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|image = Homeros Glyptothek Munich 273.jpg
|image_size = 200px
|caption = {{small|「[[エピメニデス]]型」のホメーロスの肖像
|birth_date = [[紀元前8世紀]]?
|birth_place =
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}}
'''ホメーロス'''({{
<!-- == 概要 == :概要節を作るかは好みの問題なのでどちらでも。cf.[[WP:LS#概要文]] -->
今日でもなお、ホメーロスが実在したのかそれとも作り上げられた人物だったのか、また本当に2つの叙事詩の作者であったのかを断ずるのは難しい。それでも、[[イオニア]]の多くの都市([[キオス県|キオス]]、[[イズミル|スミルナ]]、
当時の[[叙事詩]]というジャンルを1人で代表するホメーロスが古代ギリシア文学に占める位置は極めて大きい。紀元前6世紀以降、『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』はホメーロスの作品と考えられるようになり、また叙事詩のパロディである『[[蛙鼠合戦]]』や、[[ホメーロス風讃歌|ホメーロス讃歌]]の作者とも見做されるようになった。主に[[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]などからなる混成的な{{仮リンク|ホメーロス言語|fr|langue homérique|label=ホメーロスの言語}}は紀元前8世紀には既に古風なものであり、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。両叙事詩は{{仮リンク|長短短六歩格|fr|hexamètre dactylique}}([[
古代において、ホメーロスの作品に与えられていた史料としての価値は、今日では極めて低いものと見做されている。このことは同時に、西洋において[[叙事詩]]というジャンルを確立した文学的創造、[[詩]]としての価値をさらに高めた。
== 伝記 ==
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[[Image:William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - Homer and his Guide (1874).jpg|thumb|right|upright|[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]『ホメーロスと案内人』(1874)]]
伝承では、ホメーロス
「[[目の見えない音楽家|盲目の吟遊詩人]]」というイメージは、ギリシア文学の紋切り型であった。
全ての詩人が盲目だった
[[イオニア]]の多くの都市([[キオス県|キオス]]、[[イズミル|スミルナ]]、
実際のところ、ホメーロスの生涯については分かっていない。8つの古代の伝記が伝わっており、これらは誤って[[プルタルコス]]と[[ヘロドトス]]の作とされている。これは恐らくギリシアの伝記作者の「空白恐怖」によって説明されうる<ref>Kirk, p.1.</ref>。これらの伝記のうち最も古いものは[[ヘレニズム]]時代に遡り、貴重だが信憑性に乏しい詳細に満ちており、そうした詳細のうちには古典時代からのものも含まれている。それらによるとホメーロスは[[イズミル|スミルナ]]で生まれ、キオスに暮らし、[[キクラデス諸島]]の[[イオス島]]で死んだことになる。本名はメレシゲネス――父はメレス川の神、母は[[ニュンペー]]のクレテイスであった<ref group="注釈">『{{仮リンク|ハルポクラチオン|en|Harpocration}}』によれば、メレスとクレテイスの物語は紀元前5世紀には既に
=== ホメーロスは歴史上の人物か? ===
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『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』は紀元前6世紀以降、ホメーロスの作品とされている。これら二大英雄叙事詩の他に、『キュプリア』『アイティオピス』『小イーリアス』『イーリオスの陥落』『帰国物語』『テーレゴニアー』が伝統的にホメーロス作と見なされてきた。『イーリアス』のパロディである喜劇的叙事詩『[[蛙鼠合戦]]』や、『[[ホメーロス風讃歌|ホメーロス讃歌]]』と呼ばれる叙事的な神々への讃歌33編の作者ともされているが、明らかにホメーロスの作品ではない。
さらに、古代においては、[[ヘーシオドス]]があらゆる形の教育的な詩の代名詞となっていたのと同様に、ホメーロスの名は事実上全ての叙事的な詩の代名詞となっていた。よって、ホメーロスの名は[[叙事詩環]]の叙事詩の題名にしばしば結び付けられた。[[アルキロコス|パロスのアルキロコス]]はホメーロスが喜劇的作品『[[マルギーテース]]』を書いたと考えた。[[ヘロドトス]]は、「ホメーロスの詩」が[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]への言及のために
『イーリアス』と『オデュッセイア』のみをホメーロスの作とするようになったのは[[プラトン]]と[[アリストテレス]]以降であるが、それでも16世紀になってなお、[[デジデリウス・エラスムス]]は『蛙鼠合戦』がホメーロスの作であると信じていた。
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{{main|ホメーロス問題}}
古代・中世の[[ギリシャ人|ギリシア人]]たちは、一部例外を除いて、『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』がホメーロスの作である事を疑わなかったが、近代になり、異論が唱えられるようになった。例えば、ホメーロスがもし『イリアス』の作者なら『オデュッセイア』はそれより少し後代の別人、あるいは複数の詩人になるものではないかという推測である。ホメーロスについての情報がわずかであるため、その存在自体を疑う者もある。今日では、両詩の原型はホメーロス(と仮に呼ぶ)1人によって、それ以前の[[口承]]文学を引用しつつ創造されたという説が有力であるが、問題は未解決である。ホメーロスとは誰なのか、1人なのか複数なのか、両叙事詩の作者なのか、文字の助けを借りて創造したのか、何時なのか、何処でなのか、こういった諸問題を称して「'''[[ホメーロス問題]]'''」と呼ぶ。
