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==概説==
1946年7月6日
[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙]]において一般投票では敗北したが選挙人投票で勝利し、共和党の候補として当選した。大統領としてブッシュは2001年に1兆3500億ドルの減税プログラム<ref>
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}}</ref>、2002年には全国一斉学力テストを義務化して成績次第で助成金とペナルティを学校に課す「落ちこぼれを作らないための初等中等教育法」(通称:[[:en:No Child Left Behind Act|落ちこぼれゼロ法]]<ref>{{Cite web |url=http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpyi200501/b0057.html |title=海外情勢報告(特集 諸外国における若年雇用・能力開発対策) |accessdate=2012年5月24日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130105215805/http://wwwhakusyo.mhlw.go.jp/wpdocs/hpyi200501/b0057.html |archivedate=2013年1月5日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>」に署名した。
2001年9月11日に発生した[[アメリカ同時多発テロ事件]]を受け、ブッシュは世界的な「[[対テロ戦争|テロとの戦い]]」を発表した。ブッシュへのアメリカ国民の支持率は同時多発テロ事件後<ref>{{cite web|url=http://www.reuters.com/article/topNews/idUSN1624620720071017?feedType=RSS&feedName=topNews&rpc=22&sp=true|title=Voters Unhappy with Bush and Congress|date=October 17, 2007|accessdate=2007-10-17|publisher=Reuters}}</ref>、歴代のアメリカ合衆国大統領の中で最高値である91パーセントにまで達した<ref>{{cite news|url=http://blogs.usatoday.com/onpolitics/2007/07/usatgallup-po-1.html|accessdate=2007-11-28|publisher=USA Today|date=10 July 2007|title=USAT/Gallup Poll:Bush approval at new low;Republican support eroding}}</ref> 。後に[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガン侵攻]]に臨み、[[ターリバーン]]政権を打倒して[[アルカーイダ]]を壊滅させ、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]を[[デッド・オア・アライブ]]<ref>[http://abcnews.go.com/US/story?id=92483 Bush: Bin Laden Wanted Dead or Alive - ABC News]</ref>として[[逮捕]]あるいは[[殺害]]することを命じた。2003年3月
[[イラク戦争]]の中、ブッシュは「戦時大統領」と自称して<ref name="War President">{{cite web|url = http://www.msnbc.msn.com/id/4179618/|title = Transcript for Feb. 8th|accessdate = 2006-09-09|date= 2004-02-08|publisher = MSNBC}}</ref>[[2004年アメリカ合衆国大統領選挙]]に再選を狙って出馬し、イラク戦争と国内問題の遂行をめぐる論争にもかかわらず、上院議員の[[ジョン・フォーブズ・ケリー|ジョン・ケリー]]
しかし再選後にブッシュは益々激しい批判を受けた。ブッシュの国内の支持率は2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ直後の<ref>{{cite web|url=http://www.reuters.com/article/topNews/idUSN1624620720071017?feedType=RSS&feedName=topNews&rpc=22&sp=true|title=Voters Unhappy with Bush and Congress|date=October 17, 2007|accessdate=2007-10-17|publisher=Reuters}}</ref> 91パーセント(ザ・ギャラップ・オーガナイゼーションがこれまでに記録した中の最高値)<ref>{{cite