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|愛称=フェノメノ・ドゥエ<br />インペラトーレ
|カタカナ表記=
|アルファベット表記=ADRIANOAdriano
|原語名=
|原語表記=
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|代表年1=2000-2010|代表1={{BRAf}}|代表出場1=48|代表得点1=27
}}
'''アドリアーノ'''こと'''アドリアーノ・レイテ・リベイロ'''({{Pt|Adriano Leite Ribeiro}}、 [[1982年]][[2月17日]] - )は、[[ブラジル]][[リオデジャネイロ]]出身の元[[サッカー選手]]。元[[サッカーブラジル代表|同国ブラジル代表]]の[[サッカー選手]]。現役時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]。
 
ニックネームはインペラトーレ({{Lang-pt-short|Imperador}}、[[皇帝]])。[[アドリアーノ (曖昧さ回避)|アドリアーノ]]という男性名の由来となった[[五賢帝|ローマ皇帝]][[ハドリアヌス]]({{lang-la-short|Hadrianus}}、{{Lang-pt-short|Imperador Adoriano}})と彼の名前をかけた物である。
 
== 経歴 ==
[[CRフラメンゴ]]に在籍中の2001年に同年の[[FIFA U-20ワールドカップ|ワールドユース]]などでの活躍がスカウトの目に留まり、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]へ入団。
 
=== クラブ ===
最初のシーズン開幕後、すぐにレンタルされる予定だったが、プレシーズンマッチで[[レアル・マドリード]]と対戦した際に決めたFKを見た当時の[[エクトル・ラウル・クーペル]]監督が、しばらく手許に置いておきたいと申し出、レンタル移籍は半年見送られた。その時のFKはアドリアーノ本人もベストゴールの1つに挙げている。
[[リオデジャネイロ]]の[[ファヴェーラ]]の出身で、7歳の時に[[CRフラメンゴ]]のアカデミーに入団した<ref name="Goal.com">{{Cite web |title=Adriano: The spectacular rise and fall of Inter's 'Emperor' |url=https://www.goal.com/en/lists/adriano-spectacular-rise-fall-inter-emperor/bltfe82892f6369787e |website=Goal.com |date=2023-06-09 |access-date=2023-10-22 |language=en}}</ref>。当時は小柄で痩せており、サイドバックとしてプレーしていたが、U-17チームに昇格してフォワードにコンバートされると才能を発揮し始めた<ref name="Number web">{{Cite web |title=「貧民街育ちで銃撃戦が日常」「酒乱で恋人を木に縛りつけ」皇帝アドリアーノの“実は親思い秘話”… 引退後40歳の今、何してる? |url=https://number.bunshun.jp/articles/-/853930 |website=Number Web |access-date=2023-10-22 |author=沢田啓明}}</ref>。2000年2月に17歳でトップチームに昇格した<ref name="Number web" />。デビュー2試合目の[[サンパウロFC]]戦で初ゴールを挙げた<ref name="Goal.com" />。2001年の[[FIFA U-20ワールドカップ|ワールドユース]]などでの活躍がスカウトの目に留まり、2001年8月に[[セリエA (サッカー)|セリエA]]の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]に移籍した<ref name="Number web" />。移籍金は1319万ユーロ。
 
インテル入団後、プレシーズンマッチの[[レアル・マドリード]]戦に出場すると、ペナルティエリア手前からのフリーキックで時速105kmの強烈なシュートでゴールを挙げた<ref name="Goal.com" />。最初のシーズン開幕後すぐにレンタルされる予定だったが、このフリーキックを見た監督の[[エクトル・ラウル・クーペル]]が、しばらく手許に置いておきたいと申し出、レンタル移籍は半年見送られた。その時のFKはアドリアーノ本人もベストゴールの1つに挙げている。2001-02シーズンの後半は、[[ACFフィオレンティーナ]]にレンタル移籍した。フィオレンティーナでは、15試合で6ゴールを挙げた<ref name="Goal.com" />。
その後、[[ACFフィオレンティーナ]]へレンタル移籍し、1年でインテルへ戻るが、今度は[[パルマ・カルチョ1913|パルマFC]]へ移籍した。
 
