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年表に6月のクーデター未遂を追記
 
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'''ボリビア多民族国'''<ref name="日本国外務省">[https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/bolivia/data.html ボリビア多民族国(The Plurinational State of Bolivia)基礎データ] 日本国外務省(2022年7月17日閲覧)</ref>(ボリビアたみんぞくこく、{{Lang-es-short|Estado Plurinacional de Bolivia}}、{{Lang-qu|Buliwiya Mama Llaqta}}、{{Lang-ay|Bulibiya Suyu}})、通称'''ボリビア'''は、[[南アメリカ大陸]]西部にある[[立憲]][[共和制国家]]。[[憲法]]上の[[首都]]は[[スクレ (ボリビア)|スクレ]]だが、[[ラパス]]が実質的な首都機能を担っており<ref name="日本国外務省"/>、[[多民族立法議会|議会]]をはじめとした[[政府]]主要機関が所在する。ラパスは[[標高]]3600メートル<ref name="日本国外務省"/>で、世界で最も高所にある首都となっている<ref name="bolib01" />。
 
[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|太平洋戦争]]で敗れて[[チリ]]に[[太平洋]]海岸部の[[領土]]を奪われて以降は[[内陸国]]となっており<ref name="読売20220615">【世界 in-depth 深層】ボリビア:内陸国 特別な「海の日」 戦争で喪失 経済低迷]『[[読売新聞]]』朝刊2022年6月15日(国際面)</ref>、南西はチリ、北西は[[ペルー]]、北東は[[ブラジル]]、南東は[[パラグアイ]]、南は[[アルゼンチン]]と[[国境]]を接する。
 
== 概要 ==
国土面積は約110万平方キロメートルで、[[日本]]の約3.3倍<ref name="日本国外務省"/>。[[アメリカ大陸]]では8番目に、[[ラテンアメリカ]]では6番目に、世界的には27番目に大きい国であるが、上記のように領土を隣国に奪われる前はさらに広かった。ボリビアは太平洋岸領土の奪還を諦めておらず、[[チチカカ湖]]や河川で活動する[[ボリビア海軍]](兵力4800人)を保持しているほか、3月23日を[[海の日 (ボリビア)]]と定め、[[国際司法裁判所]]に提訴(2018年に「チリは交渉に応じる義務はないが、善隣の精神に基づいた対話継続を妨げない」との判断が示された)するなどしている<ref name="読売20220615"/>。
 
[[南半球]]にあり、晴れていれば[[南十字星]]が見える<ref name="bolib01">眞鍋周三編著 『ボリビアを知るための73章』第2版([[明石書店]] <エリア・スタディーズ 54> 2013年)20ページ</ref>。
 
かつて「黄金の玉座に座る乞食」と形容されたように、豊かな天然資源を持つにもかかわらず実際には貧しい状態が続いており、現在もラテンアメリカ貧国の一つである。推定1万4000人の[[日系ボリビア人]]がおり<ref name="読売20220615"/>、日本人町もある<ref>[https://www.jpf.go.jp/j/project/japanese/survey/area/country/2017/bolivia.html ボリビア(2017年度)][[国際交流基金]]</ref>。
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== 国名 ==
[[File:Bl-map.png|thumb|right]]
[[公用語]]による正式名称は、スペイン語で {{Lang|es|Estado Plurinacional de Bolivia}}<ref>{{Cite web|author=国際連合地名標準化会議作業部会|authorlink=国際連合地名標準化会議|date=2009年8月|url=http://unstats.un.org/unsd/geoinfo/UNGEGN-Working-Groups/UNGEGN%20WG%20Country%20Names%20Document%20-%20August%202009.pdf|title=UNGEGN List of Country Names, August 2009|format=PDF|pages=15頁|language=英語|accessdate=2010-05-31}}<!-- http://unstats.un.org/unsd/geoinfo/ungegnwgroups.htm -->{{リンク切れ|date=2012年4月}}</ref>。公式のケチュア語表記は {{Lang|qu|Bulibiya Suyu}}, 公式のアイマラ語表記は {{Lang|ay|Buliwya}} である。通称は {{Lang|es|Bolivia}} {{IPA-es|boˈliβia||ES-pe - Bolivia.ogg}}。
 
