「尋常中学校ストライキ事件」の版間の差分

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==事件の要因==
[[1894年]](明治27年)、本土より赴任した校長の児玉喜八が、全校生徒への訓話で「皆さんは普通語さえ完全に使えないくせに、英語まで学ばなければならないという気の毒な境遇にいる」と述べて英語の授業を廃止しようとし、生徒らは差別意識が露わな校長の沖縄同情論に激怒した。このときは、生徒に信頼のあった下国教頭の説得で、英語を選択科目として設置することで騒ぎは収まった。しかし、翌年10月、児玉校長が下国教頭を休職とし、沖縄文化に理解のあった<nowiki>[[田島利三郎]]</nowiki>教諭を解雇処分にしたことで生徒の怒りが爆発し、校長の退陣を求めて半年に及ぶストライキを敢行した<ref>『沖縄大百科事典(上)』沖縄大百貨事典刊行事務局、1983年</ref>。
 
==ストライキの勃発==
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世論も生徒らの行動を全面的に支持したため、翌[[1896年]](明治29年)、児玉校長は紛争の責任を問われて解任され、ストライキは中学生側の勝利に終わったが、運動を指導した漢那憲和や伊波普猷らの復学は認められなかった<ref>新城俊昭『琉球・沖縄史』2014年</ref>。
 
==退学した生徒たちのその後==
ストライキの結果、退学処分となった生徒たちは様々な進路をたどった。
 
* [[伊波普猷]]中学校を退学させられた後、[[1897年]](明治29年)8月に上京し三度の浪人を経験した後に[[第三高等学校 (旧制)|第三高等学校]]の第一部文科に合格する。同校卒業後に[[東京大学|東京帝国大学]]に入学した普猷は、中学時代の恩師である田島利三郎と再会、居をともにした。この出会いがきっかけで、普猷は[[沖縄学]]の体系化を目指すようになる<ref>外間守善『伊波普猷論』1933年11月5日</ref>。
* [[漢那憲和]]は、幼時より海軍を志していた漢那憲和はおり、退学後に当時の沖縄県知事であった[[奈良原繁]]らの援助を得て、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入学した<ref>恵隆之介『天皇の艦長―沖縄出身提督漢那憲和の生涯』1985年2月1日</ref>。海軍少将まで昇進し、予備役編入後は[[衆議院議員]]となった
 
* 照屋宏は退学後、普猷ととも伊波と上京し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に一度の受験で合格した<ref>外間守善『伊波普猷 人と思想』1976年12月</ref>。[[京都帝国大学工学部]]卒業後、鉄道技師として台湾のインフラ整備に尽力し、戦前に[[那覇市長]]を務めた
幼時より海軍を志していた漢那憲和は、退学後に当時の沖縄県知事であった[[奈良原繁]]らの援助を得て、[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]]に入学した<ref>恵隆之介『天皇の艦長―沖縄出身提督漢那憲和の生涯』1985年2月1日</ref>。
* [[金城紀光]]は、復学を許されて卒業した後は、第五高等学校を経て、東京帝国大学医科大学(医学部)を卒業し、医師となった。また、戦前に[[那覇市長]]を一期務めた。
 
* [[真境名安興]]は、復学を許されて卒業した後は、沖縄県で[[ジャーナリスト]]として活躍した。伊波との共同作業が多く、伊波の後任として県立沖縄図書館館長となった。
照屋宏は退学後、普猷とともに上京し、[[第一高等学校 (旧制)|第一高等学校]]に一度の受験で合格した<ref>外間守善『伊波普猷 人と思想』1976年12月</ref>。
* 屋比久孟昌は自殺して生涯を終えた。
 
その他、金城紀光と真境名安興は復学を許され、その後卒業したが、屋比久孟昌は自殺して生涯を終えた。
 
==脚注==
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[[Category:明治時代1895年の日本の事件]]
[[Category:18951896年の日本の事件]]
[[Category:1896年の日本]]
[[Category:那覇市の歴史]]
[[Category:学校]]
[[Category:1896年の日本の労働史]]
[[Category:沖縄県の教育の歴史]]
[[Category:ストライキ]]
[[Category:1895年10月]]