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{{出典の明記|date=2009年9月}}
{{基礎情報 過去の国
|略名 = 西ローマ
|日本語国名 = ローマ帝国
|公式国名 = '''{{aut|Imperium Romanum}}'''
|建国時期 = [[395年]]
|亡国時期 = [[476年]]/[[480年]]
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|先旗1縁 = no
|次代1 = 東ゴート王国
|次旗1 =
|次代2 = 西ゴート王国
|次旗2 =
|次代3 = ヴァンダル王国
|次旗3 =
|次代4 = ブルグント王国
|次旗4 =
|次代5 = フランク王国
|次旗5 = Oriflamme of Constantine VI (version 2).png
|次旗5縁 = no
|次代6 = 神聖ローマ帝国
|次旗6 = Königsbanner 14Jh.svg
|国旗画像 =
|国旗リンク =
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|国歌追記 =
|位置画像 = Western Roman Empire.png
|位置画像説明 = [[395年]]頃西ローマ帝国の領域(395年頃)
|位置画像幅 =
|公用語 = [[ラテン語]]
|首都 = メディオラーヌム<br />{{smaller|(現[[ミラノ]]、286年 - 402年)}}<br /><br>ラウェンナ<br />{{smaller|(現[[ラヴェンナ]]、402年 - 476年)}}
<small>(現[[ミラノ]]、[[286年]]-[[402年]])</small><br />
ラウェンナ<br />
<small>(現[[ラヴェンナ]]、[[402年]]-[[476年]])</small>
|元首等肩書 = [[皇帝]]
|元首等年代始1 = [[395年]]
|元首等年代終1 = [[423年]]
|元首等氏名1 = [[ホノリウス]]
|元首等年代始2 = [[423475]]
|元首等年代終2 = [[455476]]
|元首等氏名2 = [[ロムルス・アウグストゥルス]]{{smaller|(事実上最後)}}
|元首等年代始3 = [[474年]]
|元首等年代終3 = [[480年]]
|元首等氏名3 = [[ユリウス・ネポス]]{{smaller|(最後)}}
|元首等年代始4 =
|元首等年代終4 =
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|人口値1 =
|変遷1 = [[ディオクレティアヌス]]による分割統治の開始
|変遷年月日1 = [[285年]]
|変遷2 = [[アルカディウス]]とホノリウスによる分割統治の開始
|変遷年月日2 = [[395年]]
|変遷3 = ロムルス・アウグストゥス退位
|変遷年月日3 = [[476年]]
|変遷4 = ユリウス・ネポス殺害
|変遷年月日4 = [[480年]]
|通貨 =
|時間帯 =
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{{ローマの政治体制}}
 
'''西ローマ帝国'''(にしローマていこく)[[ローマ帝国]]のうち西半分の地域を指す呼称である<ref>[西ローマ帝国]『ブリタニカ国際大百科事典』</ref><ref name="世界大百科事典">[西ローマ帝国]『世界大百科事典』</ref><ref name="日本大百科全書">[西ローマ帝国]『日本大百科全書』</ref><ref name="マイペディア">[西ローマ帝国]『百科事典マイペディア』</ref>。一般に、[[テオドシウス1世]]死後の[[ローマ皇帝一覧|西方正帝]]が支配した領域と時代に限定して用いられるが、[[286年]]の[[ディオクレティアヌス]]帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始([[テトラルキア]]の第一段階)以降のローマ帝国の西半分として用いられることもある
 
一般に、[[テオドシウス1世]]死後の[[ローマ皇帝一覧|西方正帝]]が支配した領域および時代に限定して用いられるが、[[286年]]の[[ディオクレティアヌス]]帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始([[テトラルキア]]の第1段階)以降のローマ帝国についても用いられることがある。
[[395年]]にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に[[正帝]]を名乗っていた2人の息子[[アルカディウス]]と[[ホノリウス]]に分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、[[オドアケル]]による[[476年]][[9月4日]]の[[ロムルス・アウグストゥルス]]廃位までとするのが一般的であるが、[[480年]]の[[ユリウス・ネポス]]殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって[[古代]]の終わり・[[中世]]の始まりとする。西ローマ帝国は中世においてもギリシア化を免れ、[[古代ローマ]]式の文化と伝統とが保存された<ref name="日本大百科全書" /><ref name="マイペディア" />。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも次第に[[カトリック教会]]に感化されてローマ化し、カトリック信仰やローマの文化、[[ローマ法]]を採用して、自らを古代ローマの「真の相続者」であると認識していた<ref name="パランク1976pp126-127">[[#パランク1976|パランク1976]]、pp.126-127。</ref>。
 
== 概要 ==
なお「西ローマ帝国」と「[[東ローマ帝国]]」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず<ref name="世界大百科事典" /><ref name="日本大百科全書" />、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスの[[テトラルキア]]以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜([[複都制]])にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の'''西方領土'''(西の部分)と'''東方領土'''(東の部分)だったのである{{Refnest|group="注"|例えばローマ市では443年に地震で破損した[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置された碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている<ref>[[#ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ|ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ]]、pp.232-233。</ref>。}}。両地域の政府や住民が自らの国を単に'''ローマ帝国'''と呼んだのも、こうした認識によるものである。
[[395年]]にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に[[正帝]]を名乗っていた2人の息子[[アルカディウス]]と[[ホノリウス]]に分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。
 
西ローマ帝国時代の終わりとしては、[[オドアケル]]による[[476年]][[9月4日]]の[[ロムルス・アウグストゥルス]]廃位までとするのが一般的であるが、[[480年]]の[[ユリウス・ネポス]]殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって[[古代]]の終わり・[[中世]]の始まりとする。ただし、それをもって西ローマ帝国の「滅亡」と見なすべきでない、として学問分野より見直しが求められている([[#西ローマ帝国の「滅亡」|後述]])。西ローマ帝国の領域は、中世においてもギリシア化を免れ、[[古代ローマ]]式の文化と伝統とが保存された<ref name="日本大百科全書" /><ref name="マイペディア" />。
== 背景 ==
[[共和政ローマ]]が版図を拡大するにつれて、[[ローマ]]に置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間が掛かったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制([[クルスス・プブリクス]])で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間が掛かった。このため[[属州]]は、共和政ローマの名のもとに、実質的には[[属州総督]]によって統治された。
 
西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも次第に[[カトリック教会]]に感化されてローマ化し、カトリック信仰やローマの文化、[[ローマ法]]を採用して、自らを古代ローマの「真の相続者」であると認識していた<ref name="パランク1976pp126-127">[[#パランク1976|パランク1976]]、pp.126-127。</ref>。
帝政が始まる少し前、[[共和政ローマ]]の領土は、オクタウィアヌス(後の[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]による[[三頭政治#第二回三頭政治|第二回三頭政治]]により分割統治されていた。
 
なお「西ローマ帝国」と「[[東ローマ帝国]]」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず<ref name="世界大百科事典" /><ref name="日本大百科全書" />、西ローマ帝国・東ローマ帝国という2つの国家も存在しなかった。
[[Image:Roman-Empire-Triumvirat2.png|thumb|300px|none|[[紀元前33年]]の共和政ローマおよび地中海世界{{legend|#33ff99|オクタウィアヌス支配地域}}{{legend|#3366ff|アントニウス支配地域}}{{legend|#9999ff|プトレマイオス朝およびアントニウスの同盟国}}]]
アントニウスは、[[アカエア]]、[[マケドニア属州|マケドニア]] 、[[エピルス]](ほぼ現在の[[ギリシャ]])、[[ビテュニア]]、[[ポントス|ポントゥス]]、 [[アシア属州|アシア]]、[[シリア属州|シュリア]]、[[キプロス]]、[[キュレナイカ]]といった東方地域を手に入れた。こうした地域は、[[紀元前4世紀]]に[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって征服された地域で、[[コイネー|ギリシャ語]]が多くの都市で公用語として使用されていた。また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。
これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわちイタリア(現在の[[イタリア半島]])、[[ガリア]](現在の[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]の一部)、[[ヒスパニア]]([[イベリア半島]])である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧[[カルタゴ]]の植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域[[ケルティベリア人]](ケルト・イベリア人)のように文化的に[[ケルト人]]に支配されている地域もあった。
 
複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスの[[テトラルキア]]以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜([[複都制]])にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは一つのローマ帝国の'''西方領土'''(西の部分)と'''東方領土'''(東の部分)だったのである{{Refnest|group="注"|例えばローマ市では443年に地震で破損した[[コロッセオ]]の修復が行われているが、その際にコロッセオに設置された碑文には「平安なる我らが主、テオドシウス・アウグストゥス([[テオドシウス2世]])とプラキドゥス・ウァレンティニアヌス・アウグストゥス([[ウァレンティニアヌス3世]])のために、首都長官ルフィウス・カエキナ・フェリクス・ランバディウスが(以下略)」と東西両皇帝の名が記されている<ref>[[#ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ|ラテン語碑文で楽しむ古代ローマ]]、pp.232-233。</ref>。}}。両地域の政府や住民が自らの国を単に'''ローマ帝国'''と呼んだのも、こうした認識によるものである。
レピドゥスは[[アフリカ属州]](現在の[[チュニジア]])を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。
 
== 背景 ==
アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]は一時的に東方を代理として支配した。同じことは[[ティベリウス]]が東方に行った際に甥に当たる[[ゲルマニクス]]によって行われた。
[[共和政ローマ]]が版図を拡大するにつれて、[[ローマ]]に置かれた中央政府は、効果的に遠隔地を統治できないという当然の問題点に突き当たった。これは、効果的な伝達が難しく連絡に時間がかかったためである。当時、敵の侵攻、反乱、疫病の流行や自然災害といった連絡は、船か公設の郵便制([[クルスス・プブリクス]])で行っており、ローマまでかなりの時間がかかった。返答と対応にもまた同じくらいの時間がかかった。このため[[属州]]は、共和政ローマの名のもとに、実質的には[[属州総督]]によって統治された。
 
