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|image = Homeros Glyptothek Munich 273.jpg
|image_size = 200px
|caption = {{small|「[[エピメニデス]]型」のホメーロスの肖像<br/>紀元前5世紀ギリシアのオリジナルからのローマの複製<br/>[[グリュプトテーク]]}}
|birth_date = [[紀元前8世紀]]?
|birth_place =
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}}
 
'''ホメーロス'''({{lang-翻字併記|grc|Ὅμηρος|Hómēros|n|区=、}}、{{lang-la-short|Homerus}}、{{lang-en-short|Homer}} ラテン文字表記:''Hómêros'')は、[[紀元前8世紀]]末の[[アオイドス]]([[吟遊詩人]])であったとされる人物を指す。'''ホメロス'''とも表記され、あが、古いは現ギリシアの発音では「ホメー'''オミロス」の方がより正確'''なる。西洋[[文学]]最初期の2つの作品、『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』の作者と考えられている。「ホメーロス」という語は「人質」、もしくは「付き従うことを義務付けられた者」を意味する<ref>{{Cite book |author= |last=Chantraine |first=Pierre |year=1999 |title=Dictionnaire étymologique de la langue grecque, vol.II |publisher=Klincksieck |location=Paris |language=フランス語|volume=II <!-- 和書でないと出ないらしい --> |pages=797 |isbn=2-252-03277-4 }} </ref>。現在のギリシアでは''オミロス''と発音されている。古代人はホメーロスを「[[詩人]]」({{lang翻字併記|grc|ὁ Ποιητής}} ラテン表記:|''ho Poiêtếs''|N|区=、}})というシンプルな異名で呼んでいた。
 
<!-- == 概要 == :概要節を作るかは好みの問題なのでどちらでも。cf.[[WP:LS#概要文]] -->
今日でもなお、ホメーロスが実在したのかそれとも作り上げられた人物だったのか、また本当に2つの叙事詩の作者であったのかを断ずるのは難しい。それでも、[[イオニア]]の多くの都市([[キオス県|キオス]]、[[イズミル|スミルナ]]、{{仮リンク|[[コロポーン|fr|Colophon (ville)}}]]など)がこのアオイドスの出身地の座を争っており、また伝承ではしばしばホメーロスは[[盲目]]であったとされ、人格的な個性が与えられている。しかし、彼が実在の人物であったとしても生きていた時代はいつごろなのかも定まっていない。もっとも信じられている伝説では紀元前8世紀とされている。また、その出生についても、[[女神]][[カリオペー]]の子であるという説や私生児であったという説などがありはっきりしない。さらに、かれは、[[キュクラデス諸島]]の[[イオス島]]で没したと伝承されている<ref>フランソワ・トレモリエール、トリーヌ・リシ編、樺山紘一監修『図説 世界史人物百科』Ⅰ古代ー中世 原書房 2004年 29ページ</ref>。
 
当時の[[叙事詩]]というジャンルを1人で代表するホメーロスが古代ギリシア文学に占める位置は極めて大きい。紀元前6世紀以降、『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』はホメーロスの作品と考えられるようになり、また叙事詩のパロディである『[[蛙鼠合戦]]』や、[[ホメーロス風讃歌|ホメーロス讃歌]]の作者とも見做されるようになった。主に[[ギリシア語イオニア方言|イオニア方言]]などからなる混成的な{{仮リンク|ホメーロス言語|fr|langue homérique|label=ホメーロスの言語}}は紀元前8世紀には既に古風なものであり、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。両叙事詩は{{仮リンク|長短短六歩格|fr|hexamètre dactylique}}([[ダクティル (詩)|ダクテュロス]]の[[ヘクサメトロス]])で歌われており、ホメーロス言語はこの[[韻律 (韻文)|韻律]]と密接に結び付いている。<!--両叙事詩の間に大きな言語的・文芸的な区別は存在しない。-->
 
古代において、ホメーロスの作品に与えられていた史料としての価値は、今日では極めて低いものと見做されている。このことは同時に、西洋において[[叙事詩]]というジャンルを確立した文学的創造、[[詩]]としての価値をさらに高めた。
 
== 伝記 ==
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[[Image:William-Adolphe Bouguereau (1825-1905) - Homer and his Guide (1874).jpg|thumb|right|upright|[[ウィリアム・アドルフ・ブグロー]]『ホメーロスと案内人』(1874)]]
 
