「カメルーンの歴史」の版間の差分

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[[1871年]]に[[プロイセン王国]]がドイツ諸地域を統一し、[[ドイツ帝国]]が成立すると、それまで海外領土を獲得する能力がなく、アフリカ大陸には一切の拠点を持っていなかったドイツがアフリカ進出を開始した。ドイツの商社代表[[グスタフ・ナハティガル]]はカメルーン南西部に広がる[[ドゥアラ人]]との交渉に成功したが、イギリスは弱小な民族と保護条約を結んだに過ぎなかった。
 
[[1884年]]には、ドイツ帝国初代宰相の[[オットー・フォン・ビスマルク|ビスマルク]]がアフリカ分割を決定付けた[[ベルリン会議_(アフリカ分割)|ベルリン会議]]を主催する。参加国は、[[アメリカ合衆国]]、イギリス、[[イタリア王国]]、[[オーストリア=ハンガリー二重帝国]]、[[オスマン帝国]]、[[オランダ]]、[[スペイン]]、[[スウェーデン]]、フランス、ポルトガル、[[ベルギー]]、[[ロシア帝国]]など13カ国であり、当時の[[列強]]とアフリカに権益を持つ国家すべてを含んでいた。ベルリン会議の原則は、沿岸を占領している国家がその内陸部を所有すること、空白地は会議参加国に通告することで、確保できること、権益地域では他国の通商、航行を保護する権力を持たなければならないことなどである。ベルリン会議の原則を一言で言うと「早いもの勝ち」である。このため、アフリカ分割が急速に進み、第一次世界大戦開始直前の1914年には[[リベリア|リベリア共和国]]と[[エチオピア帝国]]を除くすべての領域が西欧諸国に完全に分割されてしまった。
 
既にドゥアラに進出していたドイツ商社は1883年に本国政府にカメルーンの領土化を要請したため、ドイツ帝国は[[1884年]][[7月5日]]にカメルーン全土を[[保護領]]化した<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:49-50)]]</ref>。1885年に[[ドゥアラ]]に総督が派遣され、進出に抵抗した諸民族から土地を取得し、地域のイスラーム首長に労を通して間接統治を行った<ref>[[#小田(1986)|小田(1986:65-68)]]</ref>。当初、[[首都]]は高地で過ごしやすい気候の[[カメルーン山]]麓の標高1000mの[[ブエア]]に置かれていたが、その後[[1888年]]に[[象牙]]貿易の拠点として建設された[[ヤウンデ]]に移った。