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{{出典の明記|date=2013年5月}}
'''族誅'''(ぞくちゅう)は、[[中華人民共和国|中国]]で[[権力闘争]]に敗れたものを一族全員[[虐殺]]すること。'''三'''もしくは'''九族皆殺し'''とも呼ばれる。
'''族誅'''(ぞくちゅう)または'''族滅'''(ぞくめつ)、[[前近代]]における[[死刑]]の一つで、[[封建制|封建]]国家において[[クーデター]]の未遂など[[王権]]を脅かす重罪を犯した者に、罪人自身のみならずその一族にも死罪を及ぼさせることである。
 
[[中国]]の史書にもっともよく現れ、東アジア特有のものだと思われがちだが、[[ローマ帝国|ローマ]]や[[中東]]など地域に限らず世界各地において行われていた。
[[殷]]の時代に始まり、[[秦]]の時代になって拡張され、[[清]]の時代までみられた。また、属国の[[朝鮮]]、[[ベトナム]]でも行われた。[[日本]]では、[[江戸時代]]まで敵対者の一族郎党を全員処刑する例があった。{{要出典|date=2012年3月|title=出典を求める理由や求める出典内容}}
 
==概要==
中国では古来から「罪は九族に及ぶ」とされており、族誅には親族にまで連帯責任を負わせることによる犯罪抑止、そして遺族の遺恨を根こそぎ断つ目的があったと言われる。
'''誅'''とは、本来は皇帝が直接的な正義の行使として行う死刑を指し、律令法においては「[[大逆罪|大逆不道]]」の罪を犯した者に対して行使されるとされるが、皇帝の大権として行われる性格が重要視され、必ずしも法律に則っているとは限らないことに注意する必要がある{{sfn|古勝隆一|2021|p=205,208}}。
==三族==
資料によって見解は異なる。
 
『[[説文解字]]』では、"誅"を「討つ」ことを意味していると解説している。『[[孟子 (書物)|孟子]]』(告子篇・下)には「天子は討ちて伐せず、諸侯は伐して討たず」という言が記されており、[[趙岐]]をはじめとする注釈者は討は上位者(皇帝)が下の者(諸侯)を懲罰する行為と解している{{sfn|古勝隆一|2021|p=205-206}}。[[鄭玄]]は『[[周礼]]』(天官・大宰)の注釈において「誅は責譲なり」、『[[礼記]]』(曲札・上)の注釈において「誅は罰なり」と解釈して、問責・処罰を意味するとしている{{sfn|古勝隆一|2021|p=208-209}}。
各説によれば、本人と、
*妻、父母
*妻、父母と兄弟
*父、子、孫
までを処刑すること、とされる。
 
古代より中国では皇帝が正当な賞罰をすることが求められ、[[舜]]が「[[四罪]]」と呼ばれた罪人を処罰したことで天下が治まったという故事が知られている。また、『[[荀子]]』(宥坐篇)には[[孔子]]が[[少正卯]]を殺害したときに、有徳の上位者が誅殺を行うことを肯定したことを記している{{sfn|古勝隆一|2021|p=206-207}}。
==九族==
こちらも資料によって見解が異なるが、9[[親等]](高祖父、曾祖父、祖父、父、本人、子、孫、曾孫、玄孫)までを処刑することとされる。
 
[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]以降の法律整備と[[秦]][[漢]]統一帝国の成立によって法律に基づいて死刑が実施されるようになり、皇帝の詔勅を必ずしも必要としなくなるが、皇帝権力の直接的な権力発動である誅殺も賞罰の権限の一部として依然として残されていた{{sfn|古勝隆一|2021|p=207-208}}。
==十族==
 
[[明]]の[[方孝孺]]は、[[建文帝]]に重用された恩義から[[永楽帝]]の帝位を認めなかったため、面前で一族800人余りを処刑されたのち自身も処刑され、著作をすべて焼き捨てられた上に彼の門下生までも処刑・流罪となった。この事件は「滅十族」と呼ばれた。
ただし、その命令が皇帝の正常な判断に基づいて出されるとは限らなかった。特に権力基盤が安定していない皇帝が自己に不都合な家臣に対して誅殺をしたり、権力者や皇帝の寵臣が皇帝の命令と称して政敵を誅殺する可能性があり、長い歴史の中で実際には無実であるにもかかわらずそれらを目的とした誅殺がしばしば行われた{{sfn|古勝隆一|2021|p=207-210}}。
 