伝承ホメーロスは、盲目であったとしている。まず第一に、『[[オデュッセイア]]』で[[トロイア戦争]]を歌うために登場する[[アオイドス]]の[[デーモドコス]]が盲目である――[[ムーサ]]はデーモドコスから「目を取り去ったが、甘美な歌を与えた」<ref>『オデュッセイア』VIII, 63-64.</ref>。それから第二に、『[[ホメーロス風讃歌|ホメーロス讃歌]]』の[[デロス島]]の[[アポローン]]讃歌の作者が自分自身について「石ころだらけの[[キオス県|キオス]]に住む盲人」<ref group="注釈">« {{lang|grc|τυφλὸς ἀνήρ, οἰκεῖ δὲ Χίῳ ἔνι παιπαλοέσσῃ}} », vers 172. 讃歌は紀元前7世紀中葉から紀元前6世紀初頭の間に作られたものである。</ref>と語っている。この一節は[[トゥキディデス]]が、ホメーロスが自分自身について語った部分として引用している<ref>『[[戦史 (トゥキディデス)|戦史]]』 III, 104.</ref>。
 
[[目の見えない音楽家|盲目の吟遊詩人]]」というイメージはギリシア文学の紋切り型であった。{{仮リンク|[[ディオン・クリュソストモス|en|Dio Chrysostom}}]]の弁論の登場人物の一人は「これらの詩人たちは全て盲目であり、彼らは盲目であることなしに詩人となることは不可能だと信じていた」と指摘した。ディオンは詩人たちがこの特殊性を一種の眼病のようにして伝えていったと答えている<ref>Dion Chrysostome, ''Discours'', XXXVI, 10-11.</ref>。事実、抒情詩人ロクリスのクセノクリトスは生まれつき盲目だったとされている<ref>''FHG'' II, 221.</ref>。{{仮リンク|エレトリアのアカイオス|fr|Achaïos d'Érétrie}}は、ムーサイの象徴である蜜蜂に刺されて盲目となった<ref>Snell, ''TrGF'' I 20 Achaeus I, T 3a+b.</ref>。[[ステシコロス]]は[[スパルタ]]ヘレネー|[[ヘレネー]]を貶したために視力を失った<ref>Platon, ''Phèdre'', 243a.</ref>。[[デモクリトス]]はより良く見るために自ら失明した<ref>Diels, II, 88-89.</ref>。
 
全ての詩人が盲目だったわけではないが、盲目は頻繁に詩と結び付けられる。マーチン・P・ニルソンは、[[スラヴ]]の一部地域では、吟遊詩人は儀礼的に「盲目」として扱われていると指摘している<ref>M. P. Nilsson, ''Homer and Mycenæ'', Londres, 1933 p.201.</ref>――[[アリストテレス]]が既に主張していたように<ref>Aristote, ''Éthique à Eudème'', 1248b.</ref>、視力の喪失は記憶力を高めると考えられる。加えて、ギリシアでは非常に頻繁に、盲目と予知能力を結び付けて考えた。[[テイレシアース]]、メッセネの{{訳語疑問点範囲|オピオネー|date=2010年4月|Ophionée|cand_prefix=原文}}、アポロニアの{{訳語疑問点範囲|エヴェニオス|date=2010年4月|nios|cand_prefix=原文}}、 [[ピネハス]]といった予言者たちは皆盲目であった。より散文的には、アオイドスは古代ギリシアのような社会で盲人が就けた数少ない職業の1つだった<ref>R. G. A. Buxton, « Blindness and Limits: Sophokles and the Logic of Myth », ''JHS'' 100 (1980), p.29 [22-37.</ref>。
 
