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{{Infobox Musician <!--Wikipedia:ウィキプロジェクト 音楽家を参照-->
| Name = スティーヴ・ウィンウッド<br />Steve Winwood
| Img = Steve-Winwood2 (cropped).jpg
| Img_capt = 2009年8月13日、クロプレディ・フェスティヴァルで演奏中のウィンウッド
| Img_size = 220px
| Img_size = <!-- サイズが250ピクセルに満たない場合のみ記入 -->
| Landscape = <!-- 画像の横幅が広く、高さが小さい場合に“yes”を記入 -->
| Background = singer
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| Born = {{生年月日と年齢|1948|5|12}}
| Died = <!-- 個人のみ -->
| Origin = {{ENG}} [[バーミンガム]]
| Instrument = [[歌]]、[[キーボード_(楽器)|キーボード]]、[[ギター]]
| Genre = [[ロック_(音楽)|ロック]]<br />[[ブルースロック]]<br />[[ブルー・アイド・ソウル]]<br />[[サイケデリック・ロック]]<br />[[ジャズ]]
| Occupation = [[シンガーソングライター]]
| Years_active = [[1960年代]] -
| Label = [[アイランド・レコード|アイランド]]<br />[[ヴァージン・レコード|ヴァージン]]<br />[[コロムビア・レコード|コロムビア]]
| Production =
| Associated_acts = [[スペンサー・デイヴィス・グループ]]<br />[[トラフィック_(バンド)|トラフィック]]<br />[[ブラインド・フェイス]]<br />[[ツトム・ヤマシタ]]<br />[[エリック・クラプトン]]<br />[[デイヴ・メイン]]
| Influences = [[#経歴|該当項目を参照]]
| URL = [httphttps://www.stevewinwood.com/ www.stevewinwood.com]
| Current_members = <!-- グループのみ -->
| Past_members = <!-- グループのみ -->
| Notable_instruments =
}}
'''スティーヴン・ローレンス・ウィンウッド'''(通称'''スティーヴ・ウィンウッド'''('''Stephen Laurence "Steve" Winwood''', [[1948年]][[5月12日]] - )は、[[イギリスングランド]]・[[バーミンガム]]出身のミュージシャン。兄マフ率いる[[スペンサブルー・ヴィスソウープ]]の一員として「ギミー・サム・ラヴィン」などで1960年代中盤に人気を博しグループを脱退後は[[トラフィック (バンド音楽)|トラフィック]]のメンバーとしても成功を収めた。1970年代後半以降は、ソロミュティストとして活動。主なヒット曲に、「[[ハイヤー・ラヴ]]」「ロール・ウィズ・イット」などがあるジシャン
 
1960年代半ばに[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]のメンバーとして音楽活動を開始し、1970年代半ばまでは[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]、[[ブラインド・フェイス]]などロック史に残るバンドの中心メンバー、その後はソロ・アーティストとして、60年近く活動している。
「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第33位<ref>{{Cite web |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-singers-of-all-time-19691231/steve-winwood-20101202 |title=100 Greatest Singers: Steve Winwood |author=Rolling Stone |accessdate=2013-05-26}}</ref>。
 
[[ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー]]」において第33位<ref>{{Cite web |url=http://www.rollingstone.com/music/lists/100-greatest-singers-of-all-time-19691231/steve-winwood-20101202 |title=100 Greatest Singers: Steve Winwood |author=Rolling Stone |accessdate=2013-05-26}}</ref>。
 
== 概要 ==
ウィンウッドの音楽は、[[リズム・アンド・ブルース]]や[[ソウル・ミュージック]]など黒人音楽に強い影響を受けている点に特徴がある。主に歌手兼鍵盤楽器奏者だが、ギターや[[ベースギター|ベース]]、[[ドラムス]]も演奏できるマルチプレイヤーである。
 
1960年代中盤に[[スペンサー・デイヴィス・グループ]]の一員として「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]](Gimme Some Lovin')」などで人気を博し、グループを脱退後は[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]のメンバーとしても成功を収めた。
 
1970年代後半以降はソロで活動。主なヒット曲に「[[ハイヤー・ラヴ]]」「[[ロール・ウィズ・イット (スティーヴ・ウィンウッドの曲)|ロール・ウィズ・イット]]」などがある。
 
== 経歴 ==
[[バーミンガム]]郊外のグレート・バーで生まれる。音楽の才能は幼少時代から卓越したものがあり、10代前半のときには兄マフ・ウィンウッドが結成したジャズ・バンドの看板的存在として君臨していたという。
 
