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一方、[[13世紀]]末にアナトリア西北部で建国したトルコ系の'''[[オスマン帝国]]'''は、[[1453年]]、[[東ローマ帝国]]を滅ぼした([[コンスタンティノープルの陥落]])。
これ以後、[[コンスタンティノープル]]はオスマン帝国の首都となり、やがて[[イスタンブル]]とよばれるようになる。オスマン帝国は、西は[[モロッコ]]から東は[[アゼルバイジャン]]、イラクに至り、北は[[ウクライナ]]から南は[[イエメン]]に至る領域を支配した。
[[16世紀]]には、オスマン帝国はサファヴィー朝を破りイラクはオスマン帝国の一部となったが、その後もこの地域を巡る両者の係争は続いた。サファヴィー朝は[[アッバース1世]]時代の[[1623年]]にはバグダードをオスマン帝国から奪取し、[[1638年]]までおよそ15年の間支配している。
 
このサファヴィー朝による支配の後、イラクは再びオスマン帝国の支配下に入り、その支配は[[第一次世界大戦]]まで続いた。[[18世紀]]には土着化した[[マムルーク]]出身の総督たちが州の実権を握り([[イラクのマムルーク朝]]、イスタンブルの中央政府から半ば自立した支配を行ったが、[[19世紀]]に入ると中央集権化が図られ、[[タンジマート|タンズィマート]]と呼ばれる改革の結果、現在のイラクに相当する地域はモースル、バグダード、バスラの3州に再編された。またバグダード州の総督を務めた[[ミドハト・パシャ]]のように、州の総督も中央から官吏が派遣されるようになった。このような中央集権化の試みは都市部ではある程度成功したが、一方で地方の実力者である部族の首長などには総督の力はあまり及ばず、後にオスマン帝国の支配を離れて[[イギリス]]を頼り、[[クウェート]]の首長となる[[サバーハ家]]のような存在も残る結果となった。
 
[[18世紀]]以降、[[産業革命]]が急速に波及する西欧諸国に比べオスマン帝国の経済力は劣勢となっていたが、19世紀以降オスマン帝国への西欧諸国の経済的進出は激しさを増した。それはイラクにおいても例外ではなく、[[シャッタルアラブ川]]の航行権や[[バグダード鉄道]]計画など、西欧諸国への様々な利権の供与が行われた。