2002年7月、移籍金1450万ユーロで[[パルマ・カルチョ1913|パルマFC]]に移籍した<ref name="Number web" />。パルマでは、[[アドリアン・ムトゥ]]、[[中田英寿]]と共に前線を形成し、得点を量産。1年半の間、リーグ戦で37試合23得点を記録し、2004年1月にインテルに再び移籍した<ref name="Goal.com" />。この際の移籍金は2340万ユーロと前回のインテル移籍時をはるかに上回る金額だった<ref name="Number web" />。インテル復帰後の最初の半年間では、リーグ戦16試合で9ゴールを挙げた。2003-04シーズン最終節の[[エンポリFC]]戦では、チームは先制されるも前半ロスタイムに同点ゴールを挙げ、後半25分に相手ディフェンダー3人をかわして決勝ゴールを挙げた。この勝利によって、インテルはリーグ4位となって[[UEFAチャンピオンズリーグ]]出場権を獲得した<ref name="Goal.com" />。翌2004-05シーズンは公式戦で28得点を記録し、チームも[[コッパ・イタリア]]を制するなど、ヨーロッパでのトップストライカーとしての地位を確立した<ref name="Goal.com" />。2005-06シーズンは公式戦で19得点を記録した<ref name="Goal.com" />。
パルマでは、[[アドリアン・ムトゥ]]、[[中田英寿]]と共に前線を形成し、得点を量産。その活躍が認められ、再びインテルへ移籍しエースに成長。父の死を乗り越えた後は、ゴール後に両手で天を指すようになった。[[コパ・アメリカ2004|2004年コパ・アメリカ]]と[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005年FIFAコンフェデレーションズカップ]]では得点王とMVPに選ばれるなどの活躍で同国を優勝に導き[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]におけるポジションを確固たるものとした。
 
[[2006 FIFAワールドカップ|2006年FIFAワールドカップ]]では2得点を挙げたが、不完全燃焼に終わり評価を下げた。2006-07シーズンは長きにわたって無得点を続け、クラブから休養を命じられた上、私生活のトラブルや怪我、監督との不和もあ対立などにより、優勝戦線の先頭出場機会走るク減らすようになり、[[ズタン・イの戦力外ラヒモヴィッチ]]見做[[エルナン・クレスポ]]が起用されたため、6ゴールに留まった<ref name="Goal.com" />。翌年も2月に脹脛を負傷、3月には[[ディスコ]]での乱闘が報じられるなどする中、放出の噂が絶えなかった。本人は当時の不調や生活の乱れを、父の死や恋人との破局から酒に溺れたためとしている。
 
クラブはオフに新たなFWを補強、また[[UEFAチャンピオンズリーグ]]の登録メンバー(25人)から外されるなどの状況で2007-08シーズンを迎えたが、10月の[[レッジーナ・カルチョ|レッジーナ]]戦で交代を命じられ不満を露にすると、その後の練習を無断欠席して物議を醸した。ことあるごとに擁護してきた[[ロベルト・マンチーニ|マンチーニ]]監督からも移籍を薦められる中、11月に[[鬱病]]治療のためブラジルに帰国したが、翌月[[サンパウロFC]]への半年間の期限付移籍が発表された<ref>{{Cite web |title=アドリアーノ、サンパウロにレンタル |url=https://web.gekisaka.jp/news/world/detail/?31450-12072-fl |website=ゲキサカ |date=2007-12-20 |access-date=2023-10-22 |language=ja}}</ref>。なお、イタリアでは2006年、2007年と2年連続で年間最悪選手「[[ビドーネ・ドーロ|金のバケツ賞]]」を受賞、2008年にも3位にランクされた。
 
[[2008年]]1月から母国でプレー。相手DFへの頭突きによる出場停止処分や、規律を乱す行動から40%の減俸となるなどトラブルも続いたが、28試合で17得点をあげるなど好調を保ち、夏にインテルに復帰した。当初は新監督[[ジョゼ・モウリーニョ|モウリーニョ]]のもと活躍を見せて復調を印象付けたが、11月以降は遅刻や夜遊びといった規律違反から再びスタメンを外れがちとなり、12月中旬に負傷者リスト入りしてそのまま帰国。[[CRフラメンゴ]]への移籍が決定寸前と報じられたが実現せず、[[2009年]]が明けるとチームに合流、リーグ戦やカップ戦で得点を記録するなど活躍を見せた。しかし4月には代表戦でブラジル入りしたままイタリアに戻らず、一時失踪して消息を絶ち、誘拐説や死亡説まで流れる騒動となった。間もなく姿を現し会見、このままブラジルに残り、サッカー選手としての活動をしばらく中断することを表明した。サッカーをする喜びを失ったこと、イタリアでの生活が辛かったことを理由に挙げている。
 