[[イオニア]]の多くの都市([[キオス県|キオス]]、[[イズミル|スミルナ]]、{{仮リンク|[[コロポーン|fr|Colophon (ville)}}]]など)がホメーロスの出身地の座を争っている。『デロス島のアポローン讃歌』ではキオスに言及しており、[[シモーニデース]]は<ref>Simonide, frag.&nbsp;19 W² = [[:fr:Jean de Stobée|Stobée]], ''Florilège'', s.v. {{lang|grc|Σιμωνίδου}}.</ref>『イーリアス』の最も有名な詩行の1つ「人の生まれなどというのは木の葉の生まれと同じようなもの」<ref>イーリアス(VI, 146).</ref>を「キオスの男」のものであるとしており、この詩行は古典時代の諺ともなった。[[ルキアノス]](120-180頃)は、ホメーロスを人質としてギリシアへ送られた[[バビロン]]人だとした({{lang|grc|ὅμηρος}}は「人質」を意味する)<ref>Lucien, ''Histoire vraie'' (II, 20).</ref>。128年に、[[ハドリアヌス]]帝にこの件を問われた[[デルポイ]]の神託は、ホメーロスは[[イタキ島|イタケー]]の生まれで[[テーレマコス]]と{{仮リンク|[[ポリュカステー|fr|Polycaste}}]]の息子であると答えた<ref>『{{仮リンク|[[ギリシア詞華集|fr|Anthologie grecque|label=パラチヌス詞華集}}]]』(XIV, 102).</ref>。碩学の哲学者{{仮リンク|[[プロクロス|fr|Proclos}}]](412-485)は著書『ホメーロスの生涯』において、ホメーロスはなによりもまず「世界市民」であったと、この論争を結論づけた。
 
実際のところ、ホメーロスの生涯については分かっていない。8つの古代の伝記が伝わっており、これらは誤って[[プルタルコス]]と[[ヘロドトス]]の作とされている。これは恐らくギリシアの伝記作者の「空白恐怖」によって説明されうる<ref>Kirk, p.1.</ref>。これらの伝記のうち最も古いものは[[ヘレニズム]]時代に遡り、貴重だが信憑性に乏しい詳細に満ちており、そうした詳細のうちには古典時代からのものも含まれている。それらによるとホメーロスは[[イズミル|スミルナ]]で生まれ、キオスに暮らし、[[キクラデス諸島]]の[[イオス島]]で死んだことになる。本名はメレシゲネス――父はメレス川の神、母は[[ニュンペー]]のクレテイスであった<ref group="注釈">『{{仮リンク|ハルポクラチオン|en|Harpocration}}』によれば、メレスとクレテイスの物語は紀元前5世紀には既に{{仮リンク|[[ヘラニコス|en|Hellanicos}}]]が疑問視していた<!--discuté-->という。{{仮リンク|[[フィロストラトス|en|Philostratus}}]]の『{{訳語疑問点範囲|映像|date=2010年4月|Images|cand_prefix=原文}}』にもこの話が現れる。([http://remacle.org/bloodwolf/erudits/philostrate/images.htm 『Images』のフランス語訳])</ref>。また同時に、ホメーロスは[[オルペウス]]の子孫、従弟、もしくは単なる同時代の音楽家であったという。
 
=== ホメーロスは歴史上の人物か? ===
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『[[イーリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』は紀元前6世紀以降、ホメーロスの作品とされている。これら二大英雄叙事詩の他に、『キュプリア』『アイティオピス』『小イーリアス』『イーリオスの陥落』『帰国物語』『テーレゴニアー』が伝統的にホメーロス作と見なされてきた。『イーリアス』のパロディである喜劇的叙事詩『[[蛙鼠合戦]]』や、『[[ホメーロス風讃歌|ホメーロス讃歌]]』と呼ばれる叙事的な神々への讃歌33編の作者ともされているが、明らかにホメーロスの作品ではない。
 
さらに、古代においては、[[ヘーシオドス]]があらゆる形の教育的な詩の代名詞となっていたのと同様に、ホメーロスの名は事実上全ての叙事的な詩の代名詞となっていた。よって、ホメーロスの名は[[叙事詩環]]の叙事詩の題名にしばしば結び付けられた。[[アルキロコス|パロスのアルキロコス]]はホメーロスが喜劇的作品『[[マルギーテース]]』を書いたと考えた。[[ヘロドトス]]は、「ホメーロスの詩」が[[アルゴス (ギリシャ)|アルゴス]]への言及のために{{仮リンク|シキュオン|fr|Sicyone}}の{{仮リンク|[[シキュオンのクレイステネス|fr|Clisthène (Sicyone)}}]] <!-- [[クレイステネス]]の祖父。リンク注意 -->によって追放されたと伝えている<ref>『[[歴史 (ヘロドトス)|歴史]]』(V, 3767)</ref> ――このことは[[テーバイ圏]]もまたホメーロスのものと考えられていたことを推測させる。ヘロドトス自身もまた『[[エピゴノイ]]』<ref name="Hérodote IV, 32">Hérodote (IV, 32).</ref>と『[[キュプリア]]』<ref name="Hérodote IV, 32"/>の作者がホメーロスであるかには疑問を呈している。『{{仮リンク|オイカリアーの陥落|fr|Prise d'Œchalie}}』をホメーロスの作とする者もある。また、多くの古典期の作者たちが、『イーリアス』にも『オデュッセイア』にも出現しない詩行をホメーロスのものであるとして引用した――[[シモーニデース]]<ref>Simonide, frag. 564 PMG.</ref>、[[ピンダロス]]<ref>『ピティア祝勝歌』 (IV, 277-278).</ref>など。
 