帝政が始まる直前、[[共和政ローマ]]の領土は、オクタウィアヌス(後の[[アウグストゥス]])、[[マルクス・アントニウス]]、[[マルクス・アエミリウス・レピドゥス|レピドゥス]]による[[三頭政治#第二回三頭政治|第二回三頭政治]]により分割統治されていた。
<!-- {{要出典範囲|ローマ帝国には異なる多数の文化があったが、それら文化は全て段階的に[[ローマ化]]されていった。ギリシア語は西方でも使われていたし、ラテン語もまた東方でも使われていた。全体としてギリシア文化はラテン文化と競合することはほとんどなく、事実ローマ帝国の文化の融合に役立っていた。2つの文化は、対等の立場で地中海世界で扱われた。それにもかかわらず、後に政治問題が原因となって軍事上の緊張が高まるとローマ帝国は分裂し、さらにはギリシア文化圏が東ローマ帝国として再編されることになった|date=2009年9月}}。-->
[[Image:Roman-Empire-Triumvirat2.png|thumb|300px|none|[[紀元前33年]]の共和政ローマおよび地中海世界{{legend|#33ff99|オクタウィアヌス支配地域}}{{legend|#3366ff|アントニウス支配地域}}{{legend|#9999ff|プトレマイオス朝およびアントニウスの同盟国}}]]
アントニウスは、[[アカエア]]、[[マケドニア属州|マケドニア]] 、[[エピルス]](ほぼ現在の[[ギリシャ]])、[[ビテュニア]]、[[ポントス|ポントゥス]]、 [[アシア属州|アシア]]、[[シリア属州|シュリア]]、[[キプロス]]、[[キュレナイカ]]といった東方地域を手に入れた。こうした地域は、[[紀元前4世紀]]に[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]によって征服された地域で、[[コイネー|ギリシャ語]]が多くの都市で公用語として使用されていた。また、マケドニアに起源がある貴族制を取り入れており、王朝の大多数はマケドニア王国の将軍の子孫であった。これに対しオクタウィアヌスは、ローマの西半分を支配下に収めた。すなわち[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア]](現在の[[イタリア半島]])、[[ガリア]](現在の[[フランス]]、[[ベルギー]]、[[オランダ]]、[[ルクセンブルク]]の一部)、[[ヒスパニア]]([[イベリア半島]])である。こうした地域も、多くのギリシア人が海岸部の旧[[カルタゴ]]の植民地にいたが、ガリアやイベリア半島のケルト人が住む地域[[ケルティベリア人]](ケルト・イベリア人)のように文化的に[[ケルト人]]に支配されている地域もあった。
 
レピドゥスは[[アフリカ属州]](現在の[[チュニジア]])を手に入れた。しかし、政治的・軍事的駆け引きの結果、オクタウィアヌスはレピドゥスからアフリカ属州とギリシア人が植民していたシチリア島を獲得した。
 
アントニウスを破ったオクタウィアヌスは、ローマから帝国全土を支配した。戦いの最中に、盟友[[マルクス・ウィプサニウス・アグリッパ]]は一時的に東方を代理として支配した。同じことは、[[ティベリウス]]が東方に行った際に甥に当たる[[ゲルマニクス]]によって行われた。
<!--
{{要出典範囲|ローマ帝国には異なる多数の文化があったが、それら文化は全て段階的に[[ローマ化]]されていった。ギリシア語は西方でも使われていたし、ラテン語もまた東方でも使われていた。全体としてギリシア文化はラテン文化と競合することはほとんどなく、事実ローマ帝国の文化の融合に役立っていた。2つの文化は、対等の立場で地中海世界で扱われた。それにもかかわらず、後に政治問題が原因となって軍事上の緊張が高まるとローマ帝国は分裂し、さらにはギリシア文化圏が東ローマ帝国として再編されることになった|date=2009年9月}}。
-->
== 反乱と暴動、政治への波及 ==
{{Multiple image
[[Image:Invasions of the Roman Empire 1.png|thumb|300px|left|ローマ帝国への蛮族の侵入経路]]
|align=left
[[Image:LocationParthia.PNG|frame|none|300px|ローマ帝国の最大の敵国[[パルティア]]の最大版図 [[紀元前60年]]]]
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|image1=Invasions of the Roman Empire 1.png|caption1=ローマ帝国への蛮族の侵入経路
|image2=LocationParthia.PNG|caption2=ローマ帝国の最大の敵国[[パルティア]]の最大版図 [[紀元前60年]]
}}
{{Clear|left}}
<!-- 平時には、首都ローマから帝国を統治することは比較的容易であった。ときには反乱の兆しが見られたり、また実際に起こりもしたが、{{要出典範囲|[[軍団長]]や[[属州総督]]は、個人的な[[カリスマ]]や信頼に[[賄賂]]を付加することで[[軍団兵]]の忠誠を得るのが常だった。征服された部族は叛逆するものであり、征服された都市は蜂起するものである。軍団兵は国境を中心に配備されるので、反乱の首謀者は、常態においては1、2個の[[軍団]]を指揮するのが限界であった|date=2009年9月}}。体制派の歩兵隊は、帝国のよその土地から動員され、仕舞いには叛逆者と血で血を洗う結果となった。{{要出典範囲|このような顛末は、反逆者が激しい軍事経験を経ていないような、狭い地域の先住民による暴動の場合に、いっそう起こりやすかった。皇帝が軟弱だったり無能だったり、憎まれたり、各地で蔑まれたりしていない限り、こうした謀叛は、局地的で単発的な出来事でしかなかった|date=2009年9月}}。
 
{{要出典範囲|しかしながら、[[ユダヤ戦争|第1次ユダヤ戦争]]のように、反乱や暴動から本当の戦争が起きた時、戦局は完全に、そして恐ろしいほどに様変わりした。本格的な戦役においては、[[ウェスパシアヌス]]のような将軍に統御された[[ローマ軍団|軍団]]が、より多く投入されたのである。したがって、偏執的な皇帝か賢帝ならば、指揮官の忠誠を確かなものとするために、将軍の身内の数人を人質にとるのだった。実際に[[ネロ]]帝は、ウェスパシアヌス将軍から、幼子[[ドミティアヌス]]と、[[オスティア]]総督だった義弟[[クィントゥス・ペティリウス・ケリアリス]]を人質にとっている。ネロの治世は、(後の皇帝)[[ガルバ]]に抱き込まれた[[プラエトリアニ]]の蜂起によって、やっと終わりを告げた。プラエトリアニの存在は「[[ダモクレス|ダモクレスの剣]]」であった。プラエトリアニは、忠誠心を買収することができたので、段々と貪欲になったからである。プラエトリアニの例に続いて、国境警備隊もまた次第に内戦に加わっていった|date=2009年9月}}。
-->
西方において主な敵は、[[ライン川]]や[[ドナウ川]]の向こうの蛮族だったと言ってよい。[[アウグストゥス]]は彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。一方で、東方には[[パルティア]]があった。<!-- {{要出典範囲|パルティアは、遠すぎて征服することはできなかった。パルティアの侵略に立ち向かい、たいていは撃退することができたものの、脅威そのものをなくすことは結局できなかった|date=2009年9月}}。-->
 
西方において主な敵は、[[ライン川]]や[[ドナウ川]]の向こうの蛮族だったと言ってよい。[[アウグストゥス]]は彼らを征服しようと試みたが、最終的に失敗しており、これらの蛮族は大きな不安の種となった。
一方で、東方には[[パルティア]]があった。<!-- {{要出典範囲|パルティアは、遠すぎて征服することはできなかった。パルティアの侵略に立ち向かい、たいていは撃退することができたものの、脅威そのものをなくすことは結局できなかった|date=2009年9月}}。-->
 
ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて、襲撃と掠奪を行なった。二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。
<!--The two respective military frontiers became a matter of major political importance because of the high number of legions stationed there. The local generals would rebel and start a new civil war. To control the western border from Rome was reasonably easy since it was relatively close. To control both frontiers at the same time during wartime was difficult. If the emperor was near the border in the east, chances were high that an ambitious general would rebel in the west and [[List of Latin phrases (P–Z)|vice-versa]]. Emperors were increasingly near the troops in order to control them, and no single emperor could be at the two frontiers at the same time. This problem plagued the ruling emperors, and many future emperors followed this path to power.-->
 
ローマで内戦が起きた場合、これら二方面の敵は、ローマの国境を侵犯する機会を捉えて襲撃と掠奪を行なった。二方面の軍事的境界線は、それぞれ膨大な兵力が配置されていたために、政治的にも重要な要素となった。地方の将軍が蜂起して新たに内戦を始めることもあった。西方の国境をローマから統治することは、比較的ローマに近いために容易だった。しかし、戦時に両方の国境を同時に鎮撫することは難しかった。皇帝は軍隊を統御するために近くにいる必要を迫られたが、どんな皇帝も同時に2つの国境にはいることができなかった。この問題は後の多くの皇帝を悩ますことになった。
<!--The two respective military frontiers became a matter of major political importance because of the high number of legions stationed there. The local generals would rebel and start a new civil war. To control the western border from Rome was reasonably easy since it was relatively close. To control both frontiers at the same time during wartime was difficult. If the emperor was near the border in the east, chances were high that an ambitious general would rebel in the west and [[List of Latin phrases (P–Z)|vice-versa]]. Emperors were increasingly near the troops in order to control them, and no single emperor could be at the two frontiers at the same time. This problem plagued the ruling emperors, and many future emperors followed this path to power.
-->
=== ガリア帝国 ===
{{main|ガリア帝国}}
[[235年]][[3月18日]]の皇帝[[アレクサンデル・セウェルス]]暗殺に始まり、その後ローマ帝国は50年ほど内乱に陥った。今日、この時期は[[軍人皇帝時代]]として知られている。[[259年]]、[[エデッサの戦い]]で[[サーサーン朝]]との戦いに敗れた皇帝[[ウァレリアヌス]]は捕虜となりペルシアへ連行された。ウァレリアヌスの息子でかつ共同皇帝でもあった[[ガッリエヌス]]が単独皇帝となったが、混乱に乗じて、ローマ帝国の東地区で皇帝僭称者が相次いだ。ガッリエヌスが東方遠征を行う間、息子[[プブリウス・リキニウス・コルネリウス・サロニヌス]]に西方地区の統治を委任した。サロニヌスはコローニア・アグリッピナ(現:[[ケルン]])に駐屯していたが、[[ゲルマニア]][[属州総督]][[ポストゥムス|マルクス・カッシアニウス・ラティニウス・ポストゥムス]]が反逆、コローニア・アグリッピナを攻撃し、サロニヌスを殺害した。ポストゥムスはローマ帝国の西部のガリアを中心とした地域を勢力範囲として自立、ローマ皇帝を[[僭称]]する。このポストゥムの政権が、後に[[ガリア帝国]]と称されている。
 