news|url=http://blogs.usatoday.com/onpolitics/2007/07/usatgallup-po-1.html|accessdate=2007-11-28|publisher=USA Today|date=10 July 2007|title=USAT/Gallup Poll:Bush approval at new low;Republican support eroding}}</ref> から、[[2008年]][[2月20日]]には記録に残る中で最も低い現職アメリカ合衆国大統領支持率<ref>{{cite news|url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/07/24/AR2007072402263.html?hpid=moreheadlines|accessdate=2007-07-25|publisher=[[Washington Post]]|date=25 July 2007|title=Disfavor for Bush Hits Rare Heights;In Modern Era, Only Nixon and Truman Scored Worse, Just Barely}}</ref>となる19パーセントにまで低下した。このときブッシュの不支持率は76パーセントまで上昇し、国内ではブッシュ批判が激しさを増した<ref>{{cite web|url=http://americanresearchgroup.com/economy/|title=American Research Group:The National Economy|date=February 20, 2008|accessdate=2008-02-20|publisher=[[American Research Group]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090125052550/http://americanresearchgroup.com/economy/|archivedate=2009年1月25日|deadlinkdate=2017年9月}}</ref>。それは2009年1月20日に後継の[[バラク・オバマ]]に[[政権]]をバトンタッチするその日まで続いた<ref>[http://www.j-cast.com/tv/m/2009/01/21033961.html ブッシュの「成功」に勝てるか 麻生首相の実績とは] J-CASTモバイル テレビウォッチ</ref>。しかし退任後の好感度は上昇しており、2009年1月の退任時には33%だった好感度が2018年1月には61%にまで上昇した。
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|accessdate = 2007-06-23
}}</ref>。
父の先例にならってブッシュはイェール大学に通い、[[1968年]]には歴史学士号を取得した<ref>{{cite web|url=http://www.whitehouse.gov/president/biography.html|title=Biography of President George W. Bush|accessdate=2007-07-10|publisher=[[The White House]]}}</ref>。大学時代は当初野球部で投手だったが、才能に限界を感じて3年から[[ラグビー]]部へ移り、4年でレギュラーになった<ref>{{Cite web |url=http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-j072.html |title=Embassy of the United States Tokyo, Japan - 米国政府 |accessdate=2013年1月19日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130309214223/http://japan2.usembassy.gov/j/p/tpj-j072.html |archivedate=2013年3月9日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。
1968年5月に進行していた[[ベトナム戦争]]の真っ只中にブッシュは適性検査の筆記試験で下から25番目の成績で<ref name="United States Department of Defense">{{cite news
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|date= 2004-08-26
|accessdate = 2007-10-19
}}</ref>。批評家はブッシュが彼の父親の政治的な地位のために軍務で有利に扱われ、正常な兵役では無かったと主張した。[[アメリカ国防総省]]は公式アーカイブに残っていたという、ブッシュのテキサス空軍州兵勤務記録の全てを公開した<ref name="United States Department of Defense"/>。1970年
{{cite web
|url = http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/choice2000/bush/cron.html