[[2009年]][[3月18日]]に、それまでの{{Lang|es|República de Bolivia}}(<!--レプブリカ・デ・ボリビア。日本語表記は「-->ボリビア共和国<!--」-->)から現国名へ変更した<ref>{{Cite web|url=http://www.derechoteca.com/gacetabolivia/decreto-supremo-0048-del-18-marzo-2009.htm|title=DECRETO SUPREMO No 0048 del 18 Marzo 2009 | Derechoteca Gaceta Bolivia 5|language=スペイン語|accessdate=2010-05-31}}</ref>。
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=== 先コロンブス期の発展 ===
{{Main|先コロンブス期}}
* [[紀元前2千年紀|紀元前1500年]]ごろから[[紀元前3世紀|紀元前250年]]ごろ [[チリパ]]文化が栄える。
* [[5世紀]]から[[12世紀]]ごろ [[ティワナク|ティワナク文化]]が栄える。
* [[12世紀]]ごろから[[1470年]]ごろ [[チチカカ湖]]沿岸に[[アイマラ]]諸王国が栄える。
* [[1470年]]ごろから[[1532年]] アイマラ諸王国が[[クスコ]]に拠点を置いていた、[[ケチュア]]人の皇帝[[パチャクテク]]や、[[トゥパック・インカ・ユパンキ]]の征服により[[インカ帝国|タワンティン・スウユ]]({{lang-qu|Tawantin Suyu}}、[[インカ帝国]])の[[インカ帝国#国名|コジャ・スウユ]]({{lang-qu|Colla Suyo}}、「南州」)に編入される。インカ帝国内にてアイマラ諸王国は継続。
 
=== スペイン植民地時代 ===
{{See also|スペインによるアメリカ大陸の植民地化}}
 
* [[1532年]] インカ皇帝[[アタワルパ]]がスペイン人[[コンキスタドール]]により処刑され、インカ帝国は崩壊。[[スペインによるアメリカ大陸の植民地化|スペインによる植民地化]]が始まる。
* [[1535年]] [[フランシスコ・ピサロ]]により[[ペルー副王領]]が作られる。[[ディエゴ・デ・アルマグロ]]の遠征軍が[[アルト・ペルー]]を探検する。
* [[1538年]] [[ゴンサロ・ピサロ]]の軍がアルト・ペルーに遠征し、首長[[アヤビリ]]を降してこの地を植民地化する。
* [[1540年]] ラ・プラタ市(後のチュキサカ、チャルカス、スクレ)が建設される。
* [[1545年]] [[ポトシ]]銀山発見。以降、現在のペルーを始めとする諸地域から多くの[[インディオ]]が鉱山のミタにより、ポトシで強制労働させられることになる。
* [[1548年]] アロンソ・デ・メンドーサにより、チチカカ湖の近くに[[ラパス|ヌエストラ・セニョーラ・デ・ラ・パス]]市が建設される。
* [[1559年]] チャルカス(後の[[スクレ (ボリビア)|スクレ]])に聴問庁(アウディエンシア)が設置される。このころから独立まで現ボリビアの地域は「[[アルト・ペルー]](高地ペルー、上ペルー)」と呼ばれる。
* [[1559年]] 東部のチャコ地方に[[サンタクルス|サンタ・クルス・デ・ラ・シエラ]]が建設される。
* [[1569年]] ペルー副王フランシスコ・デ・トレドの統治が始まる。銀山採掘のためにポトシは人口十万人を超える都市として発展し(当時の[[ロンドン]]より大きい)、銀採掘のためにミタ制によりかき集められたインディオは、過酷な労働と病気で次々に死んでいった。
* [[18世紀]] ポトシの銀が急速に枯渇する
* [[1776年]] アルト・ペルーがペルー副王領から[[リオ・デ・ラ・プラタ副王領]]に転入され、以降経済や司法が副王首府の[[ブエノスアイレス]]に従属することになる。スペイン本国生まれ([[ペニンスラール]])の少数支配に反対して現地生まれのスペイン人([[クリオーリョ]])による反抗運動が起こった。
* [[1778年]] ブエノスアイレス港が正式に開港し、以降アルト・ペルーの海外貿易がブエノスアイレスを通じて行われるようになる。
* [[1780年]] ペルーで[[ホセ・ガブリエル・コンドルカンキ|トゥパク・アマルー2世]]が植民地政府に反乱を起こす。
* [[1781年]] ペルーのトゥパク・アマルー2世と呼応して、レパルティミエントやミタ制の重い負担の廃止を求めた、[[アイマラ|アイマラ人]] の[[トゥパク・カタリ]]による反乱蜂起があったが、これは鎮圧された。鎮圧後、インディオに対する当局の弾圧は強まった。トゥパク・カタリは現在もボリビアの国民的英雄になっている。
 
