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{{複数の問題
{{複数の問題|ソートキー=人1170年没|独自研究=2015年10月23日 (金) 03:36 (UTC)|出典の明記=2015年10月23日 (金) 03:36 (UTC)|正確性=2015年10月23日 (金) 03:36 (UTC)}}
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{{別人|x1=武将の|源為公}}
{{基礎情報 武士
| 氏名 = {{big|{{ruby-ja||みなもとの}} {{ruby-ja|為朝|ためとも}}}}
| 画像 = Minamoto英勇一百伝 Tametomo鎮西八郎為朝.jpg|thumb|200px
| 画像サイズ = 250px
| 画像説明 = 正一位為朝(菊池容斎・画、治時代)神肖像 東京都立図書館 歌川国芳
| 時代 = [[平安時代]]末期
| 生誕 = [[保延]]5年([[1139年]])
| 死没 = [[嘉応]]2年[[4月6日 (旧暦)|4月6日]]([[1170年]][[4月23日]])?)ごろ
| 改名 =
| 別名 = 鎮西八郎
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| 主君 =
| 氏族 = [[清和源氏]][[源為義|為義流]]([[河内源氏]])
| 父母 = 父:[[源為義]]、母:[[江口]]の[[遊女]]
| 兄弟 = [[源義朝|義朝]]、[[源義賢|義賢]]、[[源義広 (志田三郎先生)|義憲]]、[[源頼賢|頼賢]]、[[源頼仲|頼仲]]、[[源為宗|為宗]]<br>[[源為成|為成]]、'''為朝'''、[[源為仲|為仲]]、[[鳥居禅尼]]、[[源行家|行家]]、[[鳥居禅尼源維義|維義]]?[[源頼定(平安時代後期)|頼定]]?、[[源正親|正親]]?、仙覚、乙若、亀若、鶴若、天王、[[美濃局 (平安時代後期)|美濃局]]、[[佐々木秀義]]室、[[中村光隆]]室ら
| 妻 = [[平忠国]]女、[[阿多忠景]]?
| 子 = [[源義実|義実]]、[[源実信 (源為朝子)|実信]]、[[閉伊源為|為頼]][[閉伊頼基|頼基]]、[[源朝稚|朝稚]]([[源義包|義包]])、[[源為家|為家]]、(豊後冠者)<br>[[足助重長]]室、[[舜天]]([[琉球王尊敦]])?、[[実久三次郎]])??
}}
'''源 為朝'''(みなもと の ためとも、{{旧字体|'''爲朝󠄁'''}})は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[源為義]]の八男。母は[[摂津国]][[江口城|江口]](現・[[大阪市]][[東淀川]]区江口)の[[遊女]]。[[源頼朝]]、[[源義経|義経]]兄弟の[[おじ|叔父]]にあたる
 
『[[保元物語]]』によると、身長2mを超える巨体のうえ気性が荒く、また剛[[弓 (武器)|弓]]の使い手で、[[鎮西]]剛勇無双名目謳われた。生まれつき乱暴者で父の為義持てあまされ、[[九州]]に追放されたが手下を集めて暴れまわり一帯を制覇して'''鎮西八郎'''を称す名乗る。[[保元の乱]]では父・為義とともに[[崇徳天皇|崇徳上皇]]方に参加、強弓と特製の太矢で大奮戦するが敗れ、[[伊豆大島]]へ流される。しかしそこでも暴れて[[国司]]に従わず、大暴れして[[伊豆諸島]]を事実上支配したのでことから、追討を受け自害した。
'''源 為朝'''(みなもと の ためとも、旧字体:'''爲朝''')は、[[平安時代]]末期の[[武将]]。[[源為義]]の八男。母は[[摂津国]][[江口城|江口]](現・[[大阪市]][[東淀川]]区江口)の[[遊女]]。
 
== 生涯 ==
[[弓 (武器)|弓]]の名手で、[[鎮西]]を名目に[[九州]]で暴れ、'''鎮西八郎'''を称す。[[保元の乱]]では父・為義とともに[[崇徳天皇|崇徳上皇]]方に属して奮戦するが敗れ、[[伊豆大島]]へ流される。しかしそこでも暴れて[[国司]]に従わず、[[伊豆諸島]]を事実上支配したので、追討を受け自害した。
『[[愚管抄]]』には為朝が兄の[[源頼賢|頼賢]]とともに奮戦したとあり、『[[吾妻鏡]]』にも<!--[[建久]]2年8月1日の条にも-->戦場で射られた[[大庭景義]]が為朝のことを「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、当時から世に聞こえた剛の武者であったことは確かである。以下本項では、主に『[[保元物語]]』の記すところにしたがって為朝の生涯をたどる。
 