騒動後はインテルとの契約を解除して無所属となっていたが、5月に自身が初めてプロ契約をしたブラジルのCRフラメンゴに入団。再デビュー戦となった[[アトレチコ・パラナエンセ]]戦では、アドリアーノの復帰に伴って5万枚のチケットが追加販売されたと報じられ、ピッチに姿を見せた時には観客から大歓声で迎え入れられた<ref name="Goal.com" />。母国ではやはり好調で、47試合に出場して35得点を記録し、チームの17年ぶりの[[カンピオナート・ブラジレイロ|ブラジル全国選手権]]制覇に貢献、再び欧州復帰が取では19ゴールで得点王となざたされていたところ2010年6月9日に[[ASロマ]]へ移籍が発表された。しかし2010-11シーズンは怪我や減量の失敗などに見舞われ出場もままならず、2010年末には317年ぶり3度目となる「金バケツ賞」に選出された。2011年2月には肩の負傷でブラジルに戻ると、現地での飲酒や運転免許剥奪が報じられた上に、イタリア帰を無断で延期するなどトラブルが続き、3月8日選手権制覇ローマから契約解消が発表され貢献し<ref name="Goal.com" />
 
再び欧州復帰が取りざたされていたところ、2010年6月9日に[[ASローマ]]への移籍が発表された<ref>{{Cite web |title=アドリアーノ、ローマへ移籍 |url=https://web.gekisaka.jp/news/world/detail/?69888-57435-fl |website=ゲキサカ |date=2010-06-10 |access-date=2023-10-22 |language=ja}}</ref>。しかし、プレシーズンでの練習には太り気味の状態で現れ、監督の[[クラウディオ・ラニエリ]]の怒りを買い、2010-11シーズンが始まれば怪我に見舞われ出場もままならず<ref name="Goal.com" />、2010年末には3年ぶり3度目となる「金のバケツ賞」に選出された。2011年1月にコッパ・イタリアの[[SSラツィオ]]戦で肩を負傷し、2月に治療のためにブラジルに戻ると、現地での飲酒や運転免許剥奪が報じられた上に、イタリア帰国を無断で延期するなどトラブルが続き<ref name="Goal.com" />、3月8日にローマから契約解消が発表された<ref>{{Cite web |url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-19891520110309 |title=サッカー=ローマがFWアドリアーノとの契約解除 |access-date=2023-10-22 |publisher=Reuters |date=2011-03-09}}</ref>。
2011年3月28日に[[カンピオナート・ブラジレイロ]]の[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]との契約が発表された<ref>{{cite news|url= http://www.sanspo.com/soccer/news/110329/scb1103290900001-n1.htm|title=コリンチャンス、アドリアーノ加入を発表 |publisher=サンケイスポーツ公式サイト |date=2011年3月29日 |accessdate=2011年3月29日}}</ref>。しかし4月19日には練習中にアキレス腱を断裂、10月に復帰したがシーズン4試合の出場にとどまった。12月に1年間の契約延長が決まり、コーチと共に減量に取り組んでいたが<ref>[http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/02/10/kiji/K20120210002605630.html アドリアーノ再生へ減量作戦]スポーツニッポン2012年2月10日</ref>、練習態度などを問題視され、2012年3月13日にコリンチャンスから契約解除を発表された。
 
2011年3月28日に[[カンピオナート・ブラジレイロ]]の[[SCコリンチャンス・パウリスタ|コリンチャンス]]との契約が発表された<ref>{{cite news|url= http://www.sanspo.com/soccer/news/110329/scb1103290900001-n1.htm|title=コリンチャンス、アドリアーノ加入を発表 |publisher=サンケイスポーツ公式サイト |date=2011年3月29日 |accessdate=2011年3月29日}}</ref>。しかし4月19日には練習中にアキレス腱を断裂、10月に復帰したがシーズン4試合の出場にとどまった。12月に1年間の契約延長が決まり、コーチと共に減量に取り組んでいたが<ref>[httphttps://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2012/02/10/kiji/K20120210002605630.html アドリアーノ再生へ減量作戦]スポーツニッポン2012年2月10日</ref>、練習態度などを問題視され、2012年3月13日にコリンチャンスから契約解除を発表された。
 