『イーリアス』と『オデュッセイア』のみをホメーロスの作とするようになったのは[[プラトン]]と[[アリストテレス]]以降であるが、それでも16世紀になってなお、[[デジデリウス・エラスムス]]は『蛙鼠合戦』がホメーロスの作であると信じていた。
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{{main|ホメーロス問題}}
 
古代・中世の[[ギリシャ人|ギリシア人]]たちは、一部例外を除いて、『[[イリアス]]』と『[[オデュッセイア]]』がホメーロスの作である事を疑わなかったが、近代になり、異論が唱えられるようになった。例えば、ホメーロスがもし『イリアス』の作者なら『オデュッセイア』はそれより少し後代の別人、あるいは複数の詩人になるものではないかという推測である。ホメーロスについての情報がわずかであるため、その存在自体を疑う者もある。今日では、両詩の原型はホメーロス(と仮に呼ぶ)1人によって、それ以前の[[口承]]文学を引用しつつ創造されたという説が有力であるが、問題は未解決である。ホメーロスとは誰なのか、1人なのか複数なのか、両叙事詩の作者なのか、文字の助けを借りて創造したのか、何時なのか、何処でなのか、こういった諸問題を称して「'''[[ホメーロス問題]]'''」と呼ぶ。
 
この疑問は[[古代]]にまで遡る――[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|セネカ]]によれば、「オデュッセイアの<!--船の-->漕手が何人だったか、『イーリアス』は『オデュッセイア』より前に書かれたのか、これら2つの詩は同じ作者なのかといったことを知りたがるのはギリシア人の病気であった。」<ref>[[ルキウス・アンナエウス・セネカ|Sénèque]], ''De la brièveté de la vie'' (XIII, 2).([http://www.ac-nice.fr/philo/textes/Seneque-Brievete.htm 仏訳原文])</ref>
 
今日「ホメーロス問題」と呼ばれているものは、{{訳語疑問点範囲|オービニャック師|date=2010年4月|l'abbé d'Aubignac|cand_prefix=原文}}<!-- フランソワ・エデラン -->の許で生まれたもののようである<ref name="ParXII">Parry, p. XII.</ref>。彼は同時代人たちのホメーロスへの畏敬に逆行し、1670年頃に『学術的推測』を書き、そこでホメーロスの作品を批判するだけでなく、詩人の存在そのものにも疑問を投げかけた。オービニャックにとって、『イーリアス』と『オデュッセイア』は昔の[[ラプソドス]]たちのテクストの集積にしか過ぎなかった<ref name="ParXII" />.。これとほぼ同時代に、{{仮リンク|リチャード・ベントレー|en|Richard Bentley}}は著書『思考の自由論に関する考察』の一節で、ホメーロスは存在はしたかもしれないが、ずっと後になって叙事詩の形にまとめられた歌やラプソディアの作者であったに過ぎないと判断した。[[ジャンバッティスタ・ヴィーコ]]もまたホメーロスは決して実在せず、『イーリアス』と『オデュッセイア』は文字通りギリシアの人々全体による作品であると考えた<ref>Parry, p.&nbsp;XIII.</ref>。
 
[[フリードリヒ・アウグスト・ヴォルフ]]は著書『ホメーロスへの序論』(1795)において、ホメーロスが文盲であったという仮説を初めて導入した。ヴォルフによれば、詩人はこの2つの作品を紀元前950年頃の、ギリシア人がまだ筆記を知らなかった時代に作ったのである。原始的な形の歌であったものは口承によって伝達され、その過程で進化・発展を遂げ、それは紀元前6世紀のペイシストラトスの校訂によって固定されるまで続いた<ref>Parry, p.&nbsp;XIV-XV.</ref>。ここから2つの派閥が生まれた――{{訳語疑問点範囲|「統一主義者」と「分析主義者」|date=2010年4月|es ''unitaristes'' et les ''analystes''|cand_prefix=原文}}である。
 