=== 解放戦争から独立まで ===
{{See also|近代における世界の一体化#ラテンアメリカ諸国の独立|[[ボリビア独立戦争]]}}
 
* [[1809年]] ラパスと[[チュキサカ県|チュキサカ]]でクリオーリョによる独立運動が起こる({{仮リンク|ラパス革命|es|Junta Tuitiva|en|La Paz revolution}}、{{仮リンク|チュキサカ革命|es|Revolución de Chuquisaca|en|Chuquisaca Revolution}})。ボリビア最初の独立運動であり、[[キト]]と共にラテンアメリカで最も早かった。
* [[1810年]] ラパスで起きていた革命運動は、ペルー副王アバスカルの指導によりすぐに王党派に鎮圧され、革命評議会の[[ペドロ・ドミンゴ・ムリーリョ]]は処刑された。その後[[アルゼンチン|リオ・デ・ラ・プラタ連合州]]が独立派に支援軍を送るがことごとく王党派軍に打ち破られた。
* [[1816年]] {{仮リンク|トゥクマンの議会|en|Congress of Tucumán}}により、リオ・デ・ラ・プラタ連合州が独立を宣言する。アルト・ペルーの代表者も出席した。
* [[1823年]] 再び独立戦争始まる。
* [[1824年]] [[シモン・ボリバル]]と[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]の率いる[[ベネズエラ]]からの[[大コロンビア|コロンビア共和国]]の解放軍により、副王[[ホセ・デ・ラ・セルナ]]([[チェ・ゲバラ]]の先祖)の率いる王党派軍が{{仮リンク|アヤクーチョの戦い|en|Battle of Ayacucho}}で壊滅。インディアス植民地の最終的な独立が確定する。
* [[1825年]][[8月6日]] ボリバルの協力により、スクレ元帥が[[アンドレス・デ・サンタ・クルス]]と共に、アルト・ペルーを[[スペイン]]から解放した。アルト・ペルーの支配層はそれまで同一の行政単位を構成していたペルーや[[アルゼンチン]]との連合を望まなかったため、チュキサカでアルト・ペルー共和国の独立が宣言された。[[8月26日]]ボリビア共和国と改名した
 
