドイツ]]の[[哲学者]]である。[[ルドルフ・オイケン]]の門下生。[[哲学的人間学]]の提唱者。初期[[現象学]]派の一人<ref>([[フッサール]]の弟子・[[ハイデガー]]の兄弟子に当たる。ハイデガーと同じくフッサールから離反するが、ハイデガーとの間に交流があったようである(1829年5月19日のハイデガーによるシェーラー追悼講義など))である。</ref>
== 生涯 ==
=== 誕生からギムナジウムまで ===
マックス・シェーラーは[[1874年]][[8月22日]]に、[[ドイツ帝国]][[バイエルン王国]](現[[バイエルン州]])の首都[[ミュンヘン]]で生まれた。父は[[ゴットフリート・シェーラー]]。[[コーブルク]]の[[侯爵]]の農場管理人として働いていた。母は[[ゾフィー・フュルター]]。ミュンヘンで生まれ育った[[ユダヤ人]]女性である。少年時代のシェーラーは、日曜日には母と伯父ヘルマンに連れられ、ユダヤ人会堂に[[礼拝]]に行った。母は敬虔な[[ユダヤ教]]信者で、こうした儀礼をシェーラーに厳しく身につけさせた。
シェーラーが[[ギムナジウム]]に入学する前に父ゴットフリートが亡くなってしまったため、生活を伯父のヘルマンに頼ることとなったが、シェーラーはこの伯父と相容れなかった。また、母が妹のマルチダを大事にせず虐げていたこともあり、家庭環境から逃れたいという気持ちが増していくようになった。この影響により、14歳の時に[[カトリック教会|カトリック]]の[[洗礼]]を受けた。
この時期シェーラーは、もう一人の伯父であるエルンストと親交を深めるようになった。エルンストはドイツの非ユダヤ的文化になじもうとしていた人物で、シェーラーのユダヤ的な家庭から逃避しようとする態度を理解し、[[フリードリヒ・ニーチェ]]の作品を紹介した。このことをきっかけに、ニーチェの作品に多く触れるようになったシェーラーは後年「カトリックのニーチェ」と言われるほどになった。
また、シェーラーは語学や数学は苦手であったが、自然科学の中でも生物学が好きになり、将来大学の医学部に進むことを考えていたが、進学を後押しし、この面でも心の支えとなっていたのはエルンストであった。
=== 大学時代 ===
シェーラーは、[[1893年]] [[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]の[[医学部]]に籍を置いたが、翌年には[[哲学]]と[[社会学]]を勉強するため[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に移籍した。ベルリン大学には当時、[[ヴィルヘルム・ディルタイ|ディルタイ]]、[[カール・シュトゥンプ|シュトゥンプ]]、[[ゲオルク・ジンメル|ジンメル]]などがおり、彼らの講義から刺激を受けた。
[[1895年]]、シェーラーは[[イェーナ]]に赴き、本格的に哲学の研究に邁進することになる。そこでは哲学のみならず、[[政治学]]・[[経済学]]・[[地理学]]を習得した。このイェーナにおいて、彼は当時[[フリードリヒ・シラー大学イェーナ|イェーナ大学]]の教授であった[[ルドルフ・オイケン]]の影響を強く受けた。それは、オイケンが[[新カント派]]の[[主知主義]]的傾向や当時流行の[[自然主義]]的傾向を批判して、精神の優位性を主張していたからである(「精神論的方法」という)。
シェーラーはオイケンから[[アウグスティヌス]]や[[ブレーズ・パスカル|パスカル]]の偉大さを知らされ、かつ精神の哲学を学び知った。この精神の優位の学説はシェーラーの晩年の哲学的人間学に至るまで一貫していく思想であった。
[[1897年]]、オイケンの指導の下に学位論文『論理的原理と倫理的原理との関係確定への寄与』を執筆し、学位を獲得した。この論文は、道徳的領域は感情や意欲の領域における良心と関係があり、合理的原理や理性に帰することはできないということを主張した論文である。この、道徳的問題を理性的な論理主義によってではなく、感情的な情緒主義から検討していこうとする立場は、その後の彼の著作においても展開されていく。
さらに、[[1899年]]に教授資格論文『超越論的方法と心理学的方法』を提出し、イェーナ大学の私講師となった。この論文も、オイケンの「精神論的方法」からの影響が強く、精神こそが人間の文化活動の様々な連関を可能ならしめるものであり、哲学は精神に関する学説でなければならないとするシェーラーの思想がよく表れている。
=== 結婚遍歴と大学職への影響 ===
ここからは、シェーラーの結婚遍歴を中心に人生概観を記述していく。
シェーラーは生涯のうちで3度結婚をしている。1人目の妻はアメリー・フォン・デヴィッツ、2人目はメリット・フルトヴェングラー、3人目はマリア・ショイである。このうち2人目のメリットは、指揮者[[ヴィルヘルム・フルトヴェングラー]]の妹である。
1人目の妻であるアメリーとの出会いは、シェーラーが[[1893年]]の大学入学前の夏休みに[[チロル地方]]を旅行した際、[[ブルーニコ]]に滞在していた時であった。アメリーはシェーラーより8歳年上の既婚女性で一児もあったが、夫はモルヒネ中毒者のため別居中であった。
彼女はベルリンに居住していたが、[[1894年]]にシェーラーも[[フンボルト大学ベルリン|ベルリン大学]]に移籍しており、彼女と知り合い親しくなった時期と籍を移した時期が重なる。その年の暮れに彼女は別居中の夫と離婚し、シェーラーと暮らし始めた。