ただし、特定の一族・血族全体を対象とするのではなく、あくまで特定の重罪人への刑罰の付加刑として行われる。従って、族誅の対象も特定個人との親族関係を元に判断される。(詳細は下記を参照)
 
==歴史==
古代中国の[[死生観]]において、人間は死後魂が[[黄泉]]に行き、それを現世から供養する「[[社稷]]」が子孫の義務であった。直系子孫のいない人間は近親などから嗣子を受け入れない限り黄泉で永遠に飢え苦しみ、怨恨から現世の人々を祟るとされていた。子孫を絶やされることは人々がもっとも恐れていたことであったと同時に刑罰を下す側にとっての[[タブー|禁忌]]でもあった<ref>{{Cite web|和書|url=https://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/member/pdf_ikezawa/mi11.pdf |title=中国の死生観 |access-date=2023/3/13}}</ref>。
 
[[殷]]の時代の記録に現れるが、正式に制度的な刑罰として定められたのは[[戦国時代 (中国)|戦国時代]]になってからであり、その後[[清]]の末期まで踏襲された。 中国以外では[[封建制度]]が栄えた[[朝鮮]]、[[ベトナム]]、[[日本]]でも行われたほか、1930年代に[[ソビエト連邦]]の[[スターリン]]政権による[[大粛清]]においても粛清者の家族への連座が度々行われた。
 
現代においてほとんどの国では廃止されたが、[[朝鮮民主主義人民共和国]]では建国以来度々行われている疑いがある。
 
==古代中国における「族」==
[[三代 (中国史)|春秋戦国以前]]の中国は[[秦]]を始めとする後世の[[中央集権]]的大統一王朝とは性質が異なり、各地は血縁共同体からなる[[部族制社会|部族制]]国家で、それらの緩衝と牽制の元に成り立つ[[連邦|連邦国家]]が[[殷]]と[[周]]であった。
この時代の血縁組織の単位に「宗」と「族」があり、後世での父系同族集団である「[[宗族]]」の意味合いに当たるのが「宗」で、本人とその直系子孫からなる[[核家族]]が「族」の本来の意味合いであった。[[祭祀]]を営むための教団的な組織でもあり、「族」は「宗」に隷属していた。
『[[史記]]』秦本紀に「文公二十年、初めて夷三族の罪有り。」との記述があり、この三族について『史記集解』中で張晏は「父、兄弟及び妻子」と、『[[周礼]]』春官宗伯の鄭玄注では「父、子、孫」としている。一方で、『[[墨子]]』号令篇に「諸ろ罪有りて死罪より以上なれば、皆父母、妻子、同産に還る。」とあり『[[漢書]]』[[晁錯|鼂錯]]伝に「大逆無道なれば、錯まさに腰斬し、父母・妻子・同産も少長なく棄市すべし。」とあり、「族」の意味はやや曖昧になって行ったものの、基本として父以下の直系近親が「三族」として連座の対象とされていた。
三族への連座は、[[法家]]性格の強い[[秦]]において最も盛んに行われ、『[[後漢書]]』楊終伝には「秦政酷烈にして、一人罪有らば三族に延及す。」との記述があるように、罪種に関わらず家族単位での懲罰はしばしばあった。漢代になるとそれらの連座刑の大半は廃止されたが、[[謀反]]罪による連座死刑だけは残った。
 
さらに時代を下るにつれ、元々の「祭祀を絶やす」という宗教的な意義も廃れ、未成年者や女性などが死刑の代わりに官奴隷に没される、若しくは流刑に処されるようになった。
 
『[[唐律疏義|唐律]]』では、謀反大逆の罪について、「父子にして年十六以上は皆絞す。十五以下および母女、妻妾、祖孫、兄弟、姊妹、若し部曲、資財、田宅あれば並んで官に没す。」
 
『[[大明律]]』においても「祖父子、父子、孫、兄弟及び同居の人にして異姓を分かたず、及び伯叔父兄弟の子にして籍の同異を限らず、十六以上なれば篤疾廃疾を論ぜず皆斬る。 十五以下および母女、妻妾、姊妹、子の妻妾は功臣奴と為し財産は官に没す。」とある。
 
== 日本 ==
[[魏志倭人伝]]において、「重罪(謀反などか)を犯した者の一族は根絶やしにされる」との記述があり、古代日本にも中国大陸と似た死生観信仰があったことを窺わせる。
 