一方、[[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』や『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、『[[椿説弓張月]]』などでは、このとき追討を逃れて現在の[[沖縄県]]に渡り、その子が琉球王家の始祖[[舜天]]になったといわれる、伝説的な人物でもある。
 
==生涯 ==
『[[愚管抄]]』には為朝が兄の[[源頼賢|頼賢]]とともに奮戦したとあり、『[[吾妻鏡]]』にも<!--[[建久]]2年8月1日の条にも-->戦場で射られた[[大庭景義]]が為朝のことを「無双の弓矢の達者」だと言うくだりがあり、当時から世に聞こえた剛の武者であったことは確かである。
 
以下本項では『[[保元物語]]』の記すところにしたがって為朝の生涯をたどる。
 
=== 鎮西総追捕使 ===
為朝は身長七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だっ、ま強弓の使い手で、前に出して弓を支える左腕が、後で弦を引く右腕よりも4寸(12cm)も長かっいという、弓を引くために生まれたような体つきをしていた。勇猛で傍若無人、兄たちにも遠慮しなか傍若無人であった。
{{出典の明記|date=2015年10月23日 (金) 03:36 (UTC)|section=1}}
為朝は七尺ほど(2m10cm)の大男で、目の隅が切れあがった容貌魁偉な武者だった。強弓の使い手で、左腕が右腕よりも4寸(12cm)も長かった。勇猛で傍若無人、兄たちにも遠慮しなかった。
 
13歳の時、乱暴が過ぎて為義に勘当されて[[九州]]に追放されてしまう。[[尾張国|尾張]]権守家遠が後見となって[[豊後国]]に住んでいたが、[[肥後国]][[阿蘇郡]]の[[平忠国]]の婿となる([[薩摩国]][[阿多郡]]の誤りとの説もある、この場合、平忠国は[[薩摩平氏]]の[[阿多忠景|平忠景]])。その後、自ら'''鎮西総[[追捕使]]'''を称して暴れまわり、[[菊池氏]]、[[原田氏]]など九州の豪族たちと数十回の合戦や城攻めを繰り返し、3年のうちに九州を平らげてしまった。[[香椎宮]]の[[神人]]が為朝の狼藉を朝廷に訴え出たため、[[久寿]]元年([[1154年]])に出頭の[[宣旨]]が出されてしまう。為朝はこれに従わなかったが、翌久寿2年([[1155年]])に父が[[解官]]されてしまった。これを聞いて為朝は帰参することにし、九州の強者28騎を率いて[[上洛]]した。
 
=== 保元の乱 ===
翌[[保元]]元年([[1156年]])、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]が[[崩御]]すると、[[治天の君]]の座を巡って対立していた[[崇徳天皇|崇徳上皇]]と[[後白河天皇]]の衝突は避けられない情勢になっていた。双方が名だたる武士をそれぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義は上皇方の大将として招かれる。老齢を理由に再三これを辞したものの、遂には承諾させられ、為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇の御所[[白河北殿]]に参上した。一方、為義の嫡男で[[関東地方|関東]]を地盤としていた[[源義朝|義朝]]は多くの東国武士とともに天皇方へ参じた。
{{出典の明記|date=2015年10月23日 (金) 03:37 (UTC)|section=1}}
翌[[保元]]元年([[1156年]])、[[鳥羽天皇|鳥羽法皇]]が[[崩御]]すると、[[治天の君]]の座を巡って対立していた[[崇徳天皇|崇徳上皇]]と[[後白河天皇]]の衝突は避けられない情勢になっていた。双方が名だたる武士をそれぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義は上皇方の大将として招かれる。老齢を理由に再三これを辞したものの、遂には承諾させられ、為朝ら6人の子を引連れて崇徳上皇の御所[[白河北殿]]に参上した。一方、為義の嫡男で[[関東地方|関東]]を地盤としていた[[源義朝|義朝]]は多くの東国武士とともに天皇方へ参じた。
 