{{仮リ[[カール・ラハマ|カール・ラッハマン|de|Karl Lachmann}}]]のような「分析主義者」は、ホメーロス自身によるもとの詩を後世の追加や{{仮リンク|挿入 (文献学)|fr|interpolation (philologie)|label=挿入}}などから分離しようと試み、テクストの不整合や構成の誤りを強調した。例えば、[[イリオス|トロイア]]の英雄[[ピュライメネース]]は第5歌で殺されるが<ref>『イーリアス』 (V, 576-579).</ref>、それより後の第8歌で再び登場する<ref>''Iliade'' (XIII, 658-659).</ref>。さらには[[アキレウス]]は第11歌で、帰らせたばかりの使者が来るのを待っている{{要出典|date=2010年4月}}。これはホメーロス言語にも当てはまり、これに関してだけ言うなら、ホメーロス言語は様々な方言(主にイオニア方言とアイオリス方言)や様々な時代の言い回しの寄せ集めからなっている。こうしたアプローチは、ホメーロスのテクストを確立したアレクサンドリア人たちに既にあったものである(後述)。
 
「統一主義者」はこれとは逆に、非常に長い(『イーリアス』が15,337行、『オデュッセイア』が12,109行)詩であるにもかかわらず見られる構成と文体の統一性を強調し、作者ホメーロスがその時代に存在していたさまざまな素材から我々が今日知っている詩を構成したのだという説を擁護した{{要出典|date=2010年4月}}<!-- シャーデヴァルト? -->。2つの詩の間の差異は、作者の若い時と歳を取った時とでの変化や、ホメーロス自身とその後継者との間の違いによって説明される。
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[[Image:Rembrandt Harmensz. van Rijn 013.jpg|thumb|right|[[レンブラント・ファン・レイン|レンブラント]]『ホメーロスの胸像を前にしたアリストテレス』(1653年、[[メトロポリタン美術館]]蔵)]]
 
[[ペイシストラトス]]は、紀元前6世紀に最初の{{訳語疑問点範囲|公的な蔵書|date=2010年4月|bliothèque publique. |cand_prefix=原文}}を創設した。[[マルクス・トゥッリウス・キケロ|キケロ]]は、[[アテナイ]]の[[僭主]](ペイシストラトス)の命令により、2つの叙事的な物語が初めて文字に書き起こされたと報告した<ref>''De oratore'', III, 40.</ref>。ペイシストラトスはアテナイを通過する歌手や吟遊詩人に対して、知る限りのホメーロスの作品をアテナイの筆記者のために朗唱することを義務付ける法を発布した。筆記者たちはそれぞれのバージョンを記録して1つにまとめ、それが今日『イーリアス』と『オデュッセイア』と呼ばれるものとなった。選挙運動の時にはペイシストラトスに反対した[[ソロン]]のような学者たちも、この仕事に参加した。[[プラトン]]のものとされる対話篇『ヒッパルコス』によれば、ペイシストラトスの息子{{仮リンク|ヒッパルコス (僭主)|fr|Hipparque (tyran)|label=ヒッパルコス}}は{{仮リンク[[パナテナイア祭|パンアテナイア|fr|Panathénées}}]]祭で毎年この写本を朗唱するように命じた。
 
ホメーロスのテクストは[[羊皮紙]]もしくは[[パピルス]]の巻物「ヴォルメン」("volume"の語源)に書かれ、読まれた。これらの巻物は、まとまった形では現存していない。[[エジプト]]で発見された唯一の断片群の中には紀元前3世紀に遡るものもある。その中の1つ、「{{訳語疑問点範囲|ソルボンヌ目録255|date=2010年4月|Sorbonne inv. 255|cand_prefix=原文}}」は、それまでの常識とは矛盾する以下のような事実を示した――
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*歌の分割は、(1つの巻物に1歌という)実用的な必要性とは対応していない。
 
最初にホメーロスのテクストの校訂版を作成したのは、[[アレクサンドリア]]の文法家たちだった。[[アレクサンドリア図書館]]の最初の司書であった{{仮リンク|ゼーノドトス|fr|Zénodote}}が作業に着手し、後継の{{仮リンク|ビュザンティオンのアリストパネース|fr|Aristophane de Byzance}}がテクストの句読法を確立した。アリストパネースを引き継いだ{{仮リンク|[[サモトラケのアリスタルコス|fr|Aristarque de Samothrace}}]]が『イーリアス』と『オデュッセイア』の注釈を書き、また[[ペイシストラトス]]の命により確立されたアッティカのテクストと、ヘレニズム時代になされた追加部分とを区別しようと試みた。
 
