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[[Image:秦檜.jpg|thumb|right|250px|秦檜]]
'''秦 檜'''(しん かい、[[元祐]]5年[[12月25日 (旧暦)|12月25日]]([[1091年]][[1月17日]]) - [[紹興 (宋)|紹興]]25年[[10月22日 (旧暦)|10月22日]]([[1155年]][[11月18日]]))は、[[南宋]]の[[中国の宰相|宰相]]。[[字]]は'''会之'''。[[黄岡市|黄州]]の出身。[[本貫]]は江寧府(現在の[[江蘇省]][[南京市]])。
 
秦檜は[[金 (王朝)|金]]との講和を進め和議を結ぶが、その過程において[[岳飛]]ら抗金派の政府要人を謀殺、平民へ落とすなどし、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に[[恐怖政治]]を敷いた。
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その後も秦檜に対する非難は止まなかったが、それでも秦檜は反対派や義軍に対して徹底的な弾圧を行い、講和に批判的な民衆に対しても[[文字の獄]]を起こして弾圧するなど、19年の長きにわたって専権を極め続けた。
 
紹興25年([[1155(1155]])、秦檜は宰相職に居座ること20年、66歳で死んだ。
 
岳飛の孫である[[岳珂]]が著した『桯史』によれば、危篤であった秦檜はなおも政敵であった[[張浚]]を追い落とそうとしていた。病床の秦檜は、役人が持参した張浚に対する判決を記した奏牘(上奏文)に署名をしようとしたところ、手が震えて書くことが出来なかった。さすがの妻の王氏も屏風の後から手を振って「太師(秦檜)を疲れさせないように」と述べて役人を引き上げさせようとした。秦檜はなおも署名しようとしたが、ついに机に倒れ込み、そのまま死亡したという<ref>『桯史』巻12。類似の話は[[朱熹]]の「少師保信軍節度使魏国公致仕贈太保張公行状」にも記されている(平田茂樹『宋代政治構造研究』汲古書院、2012年、P140-141)。</ref>。