為朝は三尺五寸の太刀を差し、五人張りの強弓を持って西河原面の門を守った。[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]、軍議が開かれ、為朝は「九州で多くの合戦をしましたが夜討に勝るものはありません。ただちに高松殿(天皇方の本営)へ攻め寄せ、火を放てば容易に勝てましょう。兄の義朝が出てくれば私が射落としますし、[[平清盛|清盛]]なぞは敵にもなりません。逃げ出してくる主上の駕車の人夫を射散らして、主上をお連れすればよろしい」と夜討を献策するが、[[左大臣]]・[[藤原頼長]]は「乱暴なことを言うな。夜討などは武士同士の私戦ですることだ。主上と上皇の国を巡る戦いである。[[興福寺]]の[[僧兵]]の到着を待って決戦するべし」と退けてしまった。為朝は兄の義朝は必ず夜討をしかけてくるだろうと予見して口惜しがった。
 
その夜、為朝の予見通りに天皇方が白河北殿に夜討をかけてきた。為朝を宥めるために急ぎ[[除目]]を行い[[蔵人]]に任じるが、為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」と跳ね付けた。なお、『愚管抄』では夜襲を献策した人物を為朝ではなく父の為義としている
 
平清盛の軍勢が為朝の守る西門に攻めてきた。清盛の郎党[[伊藤景綱]]とその子[[藤原忠清|忠景(忠清)]]・[[伊藤忠直|忠直]]が名乗りをあげると為朝は「清盛ですら物足りないのに、お前らなぞ相手にならん、退け」と言う。景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放つ。為朝はものともせず「物足りない敵だが、今生の面目にせよ」と先が七寸五分(22センチ)もある、鑿に矢軸をつけたような太矢を射かけ、矢は忠直の体を貫き、後ろの忠清の鎧の袖に突き刺さった。忠清は矢を清盛のもとに持ち帰って報告し、清盛たちは驚愕して怖気づいてしまう。清盛は部署を変えて北門へ向かうが、嫡男の[[平重盛]]が口惜しいことだと挑もうとして清盛があわてて止めさせた。
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義朝は「勅命である、退散せよ」と大声をあげるが、為朝は「こちらは[[院宣]]をお受けしている」と言い返した。義朝は「兄に弓を引けば神仏の加護を失うぞ」と言うと、為朝は「では、父(為義)に弓を引くことはどうなのか」と言い返し、義朝は言葉に窮してしまった。再び乱戦になり、無勢の為朝はいったん門内に兵を引くが、義朝勢は追撃にかかる。義朝の姿を確認した為朝は射ようとするが、よもや父と兄とに密契があるかもしれんと思いとどまった。
 
接戦となると無勢の為朝は不利であり、大将の義朝を威嚇して退かせようと考えた。狙い誤らず、為朝の矢は義朝の兜の星を射削る。義朝は「聞きおよんでいたが、やはり乱暴な奴だ」と言うや、為朝は「お許しいただければ二の矢をお見舞いしましょう。どこぞなりと当てて見せます」と言って矢をつがえる。とっさに、[[深巣清国]]が間に割って入り、為朝はこれを射殺した。
 
[[大庭景義]]・[[大庭景親|景親]]の兄弟が挑みかかるが、為朝は試にと[[鏑矢]]を放ち、景義の左の膝を砕き、景親は落馬した兄を助け上げて逃げ帰った。後に[[源頼朝]]に仕えて[[御家人]]になった景義は酒宴でこの合戦について、為朝は無双の弓矢の達者だが、身の丈よりも大きい弓を使い馬上での扱いに慣れずに狙いを誤ったのだろうと語っている。
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為義は息子たちと共に東国での再挙を図るが、老体であり気弱になり、[[出家]]して降伏することに決めた。「義朝が勲功に代えても父や弟たちを助けるだろう」と為義は希望を持つが、為朝は反対してあくまでの東国へ落ちることを主張する。結局、為義は出頭して降伏する。しかし、為義は許されず、息子たちも捕えられ、勅命により義朝によって斬首されてしまった。
[[ファイル:Chinzei hachiro tametomo LCCN2008660450.jpg|サムネイル|石山の奥の浴場にて、捕らえに来た[[源重貞|佐渡重貞]]勢と奮戦する為朝。[[勝川春亭]]画。]]
為朝は逃亡を続け[[近江国]]坂田([[滋賀県]][[坂田郡]])の地に隠れた。病に罹り、湯治をしていたところ、密告があり湯屋で[[源重貞|佐渡重貞]]の手勢に囲まれ、真っ裸であり抵抗もできず捕えられた。京へ護送された時には、名高い勇者を一目見ようと群衆が集まり、天皇までが見物に行幸した。
 