=== 独立から混沌へ ===
[[File:Jose de scure.jpg|thumb|upright|第2代大統領にして「アヤクーチョ大元帥」<br />[[アントニオ・ホセ・デ・スクレ]]]]
[[File:Divisiones administrativas de la Confederación Perú-Boliviana.svg|thumb|[[ペルー・ボリビア連合]]の領域]]
* [[1826年]][[8月]] アルト・ペルーはボリバルの名にちなんで「ボリビア」という国名になり、正式に独立した。11月19日、ボリバル憲法を公布する。同時に首都も憲法上はチャルカスが改名されてスクレとなった。12月9日、スクレが終身大統領に就任する。自由主義的な改革がなされるが、保守派の恨みを買い、[[ベネズエラ人]]の支配を嫌う声も囁かれた。
* [[1828年]] スクレ大統領が侵攻してきたペルーの{{仮リンク|アグスティン・ガマーラ|en|Agustín Gamarra}}を打ち破るが、すぐにガマーラと結んだ国内保守派の陰謀により大統領を辞任し、キートヘ[[亡命]](実はサンタ・クルスも関わっていたといわれている)。
* [[1829年]] ボリバルの推薦により、5月25日、サンタ・クルスが大統領に就任する。サンタ・クルスはインカ帝国の後継者を自称し、大学、港湾、鉱山など国内の開発を続け、軍備を強化した。[[保護貿易]]を導入して国内の[[綿]]産業を保護した。
* [[1836年]] 大統領のアンドレス・デ・サンタ・クルスがアグスティン・ガマーラを破ってペルーを併合し、[[ペルー・ボリビア連合]]を打ち立てる。連合は三州に分けられ、首都は[[南ペルー共和国]]の[[タクナ]]に置かれた。
* [[1839年]] 連合に脅威を抱いたチリ(既に死去していたディエゴ・ポルターレスの影響が大きい)と[[アルゼンチン]]の[[フアン・マヌエル・デ・ロサス]]軍の攻撃により連合は崩壊。これによりサンタ・クルスが追放されるとボリビアは[[無政府状態]]に陥った。
* [[1841年]] 国内の混乱の中、サンタ・クルス派の[[ホセ・バリビアン]]がペルーから侵攻してきたアグスティン・ガマーラを{{仮リンク|インガビの戦い|en|Battle of Ingavi}}で打ち破り、ガマーラは戦死した。以降、ペルーとボリビアの合邦を望む動きはなくなった。
* [[1847年]] メスティーソの軍人{{仮リンク|マヌエル・イジドロ・ベルス|es|Manuel Isidoro Belzu}}の反乱によりバリビアンが亡命する
* [[1848年]] ベルスが大統領になる。ベルスは保護政策を採り、[[ポピュリズム|ポプリスモ]]的な政策で大衆の支持を得る。
* [[1857年]] [[ホセ・マリア・リナレス]]によるボリビア初の文民政権成立。自由主義政策を採り、インディオを弾圧した。このころ太平洋沿岸部の[[リトラル|リトラル県]](アントファガスタ)で最初の[[硝石]]鉱山が発見された。
* [[1861年]] [[クーデター]]によりリナレスが追放される。
* [[1864年]] それまで影で権力を握っていたベルスを暗殺したメスティーソの軍人[[マリアーノ・メルガレホ]]が政権につき、国内の混乱が頂点に達する。「野蛮[[カウディーリョ|カウディージョ]]」と呼ばれたその手法により国内全ての階層が大打撃を受け、特にインディオは大弾圧され、共有地は解体されて奪われた。その後メルガレホはアントファガスタの硝石の採掘権をチリに売却した。
* [[1867年]] {{仮リンク|アヤクーチョ条約|es|Tratado de Ayacucho}}の締結で[[アクレ州|アクレ県]]がボリビアに帰属。
* [[1871年]] メルガレホ大統領が失脚。
* [[1874年]] バリビアン政権の永代所有禁止法によりインディオの共有地は壊滅的な被害を受け、以降インディオは鉱山や[[プランテーション]]の日雇い労働者となっていった。
* [[1879年]] アントファガスタをチリに占領され、さらに[[ペルー]]と硝石問題に関して秘密同盟を組んでいたことが仇となり、[[チリ]]がペルー・ボリビア両国へ宣戦布告して[[太平洋戦争 (1879年-1884年)|硝石戦争(太平洋戦争)]]となる。
* [[1883年]] ペルーとチリの間での、硝石戦争(太平洋戦争)の休戦。チリに対する事実上の敗北が決まる。
 
=== 内陸国化と相次ぐ敗戦 ===
[[File:Map Bolivia territorial loss-en.svg|thumb|ボリビアの領域の変遷。戦争により広大な領土が近隣諸国に併合された。]]
* [[1884年]] チリとの[[バルパライソ条約]]で[[銅]]と硝石の鉱山が豊富な太平洋岸の領土(リトラル県)を割譲し、海への出口を持たない内陸国になる。保守党のグレゴリオ・パチェコが大統領になり、以降、鉱山主の支配が1899年まで続く。
* [[1888年]] このころから北部の[[アクレ州|アクレ県]]に[[ブラジル人]]が侵入。
* [[1899年]] アクレ県に入植したブラジル人[[ゴムノキ|ゴム]]農園労働者の反乱によりブラジルと紛争が発生([[アクレ紛争]])「[[アクレ共和国]]」([[1899(1899]] - [[1903年]])として半独立状態となる。同時にこの年初の日本人移民が渡り、[[リベラルタ]]や[[トリニダ (ボリビア)|トリニダ]]のゴム農園に就労した。錫鉱山主を基盤にするラパスの自由党が反乱を起こし、スクレ・ポトシの銀鉱山主を基盤にしていた保守党支配が終わった(連邦革命)。以降、自由党のホセ・パンドが大統領になり、以降、自由党の支配が1920年まで続く。
* [[1900年]] 自由党派がラパスを拠点としていたため、議会、政府がスクレからラパスに移転し、ラパスが事実上の首都になる。
* [[1903年]] アクレ紛争に結果的に敗北し、ゴムの一大生産地だった[[アクレ州|アクレ県]]をブラジルに割譲。
* [[1904年]] チリと正式に和平条約を結び、リトラル県の割譲を承認した。
* [[1910年]] [[スズ|錫]]の生産量が1890年代の20倍に達する(「錫の世紀」)。
* [[1914年]] [[コチャバンバ]]の農園主らが基盤となって共和党が結成された。
* [[1920年]] クーデターにより自由党支配が終わる。
* [[1921年]] 共和党のバウティスタ・サアベドラが大統領になる。在任中、[[アメリカ合衆国]]企業[[スタンダード・オイル]]により東部低地地帯の油田開発が進む。
* [[1926年]] 共和党のエルナンド・シレスが大統領になる。
* [[1929年]] [[世界恐慌]]により大打撃を受け、社会不安が起こる。
* [[1931年]] 共和党右派のダニエル・サラマンカが大統領になる。7月、パラグアイと国交断絶。
* [[1932年]] 6:6月にサラマンカ政権、植民地時代からの領土問題を持ち出し、[[グランチャコ]]地方と[[パラグアイ川]]の通行権を求めてパラグアイに宣戦布告([[チャコ戦争]])。
* [[1935年]] ボリビア領の東部油田地帯に侵攻したパラグアイと休戦。ボリビアの戦死者は6万5000人。ボリビア、パラグアイ共に財政は崩壊状態になった。
 