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|date= 1999-07-25
|accessdate = 2006-06-27
}}</ref>。[[1976年]][[9月4日]]
|url = http://www.thesmokinggun.com/archive/bushdmv1.html
|title = 2000 Driving Record
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|archivedate = 2006年10月26日
|deadlinkdate = 2017年9月
}}</ref>、ブッシュはテキサスの石油鉱業会社に入社した。1977年に
|url = http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/jesus/etc/script.html
|title = The Jesus Factor
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}}</ref>。
1978年
|url = http://www.washingtonpost.com/wp-srv/aponline/19991017/aponline114059_000.htm
|title = Bush Wasn't Always a Front-Runner
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ブッシュは石油企業に戻り、アーバスト・エネルギー<ref>{{cite journal|last=Stone|first=Peter H.|title=Big oil's White House pipelines|journal=National Journal|date=04-07-2001|issue=33|page=1042|language=English|id=ISSN:03604217}}</ref>、スペクタン・7、ハーケン・エネルギーなどの会社の社長・最高経営責任者となった<ref>{{cite news|last=Carlisle, John K<!-- I removed the period because the cite template adds an extra period -->|title=George Soros's Plan to Defeat George Bush|work=Human Events|date=03-01-2004|language=English}}</ref>。これらの事業は1980年代に産業と地域経済に影響を及ぼした[[石油]]価格の広範囲な低下により損害を受けた。さらに、ハーケンが関係したかもしれない[[インサイダー取引]]の疑惑が起こったが、[[証券取引委員会]](SEC)の調査は、ブッシュの株式販売より前に容疑を正当化するインサイダー情報はないと結論付けた<ref>{{cite news|url = http://www.commondreams.org/headlines02/0721-02.htm|title = Files:Bush Knew Firm's Plight Before Stock Sale|publisher = Washington Post|date = 2002-07-21|accessdate = 2007-01-02|archiveurl = https://web.archive.org/web/20080918073117/http://www.commondreams.org/headlines02/0721-02.htm|archivedate = 2008年9月18日|deadurldate = 2017年9月}}</ref>。
[[1981年]]
[[1988年]]
|author = Public Broadcasting System
|url = http://www.pbs.org/wgbh/pages/frontline/shows/choice2000/bush/wead.html
196行目:
|publisher = [[Texas State Library and Archives Commission]]
|accessdate = 2007-01-21
}}</ref>。[[1998年]]
|url = http://www.makethemaccountable.com/tax/SaleOfBaseballTeam.htm
|title = Sale of baseball team
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大統領の1期目はほとんどを対外戦争に費やした。アメリカ史上最も接戦となった選挙戦であった[[2000年アメリカ合衆国大統領選挙]]に勝利し、2001年1月20日に第43代アメリカ合衆国大統領に就任した。民主党候補の[[アル・ゴア]]が、一般投票でブッシュの得票を50万票ほど上回っていたが、選挙人投票でブッシュが5票多く得票した。実弟であるジェブ・ブッシュが知事を務めるフロリダ州の一般得票でゴアをわずかに上回り、25人の選挙人を獲得したためである。しかし選挙終盤のフロリダ州における選挙の運営方法への問題点も指摘され(ブッシュ陣営がジェフ・ブッシュを通じて不正選挙を行ったと主張する意見もある)ゴア陣営が抗議したため、発足当初の国民支持率は低迷していた。