2012年8月22日にCRフラメンゴに復帰したが、11月6日に契約を解除された。翌2013年3月には[[SCインテルナシオナル]]との入団に近づいたが、メディカルチェックで不合格となり契約に至らなかった。
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無所属の期間を経て、2016年1月29日、[[ナショナルプレミアサッカーリーグ|NPSL]]([[アメリカ合衆国|アメリカ]]4部)の[[マイアミ・ユナイテッドFC]]と契約を結んだ<ref>[http://miamiunitedsoccer.com/adriano-joins-miami-united-fc/ Adriano joins Miami United FC!] マイアミ・ユナイテッドFC 2016年1月30日</ref>が、同年5月に契約解除<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160731/474431.html “怪物”の悲劇的な末路は…元ブラジル代表FWアドリアーノ、スラム街の住民に] Soccer King 2016年7月31日</ref>。同年7月には[[リオデジャネイロ]]で最も危険とされる[[ファヴェーラ]]に住んでいる様子が報じられた<ref>[http://www.marca.com/en/football/international-football/2016/07/30/579d06dfe2704e73328b4583.html Former Brazil striker Adriano living in a favela] MARCA English 2016年7月30日</ref>。
 
=== 代表 ===
2000年11月、18歳にしてブラジル代表に初招集された<ref name="Number web" />。
 
[[コパ・アメリカ2004]]では、グループステージの[[サッカーコスタリカ代表|コスタリカ代表]]戦でハットトリックを達成すると、準々決勝のメキシコ代表戦で2ゴール、準決勝のウルグアイ代表戦で1ゴールを挙げた<ref name="Number web" />。決勝のアルゼンチン代表戦では、1-2と敗色濃厚だった後半アディショナルタイムに同点ゴールを挙げると、ブラジル代表はPK戦で勝利し優勝を果たした<ref name="Number web" />。7ゴールを挙げて得点王に輝き、MVPにも選出された<ref name="Number web" />。
 
パルマでは、[[アドリアン・ムトゥ]]、[[中田英寿]]と共に前線を形成し、得点を量産。その活躍が認められ、再びインテルへ移籍しエースに成長。父の死を乗り越えた後は、ゴール後に両手で天を指すようになった。[[コパ・アメリカ2004|2004年コパ・アメリカ]]と[[FIFAコンフェデレーションズカップ2005|2005年FIFAコンフェデレーションズカップ]]では得点王とMVPに選ばれるなどの活躍で同国を優勝に導き[[サッカーブラジル代表|ブラジル代表]]におけるポジションを確固たるものとした。
 
[[2006 FIFAワールドカップ|2006年FIFAワールドカップ]]では2得点を挙げたが、不完全燃焼に終わり評価を下げた。
 
== エピソード ==
*2015年夏に友人とサバイバルゲームを楽しんでいる姿を[[Instagram]]に投稿していた<ref>[http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20150908/348136.html 元ブラジル代表FWアドリアーノ、サバゲーをする姿がガチすぎる]soccerking 2015年9月9日</ref>。
*父の死後は、ゴール後に両手で天を指しゴールを天国の父に捧げるゴールパフォーマンスを行った<ref name="Number web" />。
 
== 個人成績 ==
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{{デフォルトソート:れいてりへいろ あとりああの}}
[[Category:ブラジルのサッカー選手]]
[[Category:サッカーブラジル代表選手]]
[[Category:CRフラメンゴの選手]]
[[Category:ACFフィオレンティーナの選手]]
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[[Category:SCコリンチャンス・パウリスタの選手]]
[[Category:アトレチコ・パラナエンセの選手]]
[[Category:サッカFIFAコンフェデレブラジル代表ションズカップ2003出場選手]]
[[Category:FIFAコンフェデレーションズカップ2005出場選手]]
[[Category:コパ・アメリカ2004出場選手]]
[[Category:FIFAワールドカップブラジル代表選手]]
[[Category:2006 FIFAワールドカップ出場選手]]