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[[Image:秦檜.jpg|thumb|right|250px|秦檜]]
[[Image:Youtiaostory hangzhou statue1.jpg|thumb|right|250px|[[杭州市|杭州]]岳王廟([[岳飛]]の廟)にある秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があった。右が秦檜で、左が妻の王氏。]]▼
'''秦 檜'''(しん かい、[[元祐]]5年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1091年]][[1月17日]])
秦檜は[[金 (王朝)|金]]との講和を進め和議を結ぶが、その過程において[[岳飛]]ら抗金派の政府要人を謀殺 後世、 == 略歴 ==
秦檜は、[[政和]]5年([[1115年]])に[[科挙]]に合格、順調に出世を重ねる。[[靖康]]2年([[1127年]])に[[金 (王朝)|金]]が[[北宋]]を滅ぼし、華北統治のために[[張邦昌]]を首領に据え[[傀儡政権|傀儡国家]]の楚を創ろうとした際、秦檜は反対したとして、同じく反対した他の朝臣と共に[[粘没喝]]の軍に北へ連れ去られた。その後、他の宋旧臣は各地へ連行されたが、秦檜のみは厚遇を受けている。
[[建炎]]4年([[1130年]])、秦檜は[[金 (王朝)|金]]から解放されると、南宋の[[高宗 (宋)|高宗]]の元へ辿り着いた。高宗は帰還した秦檜に向けて喜びを表し、即日[[礼部]]
翌[[紹興 (宋)|紹興]]元年([[1131年]])、秦檜は宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して[[金 (王朝)|金]]との交渉を担った。
当時は岳飛を初めとする、対金戦で軍功を挙げた武官が台頭しており、主戦派の政治家と共に講和派の秦檜を批判した。これに対して、金の圧力を背景に高宗の支持を得た秦檜は、禁軍将帥や張邦昌等の軍閥間の不仲から起きた対立と均衡の上に政権を掌握した。▼
▲当時、国内では
[[1141年]]、講和に反対する多数の将軍や政治家の官職を剥奪して身分を落とし、救国の英雄と言われた[[岳飛]]に至っては「{{仮リンク|莫須有|zh|莫須有}}(有ったかもしれない)」として反逆罪で謀殺した。主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が金に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢げるという、屈辱的な内容の和議を結んだ([[紹興の和議]])。▼
▲[[Image:Youtiaostory hangzhou statue1.jpg|thumb|right|250px|[[杭州市|杭州]][[岳王廟]]([[岳飛]]の廟)にある秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があった。右が秦檜で、左が妻の王氏。]]
その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、反対派や義軍に対しては徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても[[文字の獄]]を起して弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。▼
▲紹興11年([[1141年]])、秦檜は、講和に反対する多数の将軍や政治家の官職を剥奪して身分を落とし、救国の英雄と言われた[[岳飛]]に至っては「{{仮リンク|莫須有|zh|莫須有}}(
[[1155年]]、宰相の地位に居座ること20年、66歳で死んだ。岳飛の孫である[[岳珂]]が著した『程史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった[[張浚]]を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという<ref>『程史』巻12。類似の話は朱熹の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。</ref>。▼
主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、[[金 (王朝)|金]]が占領している国土を割譲し、宋が[[金 (王朝)|金]]に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢するという、屈辱的な内容の和議を結んだ(「[[紹興の和議]]」)。
高宗は金を後ろ楯とする秦檜に対して隠忍自重を重ね、秦檜の生前には「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れない程だ」と語っていたが、秦檜が死ぬと楊存中に対して、それは本意ではなく「私は今日からは靴の中に[[匕首]]を隠さずに済む」と語り、秦檜派の朝臣100人以上を弾劾の上で罷免している。▼
▲その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、それでも秦檜は反対派や義軍に対して
紹興25年(1155年)、秦檜は宰相職に居座ること20年、66歳で死んだ。
▲
▲高宗は[[金 (王朝)|金]]を後ろ楯とする秦檜に対して隠忍自重を重ね、秦檜の生前には「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れない
ただし秦檜が亡くなった翌年の紹興26年([[1156年]])3月には詔書で「講和の策は断じて朕自らの志である。秦檜はただ、能く朕に賛成したのみ。どうして蒸し返して議論などするのか? 近頃の無知の輩は浮言を鼓吹して聴衆を惑わし、勅命を偽り旧臣を集めて公事に抵抗し、妄りな議論をするに至る。朕は甚だ不本意である」<ref>『宋史』巻31, 高宗紀八 紹興二十六年三月丙寅条 「詔曰:講和之策、斷自朕志、秦檜但能贊朕而已、豈以其存亡而渝定議耶?近者無知之輩、鼓倡浮言、以惑眾聽、至有偽撰詔命、召用舊臣、抗章公車、妄議邊事、朕甚駭之」</ref>として、秦檜の行動は高宗自らの指示によるものであるとしている。
秦檜の死後、秦檜は高宗により'''申王'''と追封され、「忠献」の[[諡]]が贈られた<ref>『宋史』巻31, 高宗紀八 紹興二十五年十一月乙巳条による。</ref>。
[[開禧]]2年([[1206年]])4月、[[金 (王朝)|金]]に対する[[開禧用兵|北伐]]を推進していた[[韓侂冑]]の主導で王爵が追奪され、諡号も「謬醜」に改められたが、韓侂冑が失脚すると[[嘉定 (南宋)|嘉定]]元年([[1208年]])3月に王爵と諡号が以前の通りに回復した。
