「義経=ジンギスカン説」の版間の差分

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#義経が奥州衣川で死せず、蝦夷にわたり、更に韃靼にわたり元を建国しチンギス・カンとなった。
#義経は大陸で死んだがその子孫が清和源氏の清の字をとった清を建国した。
  この記事では主に3について記す。
 
 
[[室町時代]]以降、いわゆる「[[判官贔屓|判官びいき]]」から生まれた「義経不死伝説」が「御曹司島渡」説話と結びついて「義経北行伝説」が成立し、近代に入り『[[義経再興記]]』によって「成吉思汗=義経伝説」へと発展した。[[江戸時代]]に『[[義経記]]』は元和木活字本により広く流布し、[[寛永]]年間([[1624年]]-[[1643年]])の流布本<ref>寛永10年([[1633年]])流布本と寛永12年([[1635年]])流布本が知られる。</ref>によって本格的に読まれるようになり、[[浄瑠璃]]、[[歌舞伎]]、[[狂言]]、[[読本]]などにもさかんに取り入れられていくが、こうしたなかで、義経不死伝説と「御曹子島渡」説話が互いに結びつき、義経は自刃したとみせかけて、実は蝦夷地にわたったという伝説('''源義経北行伝説''')となって成立した。しかしながら[[江戸時代]]初期には[[林羅山]]や[[新井白石]]らによって真剣に議論され、[[水戸光圀]]が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていたが、[[沢田源内]]『[[金史別本]]』などの虚偽が判明し、それ以来学術的には否定されてきた。俗説では源義経が金の将軍になったり、義経の子孫が清という国を作ったなどという話がはやった。[[フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト|シーボルト]]がその書「[[日本]]」で義経が大陸に渡って成吉思汗になっと主張したあと、[[大正]]末年に[[小谷部全一郎]]によって『成吉思汗ハ源義經也』が著されると大ブームになり、多くの信奉者を生んだ。[[大正]]時代から学者の否定が目立ち、完全否定されつつも[[東北地方|東北]]・[[北海道]]では今も義経北行説を信じる者が多い。<ref>土井全二郎『義経伝説を作った男 義経ジンギスカン説を唱えた奇骨の人・小谷部全一郎伝』光人社、2005.10、ISBN 4769812760</ref>
 
戦後は[[高木彬光]]が[[1958年]]([[昭和]]33年)に『[[成吉思汗の秘密]]』を著して人気を博した。しかし、生存説は俗説にとどまり、学術的な説に発展することはなかった。
 
 
[[ジンギス・カン]]については生年や前半生が不明な点が多いことや、[[口伝]]による歴史伝達など裏づけ部分が不明なことが多く、この説の決定的な否定の材料に乏しいことも事実である。[[源義経]]に関しても信頼できる資料は『[[吾妻鏡]]』であるが、22歳のときに駿河の[[黄瀬川]]に陣を布いた[[源頼朝]]を訪ね、兄弟の対面した記録が最初であり、その前には地方を放浪して「[[土民]]」([[土人]])や「[[百姓]]」に使われていたとあるだけで<ref>[[腰越状]]にある記述</ref>、不明な点が多い。
 
 
* 「或日、衣河之役義経不死、逃到[[蝦夷]]島其遺種存干今」『[[本朝通鑑|続本朝通鑑]]』「俗伝」[[林鵞峰]](林春斎)編纂<ref>[[林羅山]](道春)の子で[[林鳳岡]]の父。</ref>。[[寛文]]10年([[1670年]])
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* 「義経手ヲ束ネテ死ニ就ベキ人ニアラズ、不審ノ事ナリ」「今モ蝦夷ノ地ニ義経家跡アリ。マタ夷人飲食ニ必マツルモノ、イハユル『オキクルミ』ト云フハ即義経ノ事ニテ、義経後ニハ奥ヘ行シナド云伝へシトモ云フ」『[[読史余論]]』[[新井白石]]。
 
