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'''アントワーヌ・ピネー'''('''ピネ'''、'''Antoine Pinay'''、[[1891年]][[12月30日]] - [[1994年]][[12月13日]])は、[[フランス]]の[[右派]]([[保守]])[[政治家]]。[[1952年]]から[[1953年]]まで[[閣僚評議会議長]]([[フランス首相|首相]])を務めた。[[ローヌ県]]サン=サンフォリアン=シュル=ソーヌ出身。戦後のフランス政界において、最も猛烈な性格の人物という評を得た人物であり、首相経験者としては最長命を誇った。
 
==生涯==
[[ローヌ県]]サン=サンフォリアン=シュル=ソーヌ出身。[[第一次世界大戦]]に出征、戦傷を負い右腕に障害が残る。小さな[[皮革|なめし皮]]工場経営者として出発し、1929年ローヌ県サン・シャモン [[:en:Saint-Chamond|Saint-Chamond]]市長に当選する。[[1936年]][[フランス国民議会]]総選挙にロワール県から立候補し当選する。[[第二次世界大戦]]中は、[[ヴィシー政権]]の全国評議会評議員に任命されたため、戦後一時的に被選挙権を剥奪された。ピネーは、戦後フランス政界にあって右派(保守)政党結成に動き、{{仮リンク|全国独立主義者農民センター|fr|Centre national des indépendants et paysans}}(Centre National des Indépendants et Paysans、略称CNIP)を結成した。この間、ピネーは[[1950年]]に公共事業・運輸・観光相として初入閣した。
 
[[1951年]]総選挙の後、[[ルネ・プレヴァン]]、[[エドガー・フォール]]両内閣が短命のうちに倒れる中、[[ヴァンサン・オリオール]]大統領は、[[フランス社会党 (SFIO)|フランス社会党]](SFIO)を中心とする組閣を断念し、[[1952年]]3月ピネーを首相に指名した。ピネーはこの当時、比較的知名度が低かったが、広範な党派の同意を得、組閣に成功した。ピネー内閣の成立は右派の復権と見なされ、事実、戦前の対独融和主義者であった[[ジョルジュ・ボネ]]([[:fr:Georges Bonnet]])元外相などが復権した。『[[リベラシオン]]』はピネー内閣を「古典的右翼」と非難している。一方でピネー内閣は、「ピネー神話」といわれるようにフランス経済に好況をもたらしたとされる(実際のフランス経済の浮揚はピネー退陣後とされる)。ピネー内閣は、国内の[[インフレーション]]と[[第一次インドシナ戦争]]の継続と[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の軍備拡張要求により財政赤字に悩まされた。また、北アフリカの独立運動も活発化していった。1952年12月、53年度[[予算]]案が議会を通らなかったため、内閣総辞職した。
 
[[1958年]][[アルジェリア戦争|アルジェリア危機]]が先鋭化すると、[[シャルル・ド・ゴール|ド・ゴール]]を支持し、ド・ゴール内閣の[[蔵相]]に就任した。
 
[[1994年]][[12月13日]]死去。103歳に二週間足りなかった。
 
{{先代次代|公共事業・運輸・観光相|[[1950年]] - [[1952年]]|[[モーリス・ブルジェ=モーヌリ]]|[[アンドレ・モーリス]]}}