既に戦後処理も一段落しており、為朝は武勇を惜しまれて助命され、[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]に肘を外し自慢の弓を射ることができないようにされてから[[伊豆大島]]に[[流刑]]となった。だが[[元木泰雄]]は、強弓を惜しまれて減刑されたという話はにわかには信じがたく、合戦直後の混乱と興奮の中で多くの死刑が執行されてから一月が経ち、朝廷も冷静な空気が高まり死刑に対する非難が強まったことが関係したのだろうと推測している<ref>元木泰雄『河内源氏 <small>頼朝を生んだ武士本流</small>』中公新書、2011年、P164.</ref>。
為朝は逃亡を続け[[近江国]]坂田([[滋賀県]][[坂田郡]])の地に隠れた。病に罹り、湯治をしていたところ、密告があり湯屋で[[佐渡重貞]]の手勢に囲まれ、真っ裸であり抵抗もできず捕えられた。京へ護送された時には、名高い勇者を一目見ようと群衆が集まり、天皇までが見物に行幸した。
 
=== 伊豆大島の流人 ===
[[File:Chinzei Hachiro Tametomo with Two Islanders on the Beach at Ashijima LACMA M.84.31.92.jpg|サムネイル|葦島の為朝。月岡芳年画]]
既に戦後処理も一段落しており、為朝は武勇を惜しまれて助命され、[[8月26日 (旧暦)|8月26日]]に肘を外し自慢の弓を射ることができないようにされてから[[伊豆大島]]に[[流刑]]となった。
[[ファイル:Chinzei Hachiro Tametomo and Oniyashi on a Beach LACMA M.84.31.244.jpg|サムネイル|大海の先に茂光率いる大軍の船を認めた為朝。芳年画]]
 
やがて、傷が癒えその強弓の技が戻ると再び暴れ始め、島の代官の[[三郎大夫忠重]]の婿となり[[伊豆諸島]]を従え[[年貢]]も出さなくなった。伊豆諸島を所領とする[[伊豆国|伊豆]][[介]]・[[工藤茂光]]を恐れた忠重は密かに年貢を納めるが、それを知った為朝は激怒し、忠重の左右の手の指を三本切ってしまう。
 
伊豆大島に流されてから10年後の[[永万]]元年([[1165年]])は[[鬼]]の子孫で大男ばかりが住む[[鬼ヶ島]]に渡り、島を[[蘆島]]と名づけ、大男をひとり連れ帰った。為朝はこの島を加えた[[伊豆七島]]を支配する。
 
嘉応2年(1170年)、工藤茂光は上洛して為朝の乱暴狼藉を訴え、討伐の院宣が下った。同年4月、茂光は[[伊東氏]]・[[北条氏]]・[[宇佐美氏]]ら500余騎、20艘で攻めよせた。
 
{{要出典範囲|為朝は抵抗しても無駄であろうと悟り、島で生まれた9歳になる我が子・[[源為頼|為頼]]を刺し殺した|date=2024年2月24日 (土) 23:15 (UTC)}}
自害しようと思うが、せめて一矢だけでもと思い、300人ほどが乗る軍船に向けて得意の強弓を射かけ、見事に命中し、船はたちまち沈んでしまった<ref>{{efn|古写本によっては、300人が乗る大船の記述はなく、「500余人にて'''百余艘'''に乗って」とあるため<ref>新 日本古典文学大系 『保元物語』 [[岩波書店]]</ref>、それほどの大船ではなく、300人を乗せた船というのは後代の加筆の(誇張された)線がある<!-- 現代語訳版の方が、娯楽性の高い写本を引用しているため -->。後述の「強弓による沈没」も、百余艘の記述に従った場合、舟の規模は小さかったことになり(1艘辺り6人前後)、誇張表現ではなくなる。</ref>}}
 