 
[[林鵞峰]](春斎)の『続本朝通鑑』「俗伝」の記載(1670年)により、義経北行伝説は急速に広がっていった。
 
[[新井白石]]は、アイヌ伝説のなかには、小柄で頭のよい神オキクルミ神と大男で強力無双の従者[[サマイクル]]に関するものがあり、この主従を義経と[[弁慶]]に同定する説のあったことを『[[読史余論]]』で紹介し、当時の北海道各地の民間信仰として頻繁にみられた「ホンカン様」信仰は義経を意味する「判官様」が転じたものではないかと分析をしたが、安積澹泊宛に金史別本が偽物であると見破り、手紙を書いたが、義経渡航説を必ずしも否定していない(『義経伝説と日本人』P112)。[[林羅山]]も[[本朝通鑑]]に義経が蝦夷に渡った可能性について論じた。江戸時代に平泉地方を統治した[[仙台藩]]は、義経が平泉で自害したと記録しているが、[[延宝]]年間成立とされる『可足記』<ref> [[元禄]]年間の成立とも。著者は可足権僧正。津軽土佐の守信義(津軽藩主)の11男にして京都養源院住職。義経は杉目太郎行信を身代わりにして難を逃れ、57名の従者とともに、津軽の十三港に脱出し、藤原秀衡の実弟で十三を支配する入道秀栄をたより、鎌倉攻撃を船団を組んで目論むが、泰衡の遺臣由利広常が南部崋山の兵に破れ、義経軍の鎌倉襲撃も失敗する。義経は蝦夷に漂着後、韃靼の金に渡った、という内容。(『奥州伝説と日本人』103頁)</ref>や[[享保]]二年([[1717年]])成立の『鎌倉実記』<ref> 著者は加藤謙斎。『金史別本』を異国の文献と称して紹介している。加藤は『金史別本』の捏造者ではないかという見方もある。(『義経伝説と日本人』108項) </ref><ref>加藤謙斎 1670*-1724江戸時代前期-中期の医師。寛文9年12月12日生まれ。臨節子に医学を,浅見絅斎(けいさい)に儒学を,さらに稲生若水(いのう-じゃくすい)に本草学を,笠原子に詩文をまなぶ。のち京都で開業。享保(きょうほう)9年1月7日死去。56歳。三河(愛知県)出身。名は忠実。字(あざな)は衛愚。別号に烏巣道人。著作に「病家示訓」など。(コトバンク) </ref>、[[明治]]初年成立の『新撰陸奥国史』では衣川事件のあと、義経は蝦夷地へ渡り、[[満州]](中国東北部)や[[蒙古]]に向かったと伝えている。
 
 
[[水戸光圀]]は義経北行説の立証に熱心だったようで、『[[大日本史]]』[[編纂]]事業では、その一環として調査団を組織し快風丸を建造して蝦夷地探検と義経北行伝説の真偽を確かめるため派遣している。派遣団は、蝦夷地に義経・[[弁慶]]にちなんだ地名があること、義経がアイヌの人達から[[オキクルミ]](狩猟や農耕をアイヌの人に教えた神)として崇められていることを報告している。農耕、舟の作り方と操法、機織などを伝えたという伝説が義経神社に伝わっており、[[平取]] の義経神社の社伝によれば、義経一行は、むかし蝦夷地白神(現在の福島町)に渡り、西の海岸を北上し、[[羊蹄山]]を廻って、日高ピラトリ(現在の平取町)のアイヌ集落に落ち着いたとされ、そこで農耕、舟の製作法、機織りなどを教え、アイヌの民から「ハンガンカムイ」(判官の神ほどの意味か)あるいは「ホンカンカムイ」と慕われたこという説もあり、アイヌの民の間ではアイヌの民から様々な宝物を奪った大悪人ということになっている。また義経に裏切られて、女の子(メノコ)が自殺を遂げた場所も存在する。<ref>北海道の住民にとって狩猟は、[[縄文時代]]・[[続縄文時代]]以来の長い年月を有する生業であり、7世紀にはじまる[[擦文文化]]期の遺跡では[[アワ]]・[[オオムギ]]・[[ヒエ]]・[[ソバ]]などの出土例がある。[[海獣]]の捕獲などについてはむしろ和人の側が[[アイヌ文化]]の影響を受けた可能性が高い。しかし、アイヌ神話の神と日本の英雄を結びつける発想は、アイヌ民族との接触とともにアイヌ民族を未開な民族だとする偏見が急速に根付いたことの現れとも考えられる。このような源義経北行伝説の萌芽も、やはり日本人の目が北方に向き始めた江戸時代にあり、[[1669年]]から翌年にかけておこった[[シャクシャインの戦い]]など北方の係争と無縁でなく、[[西廻り航路]]などの海運網の整備によって、蝦夷地を含めて国内市場、一国市場が形成されたことは、必然的に遠隔地や辺境地帯への関心を呼びおこし、とくに、江戸時代中期以降は、[[コンブ|昆布]]や[[俵物]]など蝦夷地の産品が[[長崎貿易]]において重要な輸出品となったことから、これら外貨獲得にとって不可欠な産品の供給地である北方への関心が高まった。</ref>。
 
江戸時代初期には、[[金_(王朝)|金]]の正史である『金史』の外伝という触れ込みで、「[[12世紀]]の金の将軍に源義経なる者がいた」と記した『金史別本』なる書が、[[沢田源内]]の翻訳によって出版されている(『金史別本』は偽本である)。[[金田一京助]]は[[永田方正]]が「『鎌倉実記』と『金史別本』の作者は沢田源内」という説を受け沢田源内を捏造者と断定した。(『世界』75号所収)[[岩崎克己]]は[[加藤謙斎]]説を唱えている。『義経入夷渡満説書誌』昭和18年。
 