=== ビュザンティオンから印刷所まで ===
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== ホメーロス言語 ==
[[Image:Louvre2004 134 corHomer_by_Philippe-Laurent_Roland_(Louvre_2004_134_cor).jpg|thumb|leftupright=0.9|{{仮リンク|フィリップ=ローラン・ロラン|fr|Philippe-Laurent Roland}}『ホメーロス』(1812年、[[ルーヴル美術館]]蔵)]]
 
{{仮リンク|ホメーロス言語|fr|langue homérique|label=ホメーロスの言語}}は叙事詩で用いられた言語であり、紀元前8世紀には既に古風なもので、テクストが固定された紀元前6世紀にはなおのことそうであった。ただし、固定が行われる前に、古風な表現の一部は置き換えられ、テクストには{{仮リンク|アッティカ語法|fr|atticisme}}<!-- アッティカ方言(attique)ではない -->も入り込んだ。
 
長短短六歩格の[[韻律 (韻文)|韻律]]は、当初の形を復元できる場合があり<!--脱落した部分を韻律から推定できたりという話-->、またある種の言い回しが行われる理由も説明できることがある。この例として、紀元前1千年紀のうちに消滅した[[音素]]である[[ディガンマ]]({{lang|grc|Ϝ}} /w/)が、ホメーロスにおいては依然として韻律上の問題の解消のために表記も発音もされないながらも用いられたことがある。例えば『イーリアス』の第1歌108行は<ref group="注釈">ディガンマがなければ[[ヒアートゥス]]となる。</ref>――
 
{{Cquote|1={{lang|grc|ἐσθλὸν δ’ οὔτέ τί πω [Ϝ]εἶπες [Ϝ]έπος οὔτ’ ἐτέλεσσας}}<br />
(汝、好事を口にせず、はた又之を行はず。〔[httphttps://web.archive.org/web/20040920053517/http://www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/iliad/iliad-1.html 土井晩翠訳]〕)}}
 
古風な{{lang|grc|-οιο}}とより新しい<!-- moderne -->{{lang|grc|-ου}}の2種の[[属格]]や、また2種の複数[[与格]]({{lang|grc|-οισι}}と{{lang|grc|-οις}})が競合して用いられることは、アオイドスが自分の意向で古風・新風の活用形を切り替えられたことを示している――「ホメーロス言語は、通常は決して同時に用いられることのなかった様々な時代の形式の混淆物であり、これらの組み合わせは純粋に文学的な自由さに属するものであった。」({{仮リンク|ジャクリーヌ・ド・ロミリ|fr|Jacqueline de Romilly}})
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アカイア軍の運命とアカイア軍の行動と、
その成功と受難とをいみじく君は述べ歌ふ、
さながら之を見し如く、或は他より聞く如く。</poem>|4=『[[オデュッセイア]]』第8歌489-491 [httphttps://web.archive.org/web/20040623121704/www.sm.rim.or.jp/~osawa/AGG/odyssey/odyssey-8.html 土井晩翠訳]}}
<!-- 仏語版Argien(アルゴスの)となっているがアカイアの誤りか
λίην γὰρ κατὰ κόσμον Ἀχαιῶν οἶτον ἀείδεις,
138 ⟶ 140行目:
-->
 
19世紀に、[[ハインリヒ・シュリーマン]]が[[アナトリア半島|小アジア]]で発掘調査を実施したのも叙事詩に描かれた場所を再発見するためであった。シュリーマンがまず[[イリオス|トロイア]]と呼ばれる都市を、それから[[ミケーネ]]の諸都市を発見した時、これでホメーロスの物語の真実性が証明されたと考えられた。[[アガメムノーン]]の顔を象ったマスク、[[大アイアース]]の楯、[[ネストール]]の杯などが次々と発見されたと思われ、彼らもまた実在したと考えられた。アオイドスによって描かれた社会を[[ミケーネ文明]]と同一視したのである。
 
この文明に関する諸々の発見(とりわけ[[線文字B]]の解読)により、この説は急速に疑問視されるようになった。アカイアの社会は、戦士たちによる国体なき貴族政治というよりも[[メソポタミア文明]]に近い、行政・官僚支配によるものだった。{{仮リンク|ジャクリーヌ・ド・ロミリ|fr|Jacqueline de Romilly}}はこう説明している――「最近発見された諸文書と、詩に書かれた内容との間には、『[[ローランの歌]]』と、ローランの時代の公正証書との間にあるのと変わらぬぐらいの繋がりしかない。」<ref>Jacqueline de Romilly, ''Homère'', 1999.</ref>
 