=== 生い立ち ===
また、[[マディ・ウォーターズ]]、[[ジョン・リー・フッカー]]、[[T-ボーン・ウォーカー]]、[[ハウリン・ウルフ]]、[[B・B・キング]]、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII|サニー・ボーイ・ウィリアムスンII]]、[[エディ・ボイド]]、[[オーティス・スパン]]、[[チャック・ベリー]]、[[ボ・ディドリー]]といった、大御所ミュージシャン達のバックでハモンドオルガンやギターを演奏した。
[[バーミンガム]]郊外のグレート・バーで生まれる。音楽の才能は幼少時代から卓越したものがあり、10代前半のときで既[[:en:Muff_Winwood|マフ・ウィンウッド]]が結成したジャズ・バンドの看板的存在として君臨活動していたという。
 
また、[[マディ・ウォーターズ]]、[[ジョン・リー・フッカー]]、[[T-ボーン・ウォーカー]]、[[ハウリン・ウルフ]]、[[B.B.キング]]、[[サニー・ボーイ・ウィリアムソンII|サニー・ボーイ・ウィリアムスンII]]、[[エディ・ボイド]]、[[オーティス・スパン]]、[[チャック・ベリー]]、[[ボ・ディドリー]]といった、大御所ら有名ミュージシャン英国ツアーの際には、バックでハモンドオルガンやギターを演奏した<ref>{{cite web|url=https://www.rollingstone.com/music/music-news/steve-winwood-from-mr-fantasy-to-mr-entertainment-68227/|title=Steve Winwood: From Mr. Fantasy to Mr. Entertainment|first1=Anthony|last1=DeCurtis|publisher=Rolling Stone|date=1 December 1988| accessdate=2 May 2019}}</ref>
15歳の頃、マフと共に[[スペンサー・ディヴィス・グループ]]に参加。[[1964年]]に、[[ジョン・リー・フッカー]]のカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「ギミ・サム・ラヴィン」「アイム・ア・マン」を録音した後、彼は[[1967年]]にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、ディヴ・メイソンらと[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]を結成する。
 
=== バンド活動 ===
[[ファイル:Steve Winwood with Traffic.jpg|thumb|170px|left|トラフィック時代のウィンウッド]]
15歳の頃、マフと共に'''[[スペンサー・ディヴィス・グループ]]'''に参加。
トラフィックで『ミスター・ファンタジー』『トラフィック』など3枚のアルバムをリリースした後[[1969年]]には一時的にトラフィックとしての活動を休止し[[エリック・クラプトン]]らと[[ブラインド・フェイス]]を結成。しかしながらバンドはアルバム『スーパー・ジャイアンツ』のリリースと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・ツアー後にあえなく解散する。その後、一度はソロ・アルバム制作を計画し『マッド・シャドウズ』というタイトルでのレコーディングを進めたが、結局トラフィックとしての活動を再開し、『マッド・シャドウズ』は『ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ』として、再開後のトラフィック初のアルバムとなる。グループは[[1974年]]に『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』のリリースを最後に終焉を迎えるのだが、その間には[[腹膜炎]]を患って危険な状態に陥るというハプニングも起きている。また、[[1973年]]には、[[ロンドン・フィルハーモニック・オーケストラ]]によるロックオペラアルバム『トミー』にも参加。
{{Main|スペンサー・ディヴィス・グループ}}
15歳の頃、マフと共に[[スペンサー・ディヴィス・グループ]]に参加。[[1964年]]に、[[ジョン・リー・フッカー]]のカバーであるシングル「ディンプルズ」でデビュー。シングル「キープ・オン・ランニング」が英国チャートで1位となり、この曲の成功によって彼は一躍スターとなる。続いて「サムバディ・ヘルプ・ミー」「[[愛しておくれ (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|愛しておくれ]]・ギミ・サム・ラヴィン」<ref group="注釈">ブルース・ブラザーズがカバーしている。</ref>[[アイム・ア・マン (スペンサー・デイヴィス・グループの曲)|アイム・ア・マン]]」を録音した後、彼とマフは[[1967年]]にグループを脱退。クリス・ウッド、ジム・キャパルディ、ディヴ・メイソンらと[[トラフィック (バンド)|トラフィック]]を結成する
 