=== チャコ戦争後の不安定化 ===
* [[1936年]] チャコ戦争後、白人寡頭支配層への批判が強まり、チャコ戦争の参謀総長だった{{仮リンク|ダビッド・トロ|es|David Toro|label=ダビッド・トロ・ルイロバ}}がクーデターにより大統領に就任。「軍事社会主義」([[国家社会主義]])を掲げた。
* [[1937年]] [[スタンダード・オイル]]社のボリビア国内事業を国有化。これは同時期の、[[メキシコ革命]]の[[ラサロ・カルデナス]]政権による油田国有化に先立って、[[ラテンアメリカ]]で初の外資国有化政策となる。この社会主義的政策は支配層に嫌われ、同年保守派によりトロは追放され、保守派の支持によりチャコ戦争の英雄だったドイツ系の{{仮リンク|ヘルマン・ブッシュ・ベセラ|es|Germán Busch Becerra}}中佐が大統領になるが、ヘルマン・ブッシュはすぐに保守派との戦いを始め、錫財閥との対決を図った。
* [[1938年]] チャコ戦争が正式に終結。[[チャコ戦争|ブエノスアイレス講和条約]]によりチャコ地方がパラグアイの領土となる。領土が最大時の約半分になる。この時期にヘルマン・ブッシュは[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス・ドイツ]]の躍進する[[ヨーロッパ]]から[[ユダヤ人]]の受け入れを宣言した。
* [[1939年]] ヘルマン・ブッシュが暗殺される。
* [[1941年]] [[ビクトル・パス・エステンソロ]]や{{仮リンク|ゲバラ・アルセ|es|Walter Guevara Arze}}らにより、[[民族革命運動党]](MNR)結成。
* [[1942年]] カタピ鉱山の労働争議で鉱山労働者700人が虐殺される([[カタピの虐殺]])。
* [[1944年]] フアン・レチンにより、鉱山労働者組合連合が結成される。
* [[1951年]] MNR:MNRが大統領選に勝利するも、クーデターにより軍部に政権を奪われ、MNRは非合法化され、このことに対する国民の不満が高まる。
 
=== ボリビア革命とその挫折 ===
* [[1952年]]4月 鉱山労働者らの武装蜂起。MNRによる政権樹立。[[ビクトル・パス・エステンソロ]]が大統領に就任し、[[ボリビア革命]]が成功した(4月[[革命]]とも)。インディオに選挙権や公民権が付与された新憲法が採択された。革命政権の国策として、このころから[[サンタクルス・デ・ラ・シエラ]](サンタクルス)を中心とする東部の低地地帯の開発が進む。
* [[1956年]] [[エルナン・シレス・スアソ]]政権成立。
* [[1959年]] 農地改革が行われ、大[[プランテーション]]が解体され、インディオの[[小作人]]に土地が分与された。
* [[1960年]] 第2次パス・エステンソロ政権成立。軍が再建される。
* [[1964年]] 第3次パス・エステンソロ政権成立するも、軍によるクーデターによりMNRが失権。ボリビア革命が終焉する。大統領となった[[レネ・バリエントス・オルトゥーニョ|レネ・バリエントス]]らの軍部と[[ボリビア共産党]]の対立が進む。
* [[1965年]] 軍事政権、インディオ農民を基盤とすることに成功する。
* [[1966年]] [[キューバ革命]]指導者の一人である[[チェ・ゲバラ]]が[[ウルグアイ人]]ビジネスマンに偽装してボリビアに潜入し、ボリビア民族解放軍(ELN)を設立して[[ゲリラ]]戦を行う。
 