日本において明確に記録された最初の事例は[[日本書紀]]のもので、[[雄略天皇|雄略]]7年に豪族[[吉備下道前津屋|下道前津屋]]が謀反を企んで発覚、[[雄略天皇|若武王]]は[[物部]](もののふ)の兵士30人を派遣し、前津屋とその一族70人を皆殺しにした。
 
もっとも、日本では一族が皆殺しになる例は極めて少ない。
 
これは特定の一族を誅殺しても、女子供は助命されるのが基本だった為である。
 
例えば、教科書には[[大化の改新]]の時に[[蘇我氏]]は滅んだとされているが、直系の男子が殺されたに過ぎず、[[蘇我入鹿]]の従妹の蘇我娼子は後に[[藤原不比等]]に嫁いで[[藤原四兄弟]]を産んでいる。 その蘇我氏に滅ぼされた[[物部氏]]も、[[物部守屋]]の弟(御狩)や子(雄君)は殺されておらず、その後も血筋は続いている。
 
平安末期に滅んだとされる平家すら、一部の男子の他、一門の女性は全員助命されている為、女系で見た場合、全く滅んでいない<ref>大塚ひかり『女系で見る驚きの日本史』新潮新書、2017年9月20日』9~18頁、62頁</ref>。
 
その後の鎌倉時代においても、女性は助命されるのが鉄則であり、一族が根絶やしになった例はない(同時代の史料『吾妻鏡』『愚管抄』『玉葉』には、滅んだ三浦宗家の未亡人たちが助命・保護されたような例(『吾妻鑑』宝治元年6月5~30日)は多々見られるが、女性が殺された例は全く見当たらない)。
 
しかし、室町時代(戦国時代)以降、この習慣は一部で守られなくなり、女子供までが連座させられるケースが発生している。
 
[[織田信長]]はその天下統一事業においての最大の敵であった[[武田信玄]]が没し、1582年の[[天目山の戦い]]で[[甲斐武田氏]]を滅亡させるとともに、信玄とその近臣の遺嗣に対する徹底的な残党狩りが命じられ、[[本能寺の変]]で信長が死亡するまで継続された<ref>{{Cite |和書|author=平山祥郎 |date=2007-04-01|url=https://doi.org/10.52926/jpmjer0703|doi=10.52926/jpmjer0703 |title=平山核スピンエレクトロニクスプロジェクト |series=戦略的創造研究推進事業}}{{出典無効|date=2023-09|title=異分野の論文、言及なし}}</ref>。
 
安土桃山時代〜江戸時代前期において親族への連座は[[縁座]]と呼ばれ、[[下克上|主君殺し]]や[[お家騒動]]の首謀者など謀反大逆者に対して適用された。
 
*[[豊臣秀次]]が切腹した際には、[[豊臣秀吉]]の命令で秀次の側室と子女が全員処刑されたほか、[[江戸時代]]の[[慶安の変]]において首謀者の[[由井正雪]]や[[丸橋忠弥]]の親族も尽く誅殺された<ref>[http://melma.com/backnumber_160538_3505017/ 歴史好きの素人が語る歴史 「第99話 『連座制』、この『むごい』もの(『御定書百箇条』から見た江戸時代)」]{{リンク切れ|date=2022年12月}}</ref>。
 
*[[伊達騒動]]では、[[伊達宗勝]]への暗殺容疑で処刑された[[伊東重孝]]の親族も連座により殺され、宗勝派の[[原田宗輔]]が刃傷沙汰を起こした死亡した際には報復として原田の一族が族滅された。
 
*[[幕末]]の[[天狗党の乱]]において、鎮圧後に天狗党の指導者[[武田耕雲斎]]、[[田丸稲之衛門]]らの水戸に残されていた家族が男女の別なく乳幼児や妾に至るまで処刑されたが、[[明治維新]]後には逆に耕雲斎の孫の[[武田金次郎]](祖父と共に[[小浜藩]]に捕らえられていたが、若年を理由に死刑を免じて同藩に配流処分とされていた)らによって反天狗党側幹部の親族が皆殺しにされた。
 
== 西洋 ==
[[アッシリア|アッシリア帝国]]の[[サルゴン2世]]時代の碑文において族誅の刑罰の存在が記録されている<ref>{{Cite book |title=Sargon II, King of Assyria |url=https://doi.org/10.2307/j.ctt1s4762q |publisher=SBL Press |date=2017-07-28 |isbn=978-0-88414-223-2 |first=Josette |last=Elayi}}</ref>。
 