{{仮リンク|[[モーゼズ・I・フィンリー|en|Moses I. Finley}}]]は『オデュッセイアの世界』(1969) において、描かれている社会は、多少の[[時代錯誤]]はあるにせよ、本当に存在したのだと断言した――ミケーネ文明と、紀元前8世紀の都市国家の時代との中間に位置する紀元前10-9世紀頃の「[[暗黒時代 (古代ギリシア)|暗黒時代]]」だったのである。フィンリーは「暗黒時代とホメーロスの詩」(『古代ギリシア』、1971年)でこう書いている――
 
{{Cquote|1=吟遊詩人たちの懐古趣味的な意志が部分的には成功を収めたかのようである。ミケーネ社会の記憶はほぼ全て失われてしまっていたにせよ、吟遊詩人たちは、暗黒時代の(終わり頃よりも)始め頃をある程度は正確に描くために自分たちの時代より遅れたままに留まっていた――片やミケーネの残滓、片や同時代の表現という時代錯誤の断片を常に残存させて。}}
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[[チャリオット|戦車]](二輪馬車)も、辻褄の合わない使われ方をしている――英雄たちは戦車に乗って出発し、飛び降りて足で立って戦っている。詩人はミケーネ人が戦車を使っていたことは知っていたが、当時の使用法は知らず(戦車対戦車で、投げ槍を用いていた)、同時代の馬の用法(戦場まで馬に乗って赴き、降りて立って戦闘していた)を当時の戦車に移し替えたのである。
 
物語は[[青銅器時代]]のただなかで進行しており、英雄たちの武具は実際に青銅でできていた。しかしホメーロスは英雄たちに「鉄の心臓」を与え、『オデュッセイア』では鍛冶場で焼きを入れられた鉄斧の立てる音のことを語っている<ref>''Odyssée'' (IX, 390–395).</ref>。
 
こうした異なった時代から発している慣習の存在は、ホメーロス言語と同様に、ホメーロス世界もそれ自体としては存在しなかったことを示している。[[オデュッセイア]]の旅程の地理関係もそうであるように、これは混淆による詩的な世界を表している。
 
== 後世の芸術作品への影響 ==
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[[Image:Relief Homer cour Carree Louvre.jpg|thumb|180px|アントワーヌ=ドニ・ショーデ『ホメーロス』(1806)]]
 
ホメーロスが実在したか、あるいは1つの人格であるのかといった問題はさておき、ホメーロスが古代ギリシアにとって、最初の最も高名な詩人であり、古代ギリシアは文化と教養の多くを彼に負っていると言っても誇張ではない。また「西洋文学の父」として、古代ギリシアの古典期、ヘレニズム時代、[[ローマ時代]]、(西欧でギリシア語の知識が部分的に失われた中世は除く。この時代、ホメーロスの文学は[[ギリシア人]]が支配階層となった[[東ローマ帝国]](ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)に受け継がれ、東ローマの[[官僚]]・[[知識人]]の間ではホメーロスの詩を暗誦できるのが常識とされていた<ref>{{Cite book|和書|author=井上浩一|authorlink=井上浩一 (歴史学者)|title=生き残っ帝国ビザンティン|publisher=[[講談社学術文庫]]|year=2008}}p152-153</ref>)、[[ルネサンス]]から現代に至るまで、ホメーロスは西洋文学において論じられている。
 
'''文学'''
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'''彫刻'''
*{{仮リンク|[[アントワーヌ=ドニ・ショーデ|fr|Antoine-Denis Chaudet}}]]『ホメーロス』(1806)
*{{仮リンク|フィリップ=ローラン・ロラン|fr|Philippe-Laurent Roland}}『ホメーロス』(1812)
 
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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*Pierre Carlier, ''Homère'', Fayard, 1999.
*Jacqueline de Romilly, ''Homère'', PUF, coll. « Que sais-je ? » n°&nbsp;2218, 1999 (4<sup>e</sup> édition).
**日本語訳:ジャクリーヌ・ド・ロミーイ  『ホメロス』  有田潤訳、[[白水社]]〈[[文庫クセジュ> [[白水社]]、2001年
*Monique Trédé-Boulmer, ''La Littérature grecque d'Homère à Aristote'', PUF, coll. « Que sais-je ? » n°&nbsp;227, 1992 (2<sup>e</sup> éd.).
 