しかし大義名分を重視する[[朱子学]]が[[儒学]]の正統として公認されたことにより、秦檜をめぐる悪評は大勢となり、[[宝祐]]2年([[1254年]])に再び諡を改め、「謬狠」とした。
== 評価 ==
当時の南宋は「抗金の名将」と呼ばれる有能な将軍
=== 同時代の人物による評価 ===
秦檜より40歳年下で、その政権下の紹興18年([[1148年]])に実施された科挙で進士となった[[
* 秦檜は、昔は品行純正な人であった。その時には立派な知り合いもいたが、晩年には彼から離れていき、すべてだめになった。
* 秦檜は士大夫の小人である。
* 秦檜は、和議を唱導して国を誤らせ、夷
また、浙東
=== 宋史での評価(元代の評価)===
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=== 明代の評価 ===
[[明]]代の[[正徳 (明)|正徳]]8年([[1513年]])には岳王廟の前に罪人姿の秦檜夫妻と[[万俟卨]](岳飛の取り調べを実行した秦檜の部下)の銅像が作られ、[[万暦]]年間には[[張俊 (宋)|張俊]](岳飛と敵対した秦檜派の軍人)の像も加えられた。この像に[[唾吐き|唾を吐きかける]]習慣が最近まであり、「像に唾を吐いたり、叩いたりしてはならない」という掲示がされるようになった。
ただし、[[
=== 清代の評価 ===
[[清]]代に入ると、清朝にとっての先祖が建国した[[金 (王朝)|金]]と和議を結んだ秦檜を、肯定的に評価する事例も幾つか見受けられる。
* 宋と[[金 (王朝)|金]]とは仇敵であるから、筋道からは講和すべきではない。そのため、紹興年間の君臣は和議を押し通したことで後世から謗り辱められている。(略)当時は良将が多く、宋は頻繁に軍を動かしていた。秦檜の和議の意図は、民の負担軽減だと私は思う。時勢からすれば、失策とまでは言えない
* 道理論(義理の説)と現実論(時勢の論)は往々にして合致せず、全ての事柄を道理によって行うことは出来ない。思うに道理も現実を直視せねばならず、それが真の道理(真義理)である。二帝が捕虜となり、[[中原]]を失った、復仇し恥を雪ごうとを思い続けるのは道理である。しかし、敗れ続け疲弊している。(略)長躯北伐して皇帝を帰還させることが不可能なのは小さな子供でも知っている。故に、秦檜が用いられる前にも和議を図る識者はいたのだ
=== 日本での評価 ===
日本では[[外山軍治]]
小説家の[[田中芳樹]]は「どうしても和平を利用して自分の地位を固めたとしか見えないところがある」「秦檜の和平策というのは、政策としてはまちがっていなかった(中略)ただし、政策以前に問題になるのが、無実の人間を謀反の汚名を着せて殺してもいいのか」と批判的な見解を示している<ref>『中国武将列伝〈下〉』 ([[中公文庫]]) ISBN 978-4122035652</ref>。
== 脚
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=衣川強 |title=秦檜の講和政策をめぐって |journal=東方学報 |issn=03042448 |publisher=京都大學人文科學研究所 |year=1973 |month=sep |volume=45 |pages=245-294 |naid=120000886396 |doi=10.14989/66501 |url=https://hdl.handle.net/2433/66501 |ref=harv}}
* {{Cite book|和書|author=岡元司 |title=宋代沿海地域社会史研究 : ネットワークと地域文化 |publisher=汲古書院 |year=2012 |NCID=BB09399238 |ISBN=9784762929632 |id={{全国書誌番号|22127884}} |url=http://www.kyuko.asia/book/b102894.html |ref=harv}}
== 外部リンク ==
* [https://ctext.org/zhuzi-yulei/zh 朱子語類] 全140巻 [[中国哲学書電子化計画|中國哲學書電子化計劃]]
* [https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00022841#?c=0&m=0&s=0&cv=1&r=0&xywh=-4546%2C-1%2C13086%2C3694 朱子語類] 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
* [https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?IS_KIND=hierarchy&IS_NUMBER=100&IS_START=1&IS_TAG_S51=prnid&IS_STYLE=default&IS_KEY_S51=F1000000000000095411&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005031812174403109%2BF2008112110370021712%2BF1000000000000095411&IS_ORG_ID=F1000000000000095411&LIST_TYPE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc 宋史 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ 豊後佐伯藩主毛利高標献上本]
* [https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=243271 桯史] 全15巻 [[中国哲学書電子化計画|中國哲學書電子化計劃]]
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|zh|宋史}}
*[[油条]]▼
* [[南宋]]
* [[金 (王朝)]]
* [[岳飛]]
* [[紹興の和議]]
▲* [[油条]]
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:しん かい}}
[[Category:宋代の進士]]
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[[Category:南宋の人物]]
[[Category:宋の高宗]]
[[Category:南京出身の人物]]
[[Category:1091年生]]
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