この疑問は[[古代]]にまで遡る――[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]によれば、「オデュッセイアの<!--船の-->漕手が何人だったか、『イーリアス』は『オデュッセイア』より前に書かれたのか、これら2つの詩は同じ作者なのかといったことを知りたがるのはギリシア人の病気であった。」<ref>[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|Sénèque]], ''De la brièveté de la vie'' (XIII, 2).([http://www.ac-nice.fr/philo/textes/Seneque-Brievete.htm 仏訳原文])</ref>
今日「ホメーロス問題」と呼ばれているものは、{{訳語疑問点範囲|オービニャック師|date=2010年4月|l'abbé d'Aubignac|cand_prefix=原文}}<!-- フランソワ・エデラン -->の許で生まれたもののようである<ref name="ParXII">Parry, p. XII.</ref>。彼は同時代人たちのホメーロスへの畏敬に逆行し、1670年頃に『学術的推測』を書き、そこでホメーロスの作品を批判するだけでなく、詩人の存在そのものにも疑問を投げかけた。オービニャックにとって、『イーリアス』と『オデュッセイア』は昔の[[ラプソドス]]たちのテクストの集積にしか過ぎなかった<ref name="ParXII" />
[[フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ]]は著書『ホメーロスへの序論』(1795)において、ホメーロスが文盲であったという仮説を初めて導入した。ヴォルフによれば、詩人はこの2つの作品を紀元前950年頃の、ギリシア人がまだ筆記を知らなかった時代に作ったのである。原始的な形の歌であったものは口承によって伝達され、その過程で進化・発展を遂げ、それは紀元前6世紀のペイシストラトスの校訂によって固定されるまで続いた<ref>Parry, p. XIV-XV.</ref>。ここから2つの派閥が生まれた――{{訳語疑問点範囲|「統一主義者」と「分析主義者」|date=2010年4月|es ''unitaristes'' et les ''analystes''|cand_prefix=原文}}である。
「統一主義者」はこれとは逆に、非常に長い(『イーリアス』が15,337行、『オデュッセイア』が12,109行)詩であるにもかかわらず見られる構成と文体の統一性を強調し、作者ホメーロスがその時代に存在していたさまざまな素材から我々が今日知っている詩を構成したのだという説を擁護した{{要出典|date=2010年4月}}<!-- シャーデヴァルト? -->。2つの詩の間の差異は、作者の若い時と歳を取った時とでの変化や、ホメーロス自身とその後継者との間の違いによって説明される。
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[[Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 013.jpg|thumb|right|[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653年、[[メトロポリタン美術館]]蔵)]]
[[ペイシストラトス]]は、紀元前6世紀に最初の{{訳語疑問点範囲|公的な蔵書|date=2010年4月|bliothèque publique. |cand_prefix=原文}}を創設した。[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]は、[[アテナイ]]の[[僭主]](ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した<ref>''De oratore'', III, 40.</ref>。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対した[[ソロン]]のような学者たちも、この仕事に参加した。[[プラトン]]のものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子{{仮リンク|ヒッパルコス (僭主)|fr|Hipparque (tyran)|label=ヒッパルコス}}は
ホメーロスのテクストは[[羊皮紙]]もしくは[[パピルス]]の巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。[[エジプト]]で発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「{{訳語疑問点範囲|ソルボンヌ目録255|date=2010年4月|Sorbonne inv. 255|cand_prefix=原文}}」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した――
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*歌の分割は、(1つの巻物に1歌という)実用的な必要性とは対応していない。
最初にホメーロスのテクストの校訂版を作成したのは、[[アレクサンドリア]]の文法家たちだった。[[アレクサンドリア図書館]]の最初の司書であった{{仮リンク|ゼーノドトス|fr|Zénodote}}が作業に着手し、後継の{{仮リンク|ビュザンティオンのアリストパネース|fr|Aristophane de Byzance}}がテクストの句読法を確立した。アリストパネースを引き継いだ
=== ビュザンティオンから印刷所まで ===
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== ホメーロス言語 ==
[[Image:
{{仮リンク|ホメーロス言語|fr|langue homérique|label=ホメーロスの言語}}は叙事詩で用いられた言語であり、紀元前8世紀には既に古風なもので、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。ただし、固定が行われる前に、古風な表現の一部は置き換えられ、テクストには{{仮リンク|アッティカ語法|fr|atticisme}}<!-- アッティカ方言(attique)ではない -->も入り込んだ。