=== ゲバラの戦死から現在まで ===
[[File:Che Guevara - Guerrillero Heroico by Alberto Korda.jpg|thumb|200px|[[チェ・ゲバラ]]]]
* [[1967年]] バリエントス政権、[[アメリカ軍]]の協力の下にゲバラ軍を追い詰め、鉱山労働者がゲバラに同調することを嫌って[[サン・フアンの虐殺]]を行う。そして農民の支持を得られなかったため、[[キューバの軍事|キューバ軍]][[特殊部隊]]と共に潜入していたチェ・ゲバラがゲリラ戦の末、政府軍の[[アルフレド・オバンド・カンディア]]将軍に捕らえられ[[イゲラ]]で戦死。
* [[1969年]] バリエントス大統領が農民に金を配りに行く最中、謎のヘリコプター墜落事故で死亡。9月にかつてゲバラ討伐に当たった[[アルフレド・オバンド・カンディア]]将軍がクーデターを起こして政権を握り、ペルーの[[フアン・ベラスコ・アルバラード|ベラスコ]]将軍に影響を受けた「革命的国民主義」を掲げて国民主義知識人グループに誓った石油国有化政策を発表。[[ソビエト連邦|ソ連]]との国交が樹立される。
* [[1970年]] 軍内左派の[[フアン・ホセ・トーレス]]将軍が政権を掌握。[[アメリカ合衆国]]資本の鉱山の国有化や、国営の錫[[精錬]]工場の建設がなされる。
* [[1971年]] 8:8月に[[サンタクルス]]出身の右派の[[ウゴ・バンセル・スアレス|ウゴ・バンセル]]将軍がアメリカ合衆国と[[ブラジル]]の支援を受けたクーデターでトーレスを追放して政権を握る。外資を導入して経済の回復に努めるが、逆に赤字と債務が増加する。[[ランボルギーニ]]は前政権との間で結ばれた[[トラクター]]の購入に関する契約を破棄されたことで資金難に陥り、[[フィアット]]の傘下に入った。
* [[1978年]] [[アメリカ合衆国大統領]][[ジミー・カーター]]による「[[人権外交]]」の影響を受けて、ボリビアでも民主化へのプログラムが進む。
* [[1980年]] [[ガルシア・メサ]]将軍がクーデター「コカイン・クーデター」<ref name="nenpyou2">ボリビア年表2 2009年11月8日閲覧([http://www10.plala.or.jp/shosuzki/chronology/andes/bolivia2.htm])</ref>で政権を握るが、麻薬マフィアとの癒着、反対派への大弾圧により、国際的な批判を呼んだ。
* [[1982年]] MNR:MNRから[[民主人民連合]] (Unidad Democrática y Popular : UDP)に分派したシレス・スアソが政権を執り、民政復帰。18年に及んだ軍政が終わる。このころから中南米全体を襲った中南米債務危機に陥り、約40億ドルにも上る莫大な対外債務に苦しみ、激しい[[ハイパーインフレーション]]が発生。
* [[1985年]] 第4次パス・エステンソロ政権成立するが、もうこの時には8000パーセントにも及ぶハイパーインフレ状態に陥っており、事実上通貨は紙切れ同然となってしまい、ボリビア経済は破綻状態に陥った。
* [[1986年]] ボリビア政府は苦渋の選択の末、ボリビアは100万分の1の[[デノミネーション]]で8,000%超のインフレを抑制。エステンセロは他にも[[新自由主義]]的改革により、経済危機を乗り切る。
* [[1990年]] この年代の中ごろ[[天然ガス田]]が発見された。
* [[1993年]] MNR:MNRの[[ゴンサロ・サンチェス・デ・ロサダ]]政権成立。初の先住民出身副大統領と共に新自由主義政策を採用した。
* [[1997年]] 「メガ連立」により、第二次バンセル政権成立。コカの栽培の撲滅に全力を挙げる。
* [[2000年]] [[コチャバンバ水紛争]]
* [[2001年]] 大規模な天然ガス田が発見される。コチャバンバ水紛争の影響と病気によりバンセル大統領が辞任。
* [[2002年]] 8:8月にMNRから第二次サンチェス政権成立。しかしするも、すぐに指導力不足が露呈する
* [[2003年]] [[ボリビアガス紛争]]。10月にサンチェス大統領がアメリカ合衆国に[[亡命]]。副大統領の[[カルロス・メサ・ヒスベルト|カルロス・メサ]]が昇格。
* [[2006年]] ペルーの[[アレハンドロ・トレド]]に続いて南米大陸二人目の、ボリビアでは初の先住民出身となる大統領[[エボ・モラレス]]が「[[社会主義運動]]」より就任した。
* [[2007年]] モラレス政権、ブラジルの[[ペトロブラス]]などの外資を国有化し、公約通り天然ガスを国有化(収益は教育の充実や貧困層、高齢者支援に振り向けている)。
* [[2009年]] 3月大農場主から接収した東部平原地方の土地の所有権を先住民に引き渡した。接収対象になった土地は東部平原地方
* [[2019年]] 10月{{仮リンク|2019年ボリビア総選挙|label=大統領選|en|2019 Bolivian general election|es|Elecciones generales de Bolivia de 2019}}でモラレス大統領が再選されるも、[[不正選挙]]疑惑から抗議デモが勃発。大統領辞任。
* [[2020年]] 11月[[ルイス・アルセ]]元経済財政大臣が大統領就任。
* [[2024年]]6月26日:汚職容疑で解任されたスニガ元軍司令官らによるクーデター未遂が発生<ref>「[https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN2707P0X20C24A6000000/ ボリビア、クーデター未遂 首謀者の前軍司令官を拘束]」『[[日本経済新聞]]』夕刊2024年6月27日3面</ref>。
 
