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{{出典の明記|date=2018年11月}}
 
'''エドゥアール・アドルフ・カシミール・ジョゼフ・モルティエ '''(Édouard Adolphe Casimir Joseph Mortier, [[1768年]][[2月13日]] - [[1835年]][[7月28日]])は、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]期の軍人。帝国元帥。[[7月王政]]期の[[1834年]]から[[フランスの首相|首相]]を務めた。
{{政治家
|人名 = エドゥアール・アドルフ・カミール・ジョゼフ・モルティエ
|各国語表記 = {{lang|fr|Adolphe Édouard Casimir Joseph Mortier}}
|画像 = ÉdouardDubufe - Marshal Mortier.jpg
|画像説明 = エドゥアール・モルティエ
|国略称 = [[フランス]]
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|サイトタイトル =
|国旗 = FRA
|職名 = [[フランスの首相|第15代フランス首相]]
|元首職 = 国王
|元首 = [[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ1世]]
|内閣 =
|就任日 = [[1834年]][[11月18日]]
|退任日 = [[1835年]][[3月12日]]
|元首職 = 国王
|元首 = [[ルイ=フィリップ]]
}}
{{仮リンク|トレヴィゾ公爵|fr|Duc de Trévise}}'''エドゥアール・アドルフ・カジミール・ジョゼフ・モルティエ '''({{lang-fr|Édouard Adolphe Casimir Joseph Mortier}}, [[1768年]][[2月13日]] - [[1835年]][[7月28日]])は、[[フランス革命戦争]]・[[ナポレオン戦争]]期の軍人。帝国元帥。[[七月王政]]期に[[フランスの首相|首相]](在任:1834年 – 1835年)を務めたが、在任中に暗殺された。
 
==生涯==
1768年2月13日、[[カトー=カンブレジ]]で生まれた<ref name="EB1911">{{Cite EB1911|wstitle=Mortier, Edouard Adolphe Casimir Joseph|volume=18|page=878}}</ref>。1791年に陸軍に入隊した後、[[フランス革命戦争]]の1792年と1793年戦役ではフランス北東国境と[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]で戦った<ref name="EB1911" />。その後、[[マース川]]、[[ライン川]]方面で戦い、1799年に[[旅団将軍]]、ついで同年に[[師団将軍]]に昇進した<ref name="EB1911" />。
 
1803年の[[ブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯領|ハノーファー選帝侯領]]侵攻での活躍により、1804年に[[ナポレオン・ボナパルト]]により[[フランス元帥]]に叙された<ref name="EB1911" />。1805年の[[ウルム戦役]]で[[大陸軍 (フランス)|大陸軍]]の1軍団を率いて{{仮リンク|デュルンシュタインの戦い|en|Battle of Dürenstein}}で戦功を挙げ、1806年にはハノーファーやドイツ北西部を転戦、1807年の[[フリートラントの戦い|フリートラント戦役]]にも参加した<ref name="EB1911" />。1808年に{{仮リンク|トレヴィゾ公爵|fr|Duc de Trévise}}に叙され、直後に[[半島戦争]]に参戦して[[マドリード]]の再占領に貢献、1809年11月には{{仮リンク|オカーニャの戦い|en|Battle of Ocaña}}に勝利した<ref name="EB1911" />。
モルティエは[[1765年]][[2月13日]]に
[[カトー=カンブレジ]]に生まれた。
 
1812年から1813年にかけて{{仮リンク|皇帝親衛隊 (ナポレオン)|en|Imperial Guard (Napoleon I)|label=皇帝親衛隊}}の新参親衛隊司令官を務めた後、1814年の[[第六次対仏大同盟]]戦争では後衛部隊を率いた<ref name="EB1911" />。1815年の[[百日天下]]において、フランス王[[ルイ18世 (フランス王)|ルイ18世]]が逃亡すると、モルティエはナポレオンの部下に復帰したが、[[ワーテルローの戦い]]では病気により参戦できなかった<ref name="EB1911" />。
[[1791年]]、23歳の時に軍に入隊した。
 
第二次王政復古の後は一時失脚したが、1819年に[[貴族院 (フランス)|貴族院]]議員に復帰、1825年に{{仮リンク|聖霊勲章|en|Order of the Holy Spirit}}を授与された<ref name="EB1911" />。1830年から1831年まで{{仮リンク|在ロシアフランス大使|en|List of ambassadors of France to Russia}}を務め、1834年には[[フランスの首相|首相]]兼[[国防省 (フランス)|陸軍大臣]]に任命された<ref name="EB1911" />。しかし、1835年7月28日に国王[[ルイ・フィリップ (フランス王)|ルイ・フィリップ1世]]に同伴して閲兵式に出席しているとき、コルシカ人の革命家、{{仮リンク|ジュゼッペ・マルコ・フィエスキ|en|Giuseppe Marco Fieschi}}がタンプル大通り50番地の家に仕掛けた小銃25挺の一斉発射により暗殺された<ref name="EB1911" /><ref>{{cite journal|和書|author=金柿宏典|authorlink=金柿宏典|title=パリ -誕生から現代まで- |date= |publisher=[[福岡大学]] |journal=福岡大学人文論叢 |volume=40 |issue=1 |naid |page=85 }}</ref>。
[[フランス革命戦争]]時の[[1792年]]〜[[1793年|93年]]にかけて北部方面軍に所属し、[[ネーデルラント連邦共和国|ネーデルラント]]侵攻の一翼を担った。その後、[[マース川]]、[[ライン川]]方面で戦い、[[マインツ]]要塞に進軍した。そしてマインツ要塞に籠る敵軍と交渉を行い、見事に降伏させることに成功した。その後、[[パリ]]に帰還した。
 