館に帰り、「保元の戦では矢ひとつで二人を殺し、嘉応の今は一矢で多くの者を殺したか」<ref>{{efn|『保元物語』原文「昔は矢一つにて鎧武者二人を射通しけり。今は舟を射て(舟底に穴をあけ沈没させて)多く人をぞ殺しけり」。</ref>}}とつぶやき、南無阿弥陀仏を唱えると柱を背に腹を切って[[自殺|自害]]した。歴史に残る最初の「切腹」とされている。享年32。追討軍は為朝を恐れてなかなか上陸しなかったが<ref>{{efn|『保元物語』の記述では、「空(から)自害ではと恐れ」、つまり自害したと見せかけているのではないかと半信半疑だったことが語られている。</ref>}}、[[加藤景廉]]が既に自害していると見極め薙刀をもって為朝の首をはねた。
 
没年は[[治承]]元年([[1177年]])ともいわれる<ref>『[[尊卑分脈]]』</ref>
 
伊豆大島では今でも為朝が親しまれており、為朝の碑も建てられている。島の女性と結婚して移り住んできた本土出身の男性を、為朝の剛勇ぶりにあやかって「ためともさん」と呼ぶのもその名残である。
 
== 為朝伝説 ==
{{雑多|section=1|date=2022年8月}}
[[Image:Yoshitoshi Driving away the Demons.jpg|thumb|200px|[[月岡芳年]]画「為朝の武威痘鬼神を退く図]]
 
[[File:啓蒙挿画日本外史 源為朝.jpg|thumb|200px|大槻東陽著『啓蒙挿画日本外史』明治35年発行「源為朝強弓ヲ挽テ官軍の艦ヲ覆へス」]]
 
