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{{別人|太田幸司}}
{{Infobox baseball player
|選手名 = 大田 卓司
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|プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1968}}
|ドラフト順位 = ドラフト9位
|初出場 = [[1969年]][[9月14日]]
|最終出場 = [[1986年]][[10月27日]]<!--日本シリーズ第8戦-->
|年俸 =
|経歴 =
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* [[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]] (1990 - 1995)
* [[楽天モンキーズ|La Newベアーズ]] (2004)
* [[SSGランダース|SKワイバーンズ]] (2007)
* [[東京ヤクルトスワローズ]] (2008 - 2010)
}}
 
'''大田 卓司'''(おおた たくじ、[[1951年]][[3月1日]] - )は、[[大分県]][[津久見市]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]])・[[プロ野球コーチ|コーチ]]・[[プロ野球監督|監督]]、[[野球解説者|解説者]]・[[野球評論家|評論家]]。
 
== 経歴 ==
生家は[[ウンシュウミカン|みかん]]果樹園も経営していた[[兼業農家]]<ref name="shube231016">[[週刊ベースボール]] 2023年10月16日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 大田卓司・1』(59 - 61頁)</ref>。男ばかり4兄弟の三男として育つ<ref name="shube231016"/>。[[津久見市立第一中学校]]入学後に野球部に入って本格的に野球を始める<ref name="shube231016"/>。最初は[[三塁手]]だったが、後に(本人曰く「監督にやめさせられて」)外野手に配置転換される<ref name="shube231016"/>。
[[大分県立津久見高等学校|津久見高校]]では通算打率.420・17本塁打をマークし、遠投が100m、走力は100m12秒台と強打、強肩、俊足の三拍子揃った選手であった。同学年の[[大島康徳]]([[大分県立中津工業高等学校|中津工業]])、[[詫摩和文]]([[鹿児島城西高等学校|鹿児島照国]])と共に「九州三羽がらす」とも称された<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/765895/ 大島康徳さんは「甘いマスクで人も良かった。というより人が良すぎた」同学年の大田卓司氏が悼む] - 西日本スポーツ、2021年7月5日配信記事</ref>。
 
[[大分県立津久見高等学校|津久見高校]]では通算打率.420・17本塁打をマークし、遠投が100m、走力は100m12秒台と強打、強肩、俊足の三拍子揃った選手であった。同学年の[[大島康徳]]([[大分県立中津工業高等学校|中津工業]])、[[詫摩和文]]([[鹿児島城西高等学校|鹿児島照国高校]])と共に「九州三羽がらす」とも称された<ref>[https://www.nishinippon.co.jp/nsp/item/n/765895/ 大島康徳さんは「甘いマスクで人も良かった。というより人が良すぎた」同学年の大田卓司氏が悼む] - 西日本スポーツ、2021年7月5日配信記事</ref>。
 
2年次の[[1967年]]、[[左翼手]]として[[第39回選抜高等学校野球大会|春の選抜]]に出場。[[吉良修一]]の好投もあって決勝に進出し、延長12回の熱戦の末、[[弘田澄男]]のいた[[高知中学校・高等学校|高知高校]]を2-1で降し初優勝を飾った<ref>「選抜高等学校野球大会60年史」毎日新聞社編 1989年</ref>。3年次の[[1968年]]には[[第50回全国高等学校野球選手権大会|夏の甲子園]]で主将・[[中堅手]]として出場し、エース・石井吉左衛門([[鐘淵化学硬式野球部|鐘淵化学]])を擁して3回戦に進出するが、[[岩手県立盛岡第一高等学校|盛岡第一高校]]に敗れる<ref>「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年</ref>。
 
[[1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト]]9位で[[埼玉西武ライオンズ|西鉄ライオンズ]]から9位で指名される。下位指名だったこともあり、最初は好条件で誘ってくれた大学への進学も考えたが、長兄が野球の[[特待生]]として東京の大学入団進学ながらそのつらさから中退したことを見ていることも考えて「何位だろうと同じ、プロは入ってからが勝負」と思い直して西鉄に入団<ref name="shube231016"/>。2年目の[[1970年]]から徐々に起用される。[[1972年]]に頭角を現わし、[[外野手]]として65試合に先発出場して12本塁打を放つ。[[1975年]]には[[江藤慎一]][[選手兼任監督]]と合わず[[埼玉西武ライオンズ (ファーム)|二軍]]暮らしを余儀なくされるが、[[1976年]]には開幕から3番・[[指名打者]]に起用される。同年は初めて[[規定打席]](17位、打率.270)に達し、4年ぶりの2桁で初の20本台となる23本塁打を放つ。同年は[[1976年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスター]]初出場を果たし、[[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]](指名打者)にも初選出された。
 
[[1980年]]からは[[田淵幸一]]が指名打者に定着したため、外野手も兼ねて出場。小柄な体格ながら「'''[[必殺仕事人]]'''」の異名を取る勝負強い打撃で、[[東尾修]]と共に弱小時代から黄金時代に至るまでのライオンズを支え続けた。
 