1827年1月24日、オーストリアの外交官、{{仮リンク|アントワーヌ・アポニー|fr|Antoine Apponyi}}が大使館で開いた着任パーティーで彼とトラント公爵[[ジャック・マクドナル]]、レッジオ公爵[[ニコラ・ウディノ]]、ダルマティア公爵[[ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト]]は[[クレメンス・フォン・メッテルニヒ|メッテルニヒ]]の指示でそれぞれオーストリア、[[ナポリ王国]]内の地名に由来する爵位を省略し紹介された。この無礼な振る舞いに彼らは直ちにパーティーを退去、翌日新聞報道されたこの事件はパリ市民の怒りをもたらした<ref name="EB1911" /><ref>{{cite journal|和書|author=金柿宏典|authorlink=金柿宏典|title=パリ -誕生から現代まで- |date= |publisher=[[福岡大学]] |journal=福岡大学人文論叢 |volume=40 |issue=1 |naid |page=88 }}</ref>。
[[1799年]]、[[第二次対仏大同盟]]が結成されると各地を転戦し、[[旅団長]]、[[師団長]]と続けて昇進した。第二次チューリッヒ戦争では、8,000人の軍勢を率いてディーディゴンを発ち、[[ハノーファー]]に侵攻、同地を占領した。彼の決定的な活躍により、[[アルトレンブルク協定]]が結ばれた。これにより、[[ハノーファー選帝侯国]]はフランスに降伏、ハノーファー軍は解体された。
 
== 出典 ==
[[1804年]]、皇帝親衛隊砲兵部隊、及び海軍の[[軍団長]]に任命された。
{{脚注ヘルプ}}
 
{{Reflist}}
同年、一連の活躍により第一回元帥名簿に記載され、[[5月19日]]に[[ナポレオン・ボナパルト|ナポレオン]]から元帥に任命された。
 
同年[[6月14日]]、[[レジオン・ドヌール|レジオン・ドヌール第2コールト・コマンダン]]勲位を授与された。
 
[[1805年]][[2月2日]]、レジオン・ドヌール・グラン・テグル勲位、[[ポルトガル]]のキリスト騎士団騎士勲位を授与した。同年[[8月30日]]、皇帝親衛隊歩兵部隊軍団長に任命された。
 
同年[[9月20日]]から始まった[[ウルム戦役]]ではグラン・タルメの臨時統制軍である第8軍団を指揮した。ナポレオンは北方に向かって陽動作戦を行ったが、彼の部隊は余りにも進軍しすぎた為に他軍団から孤立してしまった。ロシアの[[ミハイル・クトゥーゾフ|クトゥーゾフ]]将軍はこれを見逃さず、テオドール・ガザン将軍率いる第2師団を巧みに誘引すると彼らを挟み撃ちにした。モルティエは急いで[[ピエール・デュポン]]将軍率いる第1師団を派遣し、[[11月11日]]、デューレンシュタインの戦いが起こった。両軍は夜通し激しく衝突したが、モルティエとデュポンは何とかガザンの救援に成功した。味方は10,000人中、4,000人近く<ref>大半がガザン指揮下の兵士</ref>が死傷したが、敵軍も24,000人中4,000人近くが死傷し、フランス軍の辛勝に終わった。<ref>損害が大きかった為、[[12月2日]]に起こった[[アウステルリッツの戦い]]には参戦出来なかった。</ref>
 
[[1806年]]に[[第四次対仏大同盟]]が結成されるとモルティエは再び第8軍団の軍団長に任命された。[[10月16日]]、[[ルイ・ボナパルト]]率いるオランダ軍と共に[[ヘッセン=カッセル方伯領|ヘッセン選帝侯国]]に進駐し、同国を占領した。ヘッセンは[[ヴェストファーレン王国]]に組み込まれた。その後、[[11月22日]]に[[ハーメルン]]に侵攻し、同地を占領した。この際に10,000名ものプロイセン兵を降伏させた。さらに[[11月29日]]に[[ニーンブルク/ヴェーザー]]を占領し、2,911人のプロイセン兵を捕獲した。その後、[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]と続けざまに侵攻、占領した。さらに[[アンクラム]]、[[フリートラントの戦い|フリートラント]]で戦い、[[コルベルク]]を包囲した。
 
