「小林宏之 (野球)」の版間の差分

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{{by|2001年}}(5年目)終盤から一軍に定着。この年7月9日の対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]18回戦([[千葉マリンスタジアム]])で、10回表に3点ビハインドの場面で登板し、1/3回を無失点に抑えると、10回裏の攻撃で[[フランク・ボーリック]]が満塁本塁打を放ち逆転[[サヨナラゲーム|サヨナラ]]勝利となったことでプロ初勝利を挙げた。この年は22試合に登板し、防御率3.70の成績を残した。
 
{{by|2002年}}シーズン当初[[先発投手]]として起用されたが、結果を出せず[[リリーフ#中継ぎ|セットアッパー]]に転向し活躍した。8回を小林宏之・9回を[[小林雅英]]と繋ぐ投手リレーは「小林リレー」と呼ばれ、勝ちパターンの継投として定着した。また、[[2002年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]にも初出場を果たした。この年は58試合に登板し、防御率2点台だった。
 
{{by|2003年}}開幕からリリーフとして活躍。シーズン中盤に再び先発に復帰し、そのまま[[先発ローテーション]]に定着。プロ入り後初めて[[規定投球回]]に到達したほか2桁勝利を達成した。最終的に50試合に登板した。
 
{{by|2004年}}開幕前当時18歳の女性と入籍。なぜか「交際期間6年」という事実と異なる話が流布してしまう<ref>{{Cite book |和書 |author=鈴木長月 |year=2014 |title=千葉ロッテマリーンズあるある |publisher=[[TOブックス]] |page=112 |isbn=978-4-86472-251-3}}</ref>。このシーズン同年は先発ローテーションの一角として初めてシーズン通して先発起用され、8月には自身初の[[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]も獲得したが、9勝と2桁勝利に届かなかった。
 
{{by|2005年}}は[[セ・パ交流戦]]中、打撃では打率3割に3打点、投げては6試合で5勝0敗という成績を残し、チームの交流戦優勝に貢献。初代の交流戦MVPも獲得した。交流戦の対[[読売ジャイアンツ]]戦では登板直前に長男が誕生。本人曰く「睡眠時間3時間ぐらい」というコンディションの中、粘投を見せ勝利を収め、試合後の[[ヒーローインタビュー]]で長男の誕生に喜びを見せた。レギュラーシーズンでも[[清水直行]]・[[渡辺俊介]]とともに先発三本柱の一角として活躍し、12勝6敗、[[防御率]]3.30の成績を挙げた。[[2005年のパシフィック・リーグプレーオフ|プレーオフ]]、[[2005年の日本シリーズ|日本シリーズ]]でも活躍し、チームの日本一に貢献した。翌年1月1日に[[TBSテレビ|TBS]]系で放送された『[[最強の男は誰だ!壮絶筋肉バトル!!スポーツマンNo.1決定戦|スポーツマンNo.1決定戦]]』では、初参加出場ながらモンスターボックスで16段、ショットガンタッチで12 m 50 cm12m50cmを記録し総合6位に入った。
 
[[ファイル:WBC2006 Hiroyuki Kobayashi.jpg|thumb|2006年WBCでの小林]]
{{by|2006年}}は開幕前の3月に開催された[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック|第1回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)]]の[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|WBC日本代表]]に選出された。しかし、渡米中に発熱を起こすなど調子が上がらず、[[2006 ワールド・ベースボール・クラシック#第2ラウンド|第2ラウンド]]以降登板することはなかった。
 
シーズンではWBCの影響で足を故障し開幕から出遅れたが、4月26日の対[[オリックス・バファローズ]]戦で初登板、2安打[[完封]]、98球で勝利。その後、シーズン最終登板となった対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]戦で10勝目を挙げ、2年連続の2桁勝利を記録した。
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{{by|2007年}}はシーズンを通して先発ローテーションを守り、自己最多の投球回を達成。13勝を挙げて3年連続の2桁勝利となった。[[2007年のパシフィック・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]でも第1ステージ第2戦・第2ステージ第2戦で先発したが、第1ステージでは2回途中6失点の大乱調で敗戦、第2ステージでは足の痙攣が治まらず4回途中に降板した。同年は[[第24回アジア野球選手権大会日本代表|北京五輪アジア予選日本代表]]に選出され、初戦の対フィリピン戦を打者3人、2奪三振で締めた。背番号はロッテでの41を[[稲葉篤紀]]に譲って14を着けた。オフには[[ポスティングシステム]]による[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]移籍の希望を球団に訴えたが認められず、総額2億円+出来高の2年契約を結んだ。
 
{{by|2008年}}はプロ12年目で初めて[[開幕投手]](対[[北海道日本ハムファイターズ]]戦)に指名された。相手投手の[[ダルビッシュ有]]と投げ合い、6回途中まで無失点に抑えたものの足の痙攣で降板し、敗戦投手となった。それ以降は右肩痛を発症したこともあり不調が続き、シーズン最終的に5勝12敗自己ワーストの防御率5.02に終わった。
 
{{by|2009年}}は先発ローテーションの一角を担ったが4勝止まりでリーグワーストの13敗を喫し、防御率4.292年けて[[規定投球回]]到達に終わできなかった。救援時にとしては4試合登板して無失点に抑え、[[WHIP]]0.78,、被打率.130と好成績を残したため、シーズンオフにクローザーへ転向した<ref>{{Cite book |和書 |author= |year=2010 |title=野球小僧 世界野球選手名鑑2010 |publisher=白夜書房 |page=128 |id=ISBN 978-4-86191-595-6}}</ref>。
 