首都アウグスタ・トレウェロルム(いまの現:[[トリーア]])で、に置いたこの政権はゲルマン人とガリア人への統制をある程度回復したと見られ[[ヒスパニア]]や[[ブリタンニア]]の全域に支配が及んだ。この政権は独自の[[元老院 (ローマ)|元老院]]を有し、その[[執政官]]たちのリストは部分的に現在まで残っている。この政権はローマの言語、文化を維持したが、より現地人の意向を汲む支配体制に変化したと考えられている。国内では皇帝位を巡る内紛が続いた。
 
[[273年]]に[[パルミラ国]]を征服した皇帝[[ルキウス・ドミティウス・アウレリアヌス|アウレリアヌス]]は翌[[274年]]、軍を西方に向け、ガリア帝国を征服した。これはアウレリアヌスとガリア帝国皇帝の[[テトリクス1世]]およびその息子の[[テトリクス2世]]との間に取引があって、ガリアの軍隊が簡単に敗走したためである。 アウレリアヌスは彼らの命を助けて、反乱した2人にイタリアでの重要な地位を与えた。
 
== 東西分担統治の開始 ==
=== テトラルキア(四帝統治) ===
{{main|テトラルキア}}
284年に皇帝に即位した[[ディオクレティアヌス]]は皇帝権を分割した。彼は自身を東方担当の[[アウグストゥス (称号)|正帝]]とする一方、[[マクシミアヌス]]を西方担当の正帝とし、[[ガレリウス]]と[[コンスタンティウス・クロルス]]をそれぞれ東西の[[カエサル (称号)|副帝]]に任じた。この政治体制は「ディオクレティアヌスのテトラルキア(四分割統治)」と呼ばれ、3世紀に指摘された内乱を防ぎ、首都ローマから分離した前線拠点を作った。西方では皇帝の拠点はマクシミアヌスのメディオラヌム(現在の[[ミラノ]])と[[コンスタンティ・クロル1世|コンタンティヌス]]のアウグスタ・トレウェロルム(現在の[[トリーア]])であった。[[305年]]5月1日、2人の正帝が退位し、2人の副帝が正帝に昇格した。
 
=== コンスタンティヌス1世 ===
{{main|コンスタンティヌス1世}}
<!-- The system of the Tetrarchy quickly ran aground when the Western Empire's Constantius died unexpectedly in 306, and his son Constantine was proclaimed Augustus of the West by the legions in Britain. A crisis followed as several claimants attempted to rule the Western half. In 308, the Augustus of the East, Galerius, arranged a conference at Carnuntum which revived the Tetrarchy by dividing the West between Constantine and a newcomer named Licinius. Constantine was far more interested in reconquering the whole empire. Through a series of battles in the East and the West, Licinius and Constantine stabilized their respective parts of the Roman Empire by 314, and they now competed for sole control of a reunified state. Constantine emerged victorious in 324 after the surrender and the murder of Licinius following the Battle of Chrysopolis. -->
西帝[[コンスタンティウス・クロルス]]が[[306年]]に急逝し、その息子[[コンスタンティヌス1世]](コンスタンティヌス大帝)が[[ブリタニア]]の軍団にあって正帝に即位したと告げられると、テトラルキア制度はたちまち頓挫した。その後、数人の帝位請求者が西ローマ帝国の支配権を要求して、危機が訪れた。[[308年]]、東ローマ帝国の正帝[[ガレリウス]]は、[[カルヌントゥム]]で会議を招聘し、テトラルキアを復活させてコンスタンティヌス1世と[[リキニウス]]という名の新参者とで権力を分けることにした。だがコンスタンティヌス1世は、帝国全土の再統一にはるかに深い関心を寄せていた。東帝と西帝の一連の戦闘を通じて、リキニウスとコンスタンティヌスは[[314年]]までに、ローマ帝国におけるそれぞれの領土を画定し、天下統一をめぐって争っていた。コンスタンティヌスが[[324年]][[9月18日]]にクリュソポリス([[カルケドン]]の対岸)の会戦でリキニウス軍を撃破し、投降したリキニウスを殺害すると、勝者として浮上した。
 
<!-- The Tetrarchy was dead, but the idea of dividing the Roman Empire between two emperors had been proven too good to be simply ignored and forgotten. Very strong emperors would reunite it under their single rule, but with their death the Roman Empire would be divided again and again between the East and the West. -->
 
テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を二人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割統治されるようになった。
テトラルキアは終わったが、ローマ帝国を2人の皇帝で分割するという構想はもはや広く認知されたものとなり、無視したり、簡単に忘却するのはできなくなっていた。非常な強権を持つ皇帝ならば統一したローマ帝国を維持できたが、そのような皇帝が死去すると、帝国はたびたび東西に分割統治されるようになった。
 
== 再分割 ==
=== コンスタンティヌス朝 ===
[[コンスタンティヌス1世]]の代にはローマ帝国はただ一人の皇帝によって統治されていたが、同帝が[[337年]]に死去すると、3人の息子たち(長兄[[コンスタンティヌス2世]]、次兄[[コンスタンティウス2世]]、三弟[[コンスタンス1世]])が共同皇帝として即位し、帝国には再び分担統治の時代が訪れた。長兄コンスタンティヌス2世は[[ブリタンニア]][[ガリア]][[ヒスパニア]]など次兄コンスタンティウス2世は東方領土、三弟コンスタンス1世は[[イタリア本土 (古代ローマ)|イタリア]][[パンノニア]][[ダキア]]、北アフリカなどを統治したが、まもなくその三者の間には内乱が勃発した。まず三弟コンスタンス1世が長兄コンスタンティス2世を[[340年]]に打ち破って西方領土を統一したが、そのコンスタンス1世も350年に配下の将軍であった[[マグネンティウス]](僭称皇帝)に殺害された。[[351年]]に次兄[[コンスタンティウス2世]]が僭称皇帝マグネンティウスを打ち破り、353年にマグネンティウスが自殺することによって、コンスタンティウス2世によるローマ帝国の再統合が果たされた。唯一の正帝となったコンスタンティウス2世は拠点をメディオラヌム(現:[[ミラノ]])へと移した<ref>[[#南川2015|南川2015]]、pp.36-46。</ref>。しかしコンスタンティウス2世が[[サーサーン朝]][[ペルシア]]との争いに備えるためメディオラヌムを留守にすると、西方ではコンスタンティウス・クロルスの孫でコンスタンティウス2世の副帝だった[[フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス|ユリアヌス]]が軍団の支持を得て独自の行動をとるようになり、[[360年]]には軍団からアウグストゥス(正帝)と宣言された<ref>[[#南川2015|南川2015]]、pp.45-57。</ref>。ユリアヌスとコンスタンティウス2世との対立は決定的となったが、[[361年]]にコンスタンティウス2世が病に倒れて死去すると、ユリアヌスが唯一の正帝となった<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.60。</ref>。ユリアヌスは[[363年]]に[[サーサーン朝]][[ペルシア]]との対戦中に戦死し、[[ヨウィアヌス]]が皇帝に選ばれたが、[[364年]][[1月17日]]に[[アンカラ|アンキラ]]で死亡した<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.62-63。</ref>。
 
=== ウァレンティニアヌス朝 ===
皇帝[[ヨウィアヌス]]の死後、帝国は「3世紀の危機」に似た、新たな内紛の時期に再び陥った。[[364年]]に即位した[[ウァレンティニアヌス1世]]は、ただちに帝権を再び分割し、東側の防衛を弟[[ウァレンス]]に任せた。東西のどちらの側も[[フン族]]や[[ゴート族]]をはじめとする蛮族との抗争が激化し、なかなか安定した時期が実現しなかった。西側で深刻な問題は、キリスト教化した皇帝に対して、古代ローマの伝統宗教を信仰する[[異教徒]]による政治的な反撥であった。ウァレンティニアヌス1世は古代ローマの伝統宗教に対しても比較的穏健な態度を示したが、その子[[グラティアヌス]]は[[379年]]初頭にローマ皇帝として初めて[[ポンティフェクス・マクシムス]] (''pontifex maximus'') の衣裳称号羽織止めていことを拒否<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.117。</ref>してポンティフェクス・マクシムスの称号[[ローマ教皇]]に譲ると移行し{{いつ|date=2020年4月}}<!-- この部分の英語版出典は、内容がないページであり、意味をなさないのでコメントアウト。<ref>[http://www.bartleby.com/65/po/pontifex.html Pontifex Maximus] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20060806013505/http://www.bartleby.com/65/po/pontifex.html |date=August 6, 2006 }}, Columbia Encyclopedia Sixth Edition. 2001–05., bartleby.com retrieved August 15, 2006</ref> -->、[[382年]]にはローマ神官団 (''pontifices'') や[[ウェスタの処女|ウェスタ神殿の巫女]]から権利を剥奪し<ref name="尚樹1999pp79-80">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.79-80。</ref><ref name="南川2013p173">[[#南川2013|南川2013]]、p.173。</ref>、[[アウグストゥス]]によって設置されていた女神[[ニケ|ウィクトリア]]の{{仮リンク|勝利の祭壇|en|Altar of Victory}}も[[元老院 (ローマ)|元老院]]から撤去した<ref name="尚樹1999pp79-80" /><ref name="南川2013p173" />。
 
=== テオドシウス朝 ===
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{{legend|#B53637|西ローマ帝国}}
{{legend|#8F36B5|東ローマ帝国}}]]
[[388年]]、実力と人気を兼ね備えた総督[[マグヌス・マクシムス]]が西側で権力を掌握して、皇帝として宣言された。グラティアヌスの異母弟である西帝[[ウァレンティニアヌス2世]]は東側への逃避を余儀なくされたが、東帝[[テオドシウス1世]]に援助を請い、その力を得て間もなく皇帝に復位した。テオドシウス1世は[[391年]]まで西側に滞在し、西側でもキリスト教化を施行し、異教の禁止を発令した。[[392年]]5月にウァレンティニアヌス2世が変死すると、同年8月に元老院議員の[[エウゲニウス]]が西帝となったが、[[394年]]に息子[[ホノリウス]]に西帝を名乗らせたテオドシウス1世によって倒された。テオドシウス1世はホノリウスの後見として自身も西ローマ帝国に滞在し、[[395年]]に崩御するまでの4月間、東西の両地域を実質的に支配した。一般にはテオドシウス1世の死をもって'''ローマ帝国の東西分裂'''と呼ばれるが、これは何世紀にもわたって内戦と統合を繰り返してきたローマ帝国の分裂の歴史の一齣にすぎなかったことも見過ごしてはならない。
 
