「ガンビーノ一家」の版間の差分

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当時パレルモルーツの派閥にダキーラ派とアル・ミネオ派があり、アル・ミネオ派はモレロ派残党やカステランマレーゼ派と同盟してダキーラに対抗した<ref>[http://www.gangrule.com/events/struggle-for-control-1914-1918 The Struggle for Control - The Gangs of New York]</ref>。1910年代中頃、モレロ派がカモッラ戦争で疲弊している間、ダキーラ派は勢力を伸張し、禁酒法時代ブルックリンに拠点を移した。ダキーラはライバル勢力にスパイを送り込み、危険分子を粛清するなど水面下の策謀に長けたと言われる<ref>David Critchley, The Origin of Organized Crime in America: The New York City Mafia, 1891–1931, P. 157</ref>。ダキーラはまた、クリーヴランド、シカゴ、ボストン、フィラデルフィア、ニューオリンズなど全米各都市のシチリアマフィア勢力とネットワークを築き、互いに信頼関係を築いた。
 
===2次抗争と全米マフィアネットワーク===
1920年にモレロやルポが出所し、往時の権力を取り戻そうと活動を始めると、ダキーラはマフィア会議を開き、モレロ派残党にまとめて死の宣告を出した。その後2年間、ダキーラ派とモレロ派は再び抗争状態となり、酒の密輸の縄張り争いを伴って激化した末、十数人の死者を出した。1922年、酒の密輸で力を付けた[[ジョー・マッセリア]]がモレロの支持を得てダキーラ派刺客[[ウンベルト・ヴァレンティ]]を返り討ちにしたため<ref name="c"/>、ダキーラの野望はとん挫した。
 
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===理髪店の虐殺===
その後、ファミリーはジェノヴェーゼの権力闘争に巻き込まれた。1957年5月、コステロはジェヴェーゼの手下[[ヴィンセント・ジガンテ]]に狙撃され、暗殺は免れたが、組織からの引退を決意した。アナスタシアは怒り狂い、ジェノヴェーゼと戦争する場合は中立を保つよう他のボスに働きかけた。ジェノヴェーゼはアナスタシアの報復を恐れ、スカリーチェを継いで副ボスになっていた[[カルロ・ガンビーノ]]を抱き込んでアナスタシア暗殺を共謀した。1957年10月25日、アナスタシアはマンハッタンのパーク・シェラトンホテルの理容室で2人組に銃撃され即死した。当局は密告者の情報を元に、一家の古参幹部の[[ジョゼフ・ビオンド|ジョー・ビオンド]]がガンビーノから仕事を請け負い、自前のクルーから暗殺チームを作ったと推論した<ref>[http://www.onewal.com/a009/f_albertanastasiap06.html King of the Brooklyn Docks - Albert Anastasia (1902-1957) - Whodunnit?]</ref><ref>[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Joseph%20Biondo Joseph Biondo] La Cosa Nostra Database</ref>(ビオンドは直後副ボスに昇格したが暗殺の見返り人事とされる)。数年後のギャロ対プロファチ戦争で脚光を浴びた[[コロンボ一家|プロファチ一家]]のギャロ兄弟が後になって実行犯として脚光を浴びたが、別ファミリーの末端にいたギャロへの繋がりが想定しづらいことやファミリー執行部と対立するギャロに重要な暗殺の仕事を委ねる現実味が乏しいことから、伝説の域を出ていない。捜査は、理髪店でアナスタシアと一緒だった一家のジェロウム・スキランテや、アナスタシアと暗殺の前日に会っていたフロリダの[[サント・トラフィカンテ]]に及んだが、犯人の検挙結び付く手がかりを得なかった。
 
アナスタシア暗殺はジェノヴェーゼとガンビーノの共謀というのが定説だが、マンガーノ兄弟、スカリーチェ兄弟と相次いでシチリア人を殺したアナスタシアに対する、ファミリーの垣根を越えたシチリアマフィア総出の復讐とする説もある<ref>[http://mafiamembershipcharts.blogspot.jp/2016/02/bios-of-early-gambino-members-1930-50s.html SCALICI-GIUSEPPE] Mafia Membership Charts</ref>。
 
===ガンビーノのマフィア外交===
ボスの座に就いたガンビーノはジェノヴェーゼの傀儡におさまらず、ファミリー外交を始めた。[[ジョゼフ・ボナンノ]]ープロファチの同盟関係に対抗して、1962年[[トーマス・ルッケーゼ]]との政略結婚を通じて味方陣営を固めた。ギャロ戦争を口実にプロファチに圧力をかけ、引退に追い込もうとした。1962年プロファチが病死すると、副ボスでプロファチにった[[ジョゼフ・マリオッコ]]のボス就任を認めず、傀儡の[[ジョゼフ・コロンボ]]を据えることに成功した。ジェノヴェーゼが1960年代初めに収監され、更に旧プロファチ一家を手中自陣加えたガンビーノは、ジェノヴェーゼが投獄され不在の中、コミッションの主導権を握った。プロファチに続いて[[ボナンノ一家]]の切り崩しを図り、自身やルッケーゼへ暗殺を企てたとの理由でボナンノを執拗に糾弾した。ボナンノは息子に全権を譲って引退するなどと譲歩案を出したがガンビーノを中心とするコミッションに拒否されたため、ボナンノは引退を撤回して状況は泥沼化した。その後、ボナンノ一家の古参幹部の不満を利用して内部分裂を起こさせ、最終的にボナンノを引退に追い込んだ<ref>[http://www.lacndb.com/php/Info.php?name=Carlo%20Gambino Carlo Gambino] La Cosa Nostra Database</ref>。
 
ファミリー内では旧アナスタシア派の粛清を行なったが、1960年代半ばアナスタシア派で人望の厚かった[[アニエロ・デラクローチェ]]を副ボスに抜擢し、アナスタシア派の懐柔と監視の両方の役目を与えて組織の分裂を防いだ。1967年ルッケーゼの死亡後、そのガーメント地区の組合利権を乗っ取った。一家は拡大を続け、構成員は正式メンバー以外の関係者を含めると数千人に達し、テリトリーはニュージャージー、カリフォルニア、バルティモア、フロリダ、コネチカットまで及んだ。[[1976年]]のガンビーノの死までに、ファミリーは[[ジェノヴェーゼ一家]]に代わってニューヨーク最強のファミリーとなった<ref name="b"/>。
 
===ガンビーノ後===