[[古代ギリシャ・ローマ世界|古代ギリシャ、ローマ]]では家庭秩序は厳格な[[家父長制]]に基づいており、子女の生命は家父長の隷属物であった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD90020607/Body/link/y38u0043_058.pdf |title=古代ローマ人の子供観 |access-date=2023/3/13}}</ref>。そのため刑法においては規定されていないものの、家父長が重罪により処刑された場合、その子女は運が良ければ流放もしくは[[奴隷]]にされ、最悪の場合は殺害されることも珍しくなくはなかった。帝政ローマの[[ティベリウス|テイベリウス帝]]の時代において帝位簒奪の疑惑から近衛軍長官[[ルキウス・アエリウス・セイヤヌス]]と高位の元老院議員であったその叔父の一族はテイベリウスの命によって皆殺しにされ、セイヤヌスの長女に至っては(ローマでは信仰によって処女の殺害は禁じられていたため)強姦の上絞殺された<ref>{{Cite book |title=P. Corneli Taciti Annalium ab excessu Divi Augusti libr : The Annals of Tacitus |url=http://worldcat.org/oclc/1153169416 |date=1965 |oclc=1153169416 |first=Tacitus, P. |last=Cornelius}}</ref>。
 
==現代において==
2013年12月に処刑された[[張成沢]]の家族・親族・姻族が幼児に至るまで一人残らず惨殺され、彼の係累は死滅させられたと報道されている。この他にも同国ではこれまでも連座などによる族滅処分が頻発しているのではないかと疑われている。
 
==関連項目==
*[[連座]]
*[[根切り]]
*[[ジェノサイド]] - genos(民族)+cide(殺し)を組み合わせた語。
 
==脚注==
{{Reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Citation|和書|author=古勝隆一 |year=2008 |title=魏晋時代の皇帝権力と死刑-西晋末における誄殺を例として- |journal=冨谷至編『東アジアの死刑』(京都大学出版会) |pages=151-178 |id={{CRID|1010282257440399519}} }}/所収: {{Cite book|author=古勝隆一 |title=中国中古の学術と社会 |trans-title=漢唐注疏寫本研究 |publisher=社會科學文獻出版社 |year=2021 |ISBN=9787520156486 |pages=195-236 |ref=harv}}
 
{{参照方法|date=2023年9月|section=1}}
* {{Citation|和書|date=2017-2-24|author=平山優|title=武田氏滅亡|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=978-4-047-03588-1|series=[[角川選書]] 580|ref={{SfnRef|平山|2017}}}}(電子版あり)
* {{Cite journal|和書|author=内田智雄 |date=1955-09 |url=https://doi.org/10.14988/pa.2017.0000009184 |title=荀子の刑罰論 |journal=同志社法學 |ISSN=0387-7612 |publisher=同志社法學會 |volume=7 |issue=3 |pages=49-70 |doi=10.14988/pa.2017.0000009184 |CRID=1390572174865544832 |ref=harv}}<!--(内田智雄|1995)-->
* {{Cite journal|和書|author=小倉芳彦 |date=1965-02 |url=https://hdl.handle.net/10959/2298 |title=族刑をめぐる二、三の問題 |journal=研究年報 |ISSN=04331117 |publisher=學習院大學文學部 |issue=11 |pages=57-109 |hdl=10959/2298 |CRID=1050845762941978880 |ref=harv}}<!--(小倉芳彦|1965)-->
* {{Cite |author=張 建國 |title=夷三族解析 |url=http://www.faxueyanjiu.net/Admin/UploadFile/publish_article/1998/6/19980611.pdf |format=PDF |edition=Not Found. |ref={{harvid|『夷三族解析』}}}}
* 『唐律疏议』https://zh.wikisource.org/zh-hans/%E5%94%90%E5%BE%8B%E7%96%8F%E8%AD%B0/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83
 
==外部リンク==
* {{Kotobank|2=精選版 日本国語大辞典}}
*[http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=43992 古代中国ではなぜ「九族皆殺し」の刑が採用されていたのか?―中国メディア] - [[レコードチャイナ]]([[2010年]][[7月25日]])
* {{Kotobank|族滅|2=精選版 日本国語大辞典/デジタル大辞泉/平凡社「普及版 字通」}}
* {{Kotobank|族殺|2=精選版 日本国語大辞典/平凡社「普及版 字通」}}
 
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