== 東西宮廷の対立と西ローマ皇帝の廃止 ==
[[Image:628px-Western-Eastern-Roman-Empires-476AD.PNG|thumb|300px|476年頃の東西ローマ帝国]]
[[Image:Reame di Siagrio (486).png|300px|thumb|シアグリウスの[[ソワソン管区]]]]
[[ホノリウス]]がテオドシウス1世によって西方を任された当初から、西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって西方で宣言された皇帝ではなかったので、ホノリウスは西方の伝統的な勢力からは攻撃にさらされることになった。さらにホノリウスは[[マケドニア]]と[[ダキア]]の統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。両管区はエウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたが、東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、以後そのまま東方が実効支配を続けていた<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.89。</ref>。西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、この問題に東の宮廷は敏感に反応した。[[ゴート人]]の[[アラリック]]が西方で略奪を働き東方へと逃亡すると、西方の軍司令官[[スティリコ]]はアラリックを追撃したが、これに対し東の宮廷は「それ以上の追撃は東方への侵略とみなす」と警告してアラリックの逃亡を手助けした。また[[397年]]には東の宮廷の官僚{{仮リンク|エウトロピウス (399年の執政官)|en|Eutropius (consul 399)|label=エウトロピウス}}がアフリカ軍司令官の{{仮リンク|ギルドー|en|Gildo}}を唆し、ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。同時にホノリウスは蛮族(とりわけ[[ヴァンダル族]]と[[東ゴート族]])の侵入にも悩まされ、[[410年]]には[[西ゴート人]]によってローマ市が掠奪された([[ローマ略奪 (410年)|ローマ略奪]])。このとき西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。
 
[[ウァレンティニアヌス3世]]の時代には状況はさらに複雑になった。[[438年]]に発布された「[[テオドシウス法典]]」は東帝[[テオドシウス2世]]と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、テオドシオス法典の発布後、実際には[[ローマ法]]がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.79-80。</ref>。現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。[[450年]]にテオドシウス2世が没すると、東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍[[アスパル]]がウァレンティニアヌス3世に無断で[[マルキアヌス]]を皇帝の座に据えたが、ウァレンティニアヌス3世は[[452年]]頃までマルキアヌスに正式な皇帝としての承認を与えなかった。こうした東西宮廷の分裂に加えて、皇帝権そのものにもさらなる分割が加えられた。[[440年]]に[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]が[[ローマ教皇]]となると、グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていた[[ポンティフェクス・マクシムス]]の称号を教皇が名乗るようになり、皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として神法の遵守を監督するようになった。さらに[[445年]]にはウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた<ref>[[#バラクロウ2012|バラクロウ2012]]、p.37。</ref>。こうした特権の付与が積み重ねられていった結果、教皇は帝国の代表者として、[[452年]]には[[フン族]]と、[[455年]]には[[ヴァンダル族]]と、[[591年]]および[[593年]]には[[ランゴバルド族]]と、それぞれ皇帝を無視したまま単独で交渉を行うようになった<ref>[[#バラクロウ2012|バラクロウ2012]]、pp.47-48。</ref><ref>[[#バラクロウ2012|バラクロウ2012]]、p.56。</ref>。いずれにせよ、教皇は5世紀末までには西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた<ref>[[#シンメルペニッヒ2017|シンメルペニッヒ2017]]、p.54。</ref>。軍事の面においても帝国で重要な役割を果たしていたのは皇帝ではなく[[アエティウス]]のような蛮族出身の将軍たちであった。そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、[[ブッケラリィ]]と呼ばれる将軍の私兵たちであった。西方において、皇帝の果たす役割は限りなく小さなものとなっていた。
[[ホノリウス]]がテオドシウス1世によって西方を任された当初から、西方の皇帝は複雑で困難な状況に直面しなければならなかった。ホノリウスはテオドシウスが連れてきた皇帝であって西ローマ帝国で宣言された皇帝ではなかったので、ホノリウスは伝統的な西ローマ帝国の勢力からの攻撃にさらされることになった。さらにホノリウスは[[マケドニア]]と[[ダキア]]の統治を巡って東帝アルカディウスとも争うことになった。両管区はエウゲニウスの時代までは伝統的に西帝の担当とされていたのだが、東帝テオドシウス1世が西帝エウゲニウスとの争いの中で両管区を支配下に置き、以後そのまま東ローマ帝国が実効支配を続けていた<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.89。</ref>。西の宮廷は両管区の返還を求めていたが、この問題に東の宮廷は敏感に反応した。西ローマ帝国で略奪を働いた[[ゴート人]]の[[アラリック]]が軍司令官[[スティリコ]]によって撃退されて東ローマ帝国へと逃亡すると、東の宮廷は「それ以上の追撃は東方への侵略とみなす」とスティリコを牽制してアラリックの逃亡を手助けした。また[[397年]]には東の宮廷の官僚{{仮リンク|エウトロピウス(399年の執政官)|en|Eutropius (consul)|label=エウトロピウス}}がアフリカ軍司令官の{{仮リンク|ギルドー|en|Gildo}}を唆し、ローマへ供給されるはずだった食料をコンスタンティノープルへ横流しさせるという事件も発生した。同時にホノリウスは蛮族(とりわけ[[ヴァンダル族]]と[[東ゴート族]])の侵入にも悩まされ、[[410年]]には[[西ゴート人]]によって首都ローマが掠奪された([[ローマ略奪 (410年)|ローマ略奪]])が、このとき西ゴート人を率いていたのは前述のアラリックだった。
 
ゲルマン人の将軍[[リキメル]]が帝国の実権を握った時代になると、皇帝が不在のまま放置されることすらあり、もはや西方では皇帝は傀儡としてすら必要とはされていなかった<ref>[[#南川2018|南川2018]]、p.66。</ref>。
[[ウァレンティニアヌス3世]]の時代には状況は更に複雑になった。[[438年]]に発布された「[[テオドシウス法典]]」は東帝[[テオドシウス2世]]と西帝ウァレンティニアヌス3世との連名で発布され、理念上はローマ帝国の東西が一体であることを強調するものであったが、テオドシオス法典の発布後、実際には[[ローマ法]]がローマ帝国の東西で徐々に分裂を始めた<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、pp.79-80。</ref>。現実問題として、東方ではローマの法が実施されなくなり、同様に西方でもコンスタンティノープルの法が実施されなくなった。[[450年]]にテオドシウス2世が没すると、東ローマ帝国ではゲルマン人の将軍[[アスパル]]がウァレンティニアヌス3世に無断で[[マルキアヌス]]を皇帝の座に据えたが、ウァレンティニアヌス3世は[[452年]]頃までマルキアヌスに正式な皇帝としての承認を与えなかった。こうした東西宮廷の分裂に加えて、皇帝権そのものにも更なる分割が加えられた。[[440年]]に[[レオ1世 (ローマ教皇)|レオ1世]]が[[ローマ教皇]]となると、グラティアヌス以前には皇帝が名乗っていた[[ポンティフェクス・マクシムス]]の称号を教皇が名乗るようになり、皇帝に代わって教皇が帝国における宗教や祭礼の最上位の保護者として神法の遵守を監督するようになった。さらに[[445年]]にはウァレンティニアヌス3世によって「教皇が承認したこと、あるいは承認するであろうことは全て、万民にとっての法となる」とも定められた<ref>[[#バラクロウ2012|バラクロウ2012]]、p.37。</ref>。こうした権限の委譲が進められていった結果、[[452年]]には[[フン族]]と、[[455年]]には[[ヴァンダル族]]と、[[591年]]および[[593年]]には[[ランゴバルド族]]と、教皇が帝国の代表者として皇帝を無視したまま和平交渉を行うようになった<ref>[[#バラクロウ2012|バラクロウ2012]]、pp.47-48。</ref><ref>[[#バラクロウ2012|バラクロウ2012]]、p.56。</ref>。いずれにせよ、教皇は5世紀末までには西方において皇帝と同等の役割をこなす存在となっていた<ref>[[#シンメルペニッヒ2017|シンメルペニッヒ2017]]、p.54。</ref>。軍事の面においても帝国で重要な役割を果たしていたのは皇帝ではなく[[アエティウス]]のような蛮族出身の将軍たちであった。そしてアエティウスら将軍の活躍を支えていたのも、皇帝の指揮系統に属する正規のローマ軍団ではなく、[[ブッケラリィ]]と呼ばれる将軍の私兵たちであった。ウァレンティニアヌス3世の時代には既に皇帝の名前や行動は帝国にとって重要なものではなくなっていたが<ref>[[#南川2018|南川2018]]、p.53。</ref>、ゲルマン人の将軍[[リキメル]]が帝国の実権を握った時代ともなると皇帝は不在のまま放置されることすらあり、もはや皇帝は傀儡としてすらも必要とされなくなった<ref>[[#南川2018|南川2018]]、p.66。</ref>。
 
[[475年]]、東ローマ皇帝[[レオ1世 (東ローマ皇帝)|レオ1世]]によって送り込まれた[[ユリウス・ネポス]]が軍司令官[[フラウィウス・オレステス|オレステス]]によって[[ラヴェンナ]]から追放され、オレステスの息子[[ロムルス・アウグストゥルス]]<ref group="注">正式にはロムルス・アウグストゥス。アウグストゥルスは小アウグストゥスの意。</ref>が皇帝であると宣言された。ネポスは[[ダルマチア]]へと亡命し、いくつかの孤立地帯においてユリウス・ネポスを支持する勢力の活動が続いたものの<ref group="注">例:[[シアグリウス]]支配下の[[ソワソン管区]]、[[アウレリウス・アンブロシウス]]支配下の[[ブリタニア]]</ref>、ネポスにせよアウグストゥルスにせよ、西ローマ帝国全域における皇帝の支配権はとうに失われていた。
 