同年、[[クリス・ウッド (ロックミュージシャン)|クリス・ウッド]] 、ジム・キャパルディ、デイヴ・メイスンと[[トラフィック (バンド)|'''トラフィック''']]を結成する。
その後、日本人パーカッショニストの[[ツトム・ヤマシタ]]によるGOをはじめとするいくつかのプロジェクトへの参加を経て、[[1977年]]には自らの名を表題にした『スティーヴ・ウィンウッド』でソロ・アーティストとしてデビューする。[[パンク・ロック|パンク]]ブームの真っ只中にあってこのアルバムは今ひとつ大きな成功には至らなかった。その後、曲作りのパートナーに作詞家のウィル・ジェニングス(後に[[エリック・クラプトン]]や[[セリーヌ・ディオン]]などにも作品を提供する)を迎え、[[1980年]]にシングル「ユー・シー・ア・チャンス」をリリースして、翌[[1981年]]に[[ビルボード]]で最高7位まで上昇するヒットとなる。この曲の成功に煽られる形で同曲が収録されたアルバム『[[アーク・オブ・ア・ダイヴァー]]』も全米3位<ref>[http://www.allmusic.com/album/arc-of-a-diver-mw0000192481/awards Arc of a Diver - Steve Winwood | Awards | AllMusic]</ref>、全世界でのセールスのべ700万枚という大成功を収めた。しかし次作『トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト』はセールス的に今一歩だった。
{{Main|トラフィック (バンド)#1967年–1969年}}
トラフィックで『ミスター・ファンタジー』『トラフィック』など3枚のアルバムをリリース。[[1968年]]にはメイスン、ウッドと[[ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス]]のアルバム『[[エレクトリック・レディランド]]』のレコーディングに参加して、「[[ヴードゥー・チャイル]]」でオルガンを弾いた。
 
[[1969年]]、トラフィックを解散して[[エリック・クラプトン]]らと'''[[ブラインド・フェイス]]'''を結成。
1986年には傑作と名高い『[[バック・イン・ザ・ハイ・ライフ]]』を発表。[[ポール・サイモン]]や[[ジェイムス・テイラー|ジェイムズ・テイラー]]、[[ジョージ・ハリスン]]などのアルバムを手がけたことで知られるラス・タイトルマンをプロデューサーに迎え制作されたこのアルバムは、全米3位まで上昇するヒットとなっただけでなく、[[グラミー賞]]を3部門受賞した。また、このアルバムからシングル・カットされた「[[ハイヤー・ラヴ]]」は彼にとって初の全米No.1ヒットとなり、ここに至って音楽家としての活動は頂点に達した。この勢いを受け[[1988年]]にリリースされた『ロール・ウィズ・イット』では、シングル・カットされた同名曲が再び全米1位を獲得、アルバムも初の全米1位を記録した。また[[1989年]]と[[1991年]]には来日公演も行われた。
{{Main|ブラインド・フェイス}}
ブラインド・フェイスはアルバム『[[スーパー・ジャイアンツ]]』のリリースと[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・ツアー後にあえなく解散する。ウィンウッドはソロ・アルバム『マッド・シャドウズ』のレコーディングを進めたが、ゲストに迎えたウッド、キャパルディと共にトラフィックの活動再開を決意。『マッド・シャドウズ』を『ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ』に改題して、トラフィックのアルバムとして1970年に発表した。
{{Main|トラフィック (バンド)#1970年–1974年}}
[[ファイル:Steve Winwood with Traffic.jpg|thumb|170px|leftright|トラフィック時代のウィンウッド]]
トラフィックは[[1974年]]のアルバム『ホエン・ジ・イーグル・フライズ』を最後に終焉を迎えたが、その間、ウィンウッドは[[腹膜炎]]を患って危険な状態に陥ったこともあった。また[[1972年]]には、[[ロンドン交響楽団]]と[[:en:English_Chamber_Choir|イギリス室内合唱団]]によるロック・オペラ『[[トミー (ロンドン交響楽団のアルバム)|トミー]]』のアルバム制作とコンサートに独唱者として客演した<ref group="注釈">ウィンウッドは、[[トミー (アルバム)|『トミー』のオリジナル・アルバム]](1969年)を発表した[[ザ・フー]]のメンバー、[[リンゴ・スター]]、[[ロッド・スチュワート]]らと共に、アルバム制作と1972年12月9日にロンドンの[[:en:Rainbow_Theatre|レインボウ・シアター]]で開かれたコンサートに客演してしてした。</ref><ref>{{Cite book|洋書 |title=Anyway Anyhow Anywhere: The Complete Chronicle of The Who 1958-1978 |year=2007 |publisher=Virgin Books |pages=310, 313-314 |last=Neill |first=Andy |isbn=978-0-7535-1217-3 |last2=Kent |first2=Matt}}</ref>。
 