== 政治 ==
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[[ボリビアの大統領]]を[[元首]]とする[[共和制]]国家であり、国家元首である大統領は[[政府の長|行政府の長]]として実権を有する。任期5年。選挙は、大統領候補と副大統領候補がそれぞれペアとなり立候補し、国民は直接選挙により数組の中から1組を選出する。大統領が死亡や辞任により欠ける場合は、副大統領が大統領に昇格し、残りの任期を務める。首相職はなく、副大統領が閣議を主宰する。
 
建国以来政治的に非常に不安定なため、クーデターが起こりやすい政治文化があり、過去100回以上のクーデターが起きている。
 
=== 議会 ===
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==== 15歳以上の識字率 ====
2020 年時点で94%であり<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/SE.ADT.LITR.ZS?locations=BO |title=Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above) - Bolivia |access-date=2022年12月8日 |publisher=The World Bank |date=2020}}</ref>、ラテンアメリカ並びにカリブ諸国の[[識字率]]94%と比較すると概ね平均的な識字率である<ref>{{Cite web |url=https://data.worldbank.org/indicator/SE.ADT.LITR.ZS?locations=ZJ |title=Literacy rate, adult total (% of people ages 15 and above) - Latin America & Caribbean |access-date=2022年12月8日 |publisher=The World Bank |date=2020}}</ref>。ボリビアでの非識字率は2001年の13.28%から2014年に3.8%に下がっている。これは2006年に発足したモラレス政権が非識字克服を最優先課題の一つに掲げ、キューバの教育者が開発した識字メソッド(''Yo, sí puedo'')の活用とベネズエラからの資金援助によって、読み書きできない国民へ無償の教育を提供した影響が大きい<ref>{{Cite web |url=https://www.bbc.com/news/world-latin-america-37117243#:~:text=Officials%20say%20that%20it%20is,the%20last%20census%20was%20conducted. |title=The three Rs: How Bolivia combats illiteracy |access-date=2022年12月8日 |publisher=BBC News |author=Fellipe Abreu/Luiz Felipe Silva |date=21 August 2016}}</ref>。
 
==== 教育段階 ====
4〜5歳を対象とした2年間の就学前教育から始まり、6年間の初等教育、6年間の中等教育、高等教育が行われる。義務教育は初等教育から中等教育までの14年間であり、学年暦は2月から始まり、11月に終わる<ref name=":0" />。高等教育は大学やその他の高等教育機関で行われる。大学では,学士課程(4〜6年),)、修士課程(2年),)、博士課程(4年)が置かれる。その他の高等教育機関では,上級技術者ディプロマを取得する 3〜4年の課程などが置かれる。高等教育までは全ての公教育が無償となっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mext.go.jp/component/b_menu/other/__icsFiles/afieldfile/2017/10/02/1396858_012.pdf |title=ボリビア多民族国 |access-date=2022年12月8日 |publisher=文部科学省 |date=2017年10月2日}}</ref>。
 