=== 最後の皇帝 ===
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[[Image:Tremissis Julius Nepos-RIC 3221.jpg|thumb|250px|[[トレミシス]]金貨に描かれた[[ユリウス・ネポス]]]]
[[Image:RomulusAugustus.jpg|thumb|right|250px|[[トレミシス]]金貨に描かれた[[ロムルス・アウグストゥルス]]]]
[[476年]]にオレステスが、[[オドアケル]]率いる[[ヘルール族|ヘルリ]]連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、[[元老院 (ローマ)|元老院]]を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を東方皇帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]へ送り、西方皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。ゼノンは彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルに[[パトリキ]]の地位を与え、オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた<ref group="注">このことからオドアケルをローマ帝国の初代[[イタリア王]](rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかについては議論がある。</ref>。一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだ[[ダルマチア]]の残存領土で引き続き西方の統治権の保持を宣言しており、東帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]も一応はネポスを正当な西帝として支持していた{{Refnest|group="注"|name="尚樹1999pp130注"|ゼノンはネポスの風評が悪いことを気にしており、ネポスを全面的には支持していなかった<ref name="尚樹1999p130">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.130。</ref>。}}。そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた<ref name="尚樹1999p130" />。元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。オドアケルは主権を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。ユリウス・ネポスが[[480年]]に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を平定してしまう。東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである<ref group="注">その後もガリア北部のシアグリウスがネポスの名で貨幣を鋳造していたが、シアグリウスも[[486年]]にフランク族に敗れて処刑された。</ref><ref group="注">一般の西洋史ではロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及され、たいてい亡命後のユリウス・ネポスは重要視されていない。</ref>。とはいえ、[[6世紀]]末から[[7世紀]]初頭にかけて皇帝[[マウリキオス]]や教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]らが西方正帝の設置を検討したように、東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものはただちに失われたわけではなかった<ref name="ReferenceA">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.107。</ref>。
 
[[476年]]にオレステスが、[[オドアケル]]率いる[[ヘルール族|ヘルリ]]連合軍に賠償金を与えることを断ると、オドアケルはローマを荒掠してオレステスを殺害し、ロムルス・アウグストゥルスを退位させ、[[元老院 (ローマ)|元老院]]を通じて「もはやローマに皇帝は必要ではない」とする勅書を[[東ローマ帝国]]の[[皇帝]][[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]へ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣とを返上した。ゼノンは彼の政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功績としてオドアケルに[[パトリキ]]の地位を与え、オドアケルをローマ帝国のイタリア領主(dux Italiae)に任じた<ref group="注">このことからオドアケルをローマ帝国の初代[[イタリア王]](rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかについては議論がある。</ref>。一方、オレステスによって追放されたユリウス・ネポスは、まだ[[ダルマチア]]の残存領土で引き続き西ローマ帝国の統治権の保持を宣言しており、東帝[[ゼノン (東ローマ皇帝)|ゼノン]]も一応はネポスを正当な西帝として支持していた{{Refnest|group="注"|name="尚樹1999pp130注"|ゼノンはネポスの風評が悪いことを気にしており、ネポスを全面的には支持していなかった<ref name="尚樹1999p130">[[#尚樹1999|尚樹1999]]、p.130。</ref>。}}。そこでゼノンは、オドアケルにはユリウス・ネポスを西帝として公式に承認すべきだとの助言を与えた<ref name="尚樹1999p130" />。元老院は西方正帝の完全な廃止を強硬に求めたが、オドアケルは譲歩して、ユリウス・ネポスの名で硬貨を鋳造してイタリア全土に流通させた。だがこれは、ほとんど空々しい政治的行動であった。オドアケルは[[主権]]を決してユリウス・ネポスに返さなかったからである。ユリウス・ネポスが[[480年]]に暗殺されると、オドアケルはダルマチアに侵入して、あっさりとこの地を平定してしまう。東帝ゼノンが正式に西方正帝の地位を廃止したのは、このユリウス・ネポスの死後のことである<ref group="注">その後もガリア北部のシアグリウスがネポスの名で貨幣を鋳造していたが、シアグリウスも[[486年]]にフランク族に敗れて処刑された。</ref><ref group="注">一般の西洋史ではロムルス・アウグストゥルスが「最後の皇帝」として言及され、たいてい亡命後のユリウス・ネポスは重要視されていない。</ref>。とはいえ、[[6世紀]]末から[[7世紀]]初頭にかけて皇帝[[マウリキオス]]や教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]らが西方正帝の設置を検討したように、東西に広がるローマ帝国を必要に応じて複数の皇帝で分担統治するという考え方そのものは直ちに失われたわけではなかった<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.107。</ref>。
 
== オドアケルとテオドリック ==
{{main|オドアケル|テオドリック (東ゴート王)|東ゴート王国}}
[[Image:Ostrogothic Kingdom.png|right|thumb|250px|西ローマ帝国の中で振興した[[東ゴート王国]]の領地]]
西方正帝の廃止によって、西ローマ帝国に何らかの変化がもたらされることはなかった。ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、西方の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された<ref name="リシェ1974p90">[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.90。</ref>。オドアケルの統治下で西方の内乱は終息し、地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、帝国は一時の復興を遂げることとなった。ゼノンにとってオドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、2人の関係は当初は非常に良好であった<ref name="リシェ1974p90"/>。しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、[[488年]]にゼノンは東ゴート王[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]にオドアケル討伐を命じた。
 
テオドリックはイタリアへ侵攻してたびたびオドアケルを打ち破り、[[493年]]にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。ゼノンは既に[[491年]]に死亡していたが、テオドリックは東方皇帝[[アナスタシウス1世]]より[[カエサル (称号)|副帝]]およびイタリア道の[[マギステル・ミリトゥム|軍司令官]]に任ぜられた<ref>「テオドリック(テオドリクス)大王」『[[#ロイン1999|西洋中世史事典]]』</ref><ref>「テオドリック」『[[#松原2010|西洋古典学事典]]』。</ref><ref>[[#グラール2000|グラール2000]]、p.77。</ref><ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、pp.84-85。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001p86">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.86。</ref>。また、[[497年]]にはイタリア王を称することが許され、ここに東ゴート王国が創設された。ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、オドアケルの時代と同様に、その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、民政は引き続き西ローマ政府によって運営され、立法権はローマ皇帝が保持していた<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.157。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.120。</ref><ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.84。</ref>。
西方正帝の廃止によって、西ローマ帝国に何らかの変化がもたらされることはなかった。ゼノンもオドアケルも特別な変革を行うことはせず、西ローマ帝国の政府や諸機関、諸制度による統治はそのまま維持された<ref name="リシェ1974p90">[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.90。</ref>。オドアケルの統治下で西ローマ帝国の内乱は終息し、地震によって損壊したままとなっていた古代ローマの建造物も修復が始まり、帝国は一時の復興を遂げることとなった。ゼノンにとってオドアケルは政敵ロムルス・アウグストゥルスを倒した功臣であったので、二人の関係は当初は非常に良好であった<ref>[[#リシェ1974|リシェ1974]]、p.90。</ref>。しかし、ゼノンとオドアケルは主に宗教的理由により徐々に対立するようになり、[[488年]]にゼノンは東ゴート王[[テオドリック (東ゴート王)|テオドリック]]にオドアケル討伐を命じた。
 
テオドリックはイタリアへ侵攻して度々オドアケルを打ち破り、[[493年]]にイタリアを占領してオドアケルを殺害した。ゼノンは既に[[491年]]に死亡していたが、テオドリックは東ローマ皇帝[[アナスタシウス1世]]より[[カエサル (称号)|副帝]]およびイタリア道の[[マギステル・ミリトゥム|軍司令官]]に任ぜられた<ref>「テオドリック(テオドリクス)大王」『[[#ロイン1999|西洋中世史事典]]』</ref><ref>「テオドリック」『[[#松原2010|西洋古典学事典]]』。</ref><ref>[[#グラール2000|グラール2000]]、p.77。</ref><ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、pp.84-85。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001p86">[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.86。</ref>。また、[[497年]]にはイタリア王を称することが許され、ここに東ゴート王国が創設された。ただし、東ゴート王国はローマ帝国から独立した王国というわけではなく、オドアケルの時代と同様に、その領土と住民は依然としてローマ帝国に属しており、民政は引き続き西ローマ帝国政府によって運営され、立法権はローマ皇帝が保持していた<ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.157。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.120。</ref><ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.84。</ref>。
 
オドアケルとテオドリックの統治下において、[[シチリア島]]の一部が[[ヴァンダル族]]から帝国へと返還され、[[アフリカ]]からの食料供給や地中海沿いでの交易が再開されたことにより、ローマの人口は40万人ほどにまで回復した。オドアケル、テオドリックと優秀な統治者が続いたこともあり、西ローマ帝国は「金の財布を野原に落としても安全である」と称えられるほどの繁栄の時代を迎えた<ref>[[#ギボン1955|ギボン1955]]、p.36</ref><ref>[[:en:Ernst Stein|Ernst Stein]], "Historie du Bas-Empire"</ref>。
 
== 東ローマ帝国による征服事業 ==
[[Image:Byzantium550.png|thumb|left|300px|[[550年]]の[[東ローマ帝国]]。緑色の部分が[[ユスティニアヌス1世]]によって奪還された領地。]]
{{See also|ゴート戦争}}
テオドリックが[[526年]]に没したとき、もはや[[東ローマ帝国]]は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。西方では古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、東方では大幅にギリシャ化が進んでいた。また、東ローマ皇帝にとって「皇帝」の名に反して帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難いことであった。ローマ市は西方正帝が廃止された後も名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨した。<!-- [[#シュルツェ2005|シュルツェ2005]]p125の以下の文言は、9世紀以降を対象としたものであるため、削除「教皇は帝冠授与者としての役目から、帝冠の処分権を、少なくとも帝位候補者の認可権を主張した」"ローマ市においては、こうした認識が[[14世紀]]中葉まで続いた"との文言も、9世紀以降に明確化した古代に対する観念が14世紀まで継続していた、という話であり、6世紀の話ではないため削除。 -->
 