任期9か月目の[[9月11日]]、[[ニューヨーク]]とワシントンD.C.で'''[[アメリカ同時多発テロ事件|同時多発テロ]]'''が発生。3日後の[[9月14日]]
ブッシュ自身は、[[第三次世界大戦]]<ref>"Bush likens 'war on terror' to WWIII". ABC News Online – Abc.net.au. 06/05/2006.</ref>とも呼んだこの戦争は、[[10月7日]]に'''[[アフガニスタン紛争 (2001年-)|アフガニスタンへの侵攻]]'''によって開始され、世界各地で[[不朽の自由作戦]]が実行された。国際的なテロリズムとの戦いにも必要として[[国際的監視網]]も秘密裏に強化した。国内では、テロ対策に不可欠だとして'''「パトリオット法」'''([[愛国者法]])を制定し、本来アメリカの領土ではないとされる[[国際連合本部ビル|国連本部]]に対しても監視していたとする{{仮リンク|国連盗聴疑惑|en|Spying on the United Nations}}も起きた。アフガニスタン作戦は順調に進み、[[12月7日]]には[[タリバーン]]政権は転覆し、同月に新政権を樹立させた。
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[[2002年]]1月に[[一般教書演説]]において[[悪の枢軸]]発言を行った。これは[[イラク]]・[[イラン]]・[[朝鮮民主主義人民共和国|北朝鮮]]を[[大量破壊兵器]]を開発保有する[[ならず者国家]]と名指しで非難したものである。特にイラクに対しては[[イラク武装解除問題|武装解除問題]]を抱えていたので厳しい態度で臨み、国際連合の全面査察を4年ぶりに受け入れさせた。しかし武装解除が進まず、未だに大量破壊兵器を持ち続け、世界の脅威になっていると報告を受けたとし、それを世界に発信した。同年2月の[[2002年ソルトレークシティオリンピック]]での開会式では、[[オリンピック憲章]]第58条3項の規定を無視して「誇り高く、優雅なこの国を代表して」と政治的な言葉を付け加え、物議を醸した<ref>MacKay, Duncan (February 15, 2002). "Chariots of ire: is US jingoism tarnishing the Olympic ideal?". The Guardian. UK. Retrieved September 2, 2008.</ref>。
[[2003年]]に入るといよいよイラクに対して強硬姿勢を採るようになる。しかし[[フランス]]・[[ドイツ]]・[[ロシア]]・[[中国]]などは根拠が足りないとして、イラクへの制裁戦争に反対した。[[3月17日]]
[[7月11日]]にはアメリカ国民のブッシュへの支持率が同時多発テロ事件以来の最低水準である59パーセントに急落したことが判明(ABCテレビとワシントン・ポスト紙の共同世論調査による)したが、これは後に回復し、その後再度低下している。12月にはフセインの[[逮捕]]に成功し、[[裁判]]の準備も行われ、占領政策も順調に行われているように見えたが、実際は[[アメリカ軍]]を狙った攻撃や[[自爆テロ]]が絶えず、死者は[[湾岸戦争]]の1000名を上回ることとなった。また、イラクが隠し持っていると主張していた大量破壊兵器が見つからず、イラク戦争に対し国民は懐疑的になっていった。
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[[ファイル:Living US Presidents 2009.jpg|thumb|200px|ホワイトハウス内で歴代大統領とともに立つブッシュ(左からジョージ・H・W・ブッシュ、バラク・オバマ、ブッシュ、ビル・クリントン、[[ジミー・カーター]])]]
[[ファイル:George W. Bush farewell address.jpg|thumb|200px|大統領として最後の演説を行うブッシュ]]
[[2004年]]
[[2005年]]2月2日
8月29日
さらに10月にはイラク戦争開始前にイラクの大量破壊兵器購入に懐疑的な見解を述べた、元駐[[ガボン]][[大使]]の[[ジョゼフ・チャールズ・ウィルソン|ジョゼフ・ウィルソン]]の妻[[ヴァレリー・プレイム]]が[[中央情報局|CIA]]の工作員であると意図的に情報漏洩し、元大使の信頼性を落とそうと画策した事件に関し、副大統領チェイニー
この影響で11月に[[ニューズウィーク]]誌が実施した[[世論調査]]によれば、支持率は36パーセントにまで低下した。他の世論調査でも支持率が低下しており、ブッシュ政権は2期目の最初の1年目から試練に直面した。年末にブッシュはイラク開戦の重要な根拠となった大量破壊兵器の報告に誤りがあったと発表した。開戦以前からイラクの武装解除は順調に行われていたことがすでに明らかになっていたが、これを追認する形となった。しかしながらフセインの圧政からイラク人を解放したことを強調し、戦争の正当性を改めて訴えた。
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;韓国