=== ソロ活動 ===
1990年代以降は3枚のオリジナル・アルバムと、ジム・キャパルディとの共作によるトラフィックとしての久々のアルバム『ファー・フロム・ホーム』([[1994年]])を発表。自ら立ち上げたレーベル、ウィンクラフトから『アバウト・タイム』を発表([[2003年]])。同年7月には[[フジロック・フェスティバル]]への参加という形で3度目の来日公演が実現した。また翌年の3月には、1960年代の活動の功績が認められ、トラフィックのメンバーとして[[ロックの殿堂]]入りを果たしている。これに伴ってトラフィックとしての活動再開も予定されていたといわれているが、[[2005年]]1月にキャパルディが胃癌のために亡くなったことからこの話は立ち消えになっている。
その後、日本人パーカッショニストの[[ツトム・ヤマシタ]]によるGOをはじめとするいくつかのプロジェクトへの参加を経て、[[1977年]]には自らの名を表題にした『スティーヴセルフウィンウッド』タイトル・アルバムでソロ・アーティストとしてデビューするが、[[パンク・ロック|パンク]]ブームの真っ只中にあってこのアルバムは今ひとつ大きな成功には至らなかった。その後、曲作りのパートナーに作詞家のウィル・ジェニングス(後に[[エリック・クラプトン]]や[[セリーヌ・ディオン]]などにも作品を提供する)を迎え、[[1980年]]にシングル「ユー・シー・ア・チャンス」をリリースして、翌[[1981年]]に[[ビルボード]]で最高7位まで上昇するヒットとなる。この曲の成功に煽られる形で同曲が収録されたアルバム『[[アーク・オブ・ア・ダイヴァー]]』も全米3位<ref name=billboard200>[http{{Cite web |url=https://www.allmusicbillboard.com/albumartist/arcsteve-of-a-diverwinwood/chart-mw0000192481history/tlp/awards Arc|title=Steve ofWinwood a- DiverChart History - SteveBillboard Winwood200 | Awardspublisher=Billboard | AllMusic]accessdate=2022-09-23}}</ref>、全世界でのセールスのべ700万枚という大成功を収めた。しかし次作彼は続いて『トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト』はセールス的に今一歩だっを発表した。
 
1986年には傑作と名高い『[[バック・イン・ザ・ハイ・ライフ]]』を発表。[[ポール・サイモン]]や[[ジェイムス・テイラー|ジェイムズ・テイラー]]、[[ジョージ・ハリスン]]などのアルバムを手がけたことで知られるラス・タイトルマンをプロデューサーに迎え制作されたこのアルバムは、全米3位まで上昇するヒットとなっただけでなくし<ref name=billboard200 />、[[グラミー賞]]を3部門受賞した。また、このアルバムからシングル・カットされた「[[ハイヤー・ラヴ]]」は彼にとって、自身初の全米No.1ヒットり、ここに至て音楽家としての活動は頂点に達した。この勢いを受け[[1988年]]にリリースされた『[[ロール・ウィズ・イット (アルバム)|ロール・ウィズ・イット]]』では、シングル・カットされた[[ロール・ウィズ・イット (スティーヴ・ウィンウッドの曲)|同名曲]]が再び全米1位を獲得、アルバムも初の全米1位を記録した<ref name=billboard200 />。また[[1989年]]と[[1991年]]には来日公演も行われた。
2007年7月、クロスロード・ギター・フェスティバルで[[エリック・クラプトン]]と共演し[[ブラインド・フェイス]]時代の3曲などを演奏。さらに2008年2月には、[[マディソン・スクエア・ガーデン]]でクラプトンと3日間の共演コンサートを実現させて、この公演の模様は後に、クラプトンと連名のライヴ・アルバム『[[ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン]]』としてリリースされる。そして同年4月に5年ぶりの新作アルバム『[[ナイン・ライヴズ (スティーヴ・ウィンウッドのアルバム)|ナイン・ライヴズ]]』をコロンビア・レコードよりリリースした。
 
