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| 海域= セラム海・バンダ海
| 国= インドネシア
| OSMズーム= 5
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[[File:Map of Maluku Islands-en.svg|thumb|280px|モルッカ諸島はマルク州と北マルク州に分かれる。{{legend|#ffffaf|[[北マルク州]]}}{{legend|#f69898|[[マルク州]]}}]]]
 
'''モルッカ諸島'''(英: モルッカしょとう、{{Lang-en|Moluccas}}蘭: Molukken){{Lang-nl|Molukken}})または'''マルク諸島'''({{Lang-id|Kepulauan Maluku}})は、[[インドネシア語]]: Kepulauan Maluku)は、[[|インドネシア共和国]]の[[セラム海]]と[[バンダ海]]に分布する群島。[[スラウェシ島]]の東、[[ニューギニア島]]の西、[[ティモール島]]の北に位置する。歴史的に'''香料諸島'''(スパイス諸島)<ref>{{Cite book|和書 |author = ジョセフ・M・カーリン |year = 2017 |title = カクテルの歴史 |publisher = [[原書房]] |page = 66 |isbn = }}</ref>として特に西洋人や中国人の間で有名であった。
 
山がちであり、いくつかの[[活火山]]がある。気候は湿潤。農業は小規模で行われているが、米、[[サゴヤシ]]の他、[[ナツメグ]]、[[クローブ]]などの[[香辛料]]など価値の高い農産物を生産している。
 
[[大航海時代]]にヨーロッパ諸国がマルク諸島に押し寄せたことから[[キリスト教]]徒が多い<ref>[http://www.classics.jp/RCS/NL08/NL08Kome.pdf 水夫の反乱――キリシタン翻訳の一側面]米井力也、『古典学の再構築』第八号(平成12年11月)</ref>。
 
 
== 地名 ==
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== 歴史 ==
=== 香辛料諸島 ===
[[File:COLLECTIE TROPENMUSEUM Drie jonge Molukers van de Tanimbar-eilanden met hoofdtooien speren en klewangs TMnr 10005682.jpg|thumb|タニンバル諸島の戦士たち]]
バンダ海の人々は[[古代ローマ帝国]]の時代から中国などアジア諸国と[[香辛料貿易]]をしていた。[[イスラム教]]が勢力を強めると、イスラム商人による貿易が支配的となった。古代のアラブの典拠で、この諸島の位置は、Jaba島([[ジャワ島]]と予想される)から東へ15日間の航海と記述されている。しかし、イスラム商人の存在は、中国のこの海域の支配が弱まった13世紀後半に確かなものとなった。アラブ商人がイスラム教だけでなく[[スルタン]]制を新しい社会組織として、重要な島の富裕層に採り入れさせた。そして、外来者との取引が効果的であることを見せた。
 
[[ヴェネツィア]]は、モンゴルやトルコによって伝統的な東西陸路が破壊された後の西暦1200年から1500年の間、[[アレクサンドリア]]などの港への[[地中海]]航路を支配し、イスラム商人と取引することによって、ヨーロッパにおける香辛料貿易を独占した。ヴェネツィアによる高収益取引の独占支配に変わる手段を発見するための報奨金が、降って湧いたヨーロッパの大航海時代の最も重要な要因であった。[[ポルトガル]]は、アフリカ最南端を周る航路開拓をいち早く始め、その途上の拠点地を確保していった。航海に利用できる南向きの海流を探している時に、ブラジルを発見した。ポルトガルの偶然の成功と、帝国の確立は、スペイン、フランス、イギリス、オランダなどの他のヨーロッパ諸国に、ポルトガルの地位に挑戦し打ち勝つための海事力を起こさせることになった([[ポルトガル海上帝国]]参照)
 