[[ファイル:APEC2006 Roh Bush Abe (2).jpg|thumb|250px|[[2006年]]の[[アジア太平洋経済協力|APEC]]首脳会議時の日米韓3か国会議にて、'''ジョージ・W・ブッシュ'''、[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]](右)、[[大統領 (大韓民国)|大韓民国大統領]][[盧武鉉]](左)と(役職はいずれも当時)]]
:2001年の米韓首脳会談では当時の大統領[[金大中]]
;北朝鮮
:大統領就任前のブッシュは北朝鮮問題に関心も知識も乏しかった。2000年6月の大統領候補時代に、友人である[[サウジアラビア]]の[[バンダル・ビン・スルターン]][[サウジアラビアの国王一覧|王子]]と会談した際、「なぜ自分が北朝鮮のことを心配しなければならないのか?」とこぼして、王子に「北朝鮮の国境付近には3万8,000人のアメリカ兵が駐留しているため、北朝鮮が国境を越えて侵攻すればおそらく1万5000人が戦死して、合衆国は途端に戦争へ突入するからです」と諭されている<ref>[[ボブ・ウッドワード]]『State of Denial:Bush at War, Part III』</ref>。就任後はクリントン政権の宥和策に反対してきた[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の姿勢に沿って、「[[悪の枢軸]]」として批判を行うなど強硬姿勢を取っている。[[北朝鮮による日本人拉致問題|日本人拉致問題]]についても、2006年にアメリカを訪問した横田夫妻ら被害者家族との面会時に断固たる姿勢で望む事を表明していた。
:しかし、[[北朝鮮の核実験 (2006年)|北朝鮮の核実験]]実施や他の外交政策の不振から、「核施設の無能力化を進めれば、拉致問題の進展とは関係なく、[[テロ支援国家]]指定を解除する」との立場を北朝鮮に伝えていたことが明らかになっている<ref>{{Cite web |url=http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7000/news/20070811i101.htm |title=アーカイブされたコピー |accessdate=2007年10月21日 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20071029025545/http://www.yomiuri.co.jp/feature/fe7000/news/20070811i101.htm |archivedate=2007年10月29日 |deadlinkdate=2020年2月 }}</ref>。北朝鮮と[[中朝友好協力相互援助条約|同盟関係]]にある中華人民共和国はイラク戦争開戦による衝撃から仲介に乗り出して[[六カ国協議]]が始まり<ref>寺林裕介 「{{PDF|[http://www.sangiin.go.jp/japanese/annai/chousa/rippou_chousa/backnumber/2006pdf/2006070773.pdf 北朝鮮の核開発問題と六者会合(上)-北東アジアにおける多国間枠組みの形成]}}」</ref>、核兵器の放棄が合意された。2007年2月13日の六カ国協議での合意に基づき、2008年6月の北朝鮮の[[寧辺核施設]]の爆破パフォーマンスや核開発計画申告などを受けて指定解除の手続きを開始、拉致問題については引き続き解決への協力姿勢を表明しているものの、被害者家族からは先の面会時からの豹変振りに「裏切られた」と失望の声が挙がっていた。
:だが、土壇場の8月11日に「しっかりとした(核施設の)検証体制を示さない」ことを理由に北朝鮮のテロ支援国家指定解除の発令に対する署名を拒否した。そもそも6月26日の指定解除手続きに関する発表<ref>http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-9.html</ref> では、同時に北朝鮮及び北朝鮮の国民に関する確定的な(移動)制限を継続することについての大統領令({{en|Executive Order:Continuing Certain Restrictions with Respect to North Korea and North Korean Nationals}})<ref>http://georgewbush-whitehouse.archives.gov/news/releases/2008/06/20080626-4.html</ref> も発表しており、この時点で北朝鮮による手続きが履行されても不履行であっても、対北朝鮮制裁を解除する意志がなかったことが、この大統領令の存在から明らかになっている。オバマ政権に交代後の2009年4月に北朝鮮は核兵器開発の再開と六カ国協議からの離脱を表明することとなった。
:[[2005年]]には[[脱北者]]の[[姜哲煥]]をホワイトハウスに招待している。
;チベット
:ダライ・ラマ14世をホワイトハウスに招待するほど親密であり、ダライ・ラマ14世がアメリカ議会から議会名誉黄金勲章を授与された時に子ブッシュ
;ベトナム
[[ファイル:NguyenMinhTriet & GeorgeWBush 2006-Nov-17.jpg|thumb|250px|グエン・ミン・チェット国家主席とジョージ・W・ブッシュの握手]]
:イラク戦争が末期に入った2006年[[11月17日]]、[[ベトナム]]の