[[1990年]]のスタジオ・アルバム『[[リフュジーズ・オブ・ザ・ハート]]』リリースに伴うツアーの終了後、ソロ活動を休止。キャパルディと共にトラフィックを再結成して、[[1994年]]には20年ぶりのアルバム『ファー・フロム・ホーム』を発表<ref group="注釈">1983年に死去したクリス・ウッドに捧げられた。</ref><ref name=winwood>{{Cite web |url=https://www.stevewinwood.com/news/1423 |title=Press Release: Junction Seven |work=Steve Winwood Official Site |date=1997-04-24 |accessdate=2019-07-23}}</ref>。
2011年11月から12月に掛けて、[[エリック・クラプトン]]とともに来日し、全国8会場、計13回のコンサートを行った。演奏曲は[[マディソン・スクエア・ガーデン]]での公演と重複する曲以外にも、それぞれのソロのヒット曲や、2人がアコースティック・ギターで演奏するコーナーもあった。「ユー・シー・ア・チャンス」では、オリジナルのシンセのソロのパートを[[エリック・クラプトン]]がギターで演奏した。
 
[[1997年]]のソロ・アルバム『[[ジャンクション・セヴン]]』では、[[ナラダ・マイケル・ウォルデン]]を共同プロデューサーに迎え、[[レニー・クラヴィッツ]]や[[デズリー]]等がゲスト参加した<ref name="winwood" />。
 
1990年代以降は3枚のオリジナル・アルバムと、ジム・キャパルディとの共作によるトラフィックとしての久々のアルバム『ファー・フロム・ホーム』([[19942003年]])を発表。には、自ら立ち上げたレーベル、ウィンクラフトから『アバウト・タイム』を発表([[2003年]])同年7月には[[フジロック・フェスティバル]]への参加という形3度目の来日公演が実現した。また[[2004]]の3月には、1960年代の活動の功績が認められ、トラフィックのメンバーとして[[ロックの殿堂]]入りを果たしている。これを機伴ってトラフィックとしての動再開も予定されていたといわれているが、[[2005年]]1月にキャパルディが胃癌のためより亡くなったことからこの話は立ち消えになっている。
 
2007年7月、クロスロード・ギター・フェスティバルで[[エリック・クラプトン]]と共演し[[ブラインド・フェイス]]時代の3曲などを演奏。さらに2008年2月には、[[マディソン・スクエア・ガーデン]]でクラプトンと3日間の共演コンサートを実現させて、この公演の模様は後に、クラプトンと連名のライ・アルバム『[[ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン]]』としてリリースされる。そして同年4月に5年ぶりの新作アルバム『[[ナイン・ライヴズ (スティーヴ・ウィンウッドのアルバム)|ナイン・ライヴズ]]』をコロンビア・レコードよりリリースした。
 
2011年11月から12月に掛けて、[[エリック・クラプトン]]とともに来日し、全国8会場、計13回のコンサートを行った。演奏曲は[[マディソン・スクエア・ガーデン]]での公演と重複する曲以外にも、それぞれウィンウッドのソロのヒット曲や、2人アコースティック・ギターで演奏するコーナーもあった。され、「ユー・シー・ア・チャンス」では、オリジナルのシンセのソロのパートを[[エリック・クラプトン]]がギターで演奏した。「マイ・ウェイ・ホーム」は、2人が揃ってアコースティック・ギターで演奏するコーナーで演奏された。
 
== ディスコグラフィ ==
=== ソロ ===
{{Main|スティーヴ・ウィンウッドの作品}}
 
==== アルバム ====
*スティーヴ・ウィンウッド - ''[[:en:Steve Winwood_(album)|Steve Winwood]]'' (1977) #22 US
*[[アーク・オブ・ア・ダイヴァー]] - ''[[:en:Arc Ofof Aa Diver|Arc Of A Diver]]'' (1981) #3 US
*トーキング・バック・トゥ・ザ・ナイト - ''[[:en:Talking Back to the Night|Talking Back Toto Thethe Night]]'' (1982) #28 US
*[[バック・イン・ザ・ハイ・ライフ]] - ''[[:en:Back in the High Life|Back In The High Life]]'' (1986) #3 US
*クロニクル - ''[[:en:Chronicles_(Steve Winwood album)|Chronichles]]'' (Best Album) (1987) #26 US
*『[[ロール・ウィズ・イット (アルバム)|ロール・ウィズ・イット]]』 - ''[[:en:Roll With It_(album)|Roll With It]]'' (1988) #1 US
*『[[リフュジーズ・オブ・ザ・ハート]]』 - ''[[:en:Refugees Ofof Thethe Heart|Refugees Of The Heart]]'' (1990) #27 US
*『[[ジャンクション・セヴン]]』 - ''[[:en:Junction Seven|Junction Seven]]'' (1997) #123 US
*アバウト・タイム - ''[[:en:About Time_(Steve Winwood album)|About Time]]'' (2003) #126 US
*[[ナイン・ライヴズ (スティーヴ・ウィンウッドのアルバム)|ナイン・ライヴズ]] - ''[[:en:Nine Lives_(Steve Winwood album)|Nine Lives]]'' (2008) #12 US
*[[ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン]] - ''Live from Madison Square Garden'' (2009) #14 US - with [[エリック・クラプトン]]
 