[[File:源為朝公上陸之趾.JPG|thumb|200px|源為朝公上陸之趾。沖縄県[[今帰仁村]][[運天港]]の近くにある。{{ウィキ座標2段度分秒|26|40|57.2|N|128|0|13.3|E|region:JP}}]]真偽不明ながらもその豪勇から各地に為朝の伝説が残っている。
* 「[[屋形石]]」の地名は鎮西八郎源為朝が[[黒髪山 (佐賀県)|黒髪山]]の悪蛇を退治する際に蟇目の法を行ったところ、余りの強弓から矢が石に突き刺さったことから、その石にちなんでこの地を矢形石村とした、とある(松浦拾風土記)<ref name="日本伝説大系">永井博『徳川斉昭』山川出版社、101-112頁。</ref>。
* [[佐賀県]]の[[黒髪山 (佐賀県)|黒髪山]]に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「[[牛津町|牛津]]」と呼ばれるようになった。
* 為朝が幼少のころを過ごしたとされる大分市内には「為朝神社」があり、為朝が霊山(りょうぜん)の山頂から放った矢が突き刺さった石が、ご神体として祀られていた。現在の大分雄城台高校の敷地内にある。
* [[武蔵国]][[足立郡]][[宮内村]](現在の[[埼玉県]][[北本市]]宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、[[永正]]・[[大永]]の頃、[[後北条氏|小田原北条]]に属して[[武蔵国|武州]]に住し戦功ありて、[[永禄]]七年[[甲子]]の感状を賜う。その外 [[槍]]二筋を持ち伝えり。且その頃は[[鴻巣]]領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、[[北条時政]]にその旨を訴え、[[源頼朝]]により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、[[承元]]2年([[1208年]])に[[八丈島]]に弥陀寺を創建した(現在の[[宗福寺]])。太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。[[戦国大名]][[太田氏]]の家臣団・[[鴻巣七騎]]の1人大島大膳亮久家がおり、[[小田原征伐]]後帰農して今に連綿と系譜が続いている。<!--家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ)。-->
* [[上峰町|佐賀県上峰町]]に、鎮西山という山城のある山があり、為朝はそこを拠点とし、またその下にある屋形原(やかたばる)という地名の場所に住んでいたとも言われている。(「肥陽軍記」より)
* [[琉球王国]]の正史『[[中山世鑑]]』や公選の歌集である『[[おもろさうし]]』では、源為朝が[[琉球]]へ逃れ、その子が初代琉球王[[舜天]]になったとしている。来琉の真偽は不明だが、正史として扱われており、この話がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。[[日琉同祖論]]と関連づけて語られる事が多く、[[尚氏]]の権威付けのために創作された伝説とも考えられている。この[[伝承]]に基づき、[[大正]]11年([[1922年]])には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている<ref>なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達及び意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている(真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照。元の文は「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)。なお、最近の[[遺伝子]]の研究で、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、[[10世紀]]から[[12世紀]]頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞、2010年4月16日)するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。</ref>。
* [[上峰町|佐賀県上峰町]]の鎮西山には、五万ケ池(ごまがいけ)があり、その池の名前の由来は、為朝を攻めた敵の五万騎が為朝の弓の力でこの場所で討たれたことから、池の名前がついたと言われている。
* [[上峰町|佐賀県上峰町]]の鎮西山には鎮西八郎為朝の慢心を戒める逸話が残っている。九州下向依頼二十余度の戦に一度も不覚を取らなかった為朝は都までその名を轟かせており、妻にした縫姫とともに平和な日々を送っていた。ある日、屋形原(やかたばる)の鎮西城の高楼で宴が催された。宴たけなわになったころ、老兵の一人が為朝に、「弓の実力を戦場ではよく拝見するが今ここでもその腕をみてみたい」といったところ為朝は「さらば」と八人張りの強弓を四寸長い左手の腕を差し伸べ満月のごとく引きしぼり、老兵にむけて放つと、その老兵の後ろのかごの真ん中を見事に射貫いてみせた。どっとほめやかす声のやまぬうちに一同の驚きはその老兵にうつった。老兵は為朝の射た矢を振り向きざまに抜くや否やはるか遠くの鎮西城の城門めがけて投げ返すとその矢は表門の柱にぐさっとぬかって立ったという。これには為朝はじめ一同茫然自失で、それよりのち人々は、これは「天狗様が老人になって為朝の慢心を戒めたのだ」と言い伝えたという。
*[[朝倉市|福岡県朝倉]]地域には、源為朝の墓と伝承される石塔と為朝の愛馬の墓と伝承される石塔(馬塚)に加え、全国的にも珍しい源為朝の母の墓と伝承される石塔が存在している。これらは地元の[http://asakura.fku.ed.jp/html/ 朝倉高等学校]史学部による調査活動により明らかにされ、新聞などの各メディアでも報じられ話題となった。その活動内容の一部は高校HPやYouTubeにアップされている。
* [[佐賀県]]の[[黒髪山 (佐賀県)|黒髪山]]に為朝が角が7本ある大蛇を退治したという伝説([[黒髪山大蛇退治伝説]])が残っている。その際、退治した証として鱗を3枚剥がし牛に運ばせたが、鱗があまりに重すぎたため牛は疲れ果て死んでしまった。牛の死を悼んだ為朝は、その地に牛の死骸を埋め供養した。その場所は後の人により「[[牛津町|牛津]]」と呼ばれるようになった<ref name="日本伝説大系"/>
* 為朝は疱瘡([[天然痘]])が流行した時代にも病にかからなかったといわれ疱瘡に対する守り神とする伝承が数多くある<ref name="u-tokyo">[https://mhm.m.u-tokyo.ac.jp/pdf/MHM_Catalog10.pdf 見えざるウイルスの世界] 東京大学医学部・医学部附属病院 健康と医学の博物館(2021年8月22日閲覧)p.37</ref>。[[歌川国芳]]画「鎮西八郎為朝」の疱瘡絵では疱瘡神から病をり患させないよう手形を受け取る為朝の絵が描かれている<ref name="u-tokyo" />。このほか[[月岡芳年]]画「為朝の武威痘鬼神を退く図」(右図)などがある。
