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[[Image:秦檜.jpg|thumb|right|250px|秦檜]]
'''秦 檜'''(しん かい、[[元祐]]5年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1091年]][[1月17日]]) - [[紹興 (宋)|紹興]]25年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]([[1155年]][[11月18日]]))は、[[南宋]]の[[中国の宰相|宰相]]。[[字]]は'''会之'''。[[黄岡市|黄州]]の出身。[[本貫]]は江寧府(現在の[[江蘇省]][[南京市]])。

秦檜は[[金 (王朝)|金]]との講和を進め和議を結ぶが、その過程において[[岳飛]]ら抗金派の政府要人を謀殺、平民へ落とすなどし、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に[[恐怖政治]]を敷いたので、

後世、「秦檜」という名は[[売国奴]]の代名詞となり蔑まれた。妻は王氏(宰相[[王珪 (宋)|王珪]]の子の王仲岏の娘)、実子の名は不詳、養子は秦熺(妻の兄の王喚の子)、養孫(秦熺の子)は秦塤<ref>『[[宋史]]』列伝第二百三十二 姦臣三によると、紹興23年([[1153年]])の[[科挙]]で秦塤は[[陸游]]と競い、その結果、陸游が首席となり、秦塤は次席となった。しかし秦檜は孫が有利になるために手をまわして、次の[[殿試]]で秦塤が首席で及第し、陸游が落第したと記されている。</ref>。妻の父の王仲岏の姉は[[李清照]]の母。
 
== 略歴 ==
秦檜は、[[政和]]5年([[1115年]])に[[科挙]]に合格、順調に出世を重ねる。[[靖康]]2年([[1127年]])に[[ (王朝)|金]]が[[北宋]]を滅ぼし、華北統治のために[[張邦昌]]を首領に据え[[傀儡政権|傀儡国家]]の楚を創ろうとした際、秦檜は反対したとして、同じく反対した他の朝臣と共に[[粘没喝]]の軍に北へ連れ去られた。その後、他の宋旧臣は各地へ連行されたが、秦檜のみは厚遇を受けている。
 
[[建炎]]4年([[1130年]])、秦檜は[[金 (王朝)|金]]から解放されると、南宋の[[高宗 (宋)|高宗]]の元へ辿り着いた。高宗は帰還した秦檜に向けて喜びを表し、即日[[礼部]]尚書とした。
 
翌[[紹興 (宋)|紹興]]元年([[1131年]])、秦檜は宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して[[金 (王朝)|金]]との交渉を担った。
 
[[建炎]]4年([[1130年]])当時秦檜国内で金から解放されると南宋の[[高宗 (王朝)|高宗]]の元へ辿り着いた。高宗は帰還した秦檜に向けて喜び戦で軍功表し、即日[[礼部]]尚書とし挙げ。翌[[紹興 (宋)|紹興]]元年([[1131年]])には宰相となった。その後、一時期宰相を罷免されるが、すぐに復帰して金との交渉を担った。当時は岳飛を初めとする、対金戦で軍功を挙げた武官派グループが台頭しており、主戦派の政治家と共に講和派の秦檜を批判した。これに対して、[[ (王朝)|金]]の圧力を背景に高宗の支持を得た秦檜は、禁軍将帥や張邦昌などの軍閥間の不仲から起きた対立と均衡の上に政権を掌握した。
 
[[Image:Youtiaostory hangzhou statue1.jpg|thumb|right|250px|[[杭州市|杭州]][[岳王廟]]([[岳飛]]の廟)にある秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があった。右が秦檜で、左が妻の王氏。]]
 
紹興11年([[1141年]])、秦檜は、講和に反対する多数の将軍や政治家の官職を剥奪して身分を落とし、救国の英雄と言われた[[岳飛]]に至っては「{{仮リンク|莫須有|zh|莫須有}}(あったかもしれない)」として反逆罪で謀殺した。主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、金が占領している国土を割譲し、宋が金に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢するという、屈辱的な内容の和議を結んだ([[紹興の和議]])
 
主戦派を抑圧して権力を握った秦檜は翌年、[[金 (王朝)|金]]が占領している国土を割譲し、宋が[[金 (王朝)|金]]に毎年銀25万両と絹25万疋を金に貢するという、屈辱的な内容の和議を結んだ(「[[紹興の和議]]」)。
その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、反対派や義軍に対しては徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても[[文字の獄]]を起こして弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。
 
その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、それでも秦檜は反対派や義軍に対して徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても[[文字の獄]]を起こして弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。
紹興25年([[1155年]])、宰相職に居座ること20年、66歳で死んだ。岳飛の孫である[[岳珂]]が著した『程史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった[[張浚]]を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引き上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという<ref>『程史』巻12。類似の話は[[朱熹]]の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。</ref>。
 