東ローマ帝国の皇帝[[ユスティニアヌス1世]]は、西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾たびかの遠征をおこなった。最大の成功は、2人の将軍[[ベリサリウス]]と[[ナルセス]]が[[535年]]から[[545年]]に行なった一連の遠征である。[[ヴァンダル族]]に占領された、[[カルタゴ]]を中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。遠征は最後に[[イタリア]]へ移り、ローマを含むイタリア全土と、[[イベリア半島]]南岸までを征服するに至った。[[ユスティニアヌス1世]]は[[テオドシウス1世]]から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。
テオドリックが[[526年]]に没したとき、もはや東ローマ帝国は西ローマ帝国とは文化的には別物になっていた。西ローマ帝国では古代ローマ式の文化が維持されていたのに対し、東ローマ帝国では大幅に[[ギリシャ]]化が進んでいた。また、東ローマ皇帝にとって、「ローマ皇帝」の名に反して帝国の首都ローマを支配していない事実は容認し難い事であった。ローマ市は西方正帝が廃止された後も名目上は帝国の首都(caput imperii)として君臨し、ローマ皇帝に対する帝冠の処分権と認可権の所持とを主張し続けていたからである{{Refnest|group="注"|ローマ市においては、こうした認識が[[14世紀]]中葉まで続いた<ref>[[#シュルツェ2005|シュルツェ2005]]、p.125。</ref>。}}。
 
しかし皮肉にも、ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した<ref>[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、pp.40-41。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.105。</ref>。ユスティニアヌスによる長年にわたる征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである<ref>[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、p.33 および p.39。</ref>。西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、その多くが失われることとなった<ref>[[#ヨーロッパ歴史百科|ヨーロッパ歴史百科]]、p.78。</ref>。もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。帝国の人口減衰率は約50%と推定され、[[プロコピオス]]は「いたるところで住人がいなくなった」と記し、[[ローマ教皇]][[ペラギウス1世]]は「誰一人としてその復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した<ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.99。</ref><ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.221。</ref>。一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう<ref>[[#井上1990|井上1990]]、p.94。</ref>。この惨状について、6世紀末のローマ教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]は、「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。しかしながら東ローマ皇帝にとっては、一時でもローマを支配しえたことは、東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続ける精神的なよりどころの一つになった<ref>[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、p.43。</ref>。
[[東ローマ帝国]]の皇帝[[ユスティニアヌス1世]]は、西ローマ帝国の地を彼らが蛮族と呼んだ人々から奪還しようとして幾たびかの遠征をおこなった。最大の成功は、二人の将軍、[[ベリサリウス]]と[[ナルセス]]が[[535年]]から[[545年]]に行なった一連の遠征である。[[ヴァンダル族]]に占領された、[[カルタゴ]]を中心とする北アフリカの旧西ローマ帝国領が東ローマ皇帝領として奪回された。遠征は最後に[[イタリア]]に移り、ローマを含むイタリア全土と、[[イベリア半島]]南岸までを征服するに至った。[[ユスティニアヌス1世]]は[[テオドシウス1世]]から約150年ぶりに、西方領土と東方領土の両方を単独で実効統治するローマ皇帝となったのである。
 
ユスティニアヌス1世によって獲得された西方領土は、その死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった<ref group="注">ただし、東ローマ皇帝が西方における覇権を完全に喪失したわけではない。東ローマ皇帝は8世紀半ばまで[[ラヴェンナ]]および[[ローマ]]、さらに11世紀まで[[南イタリア]]([[マグナ・グラエキア]])という西方領土を領有し続けた。また、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかったにせよ、[[12世紀]]の[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]のように、イタリア遠征を行って西ローマ帝国を支配しようと試みる皇帝はいた。</ref>。さらに[[ギリシア語]]圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は再び競争関係に入った。[[マウリキウス]]は次男{{仮リンク|ティベリオス(マルキリウスの子)|en|Tiberius (son of Maurice)|label=ティベリオス}}を[[597年]]に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが<ref group="注">東方正帝は長男の{{仮リンク|テオドシウス(マルキリウスの子)|en|Theodosius (son of Maurice)|label=テオドシウス}}。</ref><ref name="ReferenceA"/>、そのマウリキウスも[[602年]]に[[フォカス]]の反乱によって殺されてしまう。この後、[[サーサーン朝]]やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、古代ローマ的な要素は失われていくこととなる<ref>[[#ガッケン・エリア教科事典 第3巻 世界歴史|ガッケン・エリア教科事典 第3巻 世界歴史]]、pp.190-191</ref>{{Refnest|group="注"|この経過について、アラブ勢力の侵入を契機に各地にテマが成立し、それらは「半独立政権」の様相を呈したとしてそれまでの東ローマの国家体制との連続性を否定した上で、その「テマを地方行政組織に編成しなおすことによって新しい国家、ビザンツ帝国が誕生する」と捉える文献<ref>[[#世界の歴史11(1998年)|世界の歴史11(1998年)]]、pp.59-60。</ref> もある。}}。
しかし皮肉にも、ユスティニアヌスによる「皇帝」の権威回復は「帝国」の解体を促進した<ref>[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、pp.40-41。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.105。</ref>。ユスティニアヌスによる長年にわたる征服戦争が経済的にも文化的にも西ローマ帝国に深刻すぎる損害を与え、「ローマによるローマ帝国」という理念を信じていた西ローマ帝国の人々を幻滅させる結果となったからである<ref>[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、p.33 および p.39。</ref>。西ローマ帝国で保たれていた古代ローマの伝統や文化は、その多くが失われることとなった<ref>[[#ヨーロッパ歴史百科|ヨーロッパ歴史百科]]、p.78。</ref>。もはや帝国の租税台帳は更新されなくなり、ゲルマン王の統治下で繁栄していた地中海交易も姿を消した。帝国の人口減衰率は約50%と推定され、[[プロコピオス]]は「いたるところで住人がいなくなった」と記し、[[ローマ教皇]][[ペラギウス1世]]は「誰一人としてその復興を果たしえない」と農村の荒廃を強調した<ref>[[#マラヴァル2005|マラヴァル2005]]、p.99。</ref><ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.221。</ref>。一説には、東ローマ帝国が最終的にローマを手に入れた時、ローマ市の人口はわずか500人ほどになっていたともいう<ref>[[#井上1990|井上1990]]、p.94。</ref>。この惨状について、6世紀末のローマ教皇[[グレゴリウス1世 (ローマ教皇)|グレゴリウス1世]]は、「いま元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いている。しかしながら東ローマ皇帝にとっては、一時でもローマを支配しえた事は、東ローマ皇帝がローマ皇帝を名乗り続け、中世を通して国家として生き残る精神的な拠り所のひとつともなった<ref name="世界の歴史11p43">[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、p.43。</ref>。
 
[[ユスティニアヌス1世]]によって獲得された西方領土は、彼の死後には急激に東ローマ皇帝の手から離れていった<ref group="注">ただし、東ローマ皇帝が西方における覇権を完全に喪失したわけではない。東ローマ皇帝は8世紀半ばまで[[ラヴェンナ]]および[[ローマ]]、さらに11世紀まで[[南イタリア]]([[マグナ・グラエキア]])という西方領土を領有し続けた。また、ユスティニアヌス1世ほどの成功者は出なかったにせよ、[[12世紀]]の[[マヌエル1世コムネノス|マヌエル1世]]のように、[[イタリア遠征]]を行って西ローマ帝国を支配しようと試みる皇帝はいた。</ref>。さらに[[ギリシア語]]圏の東ローマ帝国とラテン語圏の西ローマ帝国の文化的な差異や宗教対立が大きくなると、2つの区域は再び競争関係に入った。[[マウリキウス]]は次男{{仮リンク|ティベリオス(マルキリウスの子)|en|Tiberius (son of Maurice)|label=ティベリオス}}を[[597年]]に西方正帝と指名して西方領土の維持に固執したが<ref group="注">東方正帝は長男の{{仮リンク|テオドシウス(マルキリウスの子)|en|Theodosius (son of Maurice)|label=テオドシウス}}。</ref><ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.107。</ref>、そのマウリキウスも[[602年]]に[[フォカス]]の反乱によって殺されてしまう。この後、[[サーサーン朝]]やイスラム勢力による侵攻激化も加わり、混乱状況を乗り越える中で東ローマ帝国の国制は大きく変容し、古代ローマ的な要素は失われていくこととなる{{Refnest|group="注"|この経過について、「東方世界における後期ローマ帝国の歴史は終わりを告げ、国内各地に生じた半独立政権(テマ)を統一した『ローマ皇帝』によってビザンツ帝国とよばれる『ローマ帝国』の歴史が始まることになる」とする説もある<ref>[[#オストロゴルスキー2001|オストロゴルスキー2001]]、p.112。</ref><ref>[[#ルメルル2003|ルメルル2003]]、pp.84-85。</ref><ref>[[#世界の歴史11|世界の歴史11]]、pp.59-60。</ref>。}}。
 
== 遺産 ==
=== 言語 ===
[[Image:Latin_Europe.svg|250px|thumb|ヨーロッパにおける[[ロマンス諸語]]]]
東方領土で[[ラテン語]]が死語になった後も、西ローマ帝国の大部分の地域{{Refnest|group="注"|例外は[[ブリタニア]]と[[アフリカ]]である<ref name="ヨーロッパの歴史p85" />。}}では[[ラテン語]]が何世紀にもわたって維持された<ref name="ヨーロッパの歴史p85">[[#ヨーロッパの歴史|ヨーロッパの歴史]]、p.85。</ref>。いわゆる[[ゲルマン語]]などからの影響は軍事に関する数語の[[借用語]]に限られていた<ref name="ヨーロッパの歴史p85" /><ref name="ピレンヌ1960p46">[[#ピレンヌ1960|ピレンヌ1960]]、p.46。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=アンドレ・モロワ|authorlink=アンドレ・モーロワ|translator=[[桐村泰次]]|year=2013|title=ドイツ史|publisher=[[論創社]]|isbn=9784846012731|page=16}}</ref>。時代が下ると、ラテン語は[[8世紀]]頃から[[12世紀]]頃にかけて緩やかに変化し、地方ごとの分化が明らかになっていった<ref name="西洋中世史事典_言語と方言">[言語と方言]『[[#ロイン1999|西洋中世史事典]]』</ref>。こうして地方ごとに分化したラテン語の方言が現代の[[ロマンス諸語]]<ref group="注">[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[ルーマニア語]]、[[ロマンシュ語]]など。</ref>で<ref name="ヨーロッパの歴史p85" /><ref name="西洋中世史事典_言語と方言" />、それらは中世においては単に「下手なラテン語」の一つだった<ref name="西洋中世史事典_言語と方言" />。
西ローマ帝国がばらばらになるにつれて、[[属州]]を支配におさめたゲルマン系の民族はすでにキリスト教化していたが、たいてい[[アリウス派]]の信者だったのである。彼らも早晩カトリックに[[改宗]]し、ローマ化していた地域住民の忠誠と同時に、強力なカトリック教会の認知と支持を得ようとした。
 