=== ホメーロス世界 ===
*『古代ホメロス論集』 [[内田次信]]訳、[[京都大学学術出版会]]〈[[西洋古典叢書]]〉、2013年。[[プルタルコス]]ほか
*クイントス・スミュルナイオス 『ホメロス後日譚』 北見紀子訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2018年
*『ホメロス外典/叙事詩逸文集』 [[中務哲郎]]訳、京都大学学術出版会〈西洋古典叢書〉、2020年
*« La Méditerranée d'Homère. De la guerre de Troie au retour d'Ulysse », ''Les collections de L'Histoire'', n° 24, juillet-septembre 2004.
*Moses Finley, ''Le monde d'Ulysse'', Maspéro, 1969.
**[[モーゼス・フィンリー]] 『オデュッセウスの世界』 下田立行訳、[[岩波文庫]]、1994年
*Pierre Vidal-Naquet, ''Le monde d'Homère'', Perrin, 2000.
*[[藤縄謙三]]  『ホメロスの世界』  [[新潮選書]] 1996年魁星出版 2006年
 
=== 作品解釈===
*[[久保正彰 (西洋古典文学者)|久保正彰]] 『オデュッセイア 伝説と叙事詩』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1983年
*[[川島重成]] 『イーリアス ギリシア英雄叙事詩の世界』 岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1991年/新版・岩波人文書セレクション、2014年
*ルチャーノ・デ・クレシェンツォ 『『オデュッセイア』を楽しく読む』 草皆伸子訳、[[白水社]]、1998年
*西村賀子 『ホメロス『オデュッセイア』 〈戦争〉を後にした英雄の歌』 岩波書店〈書物誕生・あたらしい古典入門〉、2012年
*安達正 『ホメロス英雄叙事詩とトロイア戦争 『イリアス』と『オデュッセイア』を読む』 [[彩流社]]、2012年
*[[吉田敦彦]] 『オデュッセウスの冒険』 [[青土社]]、2009年
 
=== 専門的研究 ===
228 ⟶ 249行目:
*Jacqueline de Romilly, ''Les Perspectives actuelles de l'épopée homérique'', PUF, coll. « Essais et conférences », 1983 (cours professé au [[:fr:Collège de France|Collège de France]]).
 
=== ;その他 ===
*エリック・ハヴロック  『プラトン序説』  [[村岡晋一]]訳、[[新書館]]、1997年
 
== 関連項目 ==
{{Commonscat|Homer}}
{{Wikisourcelang|el|Όμηρος}}
{{Wikisource author|en:Author:Homer|英訳テクスト}}
{{Wikiquote|ホメロス}}
<!--{{ウィキポータルリンクS|文学|[[画像:Open book 01.svg|none|34px]]}}-->
*[[ギリシア神話]]
*[[ハインリヒ・シュリーマン]]
*[[古代ギリシア]]
*[[ギリシア文学]]
245 ⟶ 267行目:
*[[ウェルギリウス]]
*[[ビザンティン文化]]
*[[ヘレン・ケラー]] - 自伝''The Story of My Life''で、書斎の壁にホメロスのレリーフ像を飾っていると記している。
 
== 外部リンク ==
*{{青空文庫著作者|10991098|ホメロス}}
*{{青空文庫著作者|10981099|ホーマー}}
*[http://expositions.bnf.fr/homere/ バーチャル展示「オデュッセウスの行跡で辿るホメーロス」] {{fr icon}} - [[ビブリオテーク・ナショナル|フランス国立図書館]]
*[http://www.u-grenoble3.fr/homerica/ Homerica, ホメーロス研究センター] {{fr icon}} - [http://www.u-grenoble3.fr/stendhal/ スタンダール大学] (Grenoble-III).
*[http://homere.iliadeodyssee.free.fr/traducteur/accueilinterprete/traducteurinterprete.htm 『イーリアス』と『オデュッセイア』のフランス語への翻訳者とイラストレーターの一覧] {{fr icon}} - 全てに書誌に関する紹介文付き
* {{Kotobank|ホメロス}}
 
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[[Category:ホメーロス|*]]
[[Category:紀元前8世紀の詩人]]
[[Category:古代ギリシアの詩人]]
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[[Category:神話・伝説の人物]]
[[Category:ホメーロス|*正体不明の人物]]
[[Category:生没年不詳]]
 
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