長短短六歩格の[[韻律 (韻文)|韻律]]は、当初の形を復元できる場合があり<!--脱落した部分を韻律から推定できたりという話-->、またある種の言い回しが行われる理由も説明できることがある。この例として、紀元前1千年紀のうちに消滅した[[音素]]である[[ディガンマ]]({{lang|grc|Ϝ}} /w/)が、ホメーロスにおいては依然として韻律上の問題の解消のために表記も発音もされないながらも用いられたことがある。例えば『イーリアス』の第1歌108行は<ref group="注釈">ディガンマがなければ[[ヒアートゥス]]となる。</ref>――
{{Cquote|1={{lang|grc|ἐσθλὸν δ’ οὔτέ τί πω [Ϝ]εἶπες [Ϝ]έπος οὔτ’ ἐτέλεσσας}}<br />
(汝、好事を口にせず、はた又之を行はず。〔[
古風な{{lang|grc|-οιο}}とより新しい<!-- moderne -->{{lang|grc|-ου}}の2種の[[属格]]や、また2種の複数[[与格]]({{lang|grc|-οισι}}と{{lang|grc|-οις}})が競合して用いられることは、アオイドスが自分の意向で古風・新風の活用形を切り替えられたことを示している――「ホメーロス言語は、通常は決して同時に用いられることのなかった様々な時代の形式の混淆物であり、これらの組み合わせは純粋に文学的な自由さに属するものであった。」({{仮リンク|ジャクリーヌ・ド・ロミリ|fr|Jacqueline de Romilly}})
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アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌ふ、
さながら之を見し如く、或は他より聞く如く。</poem>|4=『[[オデュッセイア]]』第8歌489-491 [
<!-- 仏語版Argien(アルゴスの)となっているがアカイアの誤りか
λίην γὰρ κατὰ κόσμον Ἀχαιῶν οἶτον ἀείδεις,
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-->
19世紀に、[[ハインリ
この文明に関する諸々の発見(とりわけ[[線文字B]]の解読)により、この説は急速に疑問視されるようになった。アカイアの社会は、戦士たちによる国体なき貴族政治というよりも[[メソポタミア文明]]に近い、行政・官僚支配によるものだった。{{仮リンク|ジャクリーヌ・ド・ロミリ|fr|Jacqueline de Romilly}}はこう説明している――「最近発見された諸文書と、詩に書かれた内容との間には、『[[ローランの歌]]』と、ローランの時代の公正証書との間にあるのと変わらぬぐらいの繋がりしかない。」<ref>Jacqueline de Romilly, ''Homère'', 1999.</ref>
{{Cquote|1=吟遊詩人たちの懐古趣味的な意志が部分的には成功を収めたかのようである。ミケーネ社会の記憶はほぼ全て失われてしまっていたにせよ、吟遊詩人たちは、暗黒時代の(終わり頃よりも)始め頃をある程度は正確に描くために自分たちの時代より遅れたままに留まっていた――片やミケーネの残滓、片や同時代の表現という時代錯誤の断片を常に残存させて。}}
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[[チャリオット|戦車]](二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている――英雄たちは戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。詩人はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず(戦車対戦車で、投げ槍を用いていた)、同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのである。
物語は[[青銅器時代]]のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている<ref>''Odyssée'' (IX, 390–395).</ref>。
こうした異なった時代から発している慣習の存在は、ホメーロス言語と同様に、ホメーロス世界もそれ自体としては存在しなかったことを示している。[[オデュッセイア]]の旅程の地理関係もそうであるように、これは混淆による詩的な世界を表している。
== 後世の芸術作品への影響 ==
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[[Image:Relief Homer cour Carree Louvre.jpg|thumb|180px|アントワーヌ=ドニ・ショーデ『ホメーロス』(1806)]]
ホメーロスが実在したか、あるいは1つの人格であるのかといった問題はさておき、ホメーロスが古代ギリシアにとって、最初の最も高名な詩人であり、古代ギリシアは文化と教養の多くを彼に負っていると言っても誇張ではない。また「西洋文学の父」として、古代ギリシアの古典期、ヘレニズム時代、[[ローマ時代]]、(西欧でギリシア語の知識が部分的に失われた中世は除く。この時代、ホメーロスの文学は[[ギリシア人]]が支配階層となった[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)に受け継がれ、東ローマの[[官僚]]・[[知識人]]の間ではホメーロスの詩を暗誦できるのが常識とされていた<ref>{{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|title=生き残った帝国ビザンティン|publisher=[[講談社学術文庫]]|year=2008}}p152-153</ref>)、[[ルネサンス]]から現代に至るまで、ホメーロスは西洋文学において論じられている。
'''文学'''
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'''彫刻'''
*
*{{仮リンク|フィリップ=ローラン・ロラン|fr|Philippe-Laurent Roland}}『ホメーロス』(1812)
{{-}}
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
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*Pierre Carlier, ''Homère'', Fayard, 1999.
