「蔣桂戦争」の版間の差分
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== 作戦の経過 ==
蒋介石と新広西派との対立が激化した後、河北に駐屯していた新広西派の部隊は白崇禧が指揮をとっていた。白崇禧の当初の計画では、第36軍をもって[[保定]]、[[京滬線|津浦線]]に沿って南下し[[徐州市|徐州]]に至り、湖北の新広西派軍の南京攻略と歩調を合わせるというものであった。しかし、第36軍はもともとは[[唐生智]]の部隊であったので、蒋介石はこれを利用するため、唐生智を日本から帰国させ<ref>1927年11月の寧漢戦争で唐生智は李宗仁に敗れ日本に亡命していた。</ref>、以前の河北に派遣した。唐生智の旧部隊への影響力は大きかったため、白崇禧は第36軍に対して制御できなくなり、やむを得ず隠密裏に唐山へ行き、船で河北を脱出した。第36軍軍長、広西籍の軍官[[廖磊]]も唐生智が河北に到着した後に自ら辞職した。このことにより、河北の新広西派の軍で多くの広西籍の軍官が辞職し南下することになった。蒋桂戦争はこの段階ではまだ正式には発生していなかったが、河北の新広西派はすでに瓦解していた。このため、白崇禧は香港脱出することとなった。
李宗仁、白崇禧は交通事情が原因となって、武漢に戻れず、新広西派の部隊を指揮する方法が無くなった。また、黄紹竑は広西で留守を守ってたので北上できなかった。このような情勢から、新広西派の部隊はそれぞれ配置のまま実質的な戦闘状態に入った。
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