[[ラテン語]]は死語になってしまったが、言語として消え去ったわけではない。[[俗ラテン語]]が蛮族の言語と混じり合って、[[イタリア語]]、[[フランス語]]、[[スペイン語]]、[[ポルトガル語]]、[[ルーマニア語]]、[[ロマンシュ語]]といった現代の[[ロマンス諸語]]の起源となった。また[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[オランダ語]]などの[[ゲルマン語派]]にも、ある程度の影響を及ぼしている。ラテン語の「純粋な」かたちはカトリック教会において余命を保ち([[ミサ]]の挙行では[[1970年]]までラテン語が使われた)、多くの国々で[[リングワ・フランカ]]としての役割を果たした。過去においては論文や理論書の執筆にラテン語が使われており、今でも[[医学]]・[[法律学]]・[[外交]]の専門家や研究者に利用されている。ちなみに[[学名]]のほとんどがラテン語である。
 
識字率は大幅に低下したが、公式文書や学術関係の書物は引き続きラテン語で記され続けた。西方で[[ギリシア語]]の地位が失われたために、[[リングワ・フランカ]]としてのラテン語の地位は向上した。[[ラテン文字]]は、[[J]]、[[K]]、[[W]]、[[Z]]が付け足され、[[ラテン文字一覧|文字数]]が増えた。[[10世紀]]になると[[ヨーロッパ]]に[[アラビア数字]]が伝えられ、[[ローマ数字]]はたとえば[[時計]]の文字盤や本の章立てにおいて依然として使われている続けたものの、[[16世紀]]頃にはほとんどが[[アラビア数字]]に取って代わられた。ラテン語は今でも[[医学]]・[[法律学]]・[[外交]]の専門家や研究者に利用されており、[[学名]]のほとんどがラテン語である。[[ミサ]]の挙行では[[1970年]]まで[[古典ラテン語]]が使われていた。また、ラテン語は[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[オランダ語]]などの[[ゲルマン語派]]にも、ある程度の影響を及ぼしている
 
=== 宗教 ===
単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。[[フランク王国]]と[[ロンバルディア]]の支配者[[カール大帝]]は、[[800年]]に教皇[[レオ3世_(ローマ教皇)|レオ3世]]によってローマ皇帝として戴冠された。これが[[神聖ローマ帝国]]の由来であり、[[フリードリヒ1世_(神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]や[[フリードリヒ2世_(神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]は「ローマ皇帝」の名目から[[イタリア半島]]の支配に固執し、[[カール5世_(神聖ローマ皇帝)|カール5世]]は[[ヨーロッパ]]と[[新大陸]]にまたがる世界帝国の盟主となった。東ローマ帝国が滅びると、[[モスクワ大公国|モスクワ大公]]は全[[ルーシ]](ロシア)の[[ツァーリ]]を称し、「第3のローマ」の皇帝を自任するようになった。これだけでなく、東ローマ帝国を滅亡させた当の(しかもキリスト教国ですらない)[[オスマン帝国]]の[[スルタン]](たとえば[[メフメト2世]]や[[スレイマン大帝]])は、([[コンスタンティノポリス総主教]]を庇護することにより)自分を[[ローマ皇帝]]と主張した。しかし、西ローマ帝国と東ローマ帝国を合わせた完全なローマ帝国の再生の目論見に成功した者は誰一人としていなかった。
西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、[[5世紀]]後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。ゲルマン系の民族は、たいてい[[アリウス派]]の信者だったが、彼らも早晩カトリックに[[改宗]]し、中世の中ごろ([[9世紀]] - [[10世紀]])までに[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失って後も、教会に援助された[[宣教師]]は北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた[[異教]]を駆逐したのである。
 
単独の支配者による強大なキリスト教帝国としてのローマという理念は、多くの権力者を魅了し続けた。[[フランク王国]]と[[ロンバルディア]]の支配者[[カール大帝]]は、[[800年]]にローマ皇帝として推戴されると、教皇[[レオ3世 (ローマ教皇)|レオ3世]]によって戴冠された。これが[[神聖ローマ帝国]]の由来であり、それはラテン的教養とカトリックを紐帯としてローマ人貴族層によって受け継がれてきたローマ理念の具象化であった<ref name="世界大百科事典" /><ref name="日本大百科全書" />。こうした理念から、[[オットー3世 (神聖ローマ皇帝)|オットー3世]]は古代の皇帝たちに倣って[[パラティーノの丘]]に造営した宮殿に住まい、ローマ市を中心とした帝国を指向したし<ref>{{Cite book|和書|author=成瀬治|authorlink=成瀬治|year=1997|title=世界歴史大系 ドイツ史1|publisher=[[山川出版社]]|isbn=9784634461208|page=133}}</ref>、[[フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ1世]]や[[フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)|フリードリヒ2世]]も「ローマ皇帝」の名目から[[イタリア半島]]の支配に固執した。
西ローマ帝国の最も重要な遺産は、カトリック教会である。カトリック教会は、西ローマ帝国におけるローマの諸機関にゆっくりと置き換わっていき、[[5世紀]]後半になると、蛮族の脅威を前にローマ市の安全のために交渉役さえ務めるようになる。蛮族が侵入するにつれて多くの改宗者を生み出すと、中世の中ごろ([[9世紀]]~[[10世紀]])までに[[中央ヨーロッパ|中欧]]・[[西ヨーロッパ|西欧]]・[[北ヨーロッパ|北欧]]のほとんどがカトリックに改宗して、ローマ教皇を「キリストの代理者」と称するようになった。西ローマ帝国が帝国としての政治的統一性を失って後も、教会に援助された[[宣教師]]は北の最果てまで派遣され、ヨーロッパ中に残っていた[[異教]]を駆逐したのである。
 
== 経済とのかかわり ==
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ローマと[[イタリア半島]]では、生産性の高い東方地域が属州へ組み込まれると徐々に交易や高級作物の生産へシフトしたが、経済の重心は次第に東へ移った。
 
既にイタリア半島では五賢帝時代から産業の空洞化が始まっており、ローマ帝国末期を通じて、西ローマ帝国が経済的な下降線を辿っていった。中央の権力が弱まると、国家として国境や[[属州]]を制しきれなくなり、致命的なことに、[[地中海]]をも掌握できなくなった。歴代の[[ローマ皇帝]]は蛮族を地中海へと立ち入らせなかったのだが、[[ヴァンダル族]]はとうとう[[北アフリカ]]を征服してしまう。
 
これは西ローマ帝国の農業において、深刻なダメージとなった。ローマ帝国は帝政期以前より、イタリア半島ではオリーブや葡萄や食肉などの貴族の嗜好品を中心とする農業を営んでおり、主食たる小麦についてはシチリアや北アフリカなどの属州に依存していた。ところが地中海に蛮族の侵入を許した事によって、この農業体制が崩壊してしまうのである。この経済的な衰退が、とどのつまりは西ローマ帝国崩壊の伏線となったのである。古代においては国民総生産と国家の税収のほとんどは農業に由来している。税収が不十分では、高くつく職業的な[[軍団]]を維持することも、雇い入れた[[傭兵]]を当てにすることもままならなかったからである。西ローマ帝国の官庁は、あまりにも広すぎる土地を、あまりにも乏しい財源によって賄わざるを得なかった。西ローマ帝国の諸機関は、不安定な経済力に連動してつぶれて行った。たいていの蛮族の侵入者は、征服した土地の3分の1を制圧されたローマ系住民に要求したが、このような状況は、同じ地方を異なる部族が征服するたび、いよいよ増えていったことであろう。
 
イタリア半島の農業は、嗜好品の生産から主食の生産へと転換すべきであったが、それは無理であった。経済力と政治的な安定性が欠けていたために、念入りに開発された何十平方キロメートルもの数々の土地が放棄されていった。耕地の放棄は経済的に手痛い一撃となった。こうなったのも、生産力を維持するためには、単純な保守として、敷地にある程度の時間と資金を投入することが必要だったからである。そもそもイタリア半島の農地の生産性はシチリアや北アフリカよりも劣っていたがために、奢侈品の生産へと転換した歴史がある。
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[[18世紀]]になると、ロムルス・アウグストゥルスまたはユリウス・ネポスの廃位によって西ローマ帝国が「滅亡」したとする文学的表現が生み出され、この表現は現在でも慣用的に用いられている。しかしながら、西ローマ帝国が「滅亡」したとする表現は「誤解を招く、不正確で不適切な表現」として、学問分野より見直しが求められている<ref name="JBBury">J. B. Bury, ''History of the Later Roman Empire: From the Death of Theodosius I to the Death of Justinian'', ch.12</ref>。
 