 [[弁慶岬]](弁慶崎)の地名は[[アイヌ語]]のベルケイ、すなわち「裂けた所」の意味で、海食屋の地形に由来し、ここで義経一行が逗留中に余興として弁慶が相撲をとった伝わるが、アイヌ人が弁慶としてで命名したのではなく、和人が義経伝説に因んで勝手に命名したに過ぎない。元文4年([[1739年]])成立の[[坂倉源次郎]]『北海随筆』(『日本庶民生活資料集成』三一書房、1969年)には、この「弁慶崎」から、義経が「北高麗」に渡った、とする伝承が記されている。また、義経をオキクルミとすることに対して、弁慶をもう一人の英雄である[[サマユンクル]]に擬える事も、広く行われていた。
[[松浦静山]]の『甲子夜話』[[文政]]4年([[1821年]])および『甲子夜話続編』や古川古松軒<ref> 古川古松軒は享保十一年(一七二六)今の総社市新本に生まれた。名は正辰(まさとき)または辰と略す。字(あざな)は子曜、通称平次兵衛。号は古松軒のほか黄微山人、竹亭ともいう。八歳の時母勝を失ったこと、二十歳のころ京都に住んだこと以外、若いころの古松軒についてはほとんど明らかでない。いつのころからか、現在の[[真備町]]岡田に移り、仲屋」という薬屋を営んだが、四十歳半ばのころには、[[博奕]]にふけったり、代金不払いで大坂の薬問屋から訴えられるなど、その生活は決して安定したものではなかったと思われる。 自ら「遅まきの人」というように、「西遊雑記」・「東遊雑記」など、古松軒の名を有名にした著作はすべて五十歳を過ぎてからのものである。西遊雑記」は五十八歳の時、一人で九州を巡った旅の紀行。幕府[[巡見使]]に随行して江戸から蝦夷地に至り、紀行「東遊雑記」を著したは六十三歳の天明八年(一七八八)であった。幕府巡見使に随行して蝦夷地へ行くことができたのは、[[松平定信]]の家臣小笠原若狭守の侍医[[松田魏楽]]の養子になっていた長男護孝(魏丹)のつてによると考えられる。 少年期から地理学に親しみ、各地を旅行し、生涯を通じて全国を歩いた。1783年(天明3)山陽道から九州を一巡し、瀬戸内を航行した旅行記『西遊雑記』と、88年奥州から蝦夷(えぞ)地に渡った旅行記『東遊雑記』は当代紀行文学として名高い。93年(寛政5)老中松平定信(さだのぶ)に招かれて出府、下問にこたえ、著書や地図を献じた。翌年武蔵(むさし)国の地理調査を命ぜられ、半年余の調査結果を『四神地名録』『武蔵国御府外之地図』にまとめて奉呈した。紀行誌にはほかに『帰郷信濃噺(しなのばなし)』『都の塵』『八丈島筆記』などがあり、『備中国全図』『蝦夷全図』などの地図も作成している。『地勢論並に軍勢人数論』『御用諸事留書』『古川反故(ほご)』などには経世家としての一面もうかがえる。( Yahoo!百科事典)</ref>の『東遊雑記』[[天明]]7年([[1787年]])などにみられるように、義経が[[韃靼]]に渡り、その子孫が[[清和源氏]]の一字をとって、[[清国]]を興したとする説がむしろ幕末までは一般的であった。
 
 
 [[イザベラ・バード]]も『[[日本奥地紀行]]』に、「彼(義経)は蝦夷に逃れてアイヌ人と長年暮らし十二世紀の末に死んだ、と信ずる人も多く、アイヌ人は何処のことを固く信じている人は殆ど無く、義経は彼らの祖先に文字や数学と共に、文明の諸学芸を教え、正しい法律を与えた、と主張している」、等と和人からの伝承を記している。
 
 
 宝永七年([[1710]])に蝦夷地を訪れた幕府[[巡検使]]・[[松宮観山]]が、蝦夷通詞からの[[聞書]]を基にした『蝦夷談筆記』(『日本庶民生活史料集成』第四巻)には、「(義経が)蝦夷の大将の娘に馴染み、秘蔵の巻物を取たるいふ事」をアイヌがユカラに謡っている事などが記されている。これは『御曹子島渡』の、義経が千島大王の大日法の巻物を、天女の力を借りて写し終えると白紙になったという、物語を擬えたものである(『義経伝説と文学』大学堂書店、1935年)。和人が伝えたと考えられるが、この伝説も巻物がアイヌの文字を記した書物で、白紙になったことでアイヌの文字が失われた、という話は、義経がアイヌの文字を奪ったという話と同じである。
 