;フィリピン
:2008年に[[フィリピン]]に対して食料価格高騰や台風6号の被害に苦しむ同国民を助けるため、アメリカ海軍の原子力空母[[ロナルド・レーガン]]を被災地に派遣して食料支援を行った。ジョージ・W・ブッシュ
;メキシコ
:隣国で強い経済関係を持つ[[メキシコ]]に対しては強い親近感を示し、これまでの歴代大統領は就任後初の訪問国として[[カナダ]]を訪れていたが、子ブッシュは就任後初の訪問国としてメキシコを訪れている。なお、この様なメキシコに対する親近感には、テキサス州知事選挙をはじめとする過去の選挙戦において、テキサス州で多くの票を持つメキシコ系アメリカ人からの支持を受けていたことが強く影響していると言われている
;中南米
:アフガン侵攻・イラク戦争以来ベネズエラの大統領ウゴ・チャベス
;ロシア連邦
[[File:Vladimir_Putin_at_APEC_Summit_in_China_19-21_October_2001-13.jpg|thumb|right|200px|ロシアの大統領プーチン
:ロシアの[[プーチン]]政権とは[[チェチェン紛争|チェチェン]]問題もあり、当初は距離を取っていたが、9.11テロを契機にして協調関係に移行。ロシア領域内通過容認やテロリストの情報提供<ref>斎藤元秀 「{{PDF|[https://www2.jiia.or.jp/pdf/russia_centre/h14_c-asia/05_saito.pdf ロシアのアフガニスタン・イラク・イラン政策 - 日本国際問題研究所]}}」</ref>などプーチン政権から支援がされ、[[中央アジア]]へのアメリカ軍基地も設置できた。2005年のロシアの戦勝記念日の軍事パレードに出席するなど、積極的に「テロとの戦い」を進めていくことを確認した。しかし、イラク戦争ではフセイン政権と親交があったロシアとの利害対立が目立った。また、[[東欧ミサイル防衛構想]]を推し進め、[[南オセチア紛争]]では[[ドミートリー・メドヴェージェフ|メドヴェージェフ]]政権から「紛争の発端はアメリカ大統領選挙で共和党を有利にするためのネオコンの陰謀である」と批判されて[[新冷戦]]とも評された(これはプーチンとともにブッシュが北京オリンピックの式典に参加するため国内を空席にした際に紛争が起きたため、政権内部のネオコンをコントロールできていたかその能力を疑われたからでもある)。
;ウクライナ
:[[オレンジ革命]]で親欧米派が勝利した[[ウクライナの大統領]][[ヴィクトル・ユシチェンコ]]と同国の[[ウクライナの
;アルバニア
:セルビア共和国自治州コソボ独立促進のため、アルバニアを訪問した。[[アルバニア]]への初の米大統領訪問となったため、ブッシュは熱烈な歓迎を受けるという珍しい事例である。アルバニアのNATO加盟については、ブッシュは支持はするが、「アルバニアはより政治的、軍事的な改革を行い、組織化された犯罪を根絶せねばならない」とまだまだ加盟までに準備が必要であることを言及した。アルバニアに対し、平和を維持し、コソボ自治州の独立交渉を進展させていくように促進した。当時のアルバニアは[[1997年アルバニア暴動|アルバニア暴動]]の発生など混乱も生じていたが、ブッシュは粘り強く支援を続け、2009年のNATO加盟実現に漕ぎ着けた。
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:[[アフリカ]]諸国に対する支援に極めて熱心であり、[[教育]]・[[医療]]活動への支援とともに、[[紛争]]や[[内戦]]の終結を目指して積極的な仲介工作を展開した<ref name="shincho20090319" />。ブッシュ政権はアフリカ諸国への2国間支援を特に重視しており、その年間支出はクリントン政権時の4倍に達した<ref>David Blair, "Analysis:How George W Bush became an African hero", ''[http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/northamerica/usa/2262217/Analysis-How-George-W-Bush-became-an-African-hero.html Analysis:How George W Bush became an African hero - Telegraph]'', [[デイリー・テレグラフ|Daily Telegraph]], [[7月7日|July 7]], [[2008年|2008]].</ref>。ブッシュの積極的な支援活動に対しては、アフリカ諸国からも評価する声が強い。大統領退任前後には、ブッシュの功績を称える市民らが[[新生児]]に「ジョージ・ブッシュ」と命名する[[社会現象]]が発生し、[[アフリカ大陸]]北部地域を中心に流行した<ref name="shincho20090319" />。アフリカ地域の紛争に対処する[[アメリカアフリカ軍]]を創設し、父のブッシュと同様に[[ソマリア内戦]]にも介入した。
;オセアニア
:[[オーストラリア]]は対テロ戦争とイラク戦争を支持して派兵したが、[[ニュージーランド]]は派兵をしていない。またニュージーランドのオークランドとウェリントンで、人気ピザチェーンの『地獄ピザ(Hell)』が看板広告のブッシュ
;その他の国
