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南部の白人の支持をつなぎとめるため、フランクリン・ルーズベルトはアフリカ系アメリカ人の地位向上には消極的であった。同政権で副大統領、農務および商務長官を歴任した[[ヘンリー・A・ウォレス]]は、積極的に人種差別撤廃を主張しており、ルーズベルトの後継者と目されていたが、南部の民主党はこれを阻止するために、四期目の副大統領候補に[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]を推挙した。しかし後述のようにトルーマンの二期目では南部は彼に反撥して分離した。
 
戦後も南部は民主党の地盤であり、[[ジョン・F・ケネディ]]も南部の支援を受け大統領に当選した。[[リンドン・ジョンソン]]政権の下で、[[1964年公民権法]]が成立すると、南部、とりわけディープサウスの白人は同法に反対した共和党候補[[バリー・ゴールドウォーター]]を支持した。これが「ニューディール連合」が崩壊する契機であった。
 
1950~1960年代以降、北部から主に白人が南部へ移住し、また南部では商工業が目覚しい発展を遂げ、[[サンベルト]]として注目された。また'''[[1964年公民権法]]'''により、人種隔離政策に基づく諸制度は撤廃された。この現象は南部の変化を促し、南部は古い、人種差別的な傾向と次第に決別し、新しい南部へと再編されていった。その一方で、南部の住民は当時の学生運動やヒッピーなどの社会現象には批判的であり、保守的であった。
 
こうした南部の変化と保守性に注目したのが[[リチャード・ニクソン|ニクソン]]政権であった。ニクソン大統領は法と秩序の回復や、伝統的価値観の擁護を訴え、これらの層をひきつけた('''南部戦略''')。[[ロナルド・レーガン|レーガン]]大統領が登場するに至って南部の住民の共和党への支持は一層強固となり、南部は共和党の地盤へと変容した。[[プロテスタント]]が人口の多数を占める南部は、敬虔なキリスト教徒が多いことでも知られ、現代における[[キリスト教根本主義]]運動、宗教右派の基盤でもある。
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彼らの主張はつまるところ[[ジム・クロウ法|ジム・クロウ諸法]]の保存と人種隔離政策の推進であった。彼らはそのための根拠として、州権の擁護という主張を利用した。すなわち、州法であるジム・クロウ諸法が連邦の様々な立法に優越するということであり、独特の有権者登録などアフリカ系の公民権を制限していた制度を維持するのは各州の裁量であって連邦政府の介入できるところではない、ということである。州権民主党はディープ・サウスを中心とした南部の知事、議員により構成されていたが、南部の民主党員のすべてが参加したわけではない。実際、州権民主党の候補者はサウスカロライナ、[[アラバマ州|アラバマ]]、ミシシッピ、[[ルイジアナ州|ルイジアナ]]の各州で勝利したが、[[ジョージア州]]、[[テネシー州]]など他の南部のすべての州ではトルーマンが勝利している。
 
1948年の大統領選挙の後、州権民主党は解消し、党員は民主党に復帰した。だが、公民権問題を巡る民主党内の南北分裂はその後も続いた。1956年には、最高裁で教育における人種隔離を違憲とした[[ブラウン対教育委員会裁判|ブラウン対教育委員会判決]]<ref>({{lang|en|Brown v.Board of Education}})</ref>が出されたのに対抗して、人種平等政策に反対し、人種隔離政策の継続を求める議員たちの声明、'''[[サザン・マニフェスト]]'''(南部宣言)が公表された。これには[[リンドン・ジョンソン]]、[[アルバート・ゴア・シニア]]、[[エステス・キーフォーヴァー]]の3人の上院議員を除いたすべての南部出身の上院議員(しかも全員民主党から選出)が署名した。しかし、端的な例は'''[[1964年公民権法]]'''に関してであった。南部選出の民主党上院議員は(当時共和党選出の南部出身上院議員はテキサス州の[[ジョン・タワー]]のみ)、テキサス州の[[ラルフ・ヤーボロー]]を除いて全員が反対した。一方北部出身の民主党議員は殆どが賛成した。
 
州権民主党を構成した党員のうち、ストロム・サーモンドと[[ジェシー・ヘルムズ]](後に上院議員)は後に共和党に鞍替えしたが、その他の人々は民主党にとどまった。[[2010年]]に在任のまま死去した[[ロバート・バード]]上院議員(民主党、[[ウェストヴァージニア州]]選出)は、もっとも遅くまで公職についていた元党員である。