* [[武蔵国]][[足立郡]][[宮内村]](現在の[[埼玉県]][[北本市]]宮内)の大島氏は、新編風土記に「大膳亮久家なるものあり。本国伊豆を領して大島に住し、[[永正]]・[[大永]]のころ、[[後北条氏|小田原北条]]に属して[[武蔵国|武州]]に住し戦功ありて、[[永禄]]七年[[甲子]]の感状を賜う。その外 [[槍]]二筋を持ち伝えり。且その頃は[[鴻巣]]領宮内村に居住せり」とある。為朝の庶子の太郎丸と二郎丸の双子は、[[北条時政]]にその旨を訴え、[[源頼朝]]により太郎丸は大島の領主、二郎丸は八丈島の領主に任じられた。二郎丸は出家し、[[承元]]2年([[1208年]])に[[八丈島]]に弥陀寺を創建した(現在の[[宗福寺 (東京都八丈町)|宗福寺]])。太郎丸は元服をして大島太郎為家(のち為政と改名)したという。[[戦国大名]][[太田氏]]の家臣団・[[鴻巣七騎]]の1人大島大膳亮久家がおり、[[小田原征伐]]後帰農して今に連綿と系譜が続いている。<!--家紋は丸に剣片喰(けんかたばみ)。-->
* [[薩摩平氏]]一門の[[阿多忠景]](またはその子の[[阿多忠国]])は、1159年([[平治]]元年)に薩摩、大隅、日向の三国で専横したかどで追討の宣旨を受け、[[平清盛|清盛]]郎党[[平家貞]]に攻められ[[平治]]元年([[1159年]])に「硫黄島」([[鬼界ヶ島]]または貴海島)に流されたと伝わる。この阿多忠景(または忠国)の娘婿が為朝だったと言う伝記がある([[保元物語]])。
* [[琉球王国]]の[[正史]]『[[中山世鑑]]』や公選の歌集である『[[おもろさうし]]』、『[[鎮西琉球記]]』、学僧[[袋中]]の滞在記録『[[琉球神道記]]』『琉球往来』などでは、源為朝の渡来譚などの市井の伝承話が記されており、源為朝が[[琉球諸島|琉球]]へ逃れ、大里按司の娘と子をなし、その子が初代琉球王[[舜天]]になったとしている。来琉真偽は不明だが、正史として扱われており、こ記述がのちに[[曲亭馬琴]]の『[[椿説弓張月]]』を産んだ。[[日琉同祖論]]と関連づけて語られることが多く、[[尚氏]]の権威付けのために創作された伝説とも考えられて。この[[伝承]]に基づき、[[沖縄県]][[今帰仁村]]の[[運天港]]に[[大正]]11年([[1922年]])には為朝上陸の碑が建てられた。表側に「源為朝公上陸之趾」と刻まれており、その左斜め下にはこの碑を建てることに尽力した[[東郷平八郎]]の名が刻まれている<ref>{{efn|なお、『中山世鑑』を編纂した[[羽地朝秀]]は、摂政就任後の[[1673年]]3月の仕置書(令達および意見を記し置きした書)で、琉球の人々の祖先は、かつて日本から渡来してきたのであり、また有形無形の名詞はよく通じるが、話し言葉が日本と相違しているのは、遠国のため交通が長い間途絶えていたからであると語り、源為朝が王家の祖先だというだけでなく琉球の人々の祖先が日本からの渡来人であると述べている<ref>真境名安興『真境名安興全集』第一巻19頁参照</ref><ref group="注釈">元の文は「此国人生初は、日本より為<sub>レ</sub>渡儀疑無<sub>二</sub>御座<sub>一</sub>候。然れば末世の今に、天地山川五形五倫鳥獣草木の名に至る迄皆通達せり。雖<sub>レ</sub>然言葉の余相違は遠国の上久敷融通為<sub>レ</sub>絶故也」)。なお、最近の[[遺伝子]]の研究で、沖縄県民と九州以北の本土住民とは、同じ祖先を持つことが明らかになっている。[[高宮広士]][[札幌大学]]教授が、沖縄の島々に人間が適応できたのは縄文中期後半から後期以降である為、[[10世紀]]から[[12世紀]]頃に農耕をする人々が九州から沖縄に移住したと指摘(朝日新聞、2010年4月16日)するように、近年の[[考古学]]などの研究も含めて[[南西諸島]]の住民の先祖は、九州南部から比較的新しい時期(10世紀前後)に南下して定住したものが主体であると推測されている。</ref>。 }}。
* 運天の地で初確認されたハゼには、源為朝にあやかり「タメトモハゼ」という名がつけられた。命名者は[[黒岩恒]]。同様に「タメトモ」の名を冠する動植物にはタメトモマイマイ、タメトモヤスデ、[[サクユリ|タメトモユリ]]などがある。
* [[鎌倉時代]]に現在の[[岩手県]][[宮古市]]に本拠を置いた[[閉伊氏]]の資料には、源為朝の遺児といわれる閉伊為頼(大嶋為家・閉伊頼基・佐々木十郎行光とも)が源頼朝より[[陸奥国]][[閉伊郡]]・[[気仙郡]]を賜り、閉伊氏を称したとある。
* [[信濃国]][[伊那郡]]領主で[[江戸時代]]には[[交代寄合]]となった[[座光寺氏]]は、『[[寛政重修諸家譜]]』で為朝の後裔と称している。ただし、座光寺氏は[[諏訪氏]]の一族であると見られている。
* [[源義経]]は本当は八男だったが、源氏の勇者の一人にあたる為朝に遠慮して、八郎ではなく源"九郎"義経を名乗ったといわれる。
* 伊豆大島に流刑となっていた為朝が矢を射たところ海を超え、鎌倉の材木座海岸まで届き、矢が届いたところから水が湧き、[[井戸]]ができたという。この場所が、鎌倉市材木座と逗子市小坪の境に存する、鎌倉十井ひとつである「六角ノ井いわされる。六角ノ井の中段には、為朝が射た矢の鏃を収めた竹筒が祀られているといわれる<ref>[https://www.zushitrip.com/spot/detail_133.html 逗子市・逗子市観光協会「逗子旅 六角の井」]</ref>
* 「雁股(かりまた)の泉」伝説:[[奄美]][[喜界島]]の小野津集落には、為朝が琉球に渡ろうとした途中にシケに遭い喜界島の沖合を漂っているときに島に住人がいるかどうかを確かめるために雁股の矢を放ち、その矢を抜き取った後から清水が湧き出たと伝えられている。
*奄美群島の[[加計呂麻島]]は為朝が琉球に渡る前に上陸した地として伝わっている。為朝の息子とされる[[実久三次郎]]の墓が残っており、神社も建てられている。
* 河内源氏義国流に連なる[[今川貞世]]は、自著『[[難太平記]]』の中で、自身や[[足利尊氏]]の先祖にあたる[[足利義兼]]の出自を為朝の子であるとし、係累である[[足利義康]]が幼いころから嫡男として養育したと記している。義兼は為朝の子であるため、身丈八尺あまりもあり力に優れていたと書き残しているが、[[足利氏]]の家系にも学術的にも認められていない<ref name="usui">{{Sfn|臼井(1969)</ref>|1969}}
* [[横浜市]][[港南区]][[上大岡東]]1-8付近は八郎ケ谷と呼ばれ、落人となった為朝が隠れ住んだといわれる。ここに「為朝の祠」があり、今でも[[4月25日]]に近隣の人々が供養している<ref>[http://www.city.yokohama.lg.jp/konan/furusato/minwa/minw-33.html 横浜市港南区ホームページふるさと港南 民話 源為朝の隠れ里]</ref>。
 