紹興25年(1155年)、秦檜は宰相職に居座ること20年、66歳で死んだ。
高宗は金を後ろ楯とする秦檜に対して隠忍自重を重ね、秦檜の生前には「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れないほどだ」と語っていたが、秦檜が死ぬと武将[[楊存中]]にそれは本意ではなく、「私は今日からは靴の中に[[匕首]]を隠さずに済む」と語り、秦檜派の朝臣100人以上を弾劾の上で罷免している。
 
紹興25年([[1155年]])、宰相職に居座ること20年、66歳で死んだ。岳飛の孫である[[岳珂]]が著した『史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった[[張浚]]を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引き上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという<ref>『史』巻12。類似の話は[[朱熹]]の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。</ref>。
 
高宗は[[ (王朝)|金]]を後ろ楯とする秦檜に対して隠忍自重を重ね、秦檜の生前には「私は彼を得たことが嬉しくて夜も眠れないほどだ」と語っていたが、秦檜が死ぬと武将[[楊存中]]にそれは本意ではなく、「私は今日からは靴の中に[[匕首]]を隠さずに済む」と語り、秦檜派の朝臣100人以上を弾劾の上で罷免している
 
ただし秦檜が亡くなった翌年の紹興26年([[1156年]])3月には詔書で「講和の策は断じて朕自らの志である。秦檜はただ、能く朕に賛成したのみ。どうして蒸し返して議論などするのか? 近頃の無知の輩は浮言を鼓吹して聴衆を惑わし、勅命を偽り旧臣を集めて公事に抵抗し、妄りな議論をするに至る。朕は甚だ不本意である」<ref>『宋史』巻31, 高宗紀八 紹興二十六年三月丙寅条 「詔曰:講和之策、斷自朕志、秦檜但能贊朕而已、豈以其存亡而渝定議耶?近者無知之輩、鼓倡浮言、以惑眾聽、至有偽撰詔命、召用舊臣、抗章公車、妄議邊事、朕甚駭之」</ref>として、秦檜の行動は高宗自らの指示によるものであるとしている。
 
秦檜の死後、秦檜は高宗により'''申王'''と追封され、「忠献」の[[]]下さ贈られた<ref>『宋史』巻31, 高宗紀八 紹興二十五年十一月乙巳条による。</ref>

[[開禧]]2年([[1206年]])4月、[[ (王朝)|金]]に対する[[開禧用兵|北伐]]を推進していた[[韓侂冑]]の主導で王爵が追奪され、諡号も「謬醜」に改められたが、韓侂冑が失脚すると[[嘉定 (南宋)|嘉定]]元年([[1208年]])3月に王爵と諡号が以前の通りに回復した。

しかし大義名分を重視する[[朱子学]]が[[儒学]]の正統として公認されたことにより、秦檜をめぐる悪評大勢となり、[[宝祐]]2年([[1254年]])に再び諡を改め、「謬狠」とした。
 
== 評価 ==
当時の南宋は「抗金の名将」と呼ばれる有能な将軍多数輩出され、南宋の歴史を通じて例外的に軍事力が充実した時期であったために、[[金 (王朝)|金]]との講和は国土回復の絶好機を逃し国家を誤ったと評されることが多い。特に紹興10年([[1140年]]に岳飛が北伐を行い、開封まであと一歩に迫りながら補給が続かず撤退を余儀なくされたことも、秦檜の献策により高宗が不当な撤退命令を送ったのが原因とされた<ref>[[Gakken|学研]]『[[歴史群像]]』2008年6月号P90〜「岳飛伝」</ref>。
 
=== 同時代の人物による評価 ===
秦檜より40歳年下で、その政権下の紹興18年([[1148年]]に実施された科挙で進士となった[[朱熹]]は、秦檜に対して次のように厳しく批判している<ref>全て朱子語類巻一三一。日本語訳は衣川1973より。</ref><!--<ref>ただし、朱熹の父親はかつて講和反対派として左遷され、本人も殿試合格者330番中278番に止まった(1148(紹興18年の進士上位及第者はほとんどが講和支持派が占めていた)ことから、朱熹が秦檜およびその政策を良く思っていなかった可能性が高い(衣川強「官僚朱熹」『宋代官僚社会史研究』汲古書院、2006年、P196-200)。</ref>-->。
* 秦檜は、昔は品行純正な人であった。その時には立派な知り合いもいたが、晩年には彼から離れていき、すべてだめになった。
* 秦檜は士大夫の小人である。
* 秦檜は、和議を唱導して国を誤らせ、夷狄の力を頼んで天子を眩ませ、ついには人の守るべき道を踏みにじって、親を忘れ、君をあとまわしにした。これは、秦檜の大罪である。
また、浙東提挙常平茶塩公事として[[温州 (浙江省)|温州]]の州治の[[永嘉県]]を視察した朱熹は、温州ではかつて知事を務めた秦檜が崇敬されて県学に祠が作られていると知るや、取り壊しを命じている(『晦庵先生朱文公文集』巻99「除秦檜祠移文」)<ref>温州は秦檜が趙鼎政権下で左遷された紹興6年([[1136年]])から紹興8年([[1138年]])にかけて知事を務めており、その際に秦檜は温州の士大夫と関係を結び、政権復帰後には温州出身者を政権に登用し、岳飛の幕僚の一人であった温州出身の薛弼に対しても秦檜自らが擁護して罪を免れるなど、温州赴任時の恩義に報いたため、温州は秦檜に対して好意的な地域であった(岡元司『宋代沿海地域社会史研究』(汲古書院、2012年)P110-115・146)。</ref>。
 