:ブッシュはアフガニスタン侵攻からイラク戦争までイスラム社会から憎悪の対象となっており、その度にイスラム社会の[[マクドナルド]]や[[ケンタッキーフライドチキン]]の店舗などに破壊や放火があり、[[南アメリカ]]訪問や大統領退任後の[[カナダ]]訪問でも現地民から抗議行動を受けており、大統領退任後も[[パキスタン]]では反戦抗議があった。しかしアメリカはイラクでも莫大な復興支援を提供し、[[イスラエル]]・[[パレスチナ]]の和平プロセスを進めており、パレスチナに多額の復興支援をしているが、結局[[ガザ紛争 (2008年-2009年)|2009年のガザ侵攻]]でブッシュは拒否権を出したために関係は再び悪化してしまった<ref>[http://www.afpbb.com/article/politics/2327193/2464916]</ref>。また[[核兵器]]を廃棄した事を宣言してかつてのテロの和解金を出した[[リビア]]の[[カダフィ]]大佐との関係は良好化している。イスラム社会から恐怖の存在で憎悪の対象となったブッシュだが、かつてはテロ支援国家だったリビアのカダフィ政権を保障した寛容性があった。
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ニューヨーク市立大学教授でハーバード時代のブッシュが受講する授業を担当した[[霍見芳浩]]は、大統領就任が決まった直後の日本のマスコミの取材で当時のブッシュの印象を聞かれて「普通、授業を教えた生徒の事はいちいち覚えていないものだが、彼は非常に出来の悪い生徒だったのでよく覚えている」「もう箸にも棒にもかからない」「典型的な金持ちのお坊ちゃま。怠惰で授業態度も悪く、大統領はおろかどんな組織のリーダーも務まる人物ではないと思った」と答えている<ref>2000年11月27日付けの日刊ゲンダイ,CNN.COM 2004年9月13日配信記事 http://edition.cnn.com/2004/ALLPOLITICS/09/13/bush.professor/</ref>。
大統領候補時代に記者から「[[パキスタンの大統領]]の名前は?」と質問されて答えられない<ref>http://www.cnn.com/ALLPOLITICS/stories/1999/11/05/bush.popquiz/</ref> など、就任前から大統領として相応しい知性の持ち主か否か危ぶむ声があった(ブッシュが同じような質問を記者にすると「私は記者だが、あなたは大統領候補だ」と返された)。大統領就任後も、2001年11月のブラジルの[[ブラジル連邦共和国大統領|大統領]][[フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ
他の歴代大統領と比較して著しくボキャブラリーが貧困であるとされた。耳慣れない人名や地名をよく間違って発音することでも有名で、[[アブグレイブ刑務所]]の囚人虐待事件に関する演説では「アブグレイブ」の発音を1度もまともに言えなかった。2007年9月
第1回の大統領選挙の公開討論の席で、[[アル・ゴア]]がブッシュを小馬鹿にするような態度を示したが、それに対し誠実な対応を行ったことが有権者の好意的評価に結びついたとされる。
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[[AP通信|AP通信社]]がアメリカ国民を対象に行った[[世論調査]]では、2006年の「憎まれ役」「英雄」でそれぞれ1位に選ばれた。ちなみに「憎まれ役」は2位以下、[[ウサーマ・ビン・ラーディン]]、[[サッダーム・フセイン]]、[[マフムード・アフマディーネジャード]]、[[金正日]]。「英雄」は2位以下、イラク駐留アメリカ軍、バラク・オバマ。また、[[ジョン・F・ケネディ]]以降の歴代大統領を、ホワイトハウスで取材してきたジャーナリスト、[[ヘレン・トーマス]]は、彼を「今までで最悪の大統領。アメリカ史上最悪の大統領({{en|This is the worst President ever. He is the worst President in all of American history.}})」<ref>http://en.wikiquote.org/wiki/Helen_Thomas</ref> と酷評している。一方でライス国務長官は政権末期のアメリカ[[CBS]]テレビとのインタビューで、ブッシュが直面してきた状況について「[[第二次世界大戦]]後で最も厳しい時期だったのではないか」との見方を示し、そのなかでブッシュが下してきた決断は「時を経て記憶にとどまるだろう」とし、イラクのフセイン政権打倒や中国・[[インド]]・ブラジルなどとの良好な関係を例に挙げ、「歴史がブッシュ政権に良い評価を下すだろう」と述べた。
2002年1月
[[AIDS|エイズ]]の撲滅運動にも熱心で、2004年に[[エルトン・ジョン]]はコンサートにやって来たブッシュ夫妻と直接面会した際に、彼の政策への強い不満の一方で、彼の魅力と「優しさ」を覚えたとし、教訓になったと述べた<ref>http://news.yahoo.com/blogs/power-players-abc-news/elton-john-george-w-bush-taught-lesson-040430553.html?_esi=1</ref>。
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