== 登場作品 ==
; テレビドラマ
* 『[[新・平家物語 (NHK大河ドラマ)|新・平家物語]]』([[1972年]]、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[伊吹吾郎]])
* 『[[平清盛 (1992年のテレビドラマ)|平清盛]]』([[1992年]]、[[TBS]]、演:[[金田賢一]])
* 『[[平清盛 (NHK大河ドラマ)|平清盛]]』([[2012年]]、NHK[[大河ドラマ]]、演:[[橋本さとし]])
; アニメ
* 『[[鎮西八郎為朝 (アニメ)|鎮西八郎為朝]]』([[2021年]]、声:[[武内駿輔]])
 
== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Notelist}}
=== 出典 ===
{{reflist}}
 
== 参考文献 ==
* {{Cite journal|和書|author=[[臼井信義]]|title=尊氏の父祖|journal=[[日本歴史]]|volume=|issue=257|year=1969|month=10|publisher=[[吉川弘文館]]|naid=|page=pp.27-40|ref = {{SfnRef|臼井|1969}}}}
* {{Cite book|和書|author=[[宮地武彦]]/山中耕作 |title=日本伝説大系 |volume=13 |publisher=みずうみ書房 |date=1987 |isbn=4-8380-1413-9 |ref=harv}}
 
== 関連項目 ==
{{commonscat|Minamoto no Tametomo}}
* [[源氏八領]]
* [[伝承]]
 
{{Normdaten}}
{{DEFAULTSORT:みなもと の ためとも}}
[[Category:平安時代の武士源為朝|*]]
[[Category:河内源氏|ためとも]]
[[Category:伊豆諸島平安時代歴史武士]]
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[[Category:沖縄県史の人物]]
[[Category:1139年生]]
[[Category:1170年没]]
[[Category:伊豆諸島の歴史]]
[[Category:沖縄県の歴史]]
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