=== 宋史での評価(元代の評価)===
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=== 清代の評価 ===
[[清]]代に入ると、清朝にとっての先祖が建国した[[ (王朝)|金]]と和議を結んだ秦檜を、肯定的に評価する事例も幾つか見受けられる。
* 宋と[[ (王朝)|金]]とは仇敵であるから、筋道からは講和すべきではない。そのため、紹興年間の君臣は和議を押し通したことで後世から謗り辱められている。(略)当時は良将が多く、宋は頻繁に軍を動かしていた。秦檜の和議の意図は、民の負担軽減だと私は思う。時勢からすれば、失策とまでは言えない([[銭大昕]]による評価)<ref>『[[十駕斎養新録]]』巻八「宋季恥議和」。<!--原文とは文章も原義も大きく異なる酷い意訳の為日本語訳を訂正、日本語訳は衣川1973より。--></ref>。
* 道理論(義理の説)と現実論(時勢の論)は往々にして合致せず、全ての事柄を道理によって行うことは出来ない。思うに道理も現実を直視せねばならず、それが真の道理(真義理)である。二帝が捕虜となり、[[中原]]を失った、復仇し恥を雪ごうとを思い続けるのは道理である。しかし、敗れ続け疲弊している。(略)長躯北伐して皇帝を帰還させることが不可能なのは小さな子供でも知っている。故に、秦檜が用いられる前にも和議を図る識者はいたのだ([[趙翼]]による評価)<!--出典中にそれらしき文言は見当たらない  終始、和議によるのであり、和議でなければ亡んでしまう。(略)いたずらに、和議を恥辱と考え、みだりにこれを非難するのは、まことに義理というものを知ってはいるが。現実の時勢を知らないものである。言っていることは正しいけれども、その内容は実行できないのである。--><ref>『[[二十二史箚記]]』巻二六「和議」。<!--原文とは文章も原義も大きく異なる酷い意訳の為日本語訳を訂正、日本語訳は{{Sfn|衣川強|1973}}より。--></ref>。
 
=== 日本での評価 ===
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== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=衣川強 |title=秦檜の講和政策をめぐって |journal=東方学報 |issn=03042448 |publisher=京都大學人文科學研究所 |year=1973 |month=sep |volume=45 |pages=245-294 |naid=120000886396 |doi=10.14989/66501 |url=https://hdl.handle.net/2433/66501 |ref=harv}}
*[[衣川強]]「秦檜の講和政策をめぐって」(『[[東方学報]]』45、p245-294)1973年、[http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/66501 京都大学学術情報リポジトリ]にてPDFで閲覧可能。
* {{Cite book|和書|author=岡元司 |title=宋代沿海地域社会史研究 : ネットワークと地域文化 |publisher=汲古書院 |year=2012 |NCID=BB09399238 |ISBN=9784762929632 |id={{全国書誌番号|22127884}} |url=http://www.kyuko.asia/book/b102894.html |ref=harv}}
 
== 外部リンク ==
* [https://ctext.org/zhuzi-yulei/zh 朱子語類] 全140巻 [[中国哲学書電子化計画|中國哲學書電子化計劃]]
* [https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00022841#?c=0&m=0&s=0&cv=1&r=0&xywh=-4546%2C-1%2C13086%2C3694 朱子語類] 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
* [https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/result?IS_KIND=hierarchy&IS_NUMBER=100&IS_START=1&IS_TAG_S51=prnid&IS_STYLE=default&IS_KEY_S51=F1000000000000095411&IS_EXTSCH=F2009121017025600406%2BF2005031812174403109%2BF2008112110370021712%2BF1000000000000095411&IS_ORG_ID=F1000000000000095411&LIST_TYPE=default&IS_SORT_FLD=sort.tror%2Csort.refc&IS_SORT_KND=asc 宋史 - 国立公文書館 デジタルアーカイブ 豊後佐伯藩主毛利高標献上本]
* [https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&res=243271 桯史] 全15巻 [[中国哲学書電子化計画|中國哲學書電子化計劃]]
 
== 関連項目 ==
{{wikisourcelang|zh|宋史}}
*[[油条]]
* [[南宋]]
* [[金 (王朝)]]
* [[Category:岳飛]]
* [[紹興の和議]]
* [[油条]]
 
{{Normdaten}}
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[[Category:靖康の変の抑留者]]
[[Category:南宋の人物]]
[[Category:宋の高宗]]
[[Category:南京出身の人物]]
[[Category:岳飛]]
[[Category:1091年生]]
[[Category:1155年没]]