シェーラーが教授資格論文を提出し、イェーナで私講師を始める[[1899年]]10月、シェーラーとアメリーは入籍した。[[1905年]]には息子のヴォルフガングも生まれ、[[エトムント・フッサール|フッサール]]と面識を持ったのもこの頃であった。公私ともに幸せな生活を歩むことになるかに見えたが、そう簡単にはいかなかった。このアメリーは嫉妬深い神経質な女性で、シェーラーの周りに醜聞沙汰を引き起こした。
[[1906年]]、妻アメリーが、シェーラーと某出版社の夫人との関係を疑い、大学のパーティーに出席していた夫人を罵り、平手打ちする事件を起こした。このことが醜聞沙汰となり、[[1907年]]秋には住み慣れたイェーナの地を去らざるを得なくなった。
その年には故郷であるミュンヘンに移り、フッサールが、当時[[ルートヴィヒ・マクシミリアン大学ミュンヘン|ミュンヘン大学]]で講師をしていた[[テオドール・リップス]]と知り合いであったこともあって推薦状をしたため、シェーラーはミュンヘン大学の私講師となった。ミュンヘンでは彼の学説の継承者でもあり、生涯の親友となった[[ディートリッヒ・フォン・ヒルデブラント|ヒルデブラント]]と知り合った。この時期にヒルデブラントと共に[[ミュンヘン学派]]に参加し、[[現象学]]的探求を深めていった。
順調に見えたミュンヘンでの生活であったが、妻アメリーの嫉妬深く、疑い深い性格から、彼女との仲違いはさらに増し、とうとう2人は別居せざるを得なくなった。嫌気のさしたシェーラーは[[1908年]]のある時期、アンナという女性とイタリア旅行に出かけ、彼女を妻と偽ってホテルに宿泊した。このことを知ったアメリーが激怒し、その嫉妬深い性格からミュンヘンの某新聞社の編集者に告げ口し、夫のシェーラーが自分たち妻子のことを顧みず、ある女性と情を通じ、その費用のために借金してばかりいるなどと訴えた。編集者はこれを大学教授の[[デカダンス]]を暴き立てる好材料として受け取り、公表した。
最初の記事ではシェーラーの名前は伏せられており、彼はこの記事と妻のしたことを黙殺しようと努めた。しかし、2度目はシェーラーの実名入りで記事が記され、ミュンヘン大学側も目をつむっていられない状況に陥った。このため、シェーラーは汚名返上するために新聞社の編集者を名誉棄損で告訴した。抗議に協力しようとした友人たちもいたが、新聞社側はシェーラーがイタリア旅行をした際のホテルの宿泊帳を入手しており、これが証拠物件として提出され、シェーラーは圧倒的に不利となった。こうしてシェーラーは敗訴し、編集者は無罪となった。
この醜聞沙汰に対し、ミュンヘン大学の審査委員会は聴聞会を開き、シェーラーに警告した。この聴聞会でのやり取りの中で疑いが晴れはしたが、ことがあまりにも大きくなり過ぎ、結局大学にはいられなくなった。こうして大学の審査委員会はついに[[1910年]]4月、シェーラーに免職を命じ、ドイツ国内の大学での教授資格をも剥奪した。
一方でこの醜聞沙汰のあった頃、シェーラーはヒルデブラントの紹介により、2人目の妻となるメリットと知り合っていた。2人は[[1909年]]の夏頃にはお互いに共鳴し合い、結婚を望むまでになった。
妻アメリーは離婚手続きの延期を図ろうとして、莫大な慰謝料をシェーラーに要求した。だが結局、アメリーはシェーラーを引き留めることはできず、[[1912年]]2月に離婚が成立し、12月にメリットと結婚した。
職と教授資格を失ったシェーラーは、[[1911年]]に[[ゲッティンゲン]]に移住する。そこには前年に移ったヒルデブラントがおり、当時の[[ゲッティンゲン大学]]はフッサールをはじめとした現象学の中心地となっていた。ヒルデブラントはシェーラーのために講義用のホールを借り、フッサールの学生たちにもシェーラーの個人講義を聴講するように促した。
[[1912年]]、シェーラーはフッサールの指導する現象学年報の4人の編集者の一人に選ばれるが、この頃からフッサールと考えが合わなくなり、生活も安定しないためベルリンへと移住した。ここから[[1919年]]に大学職に復帰するまで、シェーラーはフリーランスの学者・ジャーナリストとして活動し、『ルサンチマンと道徳的価値判断』(後に加筆して、『道徳の構造におけるルサンチマン』と改題)をはじめとする社会病理学関係の諸論文を著し、後にこれらが『価値の転倒』に収められた。その他にも『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』、『同情の本質と諸形式』などの代表的な著作を生み出した。
== 思想 ==
晩年、
ここから、[[人間学]]研究の
シェーラーは形式[[倫理学]]ではなく、[[現象学]]的な
== 脚注 ==
<references />
== 参考文献 ==
* [[五十嵐晴彦]](著)『愛と知の哲学 マックス・シェーラー研究論文集』 花伝社 1999年
*[[小倉志祥]](著)『シェーラー著作集第2巻』月報2 白水社 1976年
*小倉志祥(著)『シェーラー著作集第8巻』月報3 白水社 1977年
*[[小倉貞秀]](著)『マックス・シェーラー―人とその思想―』塙新書 1969年
== 外部リンク ==
* [[小池英光]]
{{
{{DEFAULTSORT:しええらあ まつくす}}
[[Category:19世紀ドイツの哲学者]]
[[Category:
[[Category:ドイツの教育学者]]
[[Category:
[[Category:
[[Category:ユダヤ教の棄教者]]
[[Category:キリスト教への改宗者]]
[[Category:ユダヤ系ドイツ人]]
[[Category:バイエルン王国の人物]]
[[Category:ミュンヘン出身の人物]]
[[Category:1874年生]]
[[Category:1928年没]]
|