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Koyake (会話 | 投稿記録)
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A-140AF6 (会話 | 投稿記録)
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艦形の決定の際、同じく他艦種から改造された[[イギリス海軍]]の二段式航空母艦[[フューリアス (空母)|フューリアス]]の影響を受けてか、赤城共々、三層の[[飛行甲板]]を持つ三段式(雛段式)空母案が採用された<ref name="ポケット海軍1937加賀">[[#ポケット海軍年鑑(1937)]]p.21『航空母艦"加賀 かが" 全要目{排水量26,900噸 速力23.0節 備砲20糎砲10門 12糎高角砲12門 起工大正9年7月 竣工昭和3年3月 建造所横須賀海軍工廠}全長217.93米、最大幅31.24米、平均吃水6.50米。赤城と同様ワシントン條約のため戰艦から航母に改造され、大正9年7月起工され、約9年半後の昭和3年3月やつと竣工を遂げた。今日の趨勢では大型航空母艦よりも7,000噸乃至10,000噸のものが多く建造されてゐるが、三段の甲板を持ち、搭載機の着發甲板が夫々別になつてゐる大型航空母艦の價値も自ら別のものがある。20糎砲10門の一等巡洋艦と7,000噸の航空母艦とを一艦に合せたものがこれであると思へば、造艦の魔術に對して今更に脅威の目を瞠らざるを得ない。』</ref>。上段を離着艦用、中段を小型機の発艦用、下段を大型機の発艦用とし、航空機の機種・用途に合わせ、甲板を使い分けることが考えられた<ref>『航空母艦』(朝日新聞1942)pp.31-32</ref>。
 
しかし航空機の草創期に設計されたため、運用の実際や航空機の大型化を予測しきれず数々の問題が浮上することとなった。問題となったのは発着用飛行甲板の短さであり、特に中段の甲板で顕著に表れ、ここから[[艦上機]]が発艦することはできなかった。このため中段の飛行甲板には艦橋設備が作られ、艦載機の離は出来ないようになった(同じ構造の赤城も同様の理由で離陸は出来ないようになっている)。その艦橋も飛行甲板と船体に挟まれた構造のため搭載機の発艦・着艦統制が難しく、[[1932年]](昭和7年)には甲板のエレベーター右舷に塔型補助艦橋と、飛行科指揮所を設けている<ref>「軍艦加賀塔型補助艦橋及飛行科指導所仮設の件」、1-2頁</ref>。
 
また煙突の配置も問題となった。当時保有していた空母は鳳翔1隻しかなく、その運用から舷側に煙突を立てたままだと航空機の着艦操作に大きな影響を与えることが判明する。霞ヶ浦の技術研究所で模型を作ってさまざまな空洞実験を行ったがどうしても解決策を見出すことができなかった。そこで当時参考資料として検討されたのがイギリス空母[[アーガス (空母)|アーガス]]である。これは煙路を両舷に沿って艦尾まで導き排煙するという方式をとっていた<ref>『航空母艦』(朝日新聞1942)p.48</ref>。当時の造船技術者達は赤城方式と実用性の上で比較するためにこの艦尾排煙方式を強く主張し、加賀の煙突は赤城とは別個のものとして作られることになった<ref>『航空母艦』(朝日新聞1942)p.38</ref>。『蓋しこの方が艦中央部に据ゑられた大砲その他諸計器の為には良好であらう。』と謳っていたが<ref name="ポケット海軍1935加賀"/>、実際には様々な問題が噴出した。ボイラーからの排煙が航空機の邪魔にならないようにと煙路を艦尾まで導いて排煙していたが、長大な煙路の重量・艦内容積の減少に加えて、煙路に隣接する区画の室内温度は40℃にも達したといい、高温により居住に耐えられないという大問題を引き起こした。また、艦尾から排出される煤煙が気流を乱して航空機の着艦を阻害することにもなった。この問題は赤城と同様の[[煙突]]方式を取ることで解決を試みようとされたが、折からの軍縮予算で実現されなかった。