[[1982年]]には春季キャンプ2日目に左足を痛めて早退し、[[広岡達朗]]監督に就任早々「彼は落伍者です」の烙印を押され腐りかけたが、開幕後は[[5月]]に自身唯一の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]を獲得。同年のリーグ前期制覇、[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハム]]との[[1982年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]との[[1982年の日本シリーズ|日本シリーズ]]制覇には多大の貢献を成した。特にプレーオフ第1・2戦においては日本ハムの抑えの切り札・[[江夏豊]]から2日連続で勝ち越し適時打を放つなど活躍し、プレーオフMVPを獲得。[[1983年]]には2度目の規定打席(11位、打率.297)に達し、巨人との[[1983年の日本シリーズ|日本シリーズ]]ではMVPに輝いた。[[1986年]]引退
 
[[1986年]]引退。引退の旨を当時の球団管理部長の[[根本陸夫]]には伝えていたが、根本がそれを当時のオーナーの[[堤義明]]に伝えると「大田は代打要員として来年も残せ」と返事が返ってきたこともあり、また本人によると、[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]への[[トレード]]の可能性もあったということで引退発表が遅れ、発表は11月までずれ込んだ<ref>週刊ベースボール 2023年11月6日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 大田卓司・3』(57頁)</ref>。
 
引退後は[[フジテレビジョン|フジテレビ]]「[[野球道 (フジテレビ系列)|ナイター中継/野球中継]]&[[プロ野球ニュース]]」・[[文化放送]]「[[文化放送ライオンズナイター|ライオンズナイター]]」野球解説者([[1987年]] - [[1989年]])を経て、[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]一軍打撃コーチ([[1990年]] - [[1995年]])を務め、[[吉永幸一郎]]・[[浜名千広]]・[[村松有人]]・[[小久保裕紀]]を育てた。[[1996年]]からは関東地区担当スカウトとして[[井口資仁]]・[[松中信彦]]らの入団に尽力し、退団後は[[西日本スポーツ]]野球評論家となる。
 
[[2004年]]には[[中華民国|台湾]]に渡り、[[中華職業棒球聯盟|CPBL]]・[[楽天モンキーズ|La Newベアーズ]]監督に就任。投手コーチはライオンズ時代の同僚である[[加藤初]]が務めたが、前期のみで退任して帰国。
 
帰国後は再び西日本スポーツ野球評論家([[2005年]] - [[2006年]])を経て、[[2007年]]には[[大韓民国|韓国]]に渡り、[[KBOリーグ|韓国プロ野球]]・[[SSGランダース|SKワイバーンズ]]一軍打撃コーチを務めた。
 
帰国後は[[2008年]]から[[東京ヤクルトスワローズ]]一軍打撃コーチに就任するが、首痛を患ったことで[[4月20日]]より[[土橋勝征]]と入れ替わって[[東京ヤクルトスワローズ (ファーム)|二軍]]担当となり、[[2009年]]はそのまま二軍打撃コーチに就任。[[2010年]][[5月17日]]には一軍の打撃不振解消のため、一軍担当に昇格することを要請されたが、体調不良を理由に固辞。その後一軍には[[5月23日]]に[[伊勢孝夫]]打撃アドバイザーが加入し、[[8月1日]]から一・二軍巡回打撃コーチに正式就任。同年退団<ref>http://www.yakult-swallows.co.jp/red_mpl/topicsView2.cgi?TYPE=t&SEQ=13010</ref>。
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== エピソード ==
* 無口な性格で、ベンチでもほとんど声を発することがなかった。ある日、西武に移籍してきた[[野村克也]]が「なんで物言わんのや?」と大田に尋ねたところ、大田は「'''物言うたら疲れるんです'''」と答えたという。
* [[1984年]]のアメリカ・[[メサ (アリゾナ州)|メサ]]キャンプで、広岡監督の「禁酒・禁煙」方針にもかかわらずビールを飲んでいたことがある。
* [[チューインガム|ガム]]が好きで、ベンチでガムを噛んでいる姿がよく見られた。
* 年末年始に多く放送されたプロ野球選手出演のバラエティ番組では、[[テレサ・テン]]の『時の流れに身をまかせ』を歌った。また、フジテレビの解説者時代は正月特番『大相撲部屋別対抗歌合戦』([[大相撲]][[力士]]による歌番組)で審査員を務めたことがある。
* [[1977年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1977年のドラフト会議]]で大田自身が所属していた[[1977年のクラウンライターライオンズ|クラウンライターライオンズ]]から1位指名されながら入団を拒否した[[江川卓 (野球)|江川卓]]については「彼が入団していればライオンズは西武に身売りされることなく博多に居続けていただろうと、馬鹿野郎と思った」と話し、そういったこともあって[[1983年]]に[[読売ジャイアンツ|巨人]]との[[1983年の日本シリーズ|日本シリーズ]]で江川と対戦した時には「燃えた」と振り返っている<ref>週刊ベースボール 2023年10月23日号 シリーズ連載『レジェンドを訪ねる 昭和世代の言い残し 大田卓司・2』(59 - 61頁)</ref>。
 
== 詳細情報 ==
=== 年度別打撃成績 ===
{| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球機構}}
|-
|style="text-align:center;"|{{by2|1969}}