==== Singlesシングル ====
* "While You See Aa Chance" (1981) #7 US
* "Arc Ofof Aa Diver" (1981) #48 US
* "Still Inin Thethe Game" (1982) #47 US
* "Valerie" (1982) #70 US
* "Higher Love" (1986) #1 US - 1 week, #13 UK
* "Freedom Overspill" (1986) #20 US
* "The Finer Things" (1987) #8 US
* "Back Inin Thethe High Life Again" (1987) #13 US
* "Valerie" (remix) (1987) #9 US, #19 UK
* "Roll With It" (1988) #1 US - 4 weeks
* "Don't You Know What Thethe Night Can Do?" (1988) #6 US
* "Holding On" (1988) #11 US
* "Hearts Onon Fire" (1989) #53 US
* "One Andand Only Man" (1990) #18 US
 
=== スペンサー・デイヴィス・グループ ===
== 日本公演 ==
{{Main|スペンサー・デイヴィス・グループ#ディスコグラフィ}}
 
=== トラフィック ===
{{Main|トラフィック (バンド)#ディスコグラフィ}}
 
=== ブラインド・フェイス ===
*『[[スーパー・ジャイアンツ]]』 - ''Blind Faith'' (1969年)
 
=== ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース ===
*『ジンジャー・ベイカーズ・エア・フォース』 - ''Ginger Baker's Air Force'' (1970年)
 
=== サード・ワールド ===
* ''Aiye-Keta'' (1973年)
 
=== Go ===
*『ゴー』 - ''Go'' (1976年)
*『ゴー・ライヴ』 - ''Go Live from Paris'' (1976年)
 
=== エリック・クラプトン&スティーヴ・ウィンウッド ===
*[[ライヴ・フロム・マディソン・スクエア・ガーデン]] - ''Live from Madison Square Garden'' (2009) #14 US - with [[エリック・クラプトン]]
 
== 公演 ==
* [[1989年]]
: 3月27日,28日 [[大阪城ホール]]、30日 [[名古屋レインボーホール]]、4月1日,4日,5日 [[国立代々木競技場]]第一体育館、7日 [[横浜アリーナ]]
89 ⟶ 138行目:
* [[2003年]] ''Fuji Rock Festival 03''
: 7月27日 [[苗場スキー場]]
* [[2011年]] with ERIC CLAPTON
: 11月17日 北海きたえーる、19日 [[横浜アリーナ]]、21日,22日 [[大阪城ホール]]、24日 [[マリンメッセ福岡]]、26日 広島グリーンアリーナ、28日 いしかわ総合スポーツセンター、30日 日本ガイシホール、12月2日,3日,6日,7日,10日 [[日本武道館]]
 
== 脚注 ==
{{reflist脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist|25em}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
 
== 関連項目 ==
* [[R&B]]
 
== 外部リンク ==
{{commons category|Steve Winwood}}
* [httphttps://www.stevewinwood.com/ 公式サイト(英語)]
* [httphttps://rateyourmusic.com/listslist/list_viewgroonrikk/steve_winwood___guest_sessions_and_productions/list_id_is_5375 Albums that Winwood guested on and/or produced]
* [http://muzica.acasa.ro/stiri-muzica/Clapton-si-Winwood-la-Bucuresti-sau-cum-am-ajuns-sa-am-din-nou-credinta-oarba-in-blues Steve Winwood & Eric Clapton live@ Bucharest (review)]
* {{Allmusic|class=artist|id=p5854|label=Steve Winwood}}
105 ⟶ 163行目:
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:ういんうつと すていふ}}
[[Category:イングランドのロック歌手]]
[[Category:イギリスのキーボーディスト]]
[[Category:ロックの殿堂入りの人物]]
115 ⟶ 173行目:
[[Category:1948年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:フジロック・フェスティバル出演者]]