==== 学校の実態 ====
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==== 教育の効果 ====
独立機関である教育の質研究所(OPCE)の2010年の調査によると、初等教育では国語よりも算数の能力が低い児童が多いことが確認された。また、中等教育では初等教育と同様に算数の能力の低さが確認された。特に開発が遅れているとされている県において能力が低い生徒の割合が多く、県ごとに能力のばらつきが大きいことが確認されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12128930.pdf |title=「第2章  教育セクターの課題と現状」.『ボリビア多民族国  教師教育教材改訂プロジェクト  詳細計画策定調査報告書』 |access-date=2022年12月8日 |publisher=独立行政法人国際協力機構 人間開発部 |date=2013年7月}}</ref>。算数能力が低い理由として、授業が教師主導型で練習問題を解かせるだけであり生徒の自主性を重要視していないことが指摘されている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.criced.tsukuba.ac.jp/jocv/report/sympo_h17/nomoto.pdf |title=ボリビアにおける算数教育 |access-date=2022年12月8日 |publisher=国際教育協力シンポジウム(帰国隊員報告会) |date=2005年 |author=野本  純一}}</ref>。
 
=== 保健 ===
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=== 医療 ===
==== 医療施設 ====
公共の保健医療施設はサービスレベルに応じて3段階に分けられている。第1次レベルは初期治療などを提供する診療所、保健センターが該当する。第2次レベルは基本的専門医療を提供する県病院が該当する。第3次レベルは最も高度な医療を提供する総合・専門病院が該当する<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jica.go.jp/jica-ri/IFIC_and_JBICI-Studies/jica-ri/publication/archives/jica/country/2003/pdf/bol_01_04.pdf |title=「第一章  保険医療」.「第3部  セクター概要」.『ボリビア国別援助研究会報告書 : 人間の安全保障と生産力向上をめざして. - 』 |access-date=2022年12月8日 |publisher=国際協力機構国際協力総合研修所 |author=建野 正毅/坪井 創 |date=2004年2月}}</ref>。
 
==== 保健政策 ====
妊産婦死亡率や5歳未満の乳幼児の死亡率が高く、母子保健が劣悪な状況であることから、1996年7月に「国家母子保健政策」が政府によって策定され、妊産婦および5歳未満の乳幼児が無料で診療を受けられるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/data/zyoukyou/h_14/020629_1.html |title=ボリビアの「コチャバンバ母子医療システム強化計画」に対する無償資金協力について. [ODA]国別地域別政策・情報 |access-date=2022年12月8日 |publisher=日本国外務省 |date=2002年6月29日}}</ref>。2003年には国家母子保険はユニバーサル母子保険と名称が変更され、社会保険や民間の施設でも適用されるようになった<ref>{{Cite web|和書|url=https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12085379.pdf |title=「第4章 保険サービス提供の状況」.『保健セクター情報収集・確認調査  ボリビア多民族国 保健セクター分析報告書』 |access-date=2022年12月8日 |publisher=独立行政法人国際協力機構 |date=2012年10月}}</ref>。妊産婦死亡率や幼児死亡率は近年(2019)の経済成長によって減少しつつあるが、依然として人口1万人あたりの医師数は中南米域内の平均を大きく下回っており、病院の数・人材・機材・薬品も不足している状態が長く続き、栄養失調などの問題が残っていた。こうした状況を踏まえ、政府は2019年3月に全国統一医療システムを導入し、ユニバーサル・ヘルス・カバレッジの拡大に取り組んでいる。具体的には全国民の保健サービスへのアクセスを目標とし、妊産婦死亡率を現状より50%削減し、幼児死亡率については現状より30%削減するとしている<ref name=":1">{{Cite web|和書|url=https://www.mofa.go.jp/mofaj/press/release/press4_008310.html |title=ボリビアに対する保健サービス向上支援(無償資金協力) |access-date=2022年12月8日 |publisher=日本国外務省 |date=2020年3月9日}}</ref>。
 
==== 医療体制の課題 ====
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俗語では、アンデス地域またはそこに住む人々は[[コージャ]]と呼ばれ、アマゾン地域またはそこに住む人々は[[カンバ]]と呼ばれる。
 
1998年以降、アメリカの指導により、政府はコカ撲滅作戦に取り組んでいるが、国民の6割がコカ常用者とされ、アメリカなどへの密輸も盛んに行われている<ref>ボリビア「コカなしでは食えぬ」-新大統領の地元・コチャバンバ『[[毎日新聞]]』東京長官朝刊2006年1月26日7頁</ref>。
 
=== 食文化 ===