[[1808年]][[7月2日]]、一連の活躍により、[[トレヴィゾ]][[公爵]]となった。短期間同地に滞在後、[[半島戦争]]の為スペイン方面に派遣された。半島戦争では第5軍団を率い、同年[[11月30日]]にはソモシエラで戦った。
 
[[1809年]]、[[ランヌ]]元帥の[[サラゴサ]]攻囲戦を支援し、[[8月8日]]には[[スールト]]元帥と共にアルゾビスポで戦った。同年[[11月9日]]にはオカーニャの戦いに参戦し、同戦の大勝に貢献した。
 
[[1810年]]には[[アンダルシア]]に侵攻し、バダホース及びフエンテ・デ・カントスで戦った。
 
[[1811年]]、[[ヘローナ]]及びカンポマイオールで戦い、5月にフランスに召還された。そして、新参親衛隊司令官に任命された。
 
[[1812年]]に勃発した[[ロシア遠征]]では親衛隊を率いて[[ボロジノの戦い|ボロジノ]]で戦い、[[モスクワ]][[総督]]に任命された。この時にナポレオンから歴史的建造物の破壊を命令されたが、大雨とロシア兵の到着の為に[[クレムリン]]の3つの塔<ref>アルセナーリャ塔、ヴォドヴズヴォドナヤ塔、ニコリスカヤ塔(部分的)</ref>、城壁の一辺、兵器庫の一部を爆破するにとどまった。撤退時は初日に殿軍を務め、クラスノエ、[[1812年ロシア戦役|ベレジナ]]で戦った。
 
[[1813年]]には[[リュッツェンの戦い|リュッツェン]]、[[バウツェン]]、[[ドレスデンの戦い|ドレスデン]]、[[ライプツィヒの戦い|ライプツィヒ]]で戦い、12月に古参親衛隊司令官に任命された。
 
[[1814年]]の[[第六次対仏大同盟|フランス国内戦役]]では主に後衛部隊を率い、[[マルモン]]と共に各地を転戦、顕著な働きを見せた。
ナポレオンが[[第六次対仏大同盟]]に降伏すると、[[ブルボン家|ブルボン王家]]の下で[[6月1日]]に聖ルイ騎士勲位を授与され、[[6月4日]]には[[貴族|フランス貴族]]の一員となった。そして、[[6月21日]]には[[リール (フランス)|リール]]の第14軍管区司令官に任命された。
 
[[1815年]]、ナポレオンがセントヘレナから脱出するとブルボン王家を国境まで護送した後に、ナポレオンの下に復帰した。そして、再び古参親衛隊の指揮権を与えられた。しかし、[[ボーモン]]で[[坐骨神経痛]]を患い、[[ワーテルローの戦い]]には参戦出来なかった。
 
その後、ブルボン王家が帰還すると、同年[[7月24日]]に貴族名簿から削除、[[12月27日]]には第16軍管区司令官の職も解かれた。
 
[[1817年]]には同職に復帰した。<ref>かねてより政戦問わず功績の多い人物で、百日天下においても大した行動を示さなかった為。</ref>
 
[[1819年]]には貴族議員に任命された。
 
[[1825年]]には聖十字勲章を賜った。
 
[[1830年]]〜[[1831年]]には[[サンクトペテルブルク]]で[[ロシア帝国|ロシア大使]]を務めた。
 
[[1834年]]に[[陸軍大臣]]及び[[フランスの首相|首相]]に任命された。
 
[[1835年]]、モルティエは国王[[ルイ・フィリップ]]の記念パレードに参加し、国王の護衛を担う[[国民衛兵]]の閲兵を行っていた。一行が[[3区 (パリ)|タンプル通り]]に差し掛かった時に突然、激しい閃光と轟音が辺りに響き渡り、<ref>刺客は3階の窓から[[ボレーガン]]による射撃を行った。</ref>次々と衛兵が倒れた。その中にはモルティエも含まれていた。<ref>18名が死亡し、20名以上が怪我を負った。国王は軽傷を負ったものの一命を取り止めた。</ref>モルティエはすぐにその死が確認された。享年67歳であった。
 
温厚篤実な人柄で数多の人間に愛された彼の死は、多くの心からの悲しみを集めた。
 
==人物像==
[[Image:Mortier, Edouard.jpg|thumb|right|200px|エドゥアール・モルティエ]]
無口で思慮深く、温厚な性格であった。又、人当たりが良い為、多くの同僚、部下に信頼された。
 
勇気だけでなく、冷静な頭脳も兼ね備えた知勇兼備の将であった。
 
==脚注==
 
==外部リンク==
* [http://www.heraldica.org/topics/france/napoleon.htm#duches Heraldica.org Araldica napoleonica]
 
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{{フランス第一帝政の元帥}}
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[[Category:フランス革命期の軍人]]
[[Category:フランス第一帝政の元帥]]
[[Category:パリ軍事総督]]
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[[Category:フランスの首相]]
[[Category:フランスの大使]]
[[Category:暗殺された政治家]]
[[Category:1768年生]]
[[Category:1835年没]]
 
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