{{by|2010年}}4月6日より登録名を'''小林宏'''に変更。1998年から2007年までは小林雅英が、2008年と2009年は[[小林憲幸]]が同じ球団に所属していたため、スコアボードや新聞上では「小林宏」の表記が使われていた。2010年シーズンは同姓の選手がいなくなったが、本人は「小林宏」表記に愛着を持っており、「小林」に対し違和感があったことから、[[山本昌]]と同様に名字と名前の一文字目を組み合わせて姓名の区別を付けない登録名にしたものであった。シーズンでは[[オープン戦]]で右肘を痛めたため開幕を二軍で迎え、状態によっては長期離脱の可能性もあったが、開幕7戦目となる3月30日の対[[東北楽天ゴールデンイーグルス]]戦で一軍に復帰し、初[[セーブ]]を挙げた。4月26日に海外[[フリーエージェント (プロスポーツ)|フリーエージェント]] (FA) 権を取得<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.marines.co.jp/news/detail/4609.html |title=海外FAの権利を取得した小林宏投手のコメント |publisher=千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト |date=2010-04-26 |accessdate=2010-04-26}}</ref>。最終的に3勝3敗29セーブ、防御率2.21, WHIP1.07と好成績を残したが、開幕から5月まで防御率0.00, WHIP0.72, 8月に月間防御率0.69, 同WHIP1.08と好投した一方で、6月は月間防御率5.19, 同WHIP1.73と不調に陥ったほか、9月には月間防御率4.72と救援失敗が相次ぎ、終盤にはセーブ機会でも登板を回避されるなど月によって好不調波が激しいシーズンとなった。オフには夢であったメジャーリーグを目指し、FA権を行使。球団は慰留せず、宣言残留を認めないことを伝えた。その後、複数のメジャー球団が興味を示していると報じられたが、メジャー契約のオファーはなかった。
 
=== 阪神時代 ===
{{by|2011年}}1月20日にFA権行使直後より[[久保田智之]]・[[藤川球児]]に繋ぐ中継ぎの軸として獲得意思を表明していた[[阪神タイガース]]と初交渉し、阪神入団を表明<ref>[http://hanshintigers.jp/news/topics/info_1657.html 小林宏之選手入団記者会見]阪神球団公式サイト2011年1月28日配信</ref>。推定2年総額5億円で大筋合意した。そして1月28日に入団会見を開き、背番号はロッテ時代と同じ「41」となった。獲得前からの球団の方針で開幕からセットアッパーとして8回のマウンドを任された。しかしシーズン前半戦は6度の救援失敗(うち4敗)を喫するなど不振で7月26日の対[[中日ドラゴンズ]]戦で移籍後初勝利を挙げたものの、調子は上がらず8月28日に二軍落ち。9月30日に再び一軍登録されたものの、10月4日の対[[東京ヤクルトスワローズ]]戦で失点を喫するなど最後まで不安定なままシーズンを終えた。全体では最終的に42試合の登板で1勝5敗21ホールド、防御率3.00の成績に終わった。尚、中継ぎだけでシーズンを終えたのはロッテ時代の2002年以来9年ぶりだったとなる
 
[[ファイル:HT-Hiroshi-Kobayashi20120314.jpg|サムネイル|阪神時代(2012年3月14日)]]
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=== 西武時代 ===
2014年7月21日に[[埼玉西武ライオンズ]]が獲得を発表、2年ぶりに[[日本野球機構|NPB]]に復帰することになり<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/9185.html |title=選手獲得について |publisher=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト |date=2014-07-21 |accessdate=2021-09-23}}</ref>、翌7月22日に入団会見を行った。背番号は「52」<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/9187.html |title=小林宏之投手 入団会見 |publisher=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト |date=2014-07-22 |accessdate=2021-09-23}}</ref>。登録名は2010年から2012年まで使用していた'''小林宏'''になった<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/baseball/news/p-bb-tp0-20140723-1339082.html |title=西武小林宏「死ぬ気で」年俸は600万円 |publisher=日刊スポーツ |date=2014-07-23 |accessdate=2021-09-23}}</ref>。7月25日の対ロッテ戦([[西武ドーム]])でNPBでは2011年10月4日以来、1,025日ぶりに一軍登板を果たし、6回の1イニングを2与四球1奪三振の無失点で抑えた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/07/26/kiji/K20140726008630710.html |title=西武・小林宏、笑顔の零封 阪神時代以来1025日ぶり登板 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2014-07-26 |accessdate=2021-09-23}}</ref>。その後は中継ぎとして15試合に登板したが、防御率7.94と不安定な成績だった。に終わり、10月2日球団から戦力外通告を受け<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.seibulions.jp/news/detail/9411.html |title=埼玉西武ライオンズ選手来季契約について |publisher=埼玉西武ライオンズ オフィシャルサイト |date=2014-10-02 |accessdate=2021-09-23}}</ref>、同月22日に現役引退を表明した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2014/10/22/kiji/K20141022009152350.html |title=元ロッテの小林宏が引退表明 独立Lから西武入りも結果残せず… |publisher=スポーツニッポン |date=2014-10-22 |accessdate=2021-09-23}}</ref>。
 
=== 引退後 ===