西方正帝の廃止は西ローマ帝国の滅亡ではない<ref name="JBBury" /><ref name="ローマ史ブリタニカ">[ローマ史]『ブリタニカ国際大百科事典』、TBSブリタニカ</ref>。西方正帝の地位が廃止された後も、正帝以外の各種公職や政府機関は健在であった<ref name="リシェ1974p90" /><ref name="ヨーロッパ歴史百科p79">[[#ヨーロッパ歴史百科|ヨーロッパ歴史百科]]、p.79。</ref><ref name="リシェ1974p90" />。少なくとも法律・制度・行政機構の面においては「西ローマ帝国の滅亡」といった断絶を見出すことはできない<ref name="ローマ史ブリタニカ" /><ref name="ヨーロッパ歴史百科p79" />。いわゆるゲルマン王国と呼ばれる領域においても、実際に行政権を行使していたのは西ローマ帝国政府から任命されるローマ人の属州総督であったし<ref>[[#パランク1976|パランク1976]]、p.126。</ref>、住民もまた東西で共通のローマ市民権を所有しつづけていた。彼らローマ人は西方正帝の廃止後も変わらずローマ法の適用を受け、帝国の租税台帳によってローマ人の文官によって税が徴収されていた。一方のゲルマン王らは名目上はローマ帝国によって雇用されている立場であり、帝国から給金を受け取っていた。オドアケルやオドアケルの後にイタリアの統治権を認められた東ゴート王らにしても、ローマ帝国にとっては皇帝からローマ帝国領イタリアの統治を委任された西ローマ帝国における臣下の一人に過ぎなかったのである<ref name="オストロゴルスキー2001p86" /><ref>[[#尚樹1999|尚樹1999]]、pp.136-137。</ref><ref name="オストロゴルスキー2001p86" /><ref>[[#パランク1976|パランク1976]]、p.130。</ref>。彼らは西ローマ帝国での地位と利益を確保するために西方正帝を廃して帝国の政治に参加するようになったのであって、彼らに西ローマ帝国を滅ぼした認識などなく、むしろ自らを古代ローマ帝国と一体のものと考え古代ローマの生活様式を保存しようとさえした<ref name="パランク1976pp126-127" />。西欧において読み書きのできる人々は、西方正帝が消滅して以降の何世紀もの間、自らを単に「ローマ人」と呼び続けており、自分たちが単一不可分にして普遍的なるローマ帝国の国民「諸民族に君臨するローマ人」であるとの認識を共有していたのである<ref>[[#ミシェル2016|ミシェル2016]]</ref>。20世紀以降の歴史学においては、[[アンリ・ピレンヌ]]、{{仮リンク|ルシアン・マセット|fr|Lucien Musset}}、{{仮リンク|フランソワ・マサイ|fr|François Masai}}、{{仮リンク|K.F.ヴェルナー|de|Karl Ferdinand Werner|fr|Karl Ferdinand Werner}}、[[ピーター・ブラウン (歴史学者)|ピーター・ブラウン]]といった歴史家による「西ローマ帝国は滅亡しておらず、政治的に変容しただけである」とする見解が支持されるようになっている<ref name="ヨーロッパ歴史百科p79" />。また、[[古代ローマ]]における主権者が皇帝ではなく[[SPQR]](元老院とローマ市民)であるとされていたことから、SPQRが存在する限りにおいて古代ローマが健在であったとの説明がされることもある。
 
== 西ローマ帝国の皇帝 ==
=== テトラルキア(四帝統治)期 ([[286(286]]-[[313年]]) ===
まず'''正帝'''を記し、字下げして'''副帝'''および摂政を併記する。
* [[マクシミアヌス]]: 286年-[[305年]]
230 ⟶ 244行目:
* [[ドミティウス・アレクサンデル]]: 308年-[[309年]] (アフリカ人の簒奪者)
 
=== コンスタンティヌス朝期 (313(313年-[[363年]]) ===
* [[コンスタンティヌス1世]]: 313年-[[337年]] (ローマ帝国全体の皇帝 [[324年]]-337年)
** [[クリスプス]]: [[317年]]-[[326年]] (副帝)
245 ⟶ 259行目:
* [[ヨウィアヌス]]: 363年-364年
 
=== ウァレンティニアヌス朝期 ([[364(364]]-[[392年]]) ===
* [[ウァレンティニアヌス1世]]: 364年-[[375年]]
* [[グラティアヌス]]: [[367年]]-[[383年]]
251 ⟶ 265行目:
* [[マグヌス・マクシムス]]: 383年-[[388年]] (383年は簒奪者、384年-388年はテオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝)
* {{仮リンク|フラウィウス・ウィクトル|en|Victor (emperor)}}: [[384年]]-[[388年]] (テオドシウス1世とウァレンティニアヌス2世の共同皇帝)
* {{仮リンク|[[フィルムス|en|Firmus (4th-century usurper4世紀の人物)}}|フィルムス]]: [[372年]]-[[375年]] ([[マウレタニア]]皇帝)
* [[エウゲニウス]]: 392年-394年 (東方帝は承認せず)
 
=== テオドシウス朝期(393(393年-[[455年]]) ===
* [[ホノリウス]]: 393年-[[423年]](409年-410年は元老院は否定)
** 実権は東帝である父テオドシウス1世と軍の実力者であった[[スティリコ]]に握られていた(393年-[[408年]])
* {{仮リンク|マルクス (406年のローマ皇帝)|en|Marcus (usurper)|label=マルクス}}: [[406年]]-407年(簒奪者)
* {{仮リンク|グラティアヌス (407年のローマ皇帝)|en|Gratian (usurper)|label=グラティアヌス}}: 407年(簒奪者)
* [[コンスタンティヌス3世]]: [[407年]]-[[411年]] (簒奪者、409年-411年はホノリウスの共同皇帝)
** コンスタンス2世: 407年-409年 (副帝)
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* {{仮リンク|ヒスパニアのマキシムス|en|Maximus of Hispania|label=マキシムス}}: 409年-[[411年]]/[[419年]]-[[421年]] (簒奪者)
* {{仮リンク|ヨウィヌス|en|Jovinus}}: 411年-[[413年]](簒奪者)
* {{仮リンク|セバスティアヌス (西ローマ皇帝)|en|Sebastianus|label=セバスティアヌス}}: [[412年]]-413年(簒奪者、ヨウィヌスの共同皇帝)
* {{仮リンク|ヘラクリアヌス|en|Heraclianus}}: 412年-[[413年]](簒奪者)
* [[コンスタンティウス3世]]: [[421年]] (ホノリウスの共同皇帝、東方帝は承認せず)
* {{仮リンク|[[ヨハンネス (西ローマ皇帝)|en|Joannes|label=ヨハンネス}}]]: 423年-[[425年]] (西ローマ帝国による選出、東方帝は承認せず)
* [[ウァレンティニアヌス3世]]: [[425年]]-455年 (東方帝が擁立)
** [[ガッラ・プラキディア]]: 423年-[[433年]] (母后、摂政)
** [[アエティウス|フラウィウス・アエティウス]]: 433年-[[454年]] (軍司令官)
 
=== テオドシウス朝断絶後 ([[455(455]]-[[480年]]) ===
* [[ペトロニウス・マクシムス]]: 455年 (東方帝は承認せず)
* [[アウィトゥス]]: 455年-[[457年]] (東方帝は承認せず)
** 西方領土の実力者ゴート王であった[[テオドキメルック2世]]に擁立される。
* [[マヨリアヌス]]: 457年-[[461年]] (東方帝は承認せず)</small><ref name=":1">{{Cite journal |last=Barnes |first=T. D. |date=1983 |editor-last=Martindale |editor-first=J. R. |title=Late Roman Prosopography: Between Theodosius and Justinian |url=https://www.jstor.org/stable/1088953 |journal=Phoenix |volume=37 |issue=3 |pages=248–270 |doi=10.2307/1088953 |issn=0031-8299}}</ref>
* [[マヨリアヌス]]: 457年-[[461年]](東方帝は承認せず)
* [[リウィウス・セウェルス]]: 461年-[[465年]] (東方帝は承認せず)
* [[アンティミウス]]: 465年-[[472年]]
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== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
'''=== 注釈''' ===
{{Notelist2}}
{{Reflist|group="注"}}
'''=== 出典''' ===
{{Reflist|3}}
 
== 参考文献 ==
*{{Cite book|和書|author=[[エドワードアンリギボピレ]]ヌ|authorlink=アンリ・ピレンヌ|translator=[[佐々木克巳]]・[[中山勇三]]|year=19551960|title=[[ロマ帝国衰亡史]] 6ロッパ世界の誕生|publisher=[[岩波書店創文社]]|isbn=40033409659784423492017|ref=ギボピレ1955ヌ1960}}
**改訂版『ヨーロッパ世界の誕生 マホメットとシャルルマーニユ』 [[講談社学術文庫]]、2020年。ISBN 9784065202890。
*{{Cite book|和書|author=[[ゲオルグ・オストロゴルスキー]]|translator=[[和田廣]]|year=2001|title=ビザンツ帝国史|publisher=[[恒文社]]|isbn=4770410344|ref=オストロゴルスキー2001}}
*{{Cite book|和書|author=[[ジェフリエドワバラクロウ]]ギボン|authorlink=エドワード・ギボン|translator=[[藤崎衛村山勇三]]|year=20121955|title=中世教皇[[ローマ帝国衰亡]] 6|publisher=[[八坂書房岩波文庫]]|isbn=97848969499194003340965|ref=バラクロウ2012ギボン1955}}復刊1992年ほか
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*{{Cite book|和書|author=[[松原國師]]|authorlink=松原國師|year=2010|title=西洋古典学事典|publisher=[[京都大学学術出版会]]|isbn=9784876989256|ref=松原2010}}
*{{Cite book|和書|author=|year=1976|title=図詳ガッケン・エリア教科事典 第3巻 世界歴史|publisher=学習研究社|isbn=|ref=ガッケン・エリア教科事典 第3巻 世界歴史}}
*{{Cite book|和書|editor1=フレデリック・ドリューシュ|editor1-link=フレデリック・ドリューシュ|editor2=木村尚三郎|editor2-link=木村尚三郎|year=1998|title=ヨーロッパの歴史―欧州共通教科書|publisher=[[東京書籍]]|isbn=9784487761708|ref=ヨーロッパの歴史}}
 
== 関連項目 ==
*{{仮リンク|西ローマ帝国の衰亡|en|Fall of the Western Roman Empire}}
*[[ローマ帝国]]
*[[SPQR]]
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== 外部リンク ==
{{Commonscat|Western Roman Empire}}
{{Commons|Category:Romans}}
* [http://www.roman-empire.net www.roman-empire.net]
* [http://www.roman-emperors.org/impindex.htm ''De Imperatoribus Romanis'']
* {{normdatenKotobank}}
 
{{ローマ帝国}}
{{normdaten}}
 
{{DEFAULTSORT:にしろまていこく}}
[[Category:西ローマ帝国|*]]
[[Category:帝国]]