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[[Image:秦檜.jpg|thumb|right|250px|秦檜]]
'''秦 檜'''(しん かい、[[元祐]]5年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1091年]][[1月17日]])
秦檜は[[金 (王朝)|金]]との講和を進め和議を結ぶが、その過程において[[岳飛]]ら抗金派の政府要人を謀殺、平民へ落とすなどし、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に[[恐怖政治]]を敷いた。
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その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、それでも秦檜は反対派や義軍に対して徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても[[文字の獄]]を起こして弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。
紹興25年
岳飛の孫である[[岳珂]]が著した『桯史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった[[張浚]]を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引き上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという<ref>『桯史』巻12。類似の話は[[朱熹]]の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。</ref>。
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== 評価 ==
当時の南宋は「抗金の名将」と呼ばれる有能な将軍を多数輩出し、南宋の歴史を通じて例外的に軍事力が充実した時期であったために、[[金 (王朝)|金]]との講和は国土回復の絶好機を逃し国家を誤ったと評されることが多い。特に紹興10年([[1140年]])に岳飛が北伐を行い、開封まであと一歩に迫りながら補給が続かず撤退を余儀なくされたことも、秦檜の献策により高宗が不当な撤退命令を送ったのが原因とされた<ref>[[Gakken|学研]]
=== 同時代の人物による評価 ===
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