*Jacqueline de Romilly, ''Homère'', PUF, coll. « Que sais-je ? » n° 2218, 1999 (4<sup>e</sup> édition).
**
*Monique Trédé-Boulmer, ''La Littérature grecque d'Homère à Aristote'', PUF, coll. « Que sais-je ? » n° 227, 1992 (2<sup>e</sup> éd.).
=== ホメーロス世界 ===
*『古代ホメロス論集』 [[内田次信]]訳、[[京都大学学術出版会]]〈[[西洋古典叢書]]〉、2013年。[[プルタルコス]]ほか
*クイントス・スミュルナイオス 『ホメロス後日譚』 北見紀子訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2018年
*『ホメロス外典/叙事詩逸文集』 [[中務哲郎]]訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2020年
*« La Méditerranée d'Homère. De la guerre de Troie au retour d'Ulysse », ''Les collections de L'Histoire'', n° 24, juillet-septembre 2004.
*Moses Finley, ''Le monde d'Ulysse'', Maspéro, 1969.
**[[モーゼス・フィンリー]] 『オデュッセウスの世界』 下田立行訳、[[岩波文庫]]、1994年
*Pierre Vidal-Naquet, ''Le monde d'Homère'', Perrin, 2000.
*[[藤縄謙三]]
=== 作品解釈===
*[[久保正彰 (西洋古典文学者)|久保正彰]] 『オデュッセイア 伝説と叙事詩』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1983年
*[[川島重成]] 『イーリアス ギリシア英雄叙事詩の世界』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1991年/新版・岩波人文書セレクション、2014年
*ルチャーノ・デ・クレシェンツォ 『『オデュッセイア』を楽しく読む』 草皆伸子訳、[[白水社]]、1998年
*西村賀子 『ホメロス『オデュッセイア』 〈戦争〉を後にした英雄の歌』 岩波書店〈書物誕生・あたらしい古典入門〉、2012年
*安達正 『ホメロス英雄叙事詩とトロイア戦争 『イリアス』と『オデュッセイア』を読む』 [[彩流社]]、2012年
*[[吉田敦彦]] 『オデュッセウスの冒険』 [[青土社]]、2009年
=== 専門的研究 ===
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*Jacqueline de Romilly, ''Les Perspectives actuelles de l'épopée homérique'', PUF, coll. « Essais et conférences », 1983 (cours professé au [[:fr:Collège de France|Collège de France]]).
*エリック・ハヴロック
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Homer}}
{{Wikisourcelang|el|Όμηρος}}
{{Wikisource author|
{{Wikiquote|ホメロス}}
<!--{{ウィキポータルリンクS|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}-->
*[[ギリシア神話]]
*[[ハインリヒ・シュリーマン]]
*[[古代ギリシア]]
*[[ギリシア文学]]
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*[[ウェルギリウス]]
*[[ビザンティン文化]]
*[[ヘレン・ケラー]] - 自伝''The Story of My Life''で、書斎の壁にホメロスのレリーフ像を飾っていると記している。
== 外部リンク ==
*{{青空文庫著作者|
*{{青空文庫著作者|
*[http://expositions.bnf.fr/homere/ バーチャル展示「オデュッセウスの行跡で辿るホメーロス」] {{fr icon}} - [[
*[http://www.u-grenoble3.fr/homerica/ Homerica, ホメーロス研究センター] {{fr icon}} - [http://www.u-grenoble3.fr/stendhal/ スタンダール大学] (Grenoble-III).
*[http://homere.iliadeodyssee.free.fr/traducteur/accueilinterprete/traducteurinterprete.htm 『イーリアス』と『オデュッセイア』のフランス語への翻訳者とイラストレーターの一覧] {{fr icon}} - 全てに書誌に関する紹介文付き
* {{Kotobank|ホメロス}}
{{Normdaten
{{DEFAULTSORT:ほめえろす}}
[[Category:ホメーロス|*]]
[[Category:紀元前8世紀の詩人]]
[[Category:古代ギリシアの詩人]]
[[Category:視覚障害を持つ人物]]
[[Category:神話・伝説の人物]]
[[Category:
[[Category:生没年不詳]]
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