 
 [[義経神社]]([[沙流郡]][[平取町]]本町)には義経を祭神とする神社だが、これには諸説あるが、[[寛政]]一一年([[1799年]])、幕吏の[[近藤重蔵]]が蝦夷地探検でこの地に来た時、この地に義経伝説があることを知って建立したという。この近くの[[新冠郡]]新冠町には、判官館城跡と呼ばれるチャシ(砦)跡がある。この地に重蔵が最初に義経神社を勧請したと伝わっている。小シーボルトと呼ばれるハインリッヒ・シーボルトもこの地を訪れた。
 
 
 前述の通り江戸時代初期に、[[金_(王朝)|金]]の正史である『金史』の外伝という触れ込みで、「[[12世紀]]の金の将軍に源義経なる者がいた」と記した『金史別本』なる書が、[[沢田源内]]の翻訳によって出版されている(『金史別本』は偽本である)[[金田一京助]]は[[永田方正]]が「『鎌倉実記』と『金史別本』の作者は沢田源内」という説を受け沢田源内を捏造者と断定した。(『世界』75号所収)[[岩崎克己]]は[[加藤謙斎]]説を唱えている。『義経入夷渡満説書誌』昭和18年。この『金史別本』の内容に[[清]]の[[乾隆帝]]の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は[[清和天皇|清和]]から出たので国号を清としたのだ」と書いてあり、この噂が流布し、これが後の大陸進出に利用された
 
 
 [[松浦静山]]の『甲子夜話』[[文政]]4年([[1821年]])および『甲子夜話続編』や古川古松軒<ref> 古川古松軒は享保十一年(一七二六)今の総社市新本に生まれた。名は正辰(まさとき)または辰と略す。字(あざな)は子曜、通称平次兵衛。号は古松軒のほか黄微山人、竹亭ともいう。八歳の時母勝を失ったこと、二十歳のころ京都に住んだこと以外、若いころの古松軒についてはほとんど明らかでない。いつのころからか、現在の[[真備町]]岡田に移り、仲屋」という薬屋を営んだが、四十歳半ばのころには、[[博奕]]にふけったり、代金不払いで大坂の薬問屋から訴えられるなど、その生活は決して安定したものではなかったと思われる。 自ら「遅まきの人」というように、「西遊雑記」・「東遊雑記」など、古松軒の名を有名にした著作はすべて五十歳を過ぎてからのものである。西遊雑記」は五十八歳の時、一人で九州を巡った旅の紀行。幕府[[巡見使]]に随行して江戸から蝦夷地に至り、紀行「東遊雑記」を著したは六十三歳の天明八年(一七八八)であった。幕府巡見使に随行して蝦夷地へ行くことができたのは、[[松平定信]]の家臣小笠原若狭守の侍医[[松田魏楽]]の養子になっていた長男護孝(魏丹)のつてによると考えられる。 少年期から地理学に親しみ、各地を旅行し、生涯を通じて全国を歩いた。1783年(天明3)山陽道から九州を一巡し、瀬戸内を航行した旅行記『西遊雑記』と、88年奥州から蝦夷(えぞ)地に渡った旅行記『東遊雑記』は当代紀行文学として名高い。93年(寛政5)老中松平定信(さだのぶ)に招かれて出府、下問にこたえ、著書や地図を献じた。翌年武蔵(むさし)国の地理調査を命ぜられ、半年余の調査結果を『四神地名録』『武蔵国御府外之地図』にまとめて奉呈した。紀行誌にはほかに『帰郷信濃噺(しなのばなし)』『都の塵』『八丈島筆記』などがあり、『備中国全図』『蝦夷全図』などの地図も作成している。『地勢論並に軍勢人数論』『御用諸事留書』『古川反故(ほご)』などには経世家としての一面もうかがえる。( Yahoo!百科事典)</ref>の『東遊雑記』[[天明]]7年([[1787年]])などにみられるように、義経が[[韃靼]]に渡り、その子孫が[[清和源氏]]の一字をとって、[[清国]]を興したとする説がむしろ幕末までは一般的であった。
 
通俗小説の世界では、[[嘉永]]3年([[1850年]])に、永楽舎一水の『義経蝦夷談』に義経がジンギスカンになったとする話がある。[[清]]の[[乾隆帝]]の御文の中に「朕の先祖の姓は源、名は義経という。その祖は[[清和天皇|清和]]から出たので国号を清としたのだ」と書いてあったという噂まで流布している。
 
=== 伝説地 ===