香辛料がヨーロッパにおいて高い価値を持ち、大きな収入を上げられるため、オランダ、イギリスはすぐにこの地域において独占権を得ようと争いに加わった。小さな諸島を支配するための争いは、オランダが、代替地がいろいろある中で[[マンハッタン島]]をイギリスに譲渡してまで、この小さな島を支配し、[[バンダ諸島]]の支配権を確立するほど熾烈を極めた。バンダ諸島の原住民は、オランダによってほとんどの住民が虐殺されたり奴隷にされるという戦いによってほとんどすべてのものを失った。香辛料戦争の間に6000人以上が殺された。
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=== オランダ人 ===
1599年にオランダ人が到着し、原住民たちは、ポルトガルが伝統的な貿易を独占しようと試みたことに不満を持っていると報告している。[[アンボン]]人がHitu-Larnaに砦を築くオランダ人を手助けした後、ポルトガル人は、アンボン人がオランダ人を招いたことに対して報復を開始した。1605年よりFrederik Houtmanがアンボンにおいて最初のオランダ人支配者となった。また、同諸島にあるスペインのいくつかの要塞は、戦国時代が終焉したサムライを傭兵としてオランダが雇い攻略している<ref>[https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0009051166_00000 NHKスペシャル 戦国~激動の世界と日本~]</ref>
 
[[オランダ東インド会社]]は、その手法において以下の3つの障害を有していた。ポルトガル人が原住民を支配していた。原住民はイングランドとの不法取引が、ヨーロッパ人の独占に対する唯一の対抗手段であった。17世紀の他の事件の間、[[バンダ諸島]]の住民はイングランドとの独立貿易を試みた。オランダ東インド会社の反応は、バンダ諸島の原住民を虐殺し、その生き残りは他の島へ移住させ、奴隷の労働をさせるというものであった。
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=== 独立後 ===
1950年の、連邦国家に変わる単一国家インドネシア共和国の独立宣言時に、南モルッカ(Republik Maluku selatan,RMS)は、共和国インドネシアからの離脱を試みた。この動きは{{ill2|クリス・スモキル|en|Chris Soumokil}}によって導かれ、オランダ特別部隊のメンバーMoluccanによって支援されていた。インドネシアからは反乱と見なされ、1952年までにインドネシア軍により鎮圧された。
 
南モルッカ人は、オランダ政府から独自の独立国家である「マルク・スラタン共和国(RMS)」の樹立を約束され、一時滞在のためオランダにやってきた。彼らは約25年間、劣悪な環境の収容キャンプで過ごした。彼らは独立を約束したオランダに裏切られたと感じ、以降、過激な[[テロ]]活動を繰り返した。
*[[1975年]][[12月2日]]、オランダ北部のワイスター村近くの田園地帯で、7人のモルッカ人[[ゲリラ]]が[[列車]]を乗っ取り、乗客ら約50人を[[人質]]に取った。[[ハイジャック]]事件は12日間続き、この間、3人の人質が殺害された。
*1975年[[12月4日]]、武装したモルッカ人7人が[[アムステルダム]]のインドネシア総領事館を占拠し、子供を含む41人を人質に取った。[[テロリスト]]たちは[[政治犯]]の釈放と、モルッカの指導者がインドネシアの[[スハルト]]大統領と会談することを要求した。[[12月19日]]、人質が解放された。
*[[1977年]][[5月23日]]、オランダのデプント村近くで9人の武装したモルッカ人が列車を乗っ取り、50人以上を人質に取った。同日、ボーフェンスミルデの[[小学校]]で武装モルッカ人4人が児童105人と教員5人を人質に取った。ハイジャックは20日間続き、[[6月11日]]、[[オランダ海兵隊]]の突入で終結した。人質2人が殺害され、犯人6人が死亡した。
*[[1978年]][[3月13日]]、オランダの[[アッセン]]で3人の武装したモルッカ人が州庁舎を占拠し、女性16人と男性55人を人質に取った。翌日、海兵隊が突入し人質2人が殺害された。
 
== 行政 ==
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== 脚注 ==
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{{Commons|Category:Moluccas}}
* {{仮リンク|マルク諸島・アンボンの宗教紛争|en|Maluku sectarian conflict}} - [[スラウェシ島#宗教的対立]]も参照。
* {{仮リンク|サトゥダラ MC|fi|Satudarah}} - オランダへ移住したモルッカ諸島からの移民の子弟によって結成された[[モーターサイクル・ギャング|モーターサイクルギャング]]。
{{インドネシアの地方行政区画}}
